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2024年3月30日

大阪へ行く前に綴ったものを更新し忘れ。日遅れのブログ更新になってしまいました。申し訳ない。

2024年3月24日の記

20日の休日には、我がモイケル娘、婿殿、孫のソラ坊、それに東京息子が加わって、市川市の某レストランで昼食。その後、息子は引き上げわたしはそのままモイケル宅に3泊した。

二晩はわたし流の夕食を作りモイケル宅を後にする3日目、婿殿とモイケル娘は仕事、孫は保育園へと娘家族はそれぞれの日常生活に戻りわたしは一人朝食の後片付け後、近くのスーパーで食材を買い足して、彼らの晩御飯のスープを作り、自分も軽い昼食を済ませてモイケル宅を後にした。

このようにして毎日娘の手助けをしてあげたいのだが、これができるのは今だけだ。家族団欒の邪魔にならない程度に訪ねてしてあげたいと思っている。男性がある程度の家事子育てを担ってくれるとしてもこうした日々のルーティーンは、やはり女性の肩にかかってこよう。わたし自身は子育てに専念できたが、仕事を持つ女性がこの三つの役割をこなしていくのは大変だなと想像できる。モイケルよ、おがんばり。

さて、明日からは10年ぶりの大阪訪問である。友に会うのも数年ぶりだ。4月に入ってからは故郷弘前へ足を向けるのだが、これらの新幹線切符を買うのに、「みどりの窓口」で1時間以上並ばなければならなかった。新幹線の切符を始め、多くの買い物がオンラインで済ませられるようになった昨今、この文明の利器に疎くなりがちな我らの世代はどうなっていくのだろうか。

それはそれでいいではないかと思う一方で、置いてけぼりっちゃあ悔しいぞとの気持ちがあったりする。これまでは妹宅の古いパソコンを使って通信していたのだが、今回の帰国中はスマホで書いてみている。初期段階の指慣らしなのだが手早くパチパチと英文のキーボードを打つようには行かない。これもポルトにいてはする必要がないことなのだが(笑)

では、行ってまいります。
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2024年3月23日

飛行機内で横になって眠れたとは言え、どうしても時差ボケは残る。そんな中、孫のソラ坊と電話で話した。「ばぁばは今日本ですよ」と言うと「ソラも日本にいるの」と返って来たもんだ(笑)3歳半で果たして「日本にいる」ということを理解しているとも思えないが、言いぶりが面白い。そして、わたしに会いたいと言う。

その言葉に乗せられて、しんどいけど行くっきゃないぞと時差ボケの頭と体を叱咤激励し日本到着4日目に片道2時間の道のりを日帰りで行って来た。さすが、徒歩でモイケル娘宅まで行くのはきつかったのでモイケル宅と最寄りの駅間は行きも帰りもタクシー利用だ。

晩御飯を作り婿殿の顔を見て帰路に着き所沢に着いたのが10時過ぎになっていた。途中心配した妹が「どこをほっつき歩いてるんじゃ~」と電話をかけてきた。今では後期高齢者と称されるアタクシが、その妹の言葉に思わず遠い昔の自分の姿を思い出し、こみあげてくる可笑しさを懐に夜道を急いだ日だった。

帰国すると最初の数日はいつも決まって「帰って来てよかったのだろうか」との思いに駆られるからオカシナものだ。半世紀近くも異国に身を置くと、母国での身の置き所に躊躇する自分がいる。果たしてこの感情は異国に長らく住み母国に親を亡くした人、誰もが持つものだろうか。

さて、今回は8年ぶり(と思ったら10年ぶりだった)の大阪訪問と6年ぶりの故郷弘前訪問予定だ。時差ボケとともにその感情が抜けたところで、帰国を楽しもうぞ!

ではまた。

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2014年3月17日

最後の帰国から1年半経っただけなのに、世の中が変わりつつある気がした今回の帰国後数日です。

我が子たちが小さい頃の帰国目的は体験入学(海外に住む日本国籍子女が休暇を利用して一時的に日本の学校に受け入れてもらえる制度)が主だったものでした。そのためには住民転入届けが必要とされ同時に国民健康保険が発行されました。結果的にはそれを一度も使用したことがありませんでしたが、とても心強かったものです。自分もそうですが、特に子どもはいつなん時熱を出したり怪我をしたりするか分かりませんものね。

