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某年某月某日

海の上で太陽が光を雲間に閉じ込められながら、かろうじて姿を見せている一枚の写真があります。

ロカ岬


これはわたしが撮った写真ですが、白黒にしてみたわけではなく、目まぐるしく天気が変化するロカ岬でスマホを利用して撮影したものです。暗い画像に、わたしはある詩の一行、「とどろく海辺の妻の墓」を思い出したのでした。

前回フェルナンド・ペソアの紹介で述べたように、彼は詩人のみならず作家、翻訳家でもあり、エドガー・アラン・ポーの訳詩もしていました。かなり以前にブログで取り上げた松本清張の本につながるのでした。

以下、過去の日記の書き換えです。

―とどろく海辺の妻の墓―

高校時代には、苦手な理数系の勉強はほったらかしに、フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学の著名なものを図書館から借り出しては、外国文学の起承転結の明確なのが好きで心を躍らし片っ端から読みふけったものです。

そして、20歳代にのめりこんだのに、松本清張シリーズがあります。「黒い画集」から始まり、清張の作品のかなりを読了しました。「社会派推理小説」と当時呼ばれた清張の作品は、大人の匂いがプンプンして、20代のわたしは世の中の理不尽や犯罪に駆り立てられる人の心理を、こっそり覗いたような不思議な刺激を覚えたものです。 

それらの中でも特に心に残ったのは、霧の旗、砂の器、飢餓海峡、ゼロの焦点です。つい先ごろ、この「ゼロの焦点」をもう一度読み返す機会があり、思い出したのです。あの頃、気になりながら当時は調べようもなかった詩の1節がその本の中にあったことを。

In her tomb by the sounding sea. とどろく海辺の妻(彼女)の墓

訳が素敵だと今も思います。

戦後の混乱期の自分の職業を隠し、今では地方の上流社会で名を知られている妻が、過去を隠さんがため犯罪を犯す。やがて追い詰められた彼女が、冬の日本海の荒れた海にひとり小船を出して沖へ沖へと漕いで行く。その愛する妻をなす術もなくじっと見送る年老いた夫の姿を描くラストシーンに出てくる英詩です。

当時、この詩がいったい誰によって書かれたものなのか分からないまま長い年月の記憶の彼方に押しやられていたのでした。改めてこの本を読み終わりgoogleで検索してみようと思いついた。英文でそのままキーワードとして打ち込みました。

おお、出たではないか!一編の詩に行き着きました。
この詩は、「Annabel Lee=アナベル・リー」と題されるエドガー・アラン・ポーの最後の作品なのでした。(詩全部をお読みになりたい方はWikipediaでアナベル・リーと検索すると出てきます)

詩、「アナベル・リー」は、14歳でポーと結婚し、24歳で亡くなった妻、ヴァージニアへの愛を謳ったものだそうで、ポー最後の詩だとされています。

「とどろく海辺の妻の墓」は、その詩の最後の1節です。エドガー・アラン・ポーといいますと、わたしなどは、「アッシャー家の滅亡」の幽鬼推理小説家としての一面しか知らず、詩人でもあったとは。無知なり。

Wikipediaで検索しますと、ポーの大まかな人生が書かれていますが、残した作品に違わない(たがわない)ような激しい愛の一生を終えた人です。

40年近くも経ってようやく「ゼロの焦点」のラストシーンが、このポーの人生の結晶である「アナベル・リー」の詩につながったのでした。

う~ん、これは清張ばりに言うと「点と線」が繋がったとでも言えるかしら。(註:「点と線」は松本清張の推理小説)

ではまた。

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某月某日

ポルトガルの書店、みやげ物店などポルトガルのあちこちで似顔絵がよく見られるほどに、フェルナンド・ペソアは国内で人気がある詩人です。少し、詩人のおいたちを紹介してみます。

Pessoa_2023.jpg
Wikipediaより

1888年にリスボンで生まれましたが、少年期を英国領だった南アのダーバンで過ごし、英語で教育を受けています。これは後に英語ポルトガル語の翻訳家の道へもつながります。

17才で南アからリスボンへ帰国後、リスボン大学で学びますが中退し、やがて文壇の世界に入っていきます。ペソアがよく通ったカフェ「A Brasileira」の店先では彼の像が椅子に座っています。

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リスボンのシアードにある1907年にオープンしたカフェA Brasileira

イスに座るフェルナンド・ペソアの像
Pessoa_2023_3.jpg

生前のペソアは詩人としては一般にあまり名が知られていませんでしたが、O・ヘンリーやエドガー・アラン・ポーなどの作品、ナサニエル・ホーソンの「緋文字(高校時代にわたしが読んで衝撃を受けた本)」など多くのポルトガル語翻訳を手かげています。

ペソアはまた、神秘主義思想やヘルメス主義の熱狂的な支持者でもあったようで、占星術や錬金術にも強い興味を持っていました。案の定、宗教はNeo Paganism(異端教)、 Gnosticism(グノーシス主義)とあります。

サラザールの時代(1933年ー1974年)、1935年には、ファシズムへの批判を書きフリーメーソンを擁護したかどで、ペソアの作品は全て出版禁止の憂き目にあい、同年肝硬変で47歳で亡くなっています。

生前出版されたのは英語で書かれた4冊の本とたった一冊のポルトガル語詩集「Mensagem(メッセージ)」のみです。

Pessoa_2023_4.jpg
手元にあるフェルナンド・ペソアの詩集Mensagem

詩集は3部に分かれた44篇の短い詩からなっています。第一部は「Brasão(紋章)」、第二部は「Mar Português(ポルトガルの海)」、第三部が「O Encoberto(隠されたもの?)」

