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2022年8月30日 

どこの国でも 死はひとつの終わり
死が来て幕はとざされる
だがスペインではちがう
スペインでは幕がひらかれるのだ (ガルシア・ロルカ)

残酷な時代はいつでもどこにでもあります。グラナダ生まれの詩人、劇作家ロルカが生きたのはスペインのそういう時代でした。ロルカが自分の早期の死を予期していたかどうかは分かりませんが、彼の多くの詩には死を追悼するのが多いように思われます。ロルカは死によってこそその名を永遠に人々の胸に刻んだのかも知れません。

わたしはロルカの研究者ではありませんが、青春時代の一時期に彼の短い一生に興味を持って本を読み漁っただけなので、あれやこれやと展開できるような持論はもちません。しかし、詩人の銃殺という残酷な粛清の事実には今も若い時同様に大きな恐怖と悲しみを覚えます。そして、自由に言論ができる今の時代に生きている自分の幸運を噛み締めます。

もう一昔ほどにもなりますが、グラナダの片田舎にあるロルカ記念館を訪れたことがあります。

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ロルカが8歳まで住んでいたという記念館。通りにはオレンジの木。

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生家の中庭。内部の撮影は禁止だった。
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現在記念館になっているロルカの生家フエンテ・ヴァケーロス(Fuente Vaqueros)はグラナダから30キロほどだろうか、小さな村だが、ロルカの生家がどこにも案内の標識が見られなかったのは意外でした。

初夏の暑い日ざしを浴び、ひなびたグラナダの小さな村フエンテ・ヴァケーロスでロルカ生家を探しながら、村の雰囲気に田舎の持つ独特の閉鎖性を感じて、わたしは少なからずとまどいを感じ、自分がその閉鎖性を嫌って都会へ飛び出した19の頃を思い出していました。

ロルカはグラナダでより、また、生誕地のフエンテ・ヴァケーロスより、むしろ海外で誉れを受けているのだろう。そんなことをふと感じました。
          
かろうじて見つけた「Poeta Garcia Lorca=詩人ガルシア・ロルカ」と書かれて壁にはめ込まれたアズレージュ(青タイル)の上方には、グラナダのシンボル「ざくろ」が見られます。
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グラナダとはスペイン語で「ざくろ」の意味。レコンキスタ時代、ざくろのように堅牢でなかなか陥落しなかったイスラム教徒の街をついにそれを破り、アルハンブラ宮殿という実を奪ったことを意味して、グラナダのシンボルのざくろは割れているのだそうです。

ロルカ記念館のベルを鳴らしたところ20分ほど待ってくれと言われ、その間、記念館の裏にあるカフェで時間をつぶしました。スペインではどこでも言えるのですが、こちらがスペイン語を理解しようとしまいと、旅行者にもスペイン語で喋るのである。ロルカ記念館の案内人もそうでした。見学人はわたしたち夫婦だけでした。
                

詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)について
       
1936年8月19日、スペイン内乱中、フランコ軍ファランヘ党によってグラナダ郊外のビズナル(Viznar)にて銃殺されました。ロルカは詩人で劇作家でもあった。「血の婚礼」「イエルマ」などの上演で名声を得ます。アメリカ、キューバ、アルゼンチンなどを訪問しています。詩人のジャン・コクトーや画家ダリとも交友がありました。
     
ロルカは思想的にはリベラリストでしたが政治的には大きな活動はなかったとされます。彼の暗殺はファランヘ党が同性愛者を忌み嫌うことに因むとの説もありますが、明らかではありません。
      
記念館内部は撮影禁止なので、パンフレットの画像を載せます。
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多才能だったロルカは作曲もしており、館内見学中は彼の作曲した音楽が流されていました。透明感がある寂しげなメロディーでした。

生家は昔にしては大きな家だったとのことだが、リビング、応接間、寝室などの小さな数部屋があります。二階ではロルカや彼の上演された作品の写真、手紙が展示されて資料館になっています。

フランコ政権時代、ロルカの本は発禁され、フランコの死去により独裁政権が終わって、スペインでやっとロルカについて自由に論じることができるようになりました。それまでは、ロルカについてはスペイン国内でよりフランス、イギリスなど欧州でよく知られ論じられていました。
  
なお、ロルカが銃殺されたとされるグラナダ近郊は現在「ロルカ記念公園」になっていますが、ロルカと同じ時に銃殺された5人の遺族から、遺骨発掘の要望が出され、2009年10月から公園内の数箇所の発掘作業が行われていました。ただし、ロルカの遺族は、メディアの見世物になることを恐れ、「このまま静かに眠らせて欲しい」と反対したようです。2009年12月、公園内では遺骨らしきものは一切発掘されなかったとの結論が出されました。それでは彼らはいったいどこに埋められたのか?
 
