fc2ブログ
某年某月某日 

生まれて初めて、「故郷」「日本という国が恋しい」と言う感情を知ったのは、異郷の地ポルトガルに嫁ぎ、里帰りができなかった最初の3年間の時です。

ポルトガルへ来る前のアメリカ留学で自分の持ち金は全部使い果たしていたし、一人で義母やおばたち、それにわたしを含めた4人を養っていた、やっと専門医になったばかりの30を少し超えた夫に、里帰りさせてくれとは言えませんでした。

当時は飛行機代も今とは比べ物にならぬほど高かったのです。ましてやポルトガルは今以上に物価が低く賃金も安い国でした。国際電話料金もバカ高く、電話は母に年に一度、正月にするくらいでした。 あとは時間ばかりはたっぷりあったので、せっせと元気印の航空便を送ったものです。

わたしが話せた言語は英語と日本語のみ、ポルトガル語は全く知らずに来ました。ポルトガルでは今でこそ、他の国同様、英語が第二外国語になり、簡単な英語であれば、なんとか通じるようになりましたが、今から40数年前は、ドイツ語フランス語が第二外国語でした。英語が少々話せるとて、通じる相手が周囲にたくさんいたわけではありません。

ポルトでたった一人の日本人でした。町を歩くと、すかさず「chinesa、chinesa」(=シネーザ・中国人女性のこと)と指差され、それが「死ネー、死ネー」と聞こえたのには堪えたものです。

昨今のように、大学には外国人向けのポルトガル語コースもありませんでしたし、語学学校で個人レッスンでも受けようものなら大変な授業料が請われました。冗談じゃありませんて。自分が持ち込んだたった一冊のブラジルポルトガル語の文法本があっただけです。

ポルトガル語の勉強も、日本とポルトガルの国柄の余りの違いにすっかり意気消沈してしまい、何年も何年もその本を使って独学することを拒否してしまった愚かな自分ではありました。

旅人である間は、また、一時しのぎの滞在である間は、そして、年に一度の割でせっせと帰国の切符を手に入れられる間は、「やっぱり自分の国が一番いい」と言う安堵感にかき消されて、「ノスタルジア」という感情は、なかなか生まれてこないような気がします。そんな感情を誰もが学ばなければならない、なんてことは全くないのですがね。

当時2歳近くの息子を連れて3年ぶりに日本の地を踏んだときは、誠に感無量でした。機内から眼下に見える自分が生まれた国、飛行機が着陸する間、滂沱の涙が頬を伝い、隠しようがなかったものです。「わたしの国、これがわたしが生まれ育った国」この言葉が頭をぐるぐる回って、湧き上がる感情をどうにも抑え切れなかったです。

10年を一昔とすれば、あれから昔が四つ重なりました。ポルトでは、わたしは一番古い日本人で、昔を知っている「生き字引」なんて言われたりしましたが、当時の昔を語ろうにも、昨今の若い人たちにはきっと興味のない迷惑な話になったりするでしょうから、ほとんどそんな話を持ち出すことはありません。

ポルトガルの男性を夫に持つ若い日本女性も随分増えました。「年に一度は日本へ里帰りさせてくれることを条件に」なんて話も聞いたりします。それを羨ましいとは思わない、と言えば少々嘘になるけれども、今日のわたしを築いた背景には、夫の家族と同居した最初のちょっと辛いと思われた6年間や3年間帰国できなかたったことなどがチラと見え隠れします。わたしのポルトガルでの人生の始まりでした。

詩人星野富広さんがその花の詩集で言います。

「引き返す距離が長いほど、力を蓄える波の激しさ」

話す相手もおらず帰るに帰れない。じっと我慢して数年ぶりに母国の地を踏む喜びがどんなに大きなものかを、わたしは知ったのです。

異国へ渡ったポルトガル人たちの「ノスタルジア」がわたしは今少し分かるような気がします。優しい記憶も苦い思い出も入り混じって、それらを超えて懐かしみ恋うるところに郷愁・望郷の切なさはあるのです。ポルトガル語ではそれを「Saudade」(=サウダーデ)と言います。