さて、コロナ禍後3年ぶりに帰国した2022年は、日本到着翌日に感染症状が出て妹宅で10日ほど自粛の憂き目を見ましたが、病院に運ばれなかったのは幸運でした。あの時、国保無しで隔離入院させられていたらいかほどの負担になっていたかと、ぞっとしたものです。今回は是非とも国保に加入しなければならないと思いました。

早いうちにと思い、まだ時差ボケ残る木曜日に身分証明になるパスポートを持って市役所出張所へ出向き、転入届申請をしたのですが、あれま?パスポートに入国日付のスタンプがない!そりゃそうです。入国審査官の窓口へ行って許可のスタンプをもらった昔と違い、今はパスポートをスキャンするだけなんでありました。入国スタンプが欲しい場合は、あえてその窓口へ行くことになるわけで。入国する時点で全くそのことが思い浮かびませんでした。

さぁて、入国したのがいつなのか。それを証明するものは、購入した切符(多分ボーディングカードも行けたと思う)しかありません。仕方ない、車で連れて行ってくれた妹夫婦に頼んで家に引き返し切符を部屋からひったくって再び役所へ。

しかし、これだけでホイとは済みませんでした。ここから手続きが終わるまで待つこと2時間!こんでもいないのに2時間でっせ!
というのは、最後に住民転出届をしたのがいつかと問われ、「た、たぶん20数年前です・・・」 我がモイケル娘が西武線沿線の高校1年時夏に体験入学した時です。ひゃ~、あれから20数年だ^^;

んで、役所内はパソコンによる書類検索。見つかりまへん・・・・しまいには「本籍はどちらでっか?」となりました。「京都府京都市○○、え~と、なんか抜けてるようなないようなぁ(笑) 係員が本籍地の役所に電話で問い合わせ「戸籍謄本を取り寄せてもいいですか?」と参りました。

別に不都合はありませんから許可いたし、向こうから送られてきました。そのコピーやら飛行機の切符のコピーやらと、ふと気がつけば役所のスタッフ4人で取りかかっておりました。いやぁ、以前はパスポート一つでスーッとできた手続きがこんなことになろうとは思いもしませんでした。初めてのケースのようで、係員さんたちもあちこちに電話をかけて問い合わせしたいました。

係員の一人から手渡された戸籍謄本を手に(取り寄せ代金は払っておりますれば)、おお、我が戸籍は現在このようになっておるのかぁと、久しぶりに目にする己の根源歴史に少し感慨深い思いでありました。

やっと書類が取り揃ったところで、最後に本庁に仕上げとして係員が電話をしました。目の前ですから話が聞こえてきます。「ええ、76歳で。はぁ?後期高齢者は日本国籍があれば誰でも加入することになる?パスポートだけでOK?」がび~ん・・・し~~ん・・・いったいなんのための2時間やったんや~!

それよりも何よりも、「後期高齢者」と初めて呼ばれたことに大ショックや・・・ポルトガルにはあれへんで、そんな言葉・・・自分の脳内辞書には「歳をとった」という言葉はあるが「後期高齢者」なんて言葉が載っておりまへんでしたで。

ちなみに今回知ったことですが、「国健康保険制度]とは、74歳以下のすべての国民が加入する制度。75歳以上の国民は全て「後期高齢者医療制度」に加入することになる。更に、自動的に国保から移動されるため、「手続きは要らん!」 よって「後期高齢者」のわたしの場合はパスポート提示だけでいいのだそうな^^;ということで、一週間ほど後に保健証は送付されることになりました。

どうせ外ではスマホが使えないためスマホを持ってこなかったし腕時計も持っていなかったので、市役所出張所を後に出た時は何時か分からず。妹夫婦には先に帰ってもらっていたので、バスか徒歩での帰宅となり。

バス停に時刻表があったものの、時間が分からないんだわさ。歩いて帰ることを決心。50分ほど歩きやんした。もうクタクタ。
殆ど家の近くまで来たところで、「ん?・・・・・おい!飛行機の往復切符はどうした?か、返してもらってな~い(涙)」

家に着いてすぐさま電話連絡すると、「あ!あれは切符でしたか?マ、マーカー使ってるかも・・・」「もういいんです、なんでも。でも返して下さい、必要ですから。」

月曜日、明日、その切符を取り戻しに行くのだ!ほんま、くたびれたわん・・・・
お粗末さまでありました。
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2024年3月14日

