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2023年5月14日

「なしてそったとごさ、いぐのよ?(なんでそんなとこに行くんだ?)」の役所広司の東北弁セリフを耳にして吹き出した。日本で公開中の映画「銀河鉄道の父」の予告編を見てのことです。銀河鉄道と言えば、言わずと知れた宮沢賢治の作品です。その父ですからこの映画は賢治の父親政次郎が主人公でしょうか。

岩手は亡くなった我が父の故郷でもあります。それもあってか、宮沢賢治の作品は結構手にしています。なかでもわたしの記憶によく残っているのは「やまなし」、「よだかの星」です。「やまなし」は春と秋の2枚の幻灯(げんとう)で、水中のカニの兄弟によって語られる物語で好きな話のひとつです。幻灯という懐かしい言葉にいたく感動し、その言葉を知らなかった補習校の小学校6年生に説明したものでした。わたしの影絵作成のきっかけにもなりました。

「よだかの星」はこどものころに聞かされた、あるいは読んだ話です。容姿が醜いため鳥の仲間たちから嫌われ故郷を捨てるよだか。自分が生きるためだとは言え、たくさんの虫の命を奪うことを厭って生きることに絶望します。焼け死んでもいいからあなたのところに行かせてくださいと太陽に頼みます。が、太陽に「お前は夜の鳥だから星に頼んでごらん」と言われ星々にお願いしますが相手にしてもらえません。行き場がなくひたすら夜空を飛び続けていつしか青白く燃え上がる「よだかの星」 になるのです。

よだかは独りぼっちだったんだなぁと子ども心にも切ない思いを抱いた話で、今も覚えているのです。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  「雨雪をとってきてください」の意味

で始まる、賢治が妹に捧げた「永訣の朝」は胸がつぶれそうな詩です。懐かしさともの悲しさ、そしてどことなく怖い思いが賢治の作品にはあるように思います。

さて、話を冒頭の東北弁に戻しまして、我が故郷、弘前(ひろさき)の津軽弁について少し。  

年に一、二度は弘前へ足を運んでいる妹夫婦、ある年、弘前のホテルでチェックアウトしようと部屋で荷物をまとめていたら、外から「サ~イギサ~イギ ドッコイ サ~イギ 」と聞こえてきたのだそうな。

ホテル9階の窓から土手町を見下ろすとお山参詣の行列が通って行く。行列を見ようとて慌ててエレベーターで階下へ降り、こけつまろびつ行列に追い抜き、いっしょに並んで歩いたのだが、行列の唱文が子供のころに聞いて覚えていたのと少しも変わらないのに可笑しくて、ついにこらえら切れなくなり大声でウワハハハと笑ってしまったと言う。
 
お山参詣というのは津軽に昔から伝わる岩木山最大の祭りで旧暦の8月1日に五穀豊穣、家内安全を祈願して昔は白装束にわらじ、御幣やのぼりを先頭に行列をなし岩木山神社を目指して歩く行事だ。

商店街の土手町から坂道を下り、わたしたちが子どもの頃住んだ下町の通りを岩木山目指して行列が歩いていくのだが、検索してみると子供だったわたしが記憶しているのと違い、行列の様子も少し変わったようだ。

お山参詣1

昔は白装束でお供え物を両手に抱えての行列だったのが、今では随分カラフルで「行事」と書くより「イベント」とカタカナかローマ字にしたほうが似合いそうだ。

さて、妹がこらえら切れなくなり大声でウハハハと笑ってしまったという、その唱文が、これである。

♪さ~いぎ さ~いぎ どっこ~いさ~いぎ
 おやま~さ は~つだ~い
 こんごう~どうさ
 いっつにな~のは~い
 なのきんみょう~ちょうらい


毎年こう唱えながら目の前を通り過ぎていく白い行列、子供心に神聖なものを感じてはこのお唱えをいつの間にか諳(そら)んじていたのである。この御山参詣が終わると津軽は秋が深まる。

長い間、そのお唱えの意味など気にしたこともなかったのだが、帰国したある年亡くなった母が残した着物を妹と二人で整理しながら、子供の頃の思い出話の中でひょっこり出てきたのがこの「サイギサイギ」だった。

