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2023年8月29日

わたしにとって中世時代の建築物を見る楽しみのひとつは、「こんなものがどうして?」と思われる彫り物や絵を発見することです。これらは造り手である建築家や依頼主の思想を表すシンボルであり、建築物は彼らの哲学を書いた一冊の本であると信じるからです。

ローマ・カトリックから異端と断じられたテンプル騎士団による建築物には、キリスト教がらみの多くの宗教画を目にしますが、よく探してみると気づかぬ箇所にたくさんの異端のシンボルが散りばめられています。

キリスト教を禁じたという歴史があるものの、日本人は宗教に非常に寛大だとわたしは思っています。なにしろ、一つ屋根の下に神棚と仏壇があるのが当然であった国です。それに比べ、ヨーロッパはキリスト教一色に染められ、政治的道徳的にもキリスト教信者にあらずば人にあらずと、異端審問所が設けらるなど異端者に対する迫害は残酷なものでした。

素晴らしい哲学者、思想家や芸術家たちが盲滅法に時のキリスト教を受け入れることはなかったとは、わたしの推測するところです。ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエルなどの著名な芸術家たちがキリスト教徒を隠れ蓑にし、バチカンに気づかれないように知恵を絞って彼らの思想を作品に織り込んだことは、現代のわたしたちが知るところです。これは一国の王にも言えるのではないか。今も昔も、どんな宗教も主義も私たちの考える自由を抑えることはできないということです。そんなことを思いながらジェロニモス修道院内のサンタマリア教会に、とある探し物の目的があって入りました。

ジェロニモス修道院

かつてポルトガルのお城、教会の写真集の中で、「バターリャ修道院内にあるトウモロコシ。当時トウモロコシはまだヨーロッパに伝わっていなかったのになぜ?」とのキャプションを見て大いに気に入り、是非これを探してみようと思っていたのでした。

一つはバターリャ修道院の屋根のない、「未完の礼拝堂」で見つけています↓

Batalha

トウモロコシがヨーロッパにもたされたのは、1492年、コロンブスによって。バターリャ修道院の建築が始まったのが1386年。その頃はまだ大航海時代は始まっていないわけです。

しかし、バターリャ修道院が完成を見たのは1517年、120年も後です。更に、「未完の礼拝堂」は名の通り建築が終えられなかった、つまりここが最後に取り掛かった建築部分と言えます。ですから、礼拝堂の建築に及んでいたころは既にトウモロコシはヨーロッパに持ち込まれていたとなります。礼拝堂が未完になったのには諸説がありますが、そのひとつはジェロニモス修道院建築に取り掛かるため、建築家の総動員が行われたというものです。

さて、このバターリャのトウモロコシよりももっと面白い彫り物がジェロニモス修道院にあるという話を目にしたのは随分前のことです。それが、「トウモロコシを掴んだ手」です。

見つけましたんですよ^^ 下記の画像です。

ジェロニモス修道院

内部は暗かったので画像があまりよくありませんが、トウモロコシをしっかり掴んだ手です。

トウモロコシは紀元前5000年頃にはアメリカ大陸で主要農産物になっており、マヤ、アステカ、インカでも広く栽培されていたと言われます。アメリカ大陸のインディオの間では創造主からの賜物だと信じられていますが、トウモロコシの起源は不明。

トウモロコシは富と子孫繁栄のシンボルです。このトウモロコシをしかと握った手と言うのは果たして「幸運王」の別称を冠し、ポルトガル大航海時代の富を一手にして、マヌエル建築様式まで創り出し、テンプル騎士団修道院、ジェロニモス修道院などの素晴らしい建築を後世に残した「ドン・・マヌエル1世」の手なのでしょうか。

う~ん、シンボルは面白い!え?教会のどこにあるかって?それを探してみるのも面白いと思いますよん。教会内のどこかにありまっす!

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2023年8月28日 

boanova_1.jpg
太西洋の日没

まだ暑い日があると思うが、窓を開け放して置くと日中でも風のあまりの涼しさに長袖を引っ掛けたりするここ数日、ゆえに三日ほど前、エアコンの水漏れに焦ったが今のところ使う必要に迫られていない。 夏は去ろうとしている。

二日前に重い夢を見た。寝覚めが悪く、ひとつ気になっていた事があったのでひょっとしてと思い親友にメッセージを入れた。しばらく時間が経ってからの短い返信に「あっ!」と思わず自分の体から鋭い声が出た。

わたしは以前にも似たような経験があるのだ。二昔前のことになろうか、当時ポルトではたったひとつの日本企業の駐在員一家とよく家族同士行き来していた。子供同士が同年代だったことと10年ほどポルトに駐在していたのとで、一家が日本に帰国した後も手紙のやりとりが頻繁にあった。日本の子供向け番組を録画してビデオカセットも度々送ってくれたもので、これは我が子たちの日本語教育に大いに影響したと思う。

夏休みを利用して子どもたちと帰国した時は、お宅にお邪魔し一泊したこともある。やがて、子どもたちの成長に連れてわたしの生活も年々忙しくなり、あちらはあちらで子供さんたちの受験等で日々を追われるようになったようで、いつの間にか音信が途絶えてしまった。

ある日、どういう虫の報せか、わたしは思いついてこれまでしたことがなかった国際電話をかけたのである。応答した知人の声は重く「今、夫のお通夜なんです」との言葉に耳に当てていた受話器を取り落としそうになったものだ。突如電話をしたのは、ご主人がかなりのお酒好きの方で、とくにポルトガルワインを好んでいたので、それを送るのに住所確認をするためであった。ああ、間に合わなかった。せめてご仏前にとワインを送ったのは後日である。