しばらくは日本滞在記録の拙ブログになります。

12日火曜日夕方、雨降る羽田にフランクフルト経由で到着しました。モノレール、JR、西武線を乗り継いで滞在先に着いたのは9時を廻っていました。普段は7時頃に晩酌をしながら夕食を済ます妹夫婦がそれをせずにわたしの到着を待ち車で駅へ迎えにきてくれました。

数時間機内で横になって眠れたので、今回も時差ボケは軽いものの、午後には強烈な睡魔に襲われ抗い切れず(笑)時差ボケ解消にはどうしても数日を要します。

翌日は東京息子と駅前ででしたが、相も変わらずヒョウキンで元気な息子に安心。親子して昼から生ビール小で乾杯。その後、息子も妹夫婦を訪問し、しばらく前の雪の野沢でのおアホで危険な体験を披露し、知らされていなかった母はびっくり仰天でした。この話は後日に廻すとして、とりあえず無事日本到着のご報告です。

ではまた。
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2024年3月11日

全ての日本語教室が土曜日夜に終わり、さすが帰国前日の昨日、日曜日はできなかった。
出かける前に既に腰がいたい~。

預ける手荷物の鍵がなくて大変だった。結局見つからず昔風の南京錠かぎで応急処置。あはは。出国に最低限必要なものをと最後のチェックをしたら、おろ?切符、ボーディングカードは入ってるプラスティック袋、手で触ると、あれ?パスポートの厚みの手ごたえがないではないか。ぎょえ!と袋を開けると、は、入ってない!

が、すぐさま思い出した。昨夜、パスポートのコピーをとるためコピー機のスキャン台に乗せたままだった。クワバラクワバラ。

そして今朝、携帯を開けるなり、ピン!と東京息子からのメッセージ。「水曜日、昼ご飯でも食べようか?」 うは!日本到着は明日火曜日夜。所沢着は恐らく9時くらいだ。む、無理そうな気がするけど、息子に所沢まで来てもらったらイケルかも。この母がいつまでもエネルギッシュな若いままだと思っとるんだろなぁ(笑)

しかし、時差ボケをとる最速の方法はすぐ動き回ることだとは知っている。どれ、できるだけ付き合おうかいな。

では、みなさま、ただいまから空港へ向かいますれば。できるだけブログ更新をするつもりでおりますので、よろしくお願いいたします。

行って参ります!
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2024年3月10日 

わたしの帰国時の滞在先は埼玉県所沢市です。川口市の不法滞在クルド人たちの問題がネットニュースにあげられた時、うひゃ!こりゃ気をつけないと、と西武線しか知らないわたしはすぐさま埼玉県地図を開いたものです。同じ埼玉県と言えわたしにとって幸いにも川口市蕨市は所沢とは別方向になるので、少し安心したという具合です。

先日、夫に埼玉県川口市にいる不法滞在のクルド人問題のことを少し話した後、ポルトガルはそういう点、不法滞在までして移住したい人がいないので安心できるよね、と言ったら「そんなことはない、移民はいるよ」と返されました。

それは分かっています。が、イギリス、フランス、ドイツ等の経済面で豊かな国には多くのムスリム移民が入り込み、それらの国は今大きな社会問題に直面しています。かの国々に比べると、全く移民問題がないとは言えませんが、今のところわたしが住むポルトガルは移民による大きな事件等は起きていないように思います。

しばらく前にアメリカの若いYouTuberが日本を訪れ、ゆく先々で軽犯罪まがいのことをしては動画をあげ、ヒンシュクをかっていましたが、「なんだこれは?ふざけるにもほどがある。舐めんじゃないよ!」がわたしの本心でした。

この手のYouTuberを始め、日本人のおとなしさ、優しさと言おうか、外国人への甘さと言おうか、それに付けこみ手前勝手なことをする不逞外国人が増えたのも事実です。

「イスラム教徒は必ず土葬です。火葬は出来ない。コーランにも書いてあるし預言者も言っています」とか、「日本に貢献したいので自分の権利があったら良い」などと聞くと、おいおい、人さなの国に勝手に入り込んで、宗教のきまりを押し付けてもらっても困りますよ。まして、貢献したいので権利をください、なんて、どっかおかしくないですか?とわたしなどは思うのですが、それを当たり前だと考えているようなのには、既にして問題が起こりそうなイヤな予感がします。

「多文化共生」と言う耳触りのいい言葉には用心が要ります。特に宗教の違いからくる「異文化共生」は、多くの場合、衝突が避けられないと思います。互いに敬意を表しないところに共生はないでしょう。ましてや、外国人をどう受け入れるか日本人に学ばせるなどと言ってのける傲慢な人種とは共生は考えられないでしょう。