ロルカの死後、当時は80年経っていたわけですが、詩人の死は再び歴史の謎に中に舞い戻ったのでした。
グラナダの初夏の日差しの中に短い生涯を処刑と言う名のもとに終えなければならなかった詩人ロルカの名が今でもわたしの心に残っています。

ロルカについては下記にても綴ってあります。興味がある方はどぞ。
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-917.html

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2022年8月26日 

月曜日から本日木曜日まで、私たち夫婦と東京息子の3人で、アレンテージュのエヴォラ(注意:エボラ熱とは関係なし。こちらはEvora、エボラ熱のほうはEbola)とリスボン近くのリゾート地セジンブラを訪れる予定だった。

飼い猫のゴロー君とノラ猫フジオ君のエサやりは、お手伝いさんに頼んだし、翌日には簡単な旅行準備をしないといけないな、めんどうだなぁ、なんて心の片隅で思っていた土曜日夜の事。

夫が「これ、Zona(ゾーナ=帯状疱疹)みたいだな」とシャツをめくって見せる。
あ!ほんまや!と、帯状疱疹を2018年に経験していたわたし。あの時はその個所の痛みで夜眠れず、一か月ほどしてようやく痛みがやわらいだのですが、疱疹の痕は1、2年も消えなかったものだ。あの痛みを思い出し、こりゃ旅行はいかがなものかと思ったのであった。

帯状疱疹に加え、夫は5月のボランティア日本文化展以降、なにかの拍子で膝を痛めたようで、車の運転にはあまり支障がないものの、長時間歩くのは避けている現在だ。わたしはと言えばこの2、3カ月程エネルギー衰退と言おうか、歳なのかコロナ疲れなのか、はたまた他の原因があるのか分からないのだが、どうも力が湧かない日々を送ってきた。

それに、夫は多少疲れていたのだおう、珍しく車を車庫に入れるときにバンパーをしこたま壁にぶつけたようで修理中ゆえ、小さめのわたしの車で旅行に行くことになっていたのである。これらを総合して考えると、小さいが良くないことが重なっている時だと思い、息子には悪いが「休暇、取りやめようよ」と夫に言った。

幸い、その日の夜中12時までホテルはキャンセルできるというので、12時5分前にメールを送る。そんなわけで、我が家の夏の旅行は中止となり、家でのんびりしている。

のんびりしていないのは帰省中の息子だ。近くのジムに通っては夜な夜な高校時代の友人たちと会っている。無理もあるまい。コロナ禍以前には年に2回帰省しては、日本でのストレス発散をしてきたのが、3年間も耐えてきたのであるからして(笑)

それはわたしにも言えることで、日本語教室があることで募る郷愁を抑えかろうじて耐えられたのだが、食べ物があきまへん^^; オリーブオイルが体にいいとは言うものの、毎日それがとっぷり使われた外での食事は段々胃が受け付けなくなってきた。

我が家の食卓には必ずほうれんそうの胡麻和えやかおひたし、なす田楽、キュウリの酢の物、揚げ出し豆腐、ラディッシュや白菜、ニンジンの千切りを使ったサラダ式かんたん漬物など日本料理的な1、2品がのる近頃だ。

東京ではほとんど自炊をしている息子もポルトで外食が続いて胃が少し不調のようだ。日本に住むこと10余年、息子の胃も日本人化してきているのだろう。が、わたしの胃は何十年経とうとも頑固に日本人なのであった。