本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年2月26日 

雨が多いポルトの冬だ。それでは可哀想だというので、昨夏我が家に入ってもらったストリートキャッツのフジオ君。半年が過ぎよく食べるのですっかり太った。

5匹の大家族と育ったが今はひとりぼっちの先住猫ゴローも仲間が出来て喜ぶかと思いきや、これがちょっと違った(笑) ついこの間までは、見るからに新参者に「ふん!」と思っているのが傍から分かり、おかしいったらありゃしなかった。

フジ君ゴロ_1_2
ヒーターの前ですっかり安心しきって仰向けのフジオ君。ゴローはお気に召さないらしい。

それが、ここ数日、あれ?2匹で少し追いかけたり追いかけられたりと様子が変わってきた。こうしていっしょに並んでいたりする。とは言うものの、お前たち、顔がひきつってないかい?(笑)

Feb26_1.jpg

これでわたしも安心して日本へ行くことができる。人間で言えば、90歳近い超高齢猫のゴローを夫と残して行くのが心配だったのである。

先日、台所でお互いの朝食を作りながら(我が家は朝食はそれぞれ自分で作る)、「2カ月もの留守、ゴロー君が心配だな。大丈夫かな?」と言うと、夫、「じゃ、ボクは?心配ないの?」と言われて、げ!であった^^;

さて、本日、月曜日はわたしの休日なので、2週間後の帰国を前にして息子の部屋のベッドに旅行かばんを広げて準備し始めたのだが、これをみたゴローが「こっち来い」とやたらわたしを呼ぶのである。

journey1.jpeg

「なぁに?」と問うと、鳴き声でわたしたちの部屋に誘い、昼寝しようと言う。仕方ない、少し横になってやると、わたしの髪を噛んではひっぱり、のどをゴロゴロ鳴らしている。ネコと言えど、「奥さん、またいなくなるぅ」と旅支度が分かるのだろう。

しまったなぁ。少しの間、この部屋を閉めて置かねばなるまい。「うさぎは寂しいと死んでしまう」と言われる。老猫だってありうるのではないかと思うと、フジオ君に家に入ってもらってよかったと思うのである。

ではまた。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年2月22日

今回の帰国はひょっとしたら最後にならないとも限らない。二カ月間の滞在先はほぼ東京だが、弘前、大阪、福岡をどのように縦断しようか、体力は持つだろうか。どのような旅程を組もうかと考えていたここ数日だった。

福岡には、5年ほど前まで横浜に住んでいたおじが自ら探して入った高齢者施設があり、そのおじが入院しているとの話がしばらく前に耳に入った。妹夫婦と是非とも訪ねなければならないと思っていたのである。

わたしは思春期真っ盛りの15歳の1年間、当時は東京から大阪に転勤していたおじおば夫婦と住んだことがある。彼ら夫婦に子供がまだいなかったので叶ったことなのだが、わたしと血のつながりがあったのはおじではなく、我が母の妹であるおばのほうだ。

石油会社のエンジニアだったおじは江戸っ子だった。わたしの小学生時代におばと弘前を訪ねてきたおじを通してわたしは都会の匂いを大いに感じたものだ。それはわたしの都会への最初の憧れであった。いつ頃からかわたしはいつの日にか都会へ出ようと夢見るようになっていた。

中学2年の冬休みに家族に無断で夜汽車に乗り大阪へ一人向かい、以後の1年間を共に過ごさせてもらったのである。これについては、下記に綴ってある。

・夜汽車に乗って:我が青春の「急行日本海」(1)
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1184.html

夜汽車に乗って:我が青春の「急行日本海」(2)
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1185.html


大人になってわたしは再び大阪に出て10年程を過ごしたが、その時はおじ夫婦には一人息子が生まれ東京、福岡と転勤を繰り返していた。わたしは時々、東京のおじたちを訪ねたものだ。アパートの家財道具を一切売り払って、アメリカ留学をする前も、今の夫と結婚してポルトガルに渡る前も、わたしは一か月ほどを東京のおじ宅で過ごしている。おじにはちょっとした秘密も打ち明けて相談にのってもらったりもした。

おばが亡くなった後も帰国時には妹と二人して、時には我が東京息子やモイケル娘も連れて会いに行ったものだ。横浜の自宅に住んでいた頃は、ポルトからしょっちゅうおじと電話で話すよう心がけたが、施設に移ってからはガラケーしか持たない人だったので、それが難しくなってしまった。