詩人としてフェルナンド・ペソアが世に名を馳せるのは、死後50年が経った1980年代半ば、サラザールの時代が終わり、彼が残した木製のトランクに入った、25000ページ以上に渡る遺稿が発見されてからです。

ペソアの詩については、詩の解釈は人それぞれにあるでしょうし、まして原語となると、ポルトガル語を専門に学んだことがないわたしにはとんでもないことですから、言及しないでおきます。興味のある方は、ネットで是非検索してみてください。

ペソアがグノーシス主義だという点は、大いにわたしの興味を惹くところです。

この項、まだ続きます。
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2023年10月23日 

物事が変わって行くのは世の常、存在していたものが消えるのも然り。我が青春時代の思い出深い大阪梅田新道にある「梅新アサヒビアハウス(現在はアサヒスーパードライ梅田店)」も、この10月末日には86年の歴史に幕を降ろすことになったと、新聞のニュースで目にしたのはしばらく前だった。かつてのアサヒビアハウス常連の板倉氏からFBを通して教えてもいただいた。

梅新アサヒビアハウス
旧アサヒビアハウス梅新
 
音大を出たわけでもないわたしが梅新アサヒビアハウスで歌姫バイトをすることになったきっかけは、拙ブログカテゴリ欄の「あの頃、ビアハウス」に綴ってある。

カラオケがなかった時代のことだ。わたしが歌っていたのはかれこれ40年以上も昔のことになるが、ここでの日々は珠玉の思い出だ。オフィスの仕事を終えて6時半から9時半までの3時間だったが、その間、ステージで歌うのは3回各30分間で1時間半。それも、常連客が指名を受けて持ち歌を披露する時間の方が長かったので、ワンステージで歌姫が歌うのは一人3曲ほどであった。

歌のほとんどは歌曲、オペラのアリア、オペレッタの名曲、そして、ビアソングだったが、わたしは時々先輩歌姫の許可を得てシャンソンも入れてもらっていた。

takaragiasahi_yuko_1.jpg
     大先輩の宝木嬢                  spacesis

歌い手は先輩の宝木嬢とわたしの二人。40数年も前で日に6000円のバイト料であった。これに惹かれ恥も外聞もかなぐり捨てて、ずぶの素人が歌い始めたのだった。オフィスからの給料は全て生活費に回ったが、歌姫バイト料は長年のわたしの夢であったアメリカ留学資金になった。

古い歌に素晴らしいものがあることをここで知った。歌曲もオペレッタの名曲もわたしの時代には既に過去のものとなっていたが、梅新アサヒビアハウスではこれらの歌こそが人々を魅惑し店は毎晩大盛況だった。

著名人の出入りも多かった。盛り上がると店の厨房から客が鍋かまを持ち出して叩きアコーディオンのビアソングに合わせて店内をムカデ行進する大きな輪ができるのだ。そういう時は客席は空っぽである。みな顔見知りになりいつの間にか客同士が友人になれるような雰囲気の酒場などそうそうあるわけではない。梅新アサヒビアハウスはそんな店だった。

ゆうこ

先輩宝木嬢とわたしが歌っていたのは、梅新アサヒビアハウスと呼ばれ梅田新道交差点の同和火災ビルの地下だったが、1990年(わたしが歌ったのは1970年代だ)にビルそのものが改築され、地下にあったアサヒビアハウスもそれに伴い店の装いはすっかり変わってしまった。

こじまさん
店内ホールに大きな大理石柱があった旧アサヒヒアハウスステージ。宝木嬢とわたしの間に入っているのは今は亡き朝日放送のKojima氏。

梅新ビアハウスは新装後、名前も「アサヒスーパードライ梅田店」変わり、昔の雰囲気は失われ、帰国時にわたしが行ったのはただの一度きりだ。その時、わたしは、様変わりしてしまったスーパーアサヒドライ梅田で、わたしが歌っていた頃の店長「塩さん」と2004
2004年、26年ぶりに再会したのであった。

塩さん
この塩さん(真ん中)も再開した翌年に83歳で永眠された。

新しいスーパーアサヒドライ梅田では、旧時代に行われた毎晩のビアソングステージは週2回(多分)になり、それまで客が歌い、その客の歌を楽しみに来ていた人たちもおおかったのだが、それも禁止になったという。

1970年代に店を盛り上げてくれた多くの、歌うのを楽しみに、ビアハウスで知り合いたちに会えるのを楽しみに通っていた常連たちも歳を重ね鬼籍に入った。わたしが知っている常連で今でも週に何度か通っているのは恐らく「六甲おろし」の杉ヤンくらいであろうか。

名物常連も一人また一人と逝き、我が青春のビアハウスもまたわたしのように、良き時代を知る残された人たちの思い出の中で生きるのだろう。

もしも、ビアハウスで歌うことがなかったら、知ることもなかったイギリスの往年の歌手Vera Lynの歌「We'll meet again」を最後に今日のブログを締めくくりたい。

We'll meet again
Don't know where
Don't know when
But I know we'll meet again
some sunny day


Youtubeより

ではまた。

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2023年10月20日

孫の話です。
7月に3歳になった孫のソラ坊、熱を出してはママのモイケル娘が仕事を休む日がしょっちゅうです。こんな話を聞くときはいつも、わたしが側にいたら、少なくとも日本国内にいたら多少手伝えるのにと思います。

熱があってもじっと寝ている子ではないらしく、家の中で一日中動き回りおしゃべりするもので、こっちが参ってしまいそうだ、とはモイケル娘(笑)