今回亡くなられたのは親友の夫ではないが家族の一員で、この1年ほど急性白血病のため入退院を繰り返していたそうだ。骨髄移植をしても厳しい病気だと言われるが、希望をもっていたであろう。親友や家族の落胆を、悲しみを思うと慰めの言葉も出てこない。

すると、弘前の同窓生などが急に気になりだした。2019年に会ったのを最後にコロナ禍で帰国がままならず、昨秋2022年の帰国では自分がコロナにかかって、弘前どころか都内の友人たちにも再会叶わずであった。あああ、しまった!誰ともLINEで繋がってなかった、トホホホ。メールをと思ったが、パソコンすら開くことがないかもしれない。この古い固定電話番号、今でも通じるだろうか、神さま!との思いで故郷の友に国際電話のダイヤルを回した。

応答あり、長い無沙汰をお互い詫びて、コロナ禍以来、同窓会もなし。あの人が、この人が鬼籍に入ったと耳にしては、いつそうなっても不思議はない年齢になったのだと再認識したのであった。人の死が我が身につまされる昨今のわたしではある。

いつか死のありて今日ある夏の果て    佐藤希世

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2023年8月26日 

「来る時、危うく飛行機に乗り遅れるとこだった」と帰省した東京息子が言う。スーツケースとリュックを持って電車で羽田空港へ向かったのだが、車内の網棚にリュックを乗せたまま、電車を降りてしまったのだそうだ。すぐにハッと気がついたのだが、後の祭り^^;

わたしも日本で荷物が多い時、つい電車の網棚の乗せたい誘惑にかられるが、絶対乗せない。何が起こるか結果が目に見えているからである。

パスポート、財布、飛行機の切符等、それらなしではチェックインできない物一式が入ったリュックを乗せて電車はいっちっち、だ。 側にいた駅員さんのすばやい行動で盗まれることもなくすぐ手元に戻り、なんとか飛行機に乗り遅れずに済んだと言う。彼にとってはストレスの多い日本社会、こういう点は日本は素晴らしいよ、とのたまっておる。

いくつになってもそこつ者め、と心中つぶやいて、はて?どこかで聞いた風?と思ったら、自分のことであったわいな、あははは。

この話を聞いて、今から15年ほど前の親子3人で出かけた日光旅行を思い出した。題して「助さん格さん連れて日光江戸村へ」。以下。

2009年9月29日(火)

日光江戸村7
日光江戸村入場券こと「通行手形」
日本に着いた時は時差ボケがたった一日で抜け、翌日からせっせと予定の行動開始に入っていたのですが、ポルトに帰るや、これがなかなか抜けきらないのが毎回のこと。

明け方3時4時に起き上がり、眠れない、いや眠いとふらふら幽霊のごとき風体で家の中をさまよっており、まだ周囲に目を向けることができない頭脳状態が正直なところです。

ポルトガルと日本の時差は目下のところ8時間ですが、日本は8時間先に行っているので、日本へ向けて飛行するのは未来に向けて飛ぶということですね。逆に、日本からヨーロッパへは過去に向かって飛行することになります。未来に向けて飛び立つ
のと、過去に引き返すのは、思考的観点からして違いますものね。
行きと帰りの疲れはこの辺にあるのかな?ふとそう思ったりしますが、それともこういう違いはわたしだけかしら?

閑話休題、トピックの「黄門さま、助さん格さん連れて日光へ」。帰国する前に夫が「母子三人でどこか旅行しなさい」と一泊旅行のプレゼントをもらい、自費では子供たち、恐らく行けまいと候補地に京都をあげてみたのですが、どうも時間的経費的に厳しい。

一泊旅行なら関東に限るというので、自分がまだ行ったことのない日光東照宮をあげてみた。
しかし、日本歴史に疎い我が子たち、これだけでは面白がらないだろうと、日光江戸村をコースに入れて見ました。大の大人3人が、わたしの日本滞在中に「江戸村」を楽しんで参り
ました。

日光江戸村5
↑お供の助さん格さん(笑)ですが、お調子者の助さんこと我が息子、北千住から特急スペーシア列車内ではず~っと格さんをからかい続け、格さんいい加減うんざり顔でふくれておりました。

さて、江戸村アクセスとなる、降りたのはわたしたちだけの小さな新高徳駅で下車と相成り、改札口を出ようかの段、助さん息子、突然「あっ!」と声あげ、「いけね、切符がねぇ!」と今降りたばかりの向こうホームの電車めがけて、階段上って突っ走る。

「いつものおふざけだね、ったく。」と言う女黄門さまに、格さん言う。
「いや、あれは本物だ。必死で走ってるもの」・・・・

あぁぁ、しかし、公共交通機関時刻も含め何事も「まぁ、いいではないか」のポルトガルと違い、非情なるは発進する日本の電車(笑)、助さん後に残し行ってしまった。

すごすごと引き返してくる助さん息子に、女黄門さま、
「おアホ。だいたいがいい歳して、昔と変わらず、妹をからかって
喜んでおるから、こういうことになる!」

で、無いのは切符だけかと問いただすと、「切符と財布とケータイっす・・・」財布の中には、健康保険証等がが入っていたと言う。こうなると、「おアホ」が「どアホ」になりますって^^;

横で一部始終を見ていた改札口の駅員さん、わたしの切符から指定座席番号を書きとめ、即、たった今発進した列車に電話連絡。しばらくして、「ありましたよ。落ちてたそうです。申し訳ないですが、終着駅まで受け取りに行ってください。」
・・・・・・・・・・・

てな訳で、行く予定もなかった「鬼怒川温泉駅」まで行く羽目に!