3月には会いに行くぞ!と決めていた。今朝、所沢の妹からおじの訃報を知らされた。わたしたちは間に合わなかったのだった。

母は9人兄弟だったが、大東亜戦争で戦死した母の兄はわたしたちが知らないおじだ。残ったおじたち、そしておばたちの連れ合いも含めたわたしたちの7人のおじはみな逝ってしまった。

You must believe in spring

おじを偲び、今日一日中聞いていた曲だ。
絶望的な冬を迎えても春は必ずやってくる。



読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
某年某月某日 

二人の子どもが家を出て独立し日本で職を得ているので、家族揃ってと言っても夫婦二人きり。ウィークデイの朝は昔から夫はポルトガル式の朝食を好み、焼きたてのパンにバターとジャムをつけ、Café com leite(カフェ・コン・レイテ=ミルクコーヒー)を自分で淹れる。わたしはと言えば、近頃は、ご飯に味噌汁を中心の日本食もどきなのである。

週日は日本語を教える仕事があるので、晩御飯はあまり手をかけずに作るが、日曜日の昼食は少しだけ気合を入れて作ったりもしする。そんな時は、朝食が遅いので午後2時ころからワインかビールを開けてゆっくり食べるのが慣わしだった。それが、たまに途中からゆったり昼食というわけにいかなくなることがある。

我が家は、ポルトガルではCondominio(コンドミニアム)と呼ばれる集合住宅である。が、安普請だからして各フラットのドアを開けて話そうものなら、エコーで響き、家の中に居ながらにして、聞きたくもないのにあれこれ聞き取ることができたりする。

ある日のこと、昼食をとっていると、階下がなにやら騒々しい。「何だろうね・・・」と夫と話しながら食べていたのだが、そのうち姦しかった声が更に大きくなり、どうやら女性二人の応戦抗戦が始まったようなのだ。おお、やっとるやっとる(笑)

階下、向かい合ったお宅、奥方同士が最初は仲良しかのように見えたのだが、何があったか知らぬがいつの間にか反目する仲になったのである。やりあっている現場を目前にしたことはないが、お二方がそれぞれの窓から顔を出して激戦している様を二階の我が窓から身を乗り出して見たことはある(笑)

こういう場合、典型的なポルトガルおばさんなら一言二言言って間に割って入るであろう。が、こちらは日本人おばさん、あちらのお二方が派手にガナルほどに、我が家はシーンと静まりかえり、思わず聞き耳を立てていたりする。そういう時はなぜだか知らないが、我が動きはおのずと自分の家なのに、抜き足差し足状態になっているから不思議だ。

聞き耳を立てるのは最初の頃だけで、後は聞きたくもないののしり合いであるからして、しばらくするとわたしは窓をピシャとしめて、激戦終了を待つのみ。

向かい合ったフラットのドアを開けてガンガンやっている階下の隣人の姿を想像しながら、これでストレス発散し、また当分はやりあいがないだろうと思うに至る。それにしてもお二人の夫たちが口を出さないで放っておくのもおもしろい。笑 

犬が食わないのはどうやら夫婦喧嘩だけではないようだ。はははは。

お粗末さまでございました。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。


にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村

2024年2月13日 バレンタインデーと恋人たちのハンカチ
 
日本ではバレンタインデーは女性が男性に贈り物をし、そのお返しがホワイトデーらしいが、ポルトガルでは、「Dia dos Namorados(恋人たちの日)」と言って、昨今は夫婦、恋人同士、友達同士が贈り物を交換する日になっています。
この日はレストランでで食事をするカップルも多く、特に晩御飯は、どこのレストランも満席。わたしたちも満席で、何軒かレストランを回る羽目になった経験があります。

さて、「恋人たちの日」と言えば、ポルトガルで必ず思い出されるのが「Lenço dos Namorados(レンソ・ドナモラードス・)」と呼ばれる伝統的な「恋人たちのハンカチ」があります。レンソはハンカチのこと、ナモラードスはボーイフレンドの意味です。

下記は「恋人たちのハンカチ」についての過去記事です。

「恋人たちのハンカチ」

「恋人たちのハンカチ」の起源は17世紀に遡り、ポルトガル北部のミーニュ地方(Minho)が発祥地だと言われます。これを作るのは当時の女性のたしなみで、仕上げたハンカチを意中の男性に贈ります。男性はそれを受け取ると公でそのハンカチを使用し、恋人同士になることを周囲に告げます。「否」の場合は、ハンカチを使用しないというわけです。