しからば、わたしがモイケル娘の代わりにソラ坊を見るとても、恐ろしい体力を奪われそうだ、ひぇ~、となりそうでもある。
さて、今週もソラ坊は保育園を、モイケル娘は仕事をやもなく休まざるを得なかった日、スカイプで少し話しました。熱があると言うのに、んまぁ、モイケル、じゃない、ソラ坊、よく動いてしゃべること。

すると、画面の向こうでソラ坊はおもちゃのミニハウスを広げ始めて、小さな家の窓から顔を出しました。それが、モイケル娘の幼い頃にほんとによく似ていて、思わず「あら、もいちゃん!」と言うてしもた(笑)

Oct15_2.jpg

ソラ坊、すかさず、「もいちゃんじゃない。ソラは三歳のニンゲンです。」と来ました。いやはや、三歳の人間であるとの孫の抗議には、「クックック、おぬし、人間になるまでにはまだまだ道のりがあるのだぞ」と思いながら笑いをこらえるしかなかったばぁちゃんでありました。

モイケル娘によると、自分にとって都合が悪いと聞こえない振りをするらしい(笑)。3歳にしてなかなか手強い、好奇心いっぱいの子怪獣である。

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2023年10月17日 

「見終える」じゃなくて、「読み終える」ではありませんか?とつっこまれそうですが、いや、ほんま、「見終える」なんです(笑)もちろん、著者小名木義行氏の解説部分は読むことになりますが、その解説部分とて会意文字、形成文字の勉強が入ります。

第1章の古事記序文に始まり、第2章は創世の神々、第3章伊耶那岐神(イサナキノカミ)、伊耶那美神(イサナミノカミ)二神の国生み、神生み、最後の三貴神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)に至るまで、果たして何柱(柱とは神を数えるときに添える言葉)の神々の名前が出てくることか!とてもとても覚えられるものではありません。

漢字だらけの原文をじぃ~っと見る(笑)何が書かれてあるのか分からんな。知ってる漢字、言葉はなんぼほどあるやろ、と見るしかありませんねん(笑)

このようにして、就寝までの20分ほどを毎夜続けて、ようやく見終えたのであります。自分に読めるかどうか分からなかったので、手に入れたのは第1巻のみ、かれこれ6年ほども前になります。第2,3巻も是非手に入れて見終えたいと考えていますが、第1巻をもう一度時間ををかけて見返します。

以下にわたしがこの本を入手した時のことを書いてあります。

2017年6月5日(月) 

我がモイケル娘に頼んで手に入れた本を、4月の帰国時に受け取って、勿論ポルトで読むつもりでしたが、期待感大きく、とうとう我慢できずに滞在先の妹宅にいた時に開きました。

と、途端に「ぎょえ!」とはわたしの口から出た悲鳴。側にいた妹が「どうしたの?」と驚いて聞きます。 どしたもなにも、これ見て、と見せたのが下の画像であります。

こじき

漢字だらけではないか、と、まるで漢字嫌いの日本語の生徒さんが言うようなことを思わず口走ったのでありました。

「并序」は「あわせはじめ」と読み、現代語で言えば「序文」ということなのだそうです。「原文」とあるように、これは「古事記」の原文序文なのです。「古事記に託されたメッセージは現代の日本人にこそ伝えたい」との謳い文句があった小名木善行著「古事記(壱)」なのであります。

kojiki3_2023.jpg

現代文の解説で読めると勝手に思い込み、開いた途端にこんな原文を目にするとは、トホホ。読み下し文で書かれてあるだろうくらいには想像していたのですが、原文からだとは!

古事記は日本最古の歴史書で平仮名カタカナが使われるようになった平安時代以前のことゆえ、少し頭をめぐらせれば知って当然のことなのですが。テヘッ。

知らない漢字も結構あるなぁと、開いたページをしばらく睨む・・・・ちんぷんかんぷんとはこういうことでありましょう。幸いにして直ぐ横に「読み下し文」がありますが、これとても、声に出して読めど分かったような分からないような(笑) なんだか、モイケル娘が院にて近世文学をとったころに、これはなんと読むんだろかと、親子して頭を寄せ合い四苦八苦した始めのころを思い出しました。

ようやく現代語訳、最後に解説が書かれています。原文は無理として、せめては、分かるようで分からない読み下し文を朗読し、現代語訳、解説だけを読んでいくのはどうかとも思いましたが、それも悔しいではないかと、ここ数日、一日の終わりにベッドに入ってはこの原文とじぃっと睨めっこしていたのであります。

分かってますてば、睨んでリャなんとかなるなんて奇跡は起こりません(笑) しかし、じぃっと見つめているうちに「懸鏡」「「吐珠」「喫剣切蛇」の箇所、これは皇位継承に代々伝えられてきた三種の神器こと、八咫鏡(やたのかがみ)・八咫勾玉(やたのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)だということが読み取れました!うほほほほ。

何も分からないとて降参してすぐ現代語訳や解説を読むのよりも、こうしてまるで謎解きでもするように本を読むのは数年ぶりで、結構楽しいものです。

わたしはかつて平家物語を読んだ折、壇ノ浦合戦で二位の尼は幼少の安徳天皇と共に入水したのですが、では、三種の神器はどうなったのだろうか、海に沈んだままかと疑問を持っていたのですが、今回は検索してみました。

勾玉はいったん沈んだものの箱に入っていたので海上に浮かび上がり現在は皇居に、草薙剣は入水により関門海峡に沈んだとありますが、沈んだ剣は形代(かたしろ=神霊の代わりのもの)で、本物は熱田神宮のご神体になっているとのこと。