子供たちが小学生の頃は、長い夏休みには車で随分あちこちを家族旅行したものです。ポルトガル国内はもちろんのこと、マドリッド、バルセロナ、サンタンデール、アンドラ王国からピレネー山脈を超えてフランス、果ては、ジュネーブと、ヨーロッパは陸続きとは言え、今振り返ればまったくよくできたものだと思いますが、それらの道中、車の後座席で、モイケル娘をからかう息子の度が過ぎるのに、「こら!いい加減におし!」と、幾度車を急停止したことだろう・・・

あの頃と変わらぬ成長のない助さん息子には、女黄門様も叱るのを忘れ苦笑の至り。
どなたか、しっかりした日本のお嬢さん、紹介してくれないかしら。ん^^;

以下、日光江戸村の写真を一部、ご紹介。

日光江戸村2
江戸村入り口。

日光江戸村2
入り口で控えるお侍。カメラを向けたらポーズをとってくれ、手に持つ脇差を「持ってご覧」と言ってくれました。刀というのは、結構重い。

日光江戸村6
江戸村内。

日光江戸村3
旅籠(はたご=昔の宿)の前で。助さん、ここでもおふざけ顔^^;


今回も前回もハプニングのパターンが同じのに呆れてしまうわ(笑)の、母であります。

日光江戸村の様子はこちらでも案内しています。

https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-2505.html

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2023年8月25日 

placioCristal.jpg
ポルト、クリスタル宮殿公園。写真は記事に関係ありません。

湿気の多い日本の酷暑を耳にしては、7月中ずっと最高気温が24、5度のポルトって、暑さにはまったく意気地なしのわたし、農作物が気になるもののいいではないかねぇと思っていたら、今週火水木は気温が40度近くに上がると聞かされ、うは!と覚悟を決めたのであった。

でもまぁ、外へ出ると言えば食糧買い出しくらいだし、とにかくエアコンがあるので大丈夫だよと高をくくっていた所、水曜日の夕方、台所で晩御飯を作っていたら、「お~い、ゆうこさん」と夫がリビングから呼ぶ。こういう時はいいことではないのであ~る。

「なんでっかぁ?」と顔を出してみると、「見て。エアコンから水漏れだ」 えーーー!
ちょっとちょっと!翌日の(つまり昨日)昼前には東京息子が3週間の滞在で帰国してくるんだった!こっちは涼しいよん涼しいよんとさんざん言っておいて、着いてみたら「おっかさん、どこが涼しいねん」とやられそうだ。

とにかく見てもらおうと夫がいつも依頼するところに電話してみると、今週はできない、んで、来週から夏休みに入るからポルトにおらん」との返事。こんな時に壊れるか、エアコン!となじってみても仕方あるまい。その日の夜は思ったほど暑くなかったので助かった。

そして、昨日、木曜日、息子は無事到着し、気温も予測を外れて外で多分27、8度であったろう。日本の様に湿気がなく乾燥気候なのでこれくらいの気温はわたしでもなんとかやり過ごせる。、朝起きてすぐ窓やベランダへのブラインダーを上げて日光を入れるのが普段だが、暑い日はほんの少ししか上げない。強い日差しを室内に入れないのである。窓も熱気を入れこまないために閉めておく。すると意外や涼しいのだ。これは夫の母の家に同居したときに学んだ知恵である。

ポルトガルに来た当時の昔、わたしはこれが嫌いだった。若さは太陽を好むものだ。朝から薄暗い屋内に不服であったが、自分の家ではないので従ったが、夫とわたしの部屋は別だ(笑)

周囲に目を向けてむると、朝はともかく夏の日中はどこもかしこも窓と言う窓は人がいないかのように真っ白いブラインダーが下りていたものだ。この頃は、エアコンはおろか、扇風機もないのが一般的であった。昔の人々はこうした知恵を働かして暑い夏をやり過ごしたのである。もちろん、これは乾燥気候地での方法であって、湿気の多い日本の夏には窓を閉め切るなど向かないであろう。

空港から家に着いた息子曰く、「空気が乾燥してるから、これくらいの暑さは大丈夫だよ。日本はとにかく蒸し暑い。んで、休みの日はエアコンを一日中つけることになるから、電気代が凄いんだ」

水漏れするエアコンは、基本的には気をつければ使えると言われた。ならばどうしても暑くて我慢できないときにはそうしよう、また寝室のエアコンをオンにしてその冷たい空気を少しでも フラット中に流してもらおうと思っている。幸い、日本語教室は水曜日をもって全て終了し10日ほどの休みに入ったところだし。

んで、金曜日今朝の気温は22度。助かった!
息子よ、お帰り~。なんのこっちゃ(笑)

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2023年8月23日 

友人のマリアさんがメールでリンクを送って来た。珍しいなと思いながら開いてみると、ウ-ゴさんのドイツでのピアノリサイタルの映像だった。ウ-ゴさんはマリアさんの孫でここ数年ドイツにピアノ留学をしているのだが、その彼のマスターズリサイタルの動画であった。

ウ-ゴさんがポルトのConservatório(音楽学校)のピアノ科を首席で卒業した際に催されたCasa da Musicaでのコンサートに招待されて聴きにいったことがある。細身で背の高いとても繊細そうな若者のイメージがある。このまま留学を続け更なる勉学に励むと言う。