旅行をする予定だった今週はわたしも晩御飯は作るが昼食は休みである。旅行の計画にあたって、夫はアパルトホテルとホテル、どっちがいいかと言って来たので、当然ホテルを指定した。アパルトホテルだと家族の食事の準備と後片付けに追われ、結局主婦の休みにはならないのを一度の経験で知ったのである。休暇中は主婦も炊事から解放されるべき!
さて、 今日の昼食はどこへ行こうか(笑)

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2022年8月23日 

コロナ禍以前のことだから、4、5年ほど前だろうか、息子の友人がトルコ航空でポルトにやってきたことがある。東京からイスタンブールで乗り換えポルト空港に到着したのだが、預けた荷物がロスト・バッゲージになったのである。

翌日、届いたもののロックされたバッゲージがこじ開けられようとした形跡があった。こじ開けは成功しなかったようだが、受取人はがっかりしていたものだ。

そのケースを思い出したもので、「覚えてる?あの時のこと」と息子にはロスト・バッゲージにならないように、荷物には小さなタグだけでは不十分、「To Portugal」と大きなラベルを貼った方がいいと、しつこく言ったものだ。3年ぶりの日本食糧調達になるもので、わたしも息子にはあれを持ってきてこれを持ってきてと基礎調味料を頼んでいたので、それらが途中で無くなるのは母も困る。

先週の木曜日に息子も荷物も無事到着し一件落着と相成ったのだが、家に着き持ってきてもらったものを一通り受け取り、閉めたバッゲージにふと目をとめて、あっははははは!見よ↓

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いやぁ~、大きく貼れとは言うたものの、国旗まで張り付けてからにぃ~~と大笑いしたのであった。こんなことやって来たぁと、我がモイケル娘に画像を送り付けたら、「ぎゃは、兄貴らしい。でも、これ、わたしの旅行かばんを貸したんだけど^^;」ですと(笑)

そのようなわけでただいま、息子帰省中です。
本日は短文ですがこれにて。
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2022年8月19日 

大東亜戦争が終わって今年で77年になります。わたしは終戦2年後の1947年生まれですから、貧しかったころの日本を多少知っています。今のわたしたちの幸せは、過去の歴史で命を落とした人たちの犠牲の上に立っているものだと、わたしは思っています。

日本のバブル景気間(1986~1991)は既にポルトガルに住んでいましたから、その恩恵を受けることもバブル崩壊後の喪失感に襲われることもありませんでした。しかし、その景気に踊らされる同国人たちを国外から見て、日本人はこれからどうなるのだろうとの不安感を抱きました。わたしの感覚では、バブル景気でこれまでの日本人にはあまりなかった変化が顕著になったような気がします。

「自分も日本人なんだが、なんだかなぁ」と思い始めた頃に出会ったのが産経新聞のシリーズ「やばいぞ日本」でした。その中で紹介された終戦直後のアメリカ人による体験談「忘れてしまったもの」にわたしは深く感動し、毎年8月になるとこの話を思い出します。長文になりますが読んでいただけたらと嬉しいです。これは過去にも行くどかあげた記事ですので、既読の方はスルー願います。では、以下。

【忘れてしまったもの】靴磨きの少年・一片のパン、幼いマリコに

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。 

手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてれくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と二人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。 

東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。 

彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。

彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2ヵ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系入として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」 

記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭真防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。
それを聞いた蛯原氏は「毅然とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。 

アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。 

「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」
凛とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。

焼き場の少年

終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年=2007年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。(この物語はかつて日本の中学生の国語教科書でも紹介されており、ポルト補習校時代に担当の子どもたちと学んだことがある)

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Wikiより。この1枚の写真に現代の日本人が忘れてしまったものを見るように思う。

原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学学館発行)でこう回想している。

「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)

少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)

私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」

この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。

1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。

激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」

それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。

苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛・・・。こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
 
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)

2007.11.06産経新聞「やばいぞ日本」より
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2022年8月17日 

7月の一時期こそ気温が30度を超えたが、8月に入るとポルトはずっと暑くならず、毎日最高気温が25度以下、吹く風がとても涼しい。

ニュース欄を見ても碌なことがなく、安倍首相暗殺から一か月以上経つが、一体我が母国はどこへ向かおうと言うのかという大きな不安が頭を持ち上げてくる。日本の先頭を行く今の政治家たちは我々をどこへ向かって引き連れているのか分かっているのだろうか。