アラーが唯一の神と信じるムスリンと、昔から神棚と仏壇を一つ屋根の下において違和感を持たない日本人が、どうして共存できようかと思います。ヨーロッパの先進国が安い労働力欲しさに安易に移民を呼び込んで大きな社会問題を生むことになった現実になぜ日本の政治家たちは目を向けないのか。移民問題、特にイスラム系移民については、国はじっくり考え話し合って決める必要があると思っています。

とある人がツィートしていました。
日本に戻ってきて4年。海外に居ても日本は大丈夫だし、軸はぶれていないと思ってた。一時帰国すると日本人として嬉しかった。海外に居ても日本人として頑張ろうと思えた。でも、たった1年7ヶ月前(恐らく安倍元首相狙撃事件)から日本は日本で無くなってしまった。

この人のつぶやきがよく分かります。まるで日本が転げ落ちるように、秩序の乱れ、社会の荒廃を自ら呼び込んでいるような気がしないでもありません。

ポルトガルも多くの問題を抱える国ではあります。経済的にあまり豊かでないこともその一つですが、少なくともヨーロッパで先進国と言われる国々が抱えるイスラム系移民による悲惨な出来事は今のところ聞かれません。経済的に豊かでないので大して移民も着ません。豊かでない国のいいところ、とでも言えるでしょうか。

帰国を前にここ数日考えていたことを綴ってみました。急いで記事をあげましたので、乱雑になってしまいましたが、ご勘弁を。

さて、明日11日は、経済的にはあまり豊かではありませんが、多くのツーリストを迎えているこのポルトガルから、多文化共生を学べ、留学生は宝だと仰せられる首相のおられる国、母国日本へ向かいます。

それでは、次回は日本からです。

埼玉県のクルド人問題は下記で川口市に住むジャーナリスト石井孝明氏が記事に取り上げておりますので、興味のある方はどぞ。
https://withenergy.jp/author/takaakiishii
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2024年3月5日 

久しぶりの帰国を一週間後に控えているのですが、毎朝パソコンで目にする母国のニュースが酷い。後に起きて「おはよう」とPC画面でニュースを読んでいるわたしの背中に声をかけてくれる夫に、振り向いておはようと返す自分の顔が怒っているのに気づく。

いかんせん、近頃の嬉しくないニュースに腹から沸々と怒りがこみ上げてくるもので、だんなさま、すんまへん。

何が面白くないかと言うと、これうよ!と一つ二つではなくて、あれもこれもあり、これらのことに何の手も打たずこの先日本は大丈夫なのか?と大きな不安が頭をもたげて来ます。

気になる最たるものの一つが、メガソーラーの侵略です。南国のように年中暑いわけではない日本。台風や地震等の自然災害に襲われがちで、しかも平野が少ない日本にメガソーラーは適切ではない、むしろ環境破壊だとわたしは考えます。

案の定、近頃は山を切り崩してまでもメガソーラーが侵略しています。つい先ごろは奈良護国神社前池中古墳がこのメガソーラーに取り囲まれたということを知りました。

奈良古墳1

ぎょえ~!これ、どないしますの?しかし、少し調べてみると、なにも奈良の古墳だけではありません。

群馬県太田市1
古墳とメガソーラーの共存をはかるというが、どこが?群馬県太田市

千葉県東金市1
千葉県東金市

これらパネルの廃棄方法が分からない上に、災害などで壊れた場合も触ると感電死する可能性があるため放っておくことになるとすれば、光景は更に酷い状態になります。

こちらは阿蘇外輪山の状況


なんだか見ているだけで悲しくなります。農作物にも大きな影響を及ぼすはずです。これらわたしが取り上げた画像はメガソーラーの侵略のほんの一部です。パネルに覆いつくされた自然の画像を目にするたびに心が痛みます。

政府が野放しにせず少なくとも山林や古墳周囲の土地を買い上げるなどして、まずは土地の保護ができないものでしょうか。

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2024年3月1日 

昨日の続きです。

Hirosaki2007.jpg
★2007年3月中旬。列車内から臨むまだ残雪に覆われた津軽の野面(のづら)。

駅まで迎えに来てくれた友人タコ君とともに、うっすらと残雪に覆われた陽光院を訪ねた。陽光院は弘前の我が故郷にある菩提寺である。

本当のことを言ってしまうと、陽光院という菩提寺の名すらわたしは覚えていなくて、所沢の妹に教えてもらい、地図を持っての墓参であった。その妹夫婦と3年ほど前にも来たのが、実にその時は約40年ぶりのことであり、わたしはまことにご先祖様不幸の人間なのであった。