マリアさん自身も幼い頃からピアノの先生だった母上の手引きでピアノを弾いていたと聞く。ピアノを教えるときの母上はとても厳しかったそうで、ピアノの前に座ると緊張で手が震えたものだと言っていた。それで、日本語学習で対面授業の頃、「じゃ、読んでください」とわたしに言われると子供の頃を思い出し、朗読の練習をしてきたのに緊張してしまいドジるのだそうだ(笑)

84歳で今も太極拳やフェンシングを習っているボーイッシュな彼女が、時々ピアノを弾くのだと。ピアノに向かっている姿を想像するとその意外性にわたしは「うふっ」となる。

母上がピアノの先生、彼女の一人娘はクラシックギタリストで同じくギタリストと結婚、その二人の子供(マリアさんの孫)の一人がピアニストに、孫娘もまたバイオリンでドイツに留学中。まさに音楽一家である。音楽の才能は三代にして花咲くとどこかで耳にしたことがあるが、そのケースだ。

我が家の三代にして花咲く才能は果たしてありやなしや?と孫のソラ坊に思いを馳せる。

上述したウーゴさんの1部2部と1時間ほどのリサイタルだが、Youtubeにあるので興味のある方は下記までどぞ。

https://youtu.be/M5bRo7QjhIk
https://youtu.be/TC_M1YFHARo  


ではまた。

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2023年8月20日 

まだ週日の日本語個人授業のいくつかは続くが、金土日の週末のグループ授業は3週間の夏休みに入った。

今年はちょっと頑張ってみようと1月から7カ月少し、一回だけダウンして日曜日の授業をキャンセルしたことがあるが、週日週末休みなしの日本語教室を我ながらよくぞ欲張ってやってこられたと自賛(笑) 

9月から来春までの残る半年は気合を入れて行こう。とは言うものの、秋からの新コースは相棒のOちゃんに任せる。これまでの様に申込者が多くて2クラスになったとしてもわたしは持たないことにした。持たないどころか、今まで受け持って来た一クラスをOちゃんにお任せすることになったのであ~る。そんなわけで、しんどいしんどいと言いながらも日本語教室を退くのはまだ先の話だ。

してみると、昔、ポルト補習校で受け持った小5のアキラ君に、「Yuko先生は80歳になってもまだ先生してるよ、きっと」と言われたことがあるが、その年齢もあと4年だ。今は40代であろうアキラ君、君の予言はあたりそうだよ(笑)残念ながら補習校の先生ではないけどね。

毎日授業があると準備に追われ、生活のリズムに緊張感があるのが好きなのだが、やり過ぎはもう体力が追っつかないと自覚した今回、さぁ、休みだ!となると、ダレ~ッとしてしまいがち。このダレ~感がこれまた気に食わない、どうしようもな自分である。あははは。目下、好きな音楽を聞きながら日本語教材の整理や断捨離に精出している。ゆったりクラシックが聞けるのも休みの嬉しいところ。

さて、保護猫フジオ君が我が家に来て一か月半になる。先住猫ゴローの威嚇はひとまずおさまったが、まだ心を開いて受け入れるまではいっていないようだ。これまでは、しょっちゅう残してきた食べものをフジオ君に渡すまいとムキになって平らげているところが可愛いというか呆れたというか。

今から遡ること16年ほどの昔、自分もノラちゃんだったのを我が家の4匹ネコの中に受け入れてもらったのを忘れたんだろうな(笑)2006年の日記を引っ張り出して、ゴローよ、この証拠写真を見てごらん(笑)

2006年11月9日
下でひとしきりボヤイたあとで、さて、今日は久しぶりにネコ話^^一ヶ月ほど前に、わたしが拾った、痩せこけて雨に打たれほとんど死にかけていた子猫、覚えてらっしゃるでしょうか。

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2006年。拾われて我が家に来た当時。

我が家で五匹目なのと、サッカーのゴール、ポルトガル語ではgolo=ゴロにひっかけて名前はゴロー君になりました。1、2週間は四匹の先輩に「ヒャ!ヒャー!」と吹かれて寄せ付けられませんでしたが、やっとどうにか受け入れてもらえたようです。
最初は、牡ネコなのに変に女々しいところがあるクルルがよく面倒をみてくれました。

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しつけでわたしがゴロー君を叱ろうものなら「ぬぬ?なによなによ?」とでも言うかのように、高いところからでも降りて来てわたしのしつけの口出ししてクルル~(ダジャレです。笑)そして近頃。ほら、ご覧の通りでっかい中に混じり一匹だけちっこいのが乗っかってます^^

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5匹ネコがいた当時。一匹はどこかへ。

下はわたしの気に入りの「ゴンタとゴロー」の一枚。


gontagoro_1.jpg

長老だったゴンタは4年ほど前に寿命全う。いい親分だった。 フジオ君は性格が少し違うが見た目がゴンタに似ている。

fujio_Aug_2.jpg

近い将来、ゴローとフジオ君のツーショットが載せられることを願いながら。今日は、我が家の二匹ネコの話になりそうろう。こんな風に猫に思いを馳せられるのも休みで時間に余裕があるからだろう。

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2023年8月15日 

我が東京息子がリスボン大学で学ぶことになったミレニアムになるかならないかの年、ポルト補習校の日本人の友だちと二人してアパート探しに精出し、なんとか生活できるようになったというので、夫と二人、見に行った時のこと。