海外に住むわたしがこうして不安がっていても仕方ないのだが、安倍首相の事件以来なかなか活力が湧かないわたし、「近頃、ため息が多い」と夫に言われる始末だ。これは厭世感のようなものか、いかんと思う。こういう時は活路が開け難いので時に委ねるべしと心が言う。

そんなことを考えながら、明日には東京から帰省してくる息子を迎える準備を黙々としていた。右腕が痛いため近頃苦労するのはベッドメーキングだが、なんとか終えたと思ったとたん、早速 ゴロー猫が陣撮っているではないか。猫って新しいシーツ、新しいカバーが好きらしく、  いつも真っ先にその上でくつろぐ(笑)ゴロー、明日にはにぎやかなこの部屋の主が到着だよ。

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そんなわけで、今日は少し古い話になるが、我が東京息子の過去日記をば。息子とモイケル娘が共同生活しており、わたしが帰国して二人のアパートに転がり込み久しぶりに毎日母親業に励んでいたころの話だ。

日本とポルトガル、遠く離れていてもメッセンジャーやスカイプのあるご時世です。女同士のモイケル娘とはほぼ毎日のようにチャット交換してきたのですが、息子とのそれは、「元気?」「うん。そっちは?」「問題なし。仕事はちゃんとできてる?」「うん、」「なにか必要なものはない?」「Nothing special」と短いものです。だが、三つ子の魂百まで。子供のころからの息子の性格からして、きっと大笑いされるような話が山ほどあるに違いない。

そんなことを思っていた今日、遅い夕食をしながらの息子の話に腹を抱えて笑い転げていたのでした。

週に何度か近くのジムに通っている息子、力いっぱい、筋トレをしていたら、係員が顔を青くして飛んで来て、「お客さま、もう少しヤサシクしてください」と言われたのだそうだ。

筋トレ用具を壊さんばかりに思い切りガンガンやっていたのだろう。まったくいい年をして加減と言うことを知らないヤツではあると思いながら、その様子を想像し、ジムには悪いが可笑しくて笑い転げていたら、そんなのがいくらでもあると息子が言うのだ・・・・・

年末に福引がすぐ近くの商店街であった。例のガラガラポンを一回まわすのだが、あれを衆人の目の前でいい歳をして力いっぱい何回も回して、とうとう玉いっぱい外へ飛び出してしまったって・・・・ 息子いわく、「おれ、知らなかったんだ、一回しか回さないってこと。てへへ^^;」

そこに居合わせた日本人たちのあっけに取られた顔を思い浮かべると、「お前というヤツは~」と言いながら、これが笑わずにおらりょうか(爆)日本の皆様、息子がご迷惑をかけておりますが、どうぞ長い目でみてやってくださいませ。

日本人の友達からは「ジュアン君て原始人みたいだね」と言われるのだと言う。げ、原始人^^;「粗にして野」か・・・・

すると横からモイケル娘、「おっかさん、うちでも外でも変わらない、裏表のない人間に育って欲しいと
願ったんでしょ?その通りじゃん、はははは」

そ、それはそうだけど、成長した裏表のない息子、どこかが微妙にちがうんだよね^^;今更意見を言っても始まるまい、息子よ、城山三郎氏ではないが、粗にして野、しかし、「卑しい人間」にはなるなや。

ではみなさま、また。
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2022年8月12日 

戦後2年目にしてわたしは父の故郷である岩手県の雫石に生まれたのですが、子供時代から高校を卒業するまでのほとんどを青森県の弘前(ひろさき)で過ごしました。

時々、その弘前での18年の日々を思い出すのですが、最初に浮かんでくるのは、「我が家は一貫して貧乏だったなぁ」と同時に、けれど、その貧乏も当時はなんて当たり前であったことか。貧しかった人が多かったのです。大変だったろうがのどかな時代だったのではなかったかという思いです。

8月にも自宅で日本語を教えていたもので、時節柄、生徒さんに「お盆」の話をしようと切り出したら、生徒の一人が、「せんせい、その言葉、知っています。トレイ(tray)でしょ?」と言います。