ハンカチは真四角のリネン布に綿の刺繍糸で刺繍します。写真でご覧のように、刺繍の模様のモチーフは決められています。
  
ハートは愛情を、鍵は二人の心の結合を、鳩は忠実を表すと言われます。ハートの模様と短い詩は「恋人たちのハンカチ」には必須。

もうひとつ、このハンカチに欠かせないものが、男性に贈る短い詩です。ポルトガル北部Minho地方で手に入れた恋人たちのハンカチを紹介します。

lenco-namorado2-1_2024.jpg
「Amor é a estrela que há-de guiar a minha vida」 
     (アモール、愛は我が人生を導く星

ハンカチに刺繍されてある言葉のスペルは、故意にところどころを間違えてあるのが特徴です。ハンカチの起源は17世紀ですから当時の一般女性はまだ正確に読み書きができなかったことや方言が含まれていることから来ています。

チョコレートを贈るよりもホットな昔のポルトガル女性の熱き心が窺がえます。自分でデザインを考え思いを託して詩を作り、何週間も自らの手で刺繍する乙女心は現代では失われてしまいました。

かつては、テレビを見ながら、またはバスや電車の中で、はたまたクリニックでの待ち時間中にレース編みや毛糸編みに忙しく手を動かすポルトガル女性を見かけたものですが、忙しくなった現代女性は編み物も「恋人たちのハンカチ」を刺繍する時間もなく、美しいハンカチはインテリアとして額に入れられ、往時の求愛の言葉をわたしたちは眺めるだけになりました。

かく言うわたしも、忙しさにかまけて、夫へのバレンタインデーのプレゼントを買い忘れた現代女性の一人ではありました。トホホ。

ではまた。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年2月12日 

一時期スマホにインストールして時に使用していたLINEだが、セキュリティ面で大いに問題があるとの話を聞き、ポルトガルにいるとさほど必要性も感じなかったので、LINEで繋がっていた知人たちには申し訳ないがわたしは即、LINEをスマホから削除した。

しばらくすると、それまでガラケーしか使っていなかった妹から、スマホに買い替えたからLINEで繋がりたいと連絡が来た。妹はFacebookもスカイプもしていないので連絡は逐一メール、もしくは隔週おきの国際電話だ。メールボックスもしょっちゅう確認する人ではないらしいので、え~とは思ったもののLINEを再開した次第である。

LINEで繋がっているのは、パソコンを持っていないのでメールのやりとりができないという二人の友人と妹だけである。

その一人が我が故郷弘前に住んでおり、時折メッセージのやりとりをする。先週金曜日に彼女からメッセが入った。「明日、同窓生のいつものメンバーで旧正の新年会で集まるんだけど、電話参加できそう?」

おぉ~、参加しようじゃないの!って、土曜日朝は日本語授業があるんだが、時間は大丈夫だろかと会合時間を見てみると、うむ、授業少し前にできる!と相成った。 帰国時にはわたしの弘前帰郷に合わせてこの友人が同窓生たちに声をかけて会合を開いてくれるのだ。

一昨年、3年ぶりの秋の帰国では日本到着すぐにコロナ感染し、その後滞在中ずっと体調悪くてどこへも行けず、せっかくの2か月の休暇をふいにしてしまった。弘前には5年程帰っていないことになる。

というわけで先週土曜日は同窓生の新年会にLINEで参加した。8人ほどのメンバーが集まったようで、一人一人と友のスマホでLINE電話挨拶であった。参加者のうちの3人とは高校卒業以来初めて言葉を交わした人たちだ。

ほとんど60年近くの月日が流れとるわい。それを「やぁ、お久しぶり」だなんて、なんだかおかしい。第一、バッタリ会ったらどこのだれやら分からないほどの年月が流れているのだ。結局、「どうもぉ」「あ、どうもどうも。元気ですか?」ってな具合で、野暮ったいったらありゃしない(笑)

こんな未来の日を高校時代には描きもしなかった。あれから幾星霜が経ったが、同窓生一同が顔を合わせたら、どんな光景になろうか。ここまでこぎつけなかった同窓生もいるわけだが、我らみな喜寿に相成る、相成った。