若者2人の住まいはポルトガルでCaveと呼ばれる地下室であった。薄暗くて湿気が多い。この家賃でこんなところ?と驚いたものだ。あの生活環境では体を壊すのではないかと気が気でならず、高い家賃に見合わない、頭金があればローンを組んでT1アパートを買った方がいいと思った。夫と話して少し改築された古いT1アパートを購入したのである。

リスボンのAvenida da Liberdade大通り脇の石段を上った昔からの通りにあって、メトロ駅はすぐだし石段の前にある細い通りには小さなスーパーや昔からの商店が林立していて立地条件はすこぶるよかった。

当時わたしたちはポルトのフラットのローンも抱えていたので経済的に大変だったのだが、ローンで毎月払える額の家賃をみすみす取られるのはイヤだとの結論に達したのだった。後年息子が日本で仕事をみつけたのを機に、そのT1アパートを売却したが、それでわたしたちは現在住んでいるフラットのローンが完済できた。当時は日本語の生徒も大して取っていなかったので、ひたすら夫が頑張ってくれたのである。

さて、一昨日の晩御飯時、テレビニュースでリスボンの家賃の高いことを取り上げていたのだが、話を聞いて目をむいた。なんとまぁ、T1がひと月2500ユーロ(低く見積もって35万円以上!)、ぎょえー!でしょ!

リスボンはヨーロッパの都市の中でダントツに家賃が高いのだと言う。リスボンっ子の平均賃金が1300ユーロ(今は円安なので約20万くらい?)だと言うのにだ。

高家賃の理由の大半はインバウンド客と外国人による不動産購入の増加だという。これはわたしがポルトの街へ出ても気づくのだが、いやはや、あちこちに「AL」マークのついた家々が増えたこと!ALとはポルトガル語の「Alojamento」を意味するが、要は普通のアパートを「宿泊施設」に提供したものが多い。いわゆる「民宿」である。

ツーリストが押し寄せるリスボン、ポルトでは、ダウンタウンに近い区域には数えきれないほどこの「AL」が見られる。ALにした方が貸すよりも儲かるので、これまでいた住人を追い出してでもというケースが多々出てきている。

ファドの街として知られるリスボンのアルファマ地区も昨今は家屋の60%がALと化していると聞く。「こんな状態の街へ来て、ツーリストたちはいったい何を見るんだ?」とは、わたしがポルトを見て日頃思っていることである。

もうひとつの理由は、ポルトガルが外国投資を呼び込む目的でこれまでゴールデンビザ制度をとってきたことである。ゴールデンビザを取得した裕福な外国人は原則的に居住権を購入でき、場合によっては国内に住む必要もないというものだ。

ポルトガルのゴールデンビザは、不動産購入などの投資と引き換えに欧州連合(EU)加盟国以外の国籍者にポルトガルの居住権を与え、その富裕層にEUシェンゲン圏内のビザなし渡航の権利を与えてきた。この富裕層とは、今、日本でも土地の爆買いをしている中国人が主だろうとわたしは思っている。

これらの外国人がAirbnbなどを利用してツーリストに提供するために、人気がある観光地で民家やアパートを買い上げているのだ。そのため、不動産価格が上昇し続けて地元住民が追い出され居住物件を探すのに市民が四苦八苦するという今日の状況を招いたのである。

ゴールデンビザ制度を取っている国には、ポルトガル、スペイン、マルタ、キプロス、ギリシャなどだが、EUが安全保障上のリスクやマネーロンダリング、脱税、テロ資金調達、汚職、組織犯罪の浸透を許すなど、EUの規範と相容れないと言う理由で抑制に動きだした。

政府への抗議の声も上がり、住宅危機の緩和施策としてポルトガルは2012年に開始されたこの制度を今年2023年春に新規発給の停止をしたのだが、こんな状況になるまで放置してきたのは遺憾であるよ。

中国に限らず、中東の資本による大規模な土地買い占めも広がっている。これに対して政府が購買不許可にするケースも世界では出てきている。我が母国日本も中国人に買われた不動産は、北海道だけでも静岡県の面積と同様だと聞く。その他、新潟、箱根、横浜などにもあると言う。

日本では事後の届け出のみが義務付けられているというゆるゆるさで、どの程度外国資本によって日本の土地が買われているか、正確な把握すらされていないのだそうだ。

国益を損なわないためにも、外国資本の土地の取得に対して早急な対策をとる必要があると思うのだが、諸政治家はどう考えているのだろうか。住宅危機で済まされたらいいのだが・・・

とまぁ、リスボンの住宅危機から最後は自国日本に思い馳せてしまう、本日終戦の日である。

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2023年8月14日

毎年のことだが、夏になると国内のあちこちで立ち起こる山林火災があります。ポルトガルに限らず、世界のあちこちで酷いことになっています。特に今年はハワイのマウイ島が甚大な被害を被っているようです。

毎年毎年よくもまぁ、と、わたしなどはハシタナクモも心中で舌打ちです。打つ手を、打てる手をなぜ国会で論じないのかと眉間にしわを寄せているのであります。水害も怖いが火は全てを嘗め尽くしていくので本当に恐ろしい。

日本語の個人授業の生徒さんにドイツ系ポルトガル人のアルフレッドさんという方がいます。ドイツとポルトガルに住まいを持ち、夏を含める1年の三分の2はポルトから車で1時間半ほどにある山荘に住みます。その間は一週間に一度、日本語授業のために山を下りて来る、今年で齢90歳になる生徒です。

日中はほとんどそこで自分の土地の掃除をしている。アルフレッドさんに、山の家は大丈夫かと問うてみたところ、今のところ彼の山の区域には被害が及んでいないとのこと。その時に、毎年夏場に起こるポルトガルの火災に話が及びました。

これは、以前に拙ブログで取り上げたことなのですが、ポルトガルは夏は雨が降らずかなりの乾燥気候ですから、この時期に入る前に農林省が山林の枯葉や枯れ枝を除いたり植林の空間に配慮したり等の山林の手入れをして置くなどして、自然発火を防ぐべく手を打つべきなのです。

また、山火事は毎年発生するとわかりきっているのですから、それに備えて消防員を増やし訓練する、消化剤を散布するためのヘリを国、地方自治が購入するなどの対策を積極的にとるべきなのです。国土消失は大きな環境破壊を招き、国力衰退にもつながります。予算を惜しんでなどおられへんで、ポルトガル!