「お、よく知っていますね。」と、まずは褒めておき(笑)「今日話すのは、そのお盆ではなくて、祖先の霊を祀る日本の行事のお盆です。」(もっとも語源は先祖の霊に食物を供えるのに使った「トレイ、お盆」から来るとの説もある)

外国語を学ぶには、文法も大切ですが、その国の歴史や習慣を知ることも重要だとわたしは思うので、日本語クラスでは機会があれば、日本の行事や習慣の説明を試みます。外国語を学ぶことはその国の文化を学ぶことでもあります。

日本の伝統行事では、ポルトガルとは習慣が違うわけですから、説明に色々手間取ったり、意表をついた質問が出たりして、こちらがハッと気づかされることも時にはあります。自分にその行事の経験があると、説明も生き生きとして余計な失敗談に及んだりもして授業は盛り上がったりします。

わたしが子供の頃、お盆というと、必ずしたのが下町の祖母の家の玄関前での「迎え火、送り火」でした。灯かりを目印にご先祖さまの霊を「お帰りなさい。こちらですよ。」とお迎えし、送り火は、「また来年までね」とお送りするのです。

祖母の家では、家の前で割り箸を二本ずつ縦横と交互に組み合わせた四角を高くしていき、その中でと迎え火送り火をたいていました。

先祖の墓参りには、霊魂があの世とこの世を行き来するために「精霊馬」と呼ばれるきゅうりやナスに割り箸を四本刺して、馬、牛の形にしたものを作り持参し供えしていました。こんな感じです↓

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(画像はwikiより)

祖母の吉崎家では9人兄弟で長兄は戦死、残った8人兄弟の一番上がわたしの母でした。南部出身の父は、我ら家族を放ったらかして地方競馬の騎手として岩手県盛岡市に住んでいましたので、母とわたしと妹の3人は祖母の家に、おじたちや従妹家族たちと同居していたのですが、14、5人の大家族でしたので、墓参りや月見、お正月の餅つきなどの家内行事はそれは賑やかなものでした。

おじたちがやがて所帯を持ち、大家族で住んでいた祖母の家もおじの一人が判子を押した知り合いの保証人の責任として売り払わなければならなくなり、わたしたちはちりぢりになってしまいましたが、その後も、お盆には、それぞれが家族を連れてお墓参り、大勢が墓前で顔をあわせたものです。

お墓が清掃されているのや、お供え物がすでにあるのを目にしては、「誰々がもう来た」などおじたちの名をいう母の言葉をよく耳にしたものです。

そうして時代が過ぎ、いつの間にか、一族が揃って顔をあわせるのは、結婚式か葬式になり、母も含めおじやおばもやみな、ご先祖さまの仲間入りし、わたしもポルトガルに定住てしまった今は、一族が顔を合わせることも無くなりました。祖母から母たちの世代、そしてわたしたちと三世代で、世の中は随分と変化したということですね。

お盆が来るたびに、意味も分からず精霊馬を遊びながら作り、祖母や母、おじやおばたちと一族が連れ立って、墓参した子供の頃が思い出されます。

そうそう簡単に日本へ帰れない異国にいるわたしは、今年も遠い昔のお盆を思い出し、心の中で迎え火送り火をたき、今日まで無事に生きて来られたことをご先祖さまに感謝いたします。

ではまた。
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2022年8月9日 

今日は自分用のメモ、そして、目下子育てでてんやわんやの我がモイケル娘が年老いる日が来るであろう、その時に、このブログを読み返して、「そう言えば、おっかさん、6、70代にこんなこと、あんなことが身に起こったと書いてたなぁ」と思い出し、参考にしてもらえたらいいなと思いながら綴ります。

65歳を過ぎた頃であろうか、プラスティックボトルの蓋を開けるのに難儀するようになった。元来、握力が弱いのだが、近頃では「お~い」と夫を呼ばなければならない。

引いて開ける缶の蓋も段々引っ張ることができなくなってきている。よし!と時には号令をかける気持ちの如く、勇んで蓋開けに臨むのだがうまく行かないことが多い。しまいには肉叩きカナヅチとナイフを持ってきてトンカチしたりするが、これもなかなかうまくいかないのである。