電話参加に誘ってくれた友に感謝して、春の帰国にはなんとしてでも帰郷したいと思っている。

ではまた。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年2月9日 

週1で掃除にやってくるお手伝いさんがリビングに入るなり、「ドナ・ユーコ、これなに?」と着物ハンガーに広げられてかかっている薄いサーモンピンクの訪問着を指さす。

着物1_1

あは、そか。着物と言うものを見たことがないのだな、と言うので日本の着物について簡単に説明した。盛んに「きれいきれい」を連発してくれるものでこちらも悪い気はしない。

写真は20代も後半の頃に亡き母から贈られたもので、母からの訪問着はこれが2枚目である。薄いサーモンピンクの色にあまり目立たない桜の花模様が気に入っている。母は着物が縫えた人で、自分や妹のものも縫っていたようだから、ひょっとしてこれも母の縫ったものかもしれない。数回ほどしか手を通さなかったのと、母に会う機会は帰国時の3年に一度ほどだったのでわたしはそれを聞きそびれてしまったのであった。

この春に帰国するが、今回はこの着物一式をモイケル娘に渡すつもりだ。併せて羽織、草履、着物用のバッグ、それにカンザシも一緒にと思っている。それで、和服の衣装箱から取りだして干していたのである。
kanzashi_1.jpg

もう一枚、母が着ていた紋付きの黒留袖がある。わたしの苗字は結婚後も独身時代のままなのでわたしがもらうことになったのだが、ポルトガルでは着る機会がない。そこで、衣装箱の奥にしまい込んでおくのはもったいないと、ボランティアの日本文化紹介展示会の都度、その黒留袖も下の写真にあるように紹介してきた。

Ovar2_2.jpg

これは丸に揚羽蝶の家紋が付いているので、婚姻で苗字が変わったモイケル娘には譲るわけには行くまい。苗字を持つ東京息子に残すことになる。

着物は寿命が100年くらいで一般的に3世代でも着ることができると言われるそうだ。わたしの着物が娘へ、そして、孫のソラ坊へ行くかも知れない。恐らく自分がいないであろうこの先の世界でソラ坊がこの着物を身につける未来をかすかに夢見ている。

亡き母からの着物の話に及んだ。書きだしたときは気づかなかったが、してみれば今日は母の命日であった。

ではまた。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。

にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年2月5日 

今日、東京近辺は珍しく雪が降ったようだ。まずは所沢の妹からLINEで「大雪!雪の重さで庭のミモザが道路側に倒れて庭の内側に引っ張り起こすのに息子と旦那が奮闘中! 雷まで鳴ってる」との知らせ。ちょっと早いけど春雷だわなと、のんびり返事するわたし(笑)

東京都内に住む東京息子からは、「雪~」のメッセとこんな写真が送られて来た。

Joao1.jpg

うわぁ、道路も車も雪におおわれてるやん!そして、こちらは満面の笑顔で雪に触る喜びを表している孫のソラ坊。

feb5-1_2.jpg

子供時代を雪国で育ったわたしからすれば大した雪ではないのだが、雪国を知らない我が子たち、孫にとってはロマンを感じる景色なんだろうなぁ。東京での大雪と聞くとわたしは、つい226事件とか、古く江戸時代で言えば忠臣蔵、桜田門の変などが思い浮かぶのですが、およびじゃないかも(笑)

さて、今日は先週に続いて日本語授業が2つキャンセルになった。ヒャッホー、ちょっと休めるなと思ったものの、我が仕事は実働だからキャンセルになるとお金は入らないのであった^^;が、ま、いっか。たまには怠けても(笑)

そこで、昼食前に歩いてきた。いつもなら授業があるためせいぜい30分くらいで帰るのだが、午後もなし。近くの墓地へ寄って亡くなった夫の母に花を手向けてきた。義母が身まかって20年ほどになるだろうか。

その墓地にはアベイルに住む義姉の夫も眠っている。義兄のところにもちょいと挨拶。義姉もアルツハイマー症認知の義兄もそして私たち夫婦も(わたしは半分の予定だが。笑)ここに眠ることになる。姉弟してここにColumbário(コルンバーリオ)こと、ロッカー式納骨堂を買っているのである。いつの日にか、義母を筆頭にその3人の子どもと連れ合いたちが一所に集まる。考えるとなんか不思議な気持ちになる。