加えて、昔から人の口にのぼっている話が、山火事は自然発火、失火もあるだろうが、放火によるものも多いとのこと。山が焼けることによって焼けた樹木の値段が暴落し叩き売りになります。買う方からして見るとダントツの安値で手に入ると言うことです。火事泥棒するがための雇い火付けだと我は呼ばん。本当に腹がたちます。

さて、件のアルフレッドさんに、何か火災予防策をとっているのかと聞きますと、そのために朝から夕方まで一日中、土地の掃除をしているのだそうです。そして、隣の土地との境界には木を植えず、空間を作るために空き地にするとのこと。そうすることで、火災が及ぶのを少しでも防げるのです。

ところが、隣人は空き地を見るとこれ幸いにと、自分たちの土地の境界線ぎりぎりにまで植樹するのだそうです。そして土地の掃除はしない。アルフレッドさんは、もしもの時のために少しでも自分の土地への火災防止をしようと、自分の手が届く隣人の土地の枯葉等を集めて掃除するとのこと。

それと、もうひとつ、彼がしていることには、さすがドイツ人だなぁとと感心しました。

実は火災ニュースの映像を見ていてわたしが「なんばしとっと!」と腹立つのが、延焼がいよいよと自分たちの土地にも及ぼうかと思われるのに、突っ立ってじっと向こうの火事を見ているのです。他人事じゃあれへんで!なんでホースを使って放水し、少しでも努力せんの!ホースがない?そんなの、山間に住んでいるならば、山火事は予測できることではないか。用意して当たり前である。人事ながら情けない。

アルフレッドさん曰く、自分の土地の周囲にはグルリと水道管のごときを巡らし、いざという時にはそこから消防署のホースをつなぎ放水できるようにと、つなぎ目も消防署のに合わせているのだそうです。もちろん、ご自分も消防署用のホースを予備として持っているとのこと。
その彼も今回は医者から足腰の問題で庭掃除などの労働を禁じられたそうで、人手を使うしかないらしい。

思うに、国は、地方自治体は、山間に家を造るときの条件として、隣家との境界線に空き地を置くこと、消火のための水道管を家屋の周囲に設けることを義務付けるべき。

以前Facebook上でこれまでの最高8年の放火罪を「25年にしろ!」との請願があったけど、あの運動は果たしてどうなったのだろうか。山林火事の大半が放火でもあると見て、人々が怒っているのです。

ドラマ「鬼平犯科帳」にもあるように、木材住宅が多い日本は昔から火付けは重罪とされており、ポルトガルの人々も恐れを抱き始めたのでしょうが、わたしからすれば、遅いんだよ!なのです。

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2023年8月7日 

以前、こんなことをブログにあげている

モイケル娘が送ってきた2歳の孫娘ソラちゃんの写真を目にし、いたく懐かしい思いにかられ、気に入りの一枚になった。
何が懐かしかったかと言うと縁側である。週末に親子3人で古民家が見学できる町を訪れてきたと言う。庭を目の前に、縁側に座った孫の姿の可愛らしいこと!この写真で幼い頃に住んだ祖母の家を思い出した。

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弘前下町の祖母の家に、母と二つ下の妹と私の母子3人が大家族の一員として住んでいた子供のころの思い出が縁側にある。父は地方競馬の騎手で家にいることがなかった時代だ。

縁側での鮮明な記憶は、祖母に首根っこをひっつかまれて、縁側に引き出され頭から水を浴びせられたことだ。何が原因でなったか覚えていないのだが、妹と取っ組み合いのような喧嘩をした時だったと思う。妹は小学校に上がったか上がっていなかったかの頃であろう。

わたしは祖母からすると初孫で、赤ん坊のころは祖母が背中でよくあやしてくれたらしい。6歳にもなるとワンパク娘でターザンの真似をしては梅の木から落ちて右腕の骨をおったり、自転車に乗せてもらっては車輪に足を取られてかかとがバックりあいたりと、その都度、近くの骨接ぎや医院に担いで連れて行ってくれたのは祖母であった。

写真の縁側は雨戸が見えるのだが、祖母の家の縁側は濡れ縁といって雨が降ると縁側が濡れるという類である。道理で頭から水をかけてもいいわけである。あはは。ばあちゃんは怒らない人だったので、これには懲りた。

「何が原因でなったか覚えていないのだが、妹と取っ組み合いのような喧嘩をした時だったと思う」
と書いてあるが、その原因が昨秋日本滞在中に解明されたのである!