情けないことだと嘆いていたら、もうひとつの問題にぶつかっている昨今だ。我が家は18年ほど前から台所でIHコンロを使っているのでコンロ周りの掃除は楽だ。ポルトガルの女性は毎回使用後のガスコンロ周りをこれでもかと思うほどピカピカに磨くので、わたしもガスコンロを使っていた頃は、毎回使用後にピカピカとまでは行かないが、ピカくらいには磨いてきた。この仕事も力が要る。

初めの頃は、明朝また使うコンロなのになんでこんなにまでしてピカピカ磨くのかと自問したのだが、夫の母たちと同居時代は使用後のコンロは常にピカピカに磨かれていたもので、一日の終わりはそのピカピカを目にしないと落ち着かなくなってしまったとでも言えようか、情けないなぁ(笑)

さて、ガスコンロがIHコンロになって以来楽をしてきたのだが、出てきた問題と言うのは、軽くタッチしてオンになるはずが、1年ほど前からタッチしてもつかないのである。このぉ!このぉ!と意地になって押しても点灯しない。買い替えて2年くらいだから寿命だとは思えない。指先がつるつるになってるのだろうか。それで、最近は指に布巾の端をからませてオンにするという具合だ。

スーパーマーケットで野菜、果物を買う時は、こちらがプラスティック袋に入れて秤にかけることになっているが、この袋が自分の指でなかなか開けられない。開け口をこすってみたってダメで、四苦八苦しているわたしを見て、親切にも「開けましょうか」と言ってもらうこと、度々だ。

毎日使う鉄なべのフライパンも片手で持てなくなった。うっかりそれを忘れて、特に右手で持とうものなら、右手親指、右腕に激痛が走り、「いてててて」と泣かんばかりになるのである。右手親指は関節が変形し始めてますです。わたしは炊事場でお湯を使うのが嫌いで、真冬の寒い時でも長年水で台所仕事をして来たので、ひょっとしてそれも一因かなぁ、と勝手に自己判断。

まぁ、今のところ、なんとかぶっ通し3時間の授業、昼食を入れてから夕方にまた授業と続けてるのだが、これがなかなかきつい。このぶっ通しを何とかせないかんかもと思い始めている。

足掛け3年のコロナ禍は確実に自分の体力を衰退させたなと感じる。

夕方になると元気になるので「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれた清兵衛とは違い、わたくしは、人生の黄昏に入ろうとする「たそがれ優兵衛(ゆうべぇ)」であります。

人生の黄昏気を迎えたヘンリー・フォンダ、キャサリン・ヘップバーンが演じる夫婦の映画「On Gorden Pond」のテーマソングが、いつの間にか静かに心に染み入る歳になりました。
C'est la vie.



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2022年8月6日
 
しばらく前にモイケル娘が送ってきた2歳の孫娘ソラちゃんの写真を目にし、いたく懐かしい思いにかられ、気に入りの一枚になった。

何が懐かしかったかと言うとこの縁側である。週末に親子3人で古民家が見学できる町を訪れてきたと言う。庭を目の前に、縁側に座った孫の姿の可愛らしいこと!この写真でおのずから幼い頃に住んだ祖母の家を思い出した。

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弘前下町の祖母の家に、母と二つ下の妹と私の母子3人が大家族の一員として住んでいた子供のころの思い出が縁側にある。父は地方競馬の騎手で家にいることはほとんどなかった時代だ。

縁側での鮮明な記憶は、祖母に首根っこをひっつかまれて、縁側に引き出され頭から水を浴びせられたことだ。何が原因でなったか覚えていないのだが、妹と取っ組み合いの喧嘩をした時だったと思う。妹は小学校に上がったか上がっていなかったかの頃であろう。

わたしは祖母からすると初孫で、赤ん坊のころは祖母が背中でよくあやしてくれたらしい。6歳にもなるとワンパク娘でターザンの真似をしては梅の木から落ちて右腕の骨をおったり、自転車に乗せてもらっては車輪に足を取られてかかとがバックりあいたりと、その都度、近くの骨接ぎや医院に担いで連れて行ってくれたのは祖母であった。

写真の縁側は雨戸が見えるのだが、祖母の家の縁側は濡れ縁といって雨が降ると縁側が濡れるという類である。道理で頭から水をかけてもいいわけである。あはは。ばあちゃんは怒らない人だったので、これには懲りた。