8人兄弟の一番上だった母とのお盆の墓参りは、一年に一度、大勢の親戚に出会う場でもあった。「あ、四郎っちゃ達、もう来たみたいだね。」と言った母の言葉は、幼いわたしの記憶の中で今でも生きている。

わたしは、当時から数えるとかれこれ30年近いポルトガルで生活だったが、日本で暮らした年月と異国で暮らした年月が同じになろうとしていた。

とある年齢に達すると、たいていの人間は、持つ思い出の良し悪しに関わらず、生まれ故郷が恋しくなるとは、よく耳にする言葉だ。わたしもその例に漏れず、近年は弘前での子ども時代の記憶をたどってみることがあり、思い出の糸を手繰り寄せては、ホームページにしたためていた(「思い出のアルバム」)。

「故郷恋しや」の思いと、さすがのご先祖様不幸のわたしも、この辺でそろそろ顔を出してご挨拶しておくべき時期ではなかろうかと、殊勝にも考えるようになったのである。

寺の近くで花を調達し、陽光院に着いた。
「お線香、もって来た?」とタコ君。
「あ、すっかり忘れてたわ。」
「うん、俺が用意して来たから。」
タコ君に気をつかわせて全くもって情けない話である。

タコ君とは高校時代の友人で、FDSというフォークダンスクラブを彼が立ち上げたとき、わたしもその部に所属したのである。高校を卒業して以来39年ぶりに弘前で再会したのだった。弘前に滞在した二日間、彼はわたしのために車で動いてくれたのだ。

妹から聞いた通り、陽光院は改築中であった。墓地の場所は、本堂の横道から入るとだいたい分かっているのだが、そこは既に立ち入り禁止になっていた。タコ君とわたしは仮本堂で呼び鈴で呼び出しポルトガルから先祖のお墓参りに参りました。どうやって墓地に入れますか、と訊ねた。

隣の寺院から入れるよう話を通してくれ、人っ子一人いない静寂な墓地の中を、わたしたちは雪で転ばないように少し腰を落とし気味に残雪を踏んで入って行った。

「前に来たときに、こんな新しい墓石は周りになかったと思う。もうちょっとこっちの方じゃなかったかしら。」と頼りないわたし。少し後戻りすると、「あ、こ、このあたり・・・・。もしかしてこれかも。」と立ち止まった所は墓石も含め周りが真っ白い残雪に覆われていた。

わたしとタコ君は、素手でその雪を掻き分け始めた。掻き分けながら、ふとわたしはなんだか可笑しさがこみ上げてきて、思わずタコ君に話しかけた。

ね、ご先祖さま、今きっとこう言っているに違いないよ。「ゆうこよ。お前は何十年も墓参りに姿を現さず、終に来たかと思ったら、いったい亭主でなくて誰を伴ってやって来て、墓場の雪かきをしてくれてるのやら・・・ほんにお前は~」

ご先祖さま、お笑いくだされ(笑)

現われた古い墓石に刻まれている文字を読んだ。「吉崎家」と彫られてある。間違いなく我が先祖の墓だ。線香を立てる箇所は、固い雪で覆われ素手でその雪を取り払うことはできなかった。供花のところに線香を立てた。

しばしの祈りの後、わたしは、自分が祖父の名前を知らないことに気づいた。わたしが生まれたときには既に鬼籍に入っており、会ったこともない人である。

タコ君と墓石の後ろに回り、刻まれている名前を見つけた。「あった。え~っと・・・嘉七と書いてある。」「そうだね。明治22年6月没とある。」とタコ君。
わたしはメモを取った。
そうして、墓の前にもう一度たたずみ、この先再び訪れる日が来るであろうことを祈りながら吉崎家の祖父や叔父、叔母たちに別れを告げて帰ってきたのである。

東京へ帰り、夕食の準備で台所に立っている妹相手に、
「ねね、マリちゃん、じさまの名前知ってる?」とわたし。
「それがねぇ、わたしも知らないのよ。もう聞く人もいない。」
「知ってるわよ、わたし!今度の墓参りで見つけてきた。嘉七、
明治22年6月没とあった!」
と、いい歳して多少得意げに言うわたしを、妹は一瞬「???」の面持ちで見ている。