墓地からの帰り道ふと思った。3月の帰国では東京息子とモイケル娘を我が父母の墓参に連れて行かなければ、と。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年2月2日 

色々注文を言い出して来てカワイクない年寄りになってきた(笑) もういい加減な齢ゆえ不眠での長旅は叶わん、帰国の切符はビジネスにしてくれ。欲しいものは敢えてないが、キライなものは無理して食べたくない。できれば気の進まないこともあまりしたくない、と夫に。

寝泊まりにマットレスだけでは体が痛くてイヤや。貸布団もどこの誰が使ったか分からないので、使いたくない。せめて敷布団だけでいいから、用意してくれ。枕もクッションは眠れないからアカン、買っといてくれ、と我がモイケル娘に(笑)

帰国中の主なる滞在先は所沢の妹宅なので、そちらにはわたしが使えるベッド付きの一部屋が用意されてある。滞在中に数日単位で何回か泊まりに行く娘宅だ、多少の我慢はすべきなのだろうが、一昨年の体調不良で、この年齢には睡眠がいかに大切かを思い知らされたのであるからして。

2人とも(夫とモイケル娘w)胸中「こんにゃろめ」くらいに思ってるかもしれない(笑)が、あと10年あるかないかの人生だ、これくらいは好きなようにさせておくんなせ。

これ以上、カワイクない年寄りにはなりたくないので、娘と婿殿が孫に施す教育には口を出すまいと思っている。娘とわたしの子育て環境も違うので、そろそろこうしたらああしたら?とは言わないようにしている。

子育て時代はほぼ主婦専業だったわたしだ、働きながらの保育園送り迎え、炊事洗濯掃除、自分の娘のお相手と想像しただけで気が遠くなりそうだが、現代社会は日本もポルトガルもそういう女性が多く、我が娘をも含め女性たちのすごいバイタリティーに感心している。

が、人間の本心などどこかで何かの拍子にボソッと出たりするものだ。この間、夫に「ソラちゃんがもう少し大きくなってテーブルに向って10分くらい座っていられるようになったら、オンラインでお勉強遊びなんてどうだろかな?」と口から出た(笑)

出たー!と夫に言われた・・・孫の教育には口出しすまいと言いながら、心のどこかでこうしてあげられたらな、との思いが口をついて出たのである(笑) 娘たちの近くに住んでいたならできるであろうし娘の手助けにもなるかも知れないが、なにしろポルトガルと日本の距離である、なんともしようがない。オンライン以外は(笑)

その反面、これでいいのかもしれないなと思ったりする。側にいて、ああだこうだと色々なことに口出し、指図しては、ビジネスクラスだ、敷布団だとねだるより、もっと「カワイクない」年寄りになるかもしれない。

物事によっては、「カワイクなくて結構」と言い切れることもあるが、この件に関しては娘には娘の子育て。わたしの子育てはほぼ完了したのであったっけ。

ではまた。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
2024年1月31日 

せどり界(「せどり」については、本日記事の中ほどに)のカリスマと呼ばれていた、「たそがれ親父さん」こと吉本康永氏が亡くなられて12年になります。

その後もブログはずっと残されてありましたので、時々思い出しては拙ブログ右のリンク欄から氏のサイト「たそがれ親父の人生ノート」を訪問していました。お会いしたことはありませんが、氏の著書の一冊にわたしたち母子は大きな勇気をもらい、金欠でありながらもモイケル娘の日本での大学受験に挑戦できたと言えるのです。

お会いしたことはありませんが、一つはリンクの許可をいただくために、そして無事、日本の早稲田大学入学を果たしたこと、また、途中で北九州大学へ転入して学部を変え、晴れて大学卒業を果たしたことをしたためたメールを送っています。

今日久しぶりに氏のサイトをクリックしてみると、「Not Found」と表示されて寂しい思いをいだいたのでした。サイトが消却となった上は、わたしもリンクを外していよいよお別れをしなければなりません。

本日はたそがれ親父さんの本との出会いとリンクすることになった時のエピソードを再掲してお別れにしたいと思います。

2017年1月29日 たそがれ親父の吉本康永さん

間もなく受験シーズンがやってくる日本ですが、この時期になると決まってモイケル娘が日本の大学受験を目指し学業と父親のゴーサイン獲得に奮闘していた日々のことが思い出されます。