昨年3年ぶりに帰国したのに、早速コロナに見舞われ滞在中の2か月は体調がすこぶる悪かった。おのずと外出も少なくなり妹宅にいることが多かったのだが、その折、ふと「縁側」の話から、「ばあちゃんに縁側で頭から水をぶっかけられた。なんでか全く覚えてない」との昔話に及んだのである。

「なんでだか、知ってる・・・」と妹が言うではないか!ぎょえ!覚えてるの?と相成った。
これがですね、言うも恥ずかし、幼心のやきもち沙汰だったんス(汗)

妹の話によると、彼女が小学校にあがる前、弘前市の子供絵のコンクールに応募して特賞をもらい、それが新聞に載ったのだそうな。妹は小さい頃から絵が上手でよく傍から褒められていた。わたしのエッセイ「思い出のアルバム」で「わたしのとなりのトトロ」にも書いてある。

おやつを買うお金がどうしても欲しい時は、二人して、わたしがストーリーを、妹がノートに絵を描き一冊のマンガにして、近所に住むおばの一人に見せてお小遣いをもらったりしたものだ。

さて、その記念の新聞の切り抜きを、わたしが破ったのだと言う。ぎょえ~~。嫉妬心をもたない(と、思っている。笑)わたしが、妹にヤイタとはねぇ。道理で、叱らないばぁちゃんにお仕置きされたわけだ。もう70年も前の話だが、今になってやっと縁側での水浴びの原因がわかった。

妹、ボソッと「その後、破られた新聞を貼り合わせて、今もどっかに取ってある」
・・・・いやぁ~、取ってあらなくてもいい~(笑)
と思ったものの、来春の帰国までにそれを妹に探してもらって、絶対デジカメに納めたいと思っている。自分の幼心と70年ぶりにご対面したいのである。

わたしの「となりのトトロ」→https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-2552.html


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2023年8月4日 

わたしは見ないが、夫がNHK World Japanを よく見ている。見ないのには理由があるのだが、今日はそれを置いといて(笑)
台所にいるわたしに、「お~い、弘前が映ってるよ」と呼ぶので、仕方なく(笑)料理の手を止めてリビングルームに行ってみる。毎年8月1日から一週間続く我が故郷弘前のねぶた祭り初日の合同運行の様子がニュースに取り上げられていた。

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弘前プロモーションから。

我が両親が生存中でまだ弘前に住んでいた頃、夫もこのねぶた祭りを見たことがある。孫の顔を見せに家族3人で、夏に弘前を訪れたのだ。それを思い出したのだろうか、もう40数年も昔になる。

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上の写真は祖父母に囲まれたジョンボーイ。1982年夏、弘前で。息子が我が両親と写るたった一枚の写真だ。この写真は今も息子の部屋に飾ってある。モイケル娘に言わせると、「お前は知らんけど、俺は一度だけじっちゃんに会ったことがあるのだ」と自慢しているのだそうな(笑)

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弘前プロモーションから。

ねぶたは「ねぷた」とも呼ばれるのだが、幼い頃からわたしは「ねぶた」と呼んで来た。「ねぶた、ねぷた」は津軽人の標記しがたい独特な発音からであろう、わたしは定義はない思っている。

初日から6日間、ねぶたは夜に町を練り歩き、七日目の最終日を「なのかび」と言い、日中の練り歩き、そして、岩木川原で今年のねぶたに火を放ち、炎で清めて川に流すのである。この日は朝からねぶた囃子が聞こえる。
どういう訳か、物心ついたころからわたしにはねぶた囃子が物寂しく聞こえたものだ。「ねぷたっこ、見にいくべ」と家族と夜、見物に出かけているはずなのだが、幼い頃にねぶたを引いてあるいたこと以外をよく覚えていない。今もねぶた囃子にわたしは哀愁を覚えるのである。

以下、以前に載せていますが、ねぶたに絡んだ思い出話を。

遥か昔の自分に出遭う

手元にわたしがこれまで一度も目にしたことのない幼い頃の写真がある。

2007年3月に東京のW大学から九州の公立大学に転校し、山口県の下関に移動した娘の様子をうかがうために一ヶ月ほど日本に滞在した時のことである。

ポルトに帰る前の10日間ほどを所沢の妹宅で過ごしていた。お茶を飲みながらのある日のこと、妹が「こんな写真を小倉のおじさんのところで見つけてもらって来た。」と、数枚の白黒写真を持ち出して来た。

小倉のおじというのは、亡くなった9人兄弟だった母の末の妹で、わたしたちの叔母にあたる人の連れ合いである。本サイトエッセイ「急行日本海」でも登場している。わたしはこのおじおばと多感な中学時代の最後の1年を弘前から転校して大阪で過ごしたのだ。
      
写真を見たわたしは思わず感嘆の声をあげた。祖母を始め、我が母、父、叔母の、今は亡き人たちの懐かしい顔が数枚の写真の中でにこやかに微笑んでいる。写真の背景も、わたしの記憶に残っており、妹と二人、時間のたつのも忘れて、ひとしきり昔話に花を咲かせたのだった。

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わが祖母と祖母の9人の子どものうちの娘3人。右端がわが母である。左端に写っている男の子は、当時祖母の家に同居していた従弟のひとり。祖母の家はわたしたち母子も含む13人の大家族だった。
  
そして、妹が「もう一枚!」と取り出してきたB3くらいのサイズの大きな写真がこれである。

ねぶた祭り2

これには、うわぁ~と歓声をあげずにおられなかった!今では日本の三大祭のひとつに数えられる遠い昔の町内ねぶた祭りの一夜の写真なのだ。右のプラカードには「上新児童福祉協会」(上新=上新町)と書かれ、左には「三国志 張飛奮戦○上新町」とある。○の字は読めない・・・