八咫鏡についてはこれも壇ノ浦に沈んだのを源義経により回収され、現在はその形代が皇居に、ご神体は伊勢神宮に奉納されているとWikipediaには書かれてあります。

三種の神器は皇族はもとより天皇でさえも実際に見ることはできないと言われるのですから、日本には神代の昔からのミステリアスなものが現存すると言われるのは、とても興味深いと思います。

自分の勉強のために、古事記序文でわたしが調べ面白いと思った部分を今日は取り上げてみました。


ではまた。

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2023年10月15日 

東京近郊に住む我がモイケル娘と孫のソラ坊二人相手にスカイプでやり取りするのは楽しいものだ。日本時間は夕方、こちらは朝なので出勤がゆっくりの夫も加わったりする。時々夫の、変な日本語に、ソラ坊は混乱してるかも知れないが、画面に夫の顔を見ると「あ、じぃじ~!」と喜んでくれる。

モイケル娘は派遣の仕事を4時半で切り上げ、ソラ坊を保育園に迎えに行き、帰宅後は家事が待ち構えているわけで、しょっちゅうスカイプでおしゃべりはできないのだが、その代わり、ソラ坊の写真をよく送ってくれる。

昨日、送ってもらったのが下の写真だ。

Oct14_3_2.jpg

お、嬉しいな。我がモイケル娘が幼い頃に着せたつなぎズボンを今度はソラ坊が着ている。かれこれ30年以上も昔の服だが、子供服は着る期間が短いので新品同様と行かないまでもまだまだ十分着られるものである。

それで、わたしは子どもたちが幼い頃に着た気に入った服はずっと保管してきた。もう少ししたら着られるなと思う時期にモイケル娘に送るのである。彼女の15歳くらいまでの服は手元にあるので着てもらうのが楽しみでもあるのだが、その頃になると、ソラ坊もファッションの違いが分かり「い、いやだ・・・」とならないとも限らない(笑)

写真を見ながら、ふむふむ、この年齢ならあまり文句も言うまいと思っていたら、ソラ坊、その日に着るもののコーデを自分でしたりするのだそうだ(笑)

ソラ坊のコーデでわたしが今のところ一番気に入っているのはこれだ。

May13_2.jpg

大きくなってきたもんだなぁと思いながら、つなぎズボンの写真を眺めていたら、ん?ズボンがね、こうだったっけ?と何かひっかかる。

で、別の写真を見てみると、
Oct_10 _1_2

あ!ポケットが逆になってるじゃん!これじゃ、手を入れられないよ(笑) わたしの記憶では、このつなぎズボンは前に長さを調節できる金具ボタンがついていたはず。

で、モイケル娘を捕まえて、聞いてみたところ、それは後ろになってると言う。おいおい、そりゃそうだわな、後ろ前に着せてるんじゃ~!「うそーん、はんたいなのん?」「ま、着れてるからいっか」(笑)

してみれば、思い出すのは遠い昔、モイケル娘が日本の小学校3年生で夏だけ一か月ほど体験入学した時のことだ。体育でプールに入るので指定の水着を用意しなければならなかったのだが、買うのはもったいない。

そう思っていたら、ご近所の同じ小学校に通っている上級生の子の親御さんが 「うちの子はもう使わないので宜しかったらどうぞ」と譲ってくれた。水泳の時間の初日、担任の先生が記念アルバム用にと、娘のクラスが1列に並んだ歩いている 写真を撮ってくれた。

頂いたその写真を見て、「え?小学生の水着なのに胸の切込みが深すぎないか?と思い、側で一緒にそれを見ていた妹に聞くと、「あはは、もいちゃん、後ろ前に着てるんだわ」。我ら姉妹で大笑いしたのであった。彼女も覚えているようで、「う、うん。そんなこともあったな」。

なんとも大らかなモイケル娘である。厳しくすべき所は厳しくしようと思って二人の子を育ててきたわたしだが、根がそそっかしいもので子どもたちは成長するにつれわたしのそういう点を見透かして裏でぷっと笑ってきたであろうか。我ら母子の関係は結構いいのではないかと思っている。

細かいことには、「ま、いっか」と大らかなモイケル娘の子育ては、わたしの時代のそれとは少し違うが、3歳にして既にお口の達者なソラ坊がモイケル母に育てられ果たしてどんな子に成長するのかと楽しみにしているのである。
もいちゃん、がんばれぃ!

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某年某月某日 

ずいぶん前のことですが、東京駅で外国人に間違えられた経験があります。

ガラガラとキャリーケースを引きづって今と同じく度付きサングラスに茶髪です。大阪駅で友達のゴッチと待ち合わせしていたのですが、予定の新幹線に乗り遅れてしまいました。

当時は今のようにスマホも日本でのレンタル携帯電話も持ち合わせておらず、仕方ない、公衆電話でゴッチの携帯に連絡しようと、東京駅構内を探したものの、なかなか見つからず。

ちょうど、新幹線構内の広場の真ん中で立ち台の上にのって案内をしていた制服の駅員さんがいたので、「すみませんが、公衆電話はどちらにありますか?」と訪ねたところ、返ってきたのがなんと!電話のある方向を指さして、
「It´s over there!(あっちだ!)」

返答が英語だったのに一瞬のけぞったわたし、「さ、サンキュウー」と答えたのでありました。
後で思うに、あれはわたしの姿格好もあるだろうが、もしかしてわたしの日本語だったのかもしれないと。