亡くなった母は津軽で生まれ育ち、60まで住んだ。その後は妹夫婦の住む東京へ移り所沢の夫婦の家を終の棲家とした。妹の連れ合いも津軽衆なので、東京にありながら夕食時の食卓はおのずと津軽弁が飛び交おうというもの。帰国した時のわたしは母と義弟が交わす津軽なまりを聞くのが懐かしく楽しいものだった。

その母が、「時すでに遅し」の意味でよく使っていたのが「イッツニナノハイ」である。 はて?いったいこれは元来がどういう意味合いなのであろうかと、妹とそのとき、疑問に思ったのである。

たまたま、当時わたしは我が母校の後輩で「サイホウ」さんと言う女性仏師と時々メールのやりとりをしており、聞いてみたところ、これが元になっていますと教えていただいのが下記。

懺悔懺悔(サイギサイギ)  
過去の罪過を悔い改め神仏に告げ、これを謝す。

六根清浄/六根懺悔?(ドッコイサイギ) 
人間の感ずる六つの根元。目・耳・鼻・舌・身・意の六根の迷いを捨てて汚れのない身になる。

御山八代(オヤマサハツダイ) 
観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・地蔵観音・普賢菩薩・不動明王・虚空蔵菩薩・金剛夜叉明王

金剛道者(コウゴウドウサ)  
金剛石のように揺るぎない信仰を持つ巡礼を意味す。

一々礼拝(イーツニナノハイ)  
八大柱の神仏を一柱ごとに礼拝する。 
          
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ) 
身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。

唱文のカタカナの青部分は津軽弁の発音である。

どこの方言もそうだが、津軽弁は独特のなまりが多い方言だ。我が同窓生である伊奈かっぺいさんは津軽弁でライブをする人で有名だが、彼いわく、津軽弁には日本語の発音記号では表記不可能な、「i」と「 e」の間の発音があり、津軽弁を話す人はバイリンガルである、とさえ言っている(笑)。因みに、伊奈かっぺいさんは高校の同窓生である。

わたしと妹が笑ってしまったのは「六根懺悔」が何ゆえ「ドッコイサイギ」になったのかと、津軽人の耳構造はほかとは少し違うのであろうかとの不思議にぶつかったのであった。

大人になったわたしたちにしてみれば、「どっこい」という言葉はなじみであるが、とても唱文の一語になるとは思われない、なんで「ドッコイ」なのよ?と言うわけである。

実は「さいぎさいぎ」も「懺悔」ではどうしても津軽弁の「サイギ」に結びつかず、わたしは「祭儀祭儀」と憶測してみたのであった。そして、数日の検索で、ついに語源をみつけたぞ!

「懺悔(ざんげ)」は、仏教ではサンゲと読むの一文に出会ったのである。「サンゲ」が津軽なまりで「サイギ」になったと思うのだがどうだろうか?

御山参詣は日本人の山岳宗教につながるものであろう、修験者が霊山に登るのが弘前に行事として定着したと思われる。

子供のころは、祖母の家があった弘前下町から、高校生になると、父と母、わたしと妹の4人家族が住んだ桔梗野のたった二間の傾きかけた埴生の家の窓からは、岩木山の美しい姿が日々仰げたものである。

お山参詣2
wikiから

テレビやパソコンからの情報入手方法がなかったわたしの子供時代、空耳で覚えていた唱文も今となってはいい思い出につながり、ふと頭を横切るたびに笑みがこみ上げて来て、懐かしい人々の顔が浮かんで来る。

正規の唱文の発音よりも300年も続いてきたであろう津軽弁の唱文に耳を傾けながら、修験者を受け入れてきたお岩木さんは、津軽弁がそのまま誠に似合うようだとわたしは思うのである。

♪「さいぎさいぎ ドッコイさいぎ おやまさはつだい こんごうちょうらい イッツニナノハイ なのきんみょうちょうらい」
(と、わたしは覚えている)

下町を歩いていく白装束と幟と、「イッツニナノハイ」と言う母の姿が浮かんで来るようだ。「一々礼拝」がどうして、「イッツニナノハイ。時すでに遅し」の意味になったのか、謎は解けていない。我が母は既にみまかり、ほんま、「イッツニナノハイ」でございます。
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