長年、拙ブログにおいでの方々はすでにご存知のことだと思いますが、夢を目指して彼女が日本へ行ってから、早や13年になろうとしています。「日本へ行こう!」と娘が決心したであろう中学3年から、最終的に早稲田大学への入学を果たし一人住まいを始めるまでのいきさつは「ズッコケ親子の受験戦記」(後記)にて記録していますが、時々、一人クスクス笑いながら拙文を読み返しては、娘の夢の実現を目指して、いつの間にか自分も彼女とともに煌いていたあの頃を懐かしんだりしています。

もしあの本に出会っていなければ、どんな風になっていただろうか、もしかすると父親を説得できず、モイケル娘はおっかさんのわずかばかりのヘソクリを持って、強引に家出という形で日本へ飛んでいたかもしれないなぁ、と思ったりします。それはそれで面白い展開になり、物語性に富むのですが。あははは。

さて、金欠病の親子がいかにして受験、入学した場合の学費、日本での生活費を工面できるかと、暗中模索のひと夏に偶然出会ったのが、たそがれ親父さんこと、吉本康永さんの本でした↓

ただで大学を

出会いについてはエッセイ「ずっこけ親子の受験戦記」のエピソード6「運命の夏の出会い」と7「ただで大学を卒業させる法」に書いておりますが、ここに2エピソードを載せてみます。

「ずっこけ親子の受験戦記」  

娘が無事合格し、すっかり有頂天のわたしは調子付いて、件の軽薄な「ズッコケ親子の受験戦記」なるエッセイを書くに至ったのですが、彼の本へのお礼を兼ねて、著作権の関係上、吉本氏の著書写真と文引用の許可お願いのメールを厚かましくも送ったのでありました。
氏は快く承諾してくれ、「お互いのサイトリンクをすること」が条件でした。ついでにメールの返事には、「吉永」ではなくて「吉本です」と書かれてあり、あちゃ~~、名前の「吉本康永」の最初と最後をくっつけて「吉永様」なんてやっていた粗忽者のわたし、入る穴もなし・・・。トホホホ

氏は「たそがれ親父」のハンドルネームでホームページ「たそがれ親父の人生ノート」を運営しており、そのような訳で右の我がリンクサイトに名が上げられています。2006年のことでした。

以来、時々、サイトを訪問していたのですが、それが2008年頃だったでしょうか、突如「お知らせ」と称して、

管理人の個人的事情により休止中です。休止しましたた4月以降何度か皆様から病気でもしたのかとメールによるお問い合わせをいだだきましたが管理人はいたって元気であります。
残念ながらはっきりとした再開の目処はたっておりませんが機会があればまた再開したいとも考えております。

との告知があり、新しい本の執筆か、もしくは塾講師の仕事が忙しくなったのだろうな、くらいに思っていたのでした。

そうして月日が流れ、久しぶりに氏のサイトを訪れてみたのですが、相変わらず更新はなく、ふと思いついて、グーグル検索を試みました。飛び込んできた最初の文字が「たそがれ親父さん、逝去」 えー!嘘やん!しかも亡くなられたのは2011年、随分前ではありませんか!ああ、なんと言うこと。

たそがれ親父さんは「せどり」の仕事をしていたようですが、「せどり」とはわたしにとり初耳の言葉です。調べてみると、「せどり」は「競取り」と書き、主に「古書店で安く売っている古書を買いとり、ネットで売ること」とあります。その世界ではかなりの知られた人だったとのこと。プロフィールを拾ってみるとわたしと同年、1947年生まれでした。

存命だと思っていた人が実は既に鬼籍に入っていたという話を近頃耳にすることが多くなってきたような気がします。自分のをも含めて、人生は一寸先は見えないものなのだと知らされたことではありました。

最後に失礼ながらネットにあげられている著書「大金持ちも驚いた105円という大金」にあるプロフィールを。

■吉本康永(ヨシモトヤスナガ)1947年生まれ。東京外国語大学中退。現在群馬県の予備校で教鞭をとっている。歯に衣着せぬ物言いに隠れる圧倒的な愛情に、学生のみならず父母の間からも信望が厚い(らし)かったが、少子化と不況の影響を受け、還暦直前にして授業数が激減。月々のローン返済40万円を抱えた中で見いだした答えが「せどり」だった。