そして開口一番、「それはつじつまが合わない!」
「お母ちゃんが大正生まれなのに、じさまが明治22年没は可笑しい
じゃん!」
「さすが、ゆう。(妹はわたしをこう呼ぶ)考えることがおもろ~」(爆笑)

いやはや、面目ない^^;ご先祖さま、再度このわたくしめをお笑いくだされ~~。とほほのほ^^;嘉七さんはひじさまで、ござんしょね^^;

まじめな墓参の話がどうしてもこういうオチになってしまうのか。あぁ・・・これがなければなぁ、もう少し周囲から敬いのマナコを向けられるかも知れないのになぁ(笑)

かつて早春の津軽行はこれにておしまい。

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2024年2月29日

東京近郊に住む我がモイケル娘がそろそろ寝ようかという時間にスカイプで呼び出した。「このホテル、予約を取っておくんなさい!」

ようやく弘前の宿の確保ができて一安心である。本当は桜が満開になるであろう4月20日過ぎに行きたいところなのだが、ホテルはべらぼうに高くなっており空室もない状態で、やむなく4月上旬、宿泊費がドカーンと上がる寸前のを見つけることができたのだ。

わたしが一人で故郷へ行くのは今回が2度目である。いつもは所沢の妹夫婦と一緒に義弟が運転する車に同乗して行くのだ。長い間、どこに生きているとも分からぬわたしが突然同窓会に姿を現したので、同窓生たちはさぞかし驚いたことであろう、あの当時の津軽行を再掲したい。以下、古い話です。

某年某月某日

東京では桜の開花のニュースも聞かれる3月も半ば過ぎだというのに、上野から東北新幹線で弘前駅に着いて見るとみぞれが降っていた。

これでは、幼い頃に住んでいた下町、かつての祖母の家があった周辺を歩いて訪ねるのは愚か、その日の予定の墓参もままならぬ。タクシーを拾ってホテルにチェックインし、懐かしい数人の同窓生たちとの夕食時刻まで、ホテル内で時間をつぶすしかあるまい。夕暮れにはまだ数時間あった。

最後にこの駅に降り立ったのはいったいいつのことであったろう。すでに列車を降りた客の姿もなくなったプラットフォームの階段を登り、そんなことを思いながらゆっくりと出口へ向 かった。と、前方から「ソデ」と呼ぶ声がし、その声の主がいる方向に目を向けると、出口の向こうに思いがけなくタコ君の顔を発見した。

「ソデ」とはわたしの苗字の漢字の一字で、わたしは高校時代の友人たちからはそう呼ばれていた。「タコ君!どうしてまたここに!」 聞くと今日のわたしの弘前行きは知っていたので、所沢の妹宅に電話をしたらわたしは既に家を出た後。恐らくこれくらいの時間に到着するであろうと頃合いを見計らい思い弘前駅まで出迎えに来てみたのだそうだ。タコ君を弘前時代から妹も知っている。

こみあげる懐かしさを胸いっぱいに、なのに言葉は「お久しぶり」とさりげなく。タコ君の車はわたしを乗せ、ひとしきり降る霙の中、弘前の町に入って行った。

商店街の土手町を通り抜け、やがて桔梗野へ入り、小学校があるあたりをタコ君はゆっくり通ってくれた。小学校のすぐ横には、高校時代にかつてわたしたち家族が住んだ埴生の宿があったのだ。家のすぐ側にはに昔の工場の廃屋があって、わたしたちの家は小さな台所と狭い二間がある昔の工員たちの宿舎のひとつであった。今はその影もなく、辺り一帯は新しい住宅地と化していた。

小学校の校庭には思い出がある。どんなに懸命に力を振り絞って走っても足の遅いわたしは体育祭が嫌いだった。高校1年の年に一念発起。妹に手伝ってもらい、体育祭に向けて、すぐ横にあるこの小学校の校庭で毎夜走る練習をしたのだった。一等とまでは行かなかったが、その年わたしは生まれて初めて走ることで2等をもらったのである。あの頃の妹とわたしの思い出がチラリとも感じられなかったみぞれの降りしきる新しい校庭であった。

タコ君はやがて我らが母校「弘前南高校」へと車を走らせた。
続きます。

★「埴生の宿」のエピソードはこちら→ 「口笛吹けば

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