和歌山にある木彫家の我が親友の山房での一夜も縁側での思い出がある。日本庭園を前に、和室を後ろにした縁側で、前方に見える山並みと煌々たる月を眺め、漬物を肴にして地酒「黒牛」を飲みながら、ポルトガルの、そして、彼女の四方山話をお互いポツポツと夜通し語り合った忘れられぬ夜のことだ。

かつらぎ山房2022-1
縁側から山を望む

気が付けば、いつの間にか二人で一升瓶を空にしていたのであった。それが不思議と酔うこともなく、「酒は静かに飲むべかりけり」とはこういうことかと思ったものだ。
かつらぎ山房2022_2

座敷の横の縁側で一晩中静かに杯を傾け語り合った。この縁側はガラス戸があるので「くれ縁」と呼ばれるらしい。
かつらぎ山房2022_3
 
孫の写真からしばしこんなことをこんなことを思い出して懐かしんでいたのである。縁側に関した一句。

端居してただ居る父の恐ろしき   高野素十

端居とは縁側などに座っていること。この句が詠まれたのは昭和12年だと言う。父と言うものが威厳を持っていた時代で、後に競馬の騎手を止めてわたしたちと共に住んだ南部育ちの我が父も、威厳と言うか家にいるというだけで怖さを感じるような存在の人ではあった。

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2022年8月3日 

日中テレビをつけることはあまりないのだが、今週はたまたま月火水と続けて日本語授業がなかったので、ここ数年しているとぎれとぎれの断捨離なるものに取り組んで、ソファに座ってコーヒーで一息入れようと、珍しくテレビをつけたのが昨日のことだ。

眼に入って来たのは、1987年公開、アカデミー賞を総なめにしたベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラスト・エンペラー」終盤近くだった。ラスト・エンペラーとは中国の激動の時代を皇帝から一庶民にされて生きた清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀のことである。

この映画を見たのは随分昔になる。いい映画だが、「シンドラーのリスト」「ディア・ハンター」「プラトーン」同様、見た後で気が重くなるので、もう一度見るにはわたしとしては少し勇気が要る映画のひとつだ。

「ラスト・エンペラー」の終盤は残虐シーンがないのでチャンネルを変えずにそのまま数分見ることになったのだが、さて、正にそのラストシーン。今では一介の庶民として生きるかつてのエンペラー溥儀は、あるひ、すでに観光スポットになっている自分が住んでいた紫禁城へ足を運ぶ。

懐かしさに惹かれかつては自分が座っていた玉座に上って行くと、守衛の息子だと言う少年に「そこへ入ってはいけないのだよ」と注意を受ける。「私は昔ここに住んでいたのだ」と答える溥儀に少年は「証拠は?」と問い詰める。

3歳の即位式でコオロギの鳴き声を追って列の中を探し回る溥儀。見つかったコオロギが入れ物に入ったのを家臣からもらった遠い昔。溥儀は玉座の下に隠してあったその入れ物を取り出し、少年に見せる。少年が入れ物のふたを開けると中からコオロギが飛び出した。少年が顔を上げるとそこにはもう溥儀の姿はなかった。

ラストシーンの解説では、コオロギは長い間閉じ込められていた溥儀の解放、全ての束縛から自由になった溥儀の象徴であると言われているようだ。が、昨日そのラストシーンを見てわたしが「あっ!」と思ったのは、邯鄲(かんたん)の夢だ!であった。


2300年ほど前の中国戦国時代、盧生(ろせい)と言う青年が、人生の迷いを晴らしたいがため、楚の国、羊蹄山の聖者に会わんと遥か旅をして、趙(ちょう)の国の都、邯鄲(かんたん)に宿を求める。 宿のおかみが出してくれた枕で昼寝をするうちに、盧生は出世し、その内、冤罪で投獄され、疑いが晴れ、やがて栄華を極め、楚の帝となる。子にも恵まれ、50年を過ごし、ついに年老いて死を迎える夢を見る。

覚めてみると、寝る前に仕掛けられた宿の粟粥が、まだやっと炊きあがろうとしているところだった。盧生は、人生は束の間の夢だと悟り、故郷へ帰っていく。

これは中国の故事のひとつで、「邯鄲の枕」とも呼ばれ、日本では能の演目のひとつとされているそうだ。故事では宿のおかみが、仙人になっている。ちなみに「邯鄲」は小さいコオロギをも意味し、中国では「天鈴」と呼ぶそうだ。