どちらかと言うと早口のわたしが、できるだけゆっくりはっきりした発音で日本語を話すことを意識しだしたのは、土曜日の補習校で講師をし始めてからです。また、日本語を教え出してからも、もぐもぐ言っていたのでは、生徒たちに分かってもらえないので、ゆっくりはっきりとした発音で日本語を話すように努めました。

説明はポルトガル語、もしくは英語ですが、こちらのほうは話す時、文法を頭に置かないもので言葉が出るに任せ(笑) 生徒たちには、理解できない際にはわたしの話をストップして質問してねと前置きしてあります。

もちろん、友人たちと話すときはいつもの自分の早口にもどっていますが、日本では店員さんや見知らぬ人には、無意識のうちに日本語学習者に話すのと同じになっているのに気づきました。

当時はデパートの売り子さんからも、「きれいな日本語を話しますね。」とよく言われたものです。しかし、これもまた、ひょっとしてわたしは日本人ではなくて、日本語を学習しているアジア系外国人だとでも思われたのかな?

少しゆっくり話すというのは、近頃、会話の途中で適切な日本語単語が口から出てこなかったりする時、ちょっと助かったりします。早口だと、「えっと、あのね、つまり」とかなんとかそこでパタッと話が止まってしまわないように繕うのがちと大変。(笑)

さて、本題ですが、日本の子どもたち相手の補習校も一昔も前に退いたもので、現在は日本人社会ともあまり接触がなく、日本語で話す相手と言えば、コロナ禍以前は2、3カ月に一度の割合で気の合う仲間4人との食事会くらいでした。

それも今ではほぼ解散の体。電話で話すこともあるのですが、用事があるときで、意外と稀です。夫との会話は一応日本語ですが、至極相手不足(笑)

ブログを極力続けるように心がけているのは、我が子たちへのメッセージも含め、なんとか自分なりの日本語力をこれ以上落とさないようにとの目的もあるからです。読書はそれを担う一方法だと思います。読書で心に残る文を片言隻句として書き留めておいたりします。

毎晩、就寝時に小一時間ほどしていた読書ですが、歳でしょうか、近年その力が衰えよほど興味を引く内容ででもない限り、ものの20分もすると、本を顔に載せたまま寝入っていることが度々です。

ところで、若い時は翻訳文のような文章にも興味を持ちましたが、今は俄然、美しい日本語の文章に惹かれます。

美しい日本語、美しい物腰、たおやかな美。残念ながら、どれもわたしが持たない独特な日本美です。そして、季節の変化に使われる、今や忘れ去られんとする古い言葉・・・

齢70を越して、自分の中にある限りない日本美への憧憬に今更気づき、実は自分でも少し驚いているのです。

「何事の おわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

武士を捨て出家した漂流歌人、西行が伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる歌ですが、この歌にわたしがいたく心惹かれるのは日本人だからでしょうか。

半世紀近く海外に住めども、生まれながらにして備わった日本人の血が体内にひたひたと流れていることを改めて感じ、自分は永遠に日本人なのだと。それを感じればこそ、近年の日本政府の緩慢さ、情けなさ、隙だらけに、頭から湯気が立っているのです。

え?それを言いたかったのかって?あは。それも言いたかったがためにウダウダと長く書いちゃったんです。

本日はみなさま、これにて御免あそばせ。

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2023年10月9日 

わたしが初めてトマールのテンプル騎士団修道院(敢えてこの名称を使いたい)を訪れたのは2007年、当時はテンプル騎士団の歴史を独学し始めた時期で、この修道院内に散りばめられているたくさんのシンボルを見落としていました。

12世紀にテンプル騎士団が建てた修道院の円堂もしくは聖堂。外見は16角形、内部は8角形になっています。ポルトガルテンプル騎士団初代マスター(総長)グァルディン・パイスが1160年に建てた。聖堂は、エルサレム神殿の丘に建つ「岩のドーム」をモデルにしたと言われます。

トマール・キリスト騎士団修道院

テンプル騎士団修道院外部のあちこちで見かける石球の意味するところはまだ不明ですが、古いエルサレムの絵にも見られます。
神殿絵
写真はwellcome images サイトより。
        
ポルトガル語で「charola(シャローラ)と呼ばれるテンプル騎士団聖堂に入ってみましょう。

画像①2007年撮影
テンプル聖堂4
 
2007年訪問時にはまだ修繕がされておらず、色彩が色褪せていました。それでも過去の聖堂の豪華絢爛さが十分にうかがわれます。この静寂さにこの豪華絢爛さのミスマッチは不思議な雰囲気でした。

今日の聖堂です。

charola.jpg

色彩も鮮やかで、旧約聖書で語られる色々なシンボルがよく分かりそうです。

下は聖堂から即、外部へつながる聖堂横の扉。いにしえの騎士たちは馬上姿のままこの門から聖堂に入り祈りを捧げて戦場へ赴いたと言います。テンプル騎士は決して降伏しないことを誓う士気高い騎士でした。

Seidou-tobira.jpg

遥かな時の流れを経たとは言え、彼らのの大いなるロマンを感じずにはおられません。

聖堂中心部にあったキリストの十字架の下に置かれていた石の台。台の中央にはくぼみがありました。ここは騎士団参入の洗礼堂でもあるかと想像しています。

トマールキリスト騎士団修道院

実は、この石の台が修繕が始められた4年後、2度目(2011年)に訪れた時には取り払われていたのです。上にあげた画像①と②と比べてみると、画像①(2007年撮影)にはあるが画像②(2011年撮影)には写っていない。

2011年の訪問で既になかったのに気がついたのですが、聖堂の修繕で破損を回避するために他へ移動されたと推測していました。が、中心内部の修繕は終わったというのに、見かけない。こはいかに?