その笑いと涙の闘いの二年間を著書、『大金持ちも驚いた105円という大金ー救われたローン人生』にまとめた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ローン地獄/アマゾンへの出品/せどり生活のスタート/訪れる失敗/アコーディオン買い/せどりの日々/著名人本の価値/車の買い替え/パソコンと本の分類/アマゾン一人勝ち/せどりのジャンル/税理士登場/古物商許可証取得/さまざまなお客様/売り上げ記録は更新中だが…/せどりの技術/ある日のせどり旅/ローン地獄からの脱出/本の運命 どんなピンチだって、ちょっとの工夫と行動で乗り越えられる!リストラ間近・還暦直前・月々ローン返済40万円…!崖っぷち予備校講師が選んだ手段は、ほんのちょっとした事だった。ヒント満載の、貧乏克服ノンフィクション。

我がモイケル娘に頼んで、この本を購入することにしました。

たそがれ親父の吉本康永さん、あなたの本にあやかり、なんとか大学と院まで修めることができた娘がここに一人おります。何年もと遅くなりましたが、感謝とともに心からご冥福をお祈りいたします。

2006年3月65日 「タダで大学を卒業させる法」  著者:吉本康永 (三五館)

夏休みを利用して日本に帰国していた時の事、ブックオフ書店で上記のタイトルが目に入り思わず買って来た本。当時はワラにもすがる、という思いでした。
扉を開いたら、

この本は、経済的に厳しい問題に出くわし、子供の大学進学を断念しようと考えているお父さん・お母さん、また受験生に捧げたものである。血を吐くようなわたしの経験から紡ぎだされた「実用書」なのだ

と、書かれてありました。

「お金と教育」のプロローグから、第一章「大学生になった息子への手紙」まで読んだわたしは、そのユーモアに溢れた飾らない文体に、そして、著者の親としての、これから大学生活を始めようとする息子さんへの、誠に実際的な暖かい応援メッセージがこめられた教育思想に惹かれ、そこから一気に読んで行きました。

「受験するだけでもけっこうお金はかかるのだ」
「初年度納入金、入学時の住居費はいくらかかるのか」
「全国の仕送り平均は」「大学生にかかる一ヶ月の生活費」

金欠病の国に住む、金欠病一家の、金満国受験志望娘を持つ親が得たい全ての疑問に、実数値をあげて、逐一答えてくれているではないか!そして、わたしにとっての極め付きはこれです、これ!
        ↓
子どもを「タダで大学を卒業させる法」ベストファイブ!

その中の第3位、
「何がなんでもがんばって早慶大学入学をめざせ」!ウワッ!高嶺の花だぁ~笑。 (←著者がそう書く理由は本に書いてある^^)

そして最後の第5位、
「子どもを働かせろ・新聞奨学生だ」!(←親の究極の選択だ、と著者は言っておられます。誠にその通りで^^;モイケル娘は最後の手段はこれだ!と。トホホホ。

かつてこの方法をとって大学進学をしようと、高3の夏休みに上京して体験をしたことがわたしはあるのでした^^;ゆえに、究極の選択、というのは頷ける。わたしの場合夢は破れたが。あは。この後には、「タダ卒経験者」の経験談、また「家族の絆」についても書かれてありました。

この本を読み終えたわたしは、大学へ行きたい!勉強したい!と懸命に思った17歳の頃の昂揚感をまざまざと思い出したのでした。

よし!ポルトガルからだって不可能ではないぞ!なんとかできるかも知れないぞ!そ、早慶だーーー!(この時わたしはまだ、海外に住んでいる日本人でも「日本学生支援機構、つまりかつての育英会の奨学金を受けられるということを知らなかったのでした)

この一冊の本は、わたしに大きな夢の実現可能性と智恵をくれたのでありました。あれれ?いや、その、わたしはその夢を持つ受験生本人ではなくて、受験生の親の方でありました(爆)

読み終わって即、我がもいける娘に、「この本を読んでみ。日本の大学進学の夢に近づくヒントはここにあり!」と言って、翌日彼女に手渡したのでした。


本日も読んでいただきありがとうございます。
ランキングクリックしていただければ励みになります。
にほんブログ村 海外生活ブログ ポルトガル情報へ spacesis in ポルトガル - にほんブログ村
Click for Porto, Portugal Forecast 
ポルトガル ポルトの口コミ
ポルトガル ポルトの口コミ