「この中にわたしたちがいるのよ。見つけられる?」と我が妹。

半世紀以上も前の自分を探してしばらく写真に見入るわたし。妹は言う、「わたしはすぐに分かった。」
わたしたちの幼い頃に関する二歳下の妹の記憶は素晴らしく、「あの時、こうだったああだった」との話を聞かされては、よく驚かされるのである。思うに、無鉄砲なわたしと違い、妹は子どものころからよく周囲を観察することができたのであろう。

大勢のなかで、なぜだか一人だけ小首をかしげている女の子に出会った。
「こ、これじゃない?」と自信なさそうに指差す小さな顔。
「うん。それがゆうだ。で、わたしはこれ。」

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小首をかしげているのが70年程前のわたし、下が妹。

背景は真っ黒でよく分からないが、左端にやぐらのようなものと幕が見えるところから、ねぶたの置き場から出た場所だとうかがえる。はしっこにちょこっと当時の自転車も見える。

ねぶた祭りは毎年あったのに、一枚だけがこうして残っているのは、恐らくこの年がわが祖母タマさんが町内のねぶた祭りの世話係だったのだろう。一晩上町を練り歩いてねぶたを引っ張って帰ってくると、祖母が家でわたしたち子供や大人のために握り飯や菓子、飲み水などを用意して待っていたのを覚えている。

夏休みの8月1日から6日間、日が暮れ始めるとねぶた囃子が聞こえてき、わたしたちは、鼻にスーッと水白粉で白い線を引き、半纏を着て鉢巻しめ、中にろうそくの火をともされたこの巨大なねぶたを「ヤーヤドー!」と引いて下町から坂を上り上町へ出、弘前の夜の町を練り歩くのである。疲れて眠くなり、足元がおぼつかなくなると、ねぶたを乗せた台車に座らせてもらえた。

数台の大きな和太鼓はねぶた車の後ろに積まれ、笛吹きたちも加わり「歩け」のリズム、「止まって休め」のリズム、「帰路」のリズムと、ねぶたを引くものたちにリズムで合図する。帰路には「ヤーレヤレヤーレヤ、ねんぷたのもんどりこ!」(ねぶたの戻り)と、眠気を吹き飛ばして掛け声かけて帰るのだ。

「ダカダン ダカダン」と、太鼓のリズムと笛から流れる音色は、今もわたしの耳に残っている。雪国の夏の六夜の、津軽縄文人の熱き血潮がふつふつと湧いてくるような祭りである。

この写真には、それから数年後、内弁慶のわたしが棒っきれを振り回し、やおらガキ大将になって泣かしていた、いわゆるわたしの子分たちもいるはずだ。半世紀以上も昔の「自分」という少女をかろうじて見つけられたわたしは、何度この写真を見直しても、あの頃の子分たちが判別できないでいる。

小首をかしげている古い写真の少女を見ると、わたしは少し目が潤む。そして、静かに語りかけてみる。 「ハロー。あなた、随分歩いて、ここまで来たのね。」

2018年のねぶたまつり弘前プロモーションの動画を拾ってきました。


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2023年8月1日
 
去る7月始めに満3才になった孫娘のソラ坊、ついこの間まではしょっちゅう熱を出し、その都度「今日も園から会社へ呼び出しコール~」と言ってモイケル母さんは仕事を早引きし翌日は休まなければならなかったようです。

が、このところあまりその話を聞かなくなったので少し変わってきたかな?幼子を抱えての勤務は本当に苦労だなと想像しています。

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赤ちゃんだったのが、こんなに大きくなりました。

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目下、ソラ坊が読める文字はママの「マ」、パパの「パ」、自分の名前「ソ」と「ラ」。スカイプで話すときにわたしがカードを出してゲーム感覚で覚えてもらったものです。こんなとこでもオンライン授業をしてます(笑)

モイケル娘とは彼女の帰宅中の電車の中でよく話すのですが、一日の派遣勤務も終わり電車が駅に近づくと、「さて、もう一つの戦場へ向かうのだぁ」と言いつつチャットを終えます。なに、ただいまソラ坊は反抗期だそうで、何でもとりあえず、「いや、Vたくな~い」で始まるとか。それで、もいけるママからすれば戦場なのであります。

してみると、我が家の子供たち、その反抗期とやらがなかったように思います。「やだ~」なんてガキちゃんが言おうものなら「なぬ?いやだぁ~ん?」と、おっかさんがどで~んとおっきく強かったんだろな。怒ったときのおっかさんにびびってたとも言えようか、あははは。

さて、ソラ坊ですが、近頃「ポルトガル」という言葉を覚えたのです。それで、先頃もいけるママに突然、「飛行機に乗ってポルトガルのばぁばに会いに行きたい」と言ったのだとか。

もいけるママ、「ポルトガルは遠いから、10時間以上座ってないといけないんだよ、できる?」と聞いたら真剣な顔して、「すわれない、、、」と言われたとさ(笑) かわいそうに、あはははは。ほんまや。遠すぎるんだわ。10時間どころか、ポルトに着くまで待ち時間もいれたら丸1日の旅になりますからね。

でもまぁ、我が子たちも幼児期、小学生時代、中学生時代と2、3年に一度の割で帰国したわけですから、できないことはないでしょうが、ひと時もじっとしていないソラ坊を考えると、もいけるママ、気が遠くなるんだろうな(笑)

ソラ坊が自分の祖父母の住む、そして母親の生まれ育った国ポルトガルに来るのはいつになるだろうか。どんな印象を持つだろうかと想像しながら、衰えてはおられんぞと自らを叱咤しております。

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