次は聖堂内部の絵に見られるシンボルについて書いてみます。
ではまた。

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2023年10月8日 

たまたまポルトガルのネットニュースでこの記事が目に飛び込んできたのでメモの一環としてブログに記録して置こうと思う。

今年11月にエルサルバドールで開催されるミス・ユニバース世界大会に、ポルトガル代表として10月5日に選出されたのはトランスジェンダー女性、Marina Machete 28歳だ。客室乗務員の経験があり、現在はモデルとのこと。

ポルトガルでは初めてのトランス女性、ミス・ポルトガルだが、トランス女性ミスは3人目だと言う。一人目は2018年のスペイン代表、二人目が今年7月に選ばれたオランダ代表。で、今のところ、今年のミス・ユニバース大会には少なくとも二人のトランス女性が参加することになる。

いつの日か、ミス・ユニバース出場者が全員トランス女性ということもあるかも知れない。女性美のコンテストにわたしは大して興味がないので、世の中が望むのであればそれはそれでよしとしようと思う。

興味がある方は、上の名前をググると画像が見られる。
本日は短い投稿にて失礼。
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2023年10月6日 

車の運転など、若い時は考えが及びもしなかったのだが、ポルトガルで子供達の学校の送迎にどうしても必要になり、日本への帰国中に自動車学校に通い運転免許を取ったのは40も半ばであったかと思う。

車の運転が怖くてハラハラドキドキの毎日だったが、意地の悪い教官に当たった日など「止めてやろうか!」と何度思ったことだろう。ひたすら子供の教育のために我慢だと教官の皮肉やイケズに辛抱し、なんとか免許を取得したときは「快哉」の感で、フン!であった。

日本で車を運転したことは試験の時を最後に一度もない。ポルトガルでの運転は運転席が反対だから、下手に日本での運転に慣れてしまったら運動神経がさほど良くないわたしだ、さぁ、これからは左運転だとなったら混乱していたであろう。却ってそれでよかったかもしれない。

ポルトガル人の運転は荒いとこちらに滞在する日本の人たちがよく口にしていたが、それも運転しない人には分からぬことで、自分が運転してみて始めてその怖さを知ったものである。もしかしたら、今ではわたしも、運転が荒い一人に入っているやも知れない。

子供達の学校送迎の必要に迫られ嫌々取得した運転免許ではあったが、それがその後ずっと役立っている。ポルトにもメトロはあるが、東京や大阪のように網目のごとく張り巡らされているわけではない。車がなければおいそれと買い物もできず、しょっちゅう夫に頼らなければならない。車を運転することによって行動範囲が広がり、何らかの活動もし易くなったのは事実である。そそっかしいわたしのことなので、危なっかしいところもあるが、車を運転するときは傲慢になるまいと心に決めている。

その運転免許だが、かつて我がモイケル娘も日本で挑戦したのであった。当時の彼女のブログ報告を読んで大笑いしながら、自分の遠い昔の体験を思い出したものだ。

ポルトガルは多くがマニュアル車ゆえ、夫の忠告で彼女は「マニュアル」運転を習ったのだが、運動神経に関しては多分母親に似ていると思われるので、さぞかし四苦八苦したことだろう。

以下、わたしが大笑いしたモイケル娘の文を引用したい。

モイケル娘の「新たなる挑戦」

私は失敗をする事で学ぶ人間である。

要領は悪く呑み込みが遅い。というかペースが遅い。しかし頭は悪くないと思っている。
つまり失敗さえさせてくれればいいのである。

とバカ正直に就職の面接で言ってみたいものだ。たぶん落ちるけど。

さて、実は最近夏休みに入って自動車教習所に通いだした。関東に住んでいる限り、車を運転する事はほとんどないだろうが、社会人になってから取るのも大変そうだし、海外生活という無根拠な可能性も視野に入れて(夢はいつでも大きい方がいい( ̄▽ ̄))、免許が取れるようになった年から約10年、ようやく重い腰を上げることにした。

ほんで、娘の運動(無)能力も知らずに、ポルトガルはまだマニュアル車が多いからマニュアルで取れという父に従い、昨日はシミュレーションで人生初めての運転を経験したのである。

運転席のシートあたりから聞こえてくるガイダンスの声と目の前の画面に従いながらあれこれと操作をしていくのだが、しょっぱなからうまく行かなくて、「まあいいや」と諦めて運転を開始しようとした所で教員が慌てて駆けつけてきた。

そりゃそうだろう。これから映画でも観るのかってぐらいシートが後ろに倒れてんだから。
運転以前の問題である。

その後もハンドルを回す練習で「なんか違う」と言われ、「なんとかを引く」の「引く」の意味が分からず(これは日本語の問題だねw)見当違いな操作をし、左ウィンカーをいくら押しても出てこないと思ったらワイパースイッチを押していた、となかなかの苦戦っぷり。

一旦休憩を挟んだ際に技能マニュアルを懸命に読む迷える子羊を憐れに思ったのか、「今やっているのはこことここ」とわざわざ声をかけてくれた。

そしていよいよ運転操作に突入!
はい、ブレーキ踏みます!
クラッチ踏みます!
チェンジレバーはローにー
ハンドブレーキ下ろしてー
アクセル踏んでー クラッチ上げる。

次停止!
ブレーキ踏んでスピード緩めてー
はいクラッチ、え、クラッチ?ブレーキは?あたふた『エンストしました☆』

・・・・・

【加速】
アクセル離して クラッチ踏んで チェンジレバー
アクセル離して チェンジレバー、あ、クラッチ忘れた
【減速】
アクセル離して ブレーキ踏んで、クラッチ、早く、クラッチ『エンストしました☆』
(#`皿´)あ;えrlkj;とhrsろいhrちh
【カーブ】
ハンドル回してー ブーーーン(のほほん)
お、お、ガードレールにぶつかるぶつかる回して回してーー
教官「それ反対車線です(ボソッ)」
わかっとるわいい~~~!!

キーンコーンカーンコーン『まもなく教習は終了します』

ぜー、ぜー・・・ぜ、前途多難だぜ(((((= ̄ ェ  ̄;=)


ついでに言えば、モイケル娘、なんとかマニュアル運転免許、取れましたっけ

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2023年10月5日 

Oちゃん、久しぶり!新コースの準備、進んでる?と、エラそうに先輩風吹かせて、相棒のOちゃんにメッセを送ったところ、「全然気分が乗らなくて全く進んでないです~」と返信が来た。

あら?Oちゃん、空の巣症候群だなと即思った。成長した子供たちが巣立って、巣、つまり家の中が空っぽになったような喪失感をいうのだ。

この秋から、Oちゃんの息子君もお姉さん同様リスボンの大学に籍を置くことになった。リスボンんで姉弟の共同生活が始まったのである。今迄4人家族でワイワイやっていた家が、一人去りまた一人去り、結局夫婦二人になってしまったというわけだ。わたしは既にそれを経験しているのでOちゃんの喪失感が手に取るように分かる。
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Oちゃんとわたしの間には親子ほどの年齢差があるが、2010年に開催されたポルト市と東京の国際親善協会共催の大イベント「Japan Week」のコーディネーターを無理矢理頼まれ、結局引き受ける羽目になったのだが、その時に、若いOちゃんをいっしょにイベント準備をしないかと誘ったのが付き合いのきっかけである。イベント準備は1年間続いた。しんどかったな・・・
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日本文化展示会

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影絵「百万回生きたねこ」

わたしは粗忽物でよく失敗をやらかすが、Oちゃんは若いのにしっかりしている。その彼女も時にわたしがするようなそそっかしさがあったりして、性格は違うがどことなく波長が合うのだろう、いつの間にか日本文化展示会や影絵創作、上映の手伝いに引っ張り出すことになった。しまいには、YY日本語塾にも及び、今日まで続いてきた付き合いである。

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YY日本語塾。対面授業もコロナ禍で中止

「日本語を話す会パーティー」
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年に一度の全生徒集合のパーティーはわたしたちの手作り食品。しんどかったけど楽しかった。コロナ禍で中止。

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子どもが巣立って行くのは嬉しいような寂しいような。一時期、わたしももぬけの殻だった。夫と二人きりになってしまった頃、こんなことをつぶやいている。

『子育てが済んだらその時間であれができよう、これができよう。飼っている4匹のネコたちがいなかったら、朝一番、眠気まなこでトイレの砂を片付けんで済むし、さらに日本語教室で生徒が家に出入りするので、匂いを消すために日中しょっちゅうトイレの砂をさらわんですむ。(我が家では人間のトイレは二つ、ネコトイレは三つ置いてある。)えさ代だってバカにはなりません。

そう考えることは度々あった。もちろん、これで親としての役割が終わりだとは思っていないけれども、多分一区切りついたとは言えるでしょう。後は送金の大きな問題が残るが(笑)

さぁ、あれもできるし、これもできるぞ!好きなことをして充実した時間を持とう!人生はこれからだ!ところがですね、なんと言いましょうか・・・そう行かないんですよね。

もう、毎日昼ごはんを食べに学校から戻ってくる子がいないし、昼食をつくる手間がはぶけ、洗濯アイロンかけも夫婦二人分は知れている。部屋も子供たちの二部屋はしょっちゅう掃除する必要もないので時間は十分あるはず。それなのに、なぜか家の中をウロウロばかりしている。いったいどこが充実しているのだ?


と。我がモイケル娘が日本へ旅立った後は、わたしは目も当てられない状態だったと思う。何しろ周囲には「一卵性母子」と言われたくらいだったから。ため息ばかりついて娘の部屋を眺めては涙ぐんだりしていた。息子はその当時、まだリスボン住まいだったので、親孝行にも月に2度ほど週末に帰って来てくれたものだ。

それで、少しでも寂しさをまぎらわせようと、わたしは日本語学習希望者を積極的に受けるようになったし、「デジカメ一人探検隊」と称しポルトの街を散策してはデジカメでパシャリ。スポットスポットの歴史が知りたくてポルトガル語の独学も始めたと言う次第。

ついでに言えば、ポルトの街案内をブログでし始めたことで、某小冊子のライターにスカウトされ、これまでにない経験を10年以上させてもらった。

Oちゃん、大丈夫。今の空の巣症候群は消えるよ。それに、娘ちゃんも息子君も、思い立ったら車、電車3時間ほどでリスボンだわさ。いつでも会える!これが日本となるとなぁ・・・遠過ぎるんだわ、お金がかかり過ぎるんだわ。

そのOちゃんは、寂しさを紛らわすためか、日本に飛び立って3週間ほど後に帰って来る。そんなわけで、彼女が担当の日本語初級コースは11月開講と相成った。個人塾だからできることではあ~る。英気を養ってきてください。

ではまた。

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2023年10月4日 

先日、ポルトガルのニュースでトマール市にあるテンプル騎士団修道院(これは旧称だが、歴史のいきさつがあり現在はキリスト騎士団修道院が正式名)のマヌエル建築様式の大窓(Janela de Capìtulo)を洗い終わり一般公開するというのを聞いて、ぎょえ!と思うと同時にがっかりしてしまった。
下はわたしが知っていたかつてのマヌエル建築様式の大窓。ぼ~っと見てるだけでは気づかないたくさんのシンボルが含まれているのである。

Janela_do_Capítulo_2_1

この大窓に憑りつかれてわたしは何度もトマールに足を運んでいる。拙ブログ、左欄のカテゴリ「spacesis、謎を追う」でもテンプル騎士団記事は多くつづっており、某会員用の小冊子でもわたしは3度ほど取り上げて書いている。

ポルトガル語を学ぶことになかなか興味を示さなかったわたしが、修道院の歴史と建物全体に示されている謎を少しでも知りたいがため、独学でポルトガル語を勉強し始めたきっかけでもある。もっとも、もともとのきっかけはというと、「ダビンチ・コード」ではあったが。

ダビンチ・コードでテンプル騎士団を初めて知り大いに興味を惹かれ日本から色々本を取り寄せていたところが、ん?ポルトガルの独立歴史にも関係してくるんだと?と言うことを知り、シンボルコードやグノーシス主義まで探るにいたった。
その我が愛するドン・マヌエルの大窓がなんとまぁ、こんなことに~~。

Janela_2023_1_1.jpg

しっかり白くなって、何と言うか、石そのものが持つであろうそして重厚さ、歴史の重さが感じられなくなった・・・ファンのわたしからすると、これは冒涜のようなものであって・・・・なぁんでこんなことになってしまったん?なのであ~る。

そこで、今回から時々ではあるが、トマールのテンプル騎士団修道院の大窓を中心に再度このテーマを取り上げてみようと思う。本日はテンプル騎士団修道院の紹介にて。

 テンプル騎士団(聖堂騎士団)について
              
聖堂騎士団(テンプル騎士団)にまつわる話はその結成から終焉に至るまでミステリーに満ちている。

聖堂騎士団は西欧中世期に於ける宗教三大騎士団の一つであり、正式名を「キリストの清貧騎士団・ソロモン神殿の騎士団」(The Knights of theTemple ・the Poor Soldiers of the Temple) と称される宗教的軍事的団体です。(註:Templeとは古代エルサレムにソロモン王が建設し、後に破壊された神殿のこと)

2020_solomontemple1.jpg
ソロモン神殿画像の一例。神殿正面の二本の柱は右がヤキン、左はボアズと呼ばれ、フリーメーソンのシンボルでもあります。

12世紀の初めにフランス人ベルナール・クレヴォー(後の聖ベルナール。シトー会クレヴォー修道院の創立者。)により任命を受けたユーグ・ド・パイヤンをグランド・マスターとする9人(11人と言う説もある)からなるこの騎士団が後に聖堂騎士団として知られるようになります。

表向きは聖地エルサレムへの巡礼路警護としていましたが、彼らの行動はその目的から逸脱しており、専ら彼らがしたことは、ソロモン神殿の跡地に宿営して、9年近くもの時間を神殿の丘の地下発掘に費やしたことだと言われます。
 
生涯独身であることを強いられた聖堂騎士団は、やがてフランスのプロヴァンスを始め、シャンパーニュ、イングランド、トスカーナ(イタリア)、更にアラゴン、ガリシア(スペイン)、スコットランド、ノルマンディ、ポルトガルが騎士団勢力の主だった中心地となり、騎士団に寄進された彼らの不動産はバルト海から地中海、大西洋岸から聖地にまで及ぶ広大なものでした。

しかし、聖堂騎士団が大きな城を所有できたのは、アラブ人との戦い(アラブ人からの国土奪回戦争=レコンキスタ運動)の中にあったスペイン、ポルトガルに限られていました。トマールの「テンプル騎士団修道院」がそのひとつで、ポルトガルに於ける騎士団の総本部でした。

ポルトガルの歴史で「テンプル騎士団」の名前が言及されるのは、ポルトガルがまだ独立国として建国されておらず、「ポルトカレンス」と呼ばれていたスペイン・レオン王国の領地だった1120年代のことです。

当時ポルトカレンスは、領主亡き後で、後にポルトガル建国初代王となる「ドン・アフォンソ・エンリケス」(D.AfonsoHenriques)王子の母、ドナ・テレザが統治していました。

1120年代のとある日、ドナ・テレザは、徐々に騎士修道会として頭角を現してきたフランスのテンプル騎士団初代グランドマスター(総長)「ユーグ・ド・パイアン」から、「ポルトカレンスでのテンプル騎士団居留地の提供依頼」の書状を受け取ります。

イベリア半島は、レコンキスタ運動と称して(レコンキスタ=国土を再び征服する)イスラム教徒からの国土奪回戦争がこの時まで既に400年近くも展開されており、ドナ・テレザはこの要請に応じて、中部、現在のコインブラ近くのSoureに駐屯地を与えたことから、ポルトガル・テンプル騎士団の歴史が始まることになります。
 
テンプル騎士団の総長、グランドマスターは終身制、各国にはマスター(管区長)が置かれ、ポルトガル初代のマスターは、トマールの銅像に見られるように「Guardim Pais(グァルディン・パイス)」です。

GualdimPais.jpg

テンプル・キリスト騎士団修道院は12世紀の初期テンプル騎士団時代から16世紀まで4世紀を経て増築され、ロマネスク建築、ゴチック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築の不思議な併合は訪れる人を飽きさせないでしょう。


ではまた。

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