この映画を見た頃、わたしはまだ「邯鄲の夢」の話を知らなかった。今回、思いもかけず目にしたラストシーンは、わたしの解釈では、溥儀の束の間の人生、更に意味を広げれば、人の束の間の人生を意味するのではないか。人生とは何なのかと時に自問しながら前へ前へと、わたしはなりふり構わずやって来たものだから、今になってあちこちに置き忘れて来たものがあるのに気づいたりする。記憶の糸を探り手に取って眺めてみたい気持ちもあるからだ。

我が右足かかとに一文字の傷痕がある。小学校に上がって間もない頃であったろうか、さだかではないのだが、おじに自転車に乗せてもらった時に起こった事故の傷痕だ。

わたしが中学に上がるくらいまで、盛岡で競馬騎手をしていた父は家にいることがなかった。母と妹とわたしは弘前の下町にある祖母の家に同居していたのである。

9人兄弟だった母の長兄はすでに戦死しており、母の弟の一人と妹一人は結婚して別に所帯を構えていた。わたしが物心ついた頃には、母の未婚の弟が3人、家族ぐるみで同居していたのがわたしたち母子3人のほかにおじとおばの二家族がおり、頭数を数えれば一つ屋根の下に14人ほどが住むという大所帯だ。

そんなにぎやかな暮らしのある日、おじの自転車の後ろに乗り、新町坂(あらまちさか)をおりていた時に、子供のわたしは右かかとを車輪に取られてしまった。

新町坂はS字型で急勾配の長い坂である。城のある上町(うわまち)と低地帯の下町を結ぶ坂のひとつだが、坂の降り口から見る岩木山の姿は実に美しい。そして、坂を下りきるとその山がグンと近づいて見えるのである。

パックリ開いたかかとの傷口は、今なら縫うのであろうが当時はそれをしなかったらしく、その怪我でしばらくは歩けなかった。ぐじゅぐじゅぐといつまでも治らないかかとの傷を湯治で治してやろうと祖母「タマあばちゃ」は思ったようだ。初孫のわたしを連れて田舎バスに揺られて行ったのが岩木山ふもとにある嶽温泉の湯治宿だった。

湯治先で、祖母は、日中、山菜採りに山に入るので、その間わたしは宿に一人残された。部屋に押入れがなかったのであろう、畳んだ布団が部屋の隅に寄せられていた。

テレビなどない時代だ。大家族の中で、妹やいとこたちが常に周りにいる生活が普段である。突如、一人で過ごすことになってしまったわたしは、心細さに日がな一日、隅に寄せられた布団にしがみついて泣いていた。昔の造りの部屋は襖ひとつで仕切られただけである。わたしのすすり泣きを聞いた隣の部屋に逗留していたお年より夫婦が声をかけてくれ、飴玉やらを差し伸べるのだが、わたしはそれも受け取らず、祖母が帰るまでシュンシュンと泣いていたのであった。旅館の名前も場所も記憶していないのに、隅に布団が畳まれた宿の部屋の光景は今でも妙に覚えている。

5年ほど前に、わたしは妹夫婦と故郷を訪ねた際、岩木山神社(いわきやまじんじゃ)へ詣でる途中で、祖母を偲び昔日を偲び、その宿を探してみることにした。ところが、何しろ60年も昔のことで嶽温泉はすっかり様変わりしており、記憶もおぼろのわたしには、数軒ある宿のどれなのかわかるはずもなかった、ここかあそこか?で、結局分からずじまいだった。このかかとの怪我で強烈に記憶に残ったのは、痛さよりも物心ついて始めて知った「人恋しさ、寂しさ」であった。

今、こうして自分の子どもの頃を辿っているわたしは、いまだ邯鄲の夢の中であろうか。夢を見ている私の横で今にも栗粥が炊きあがろうとしている様子を想像するわたしは、その夢のまた夢の中であろうか。

が、人生を悟り、故郷へ戻ると言うのは、若い者には似合うまいとも思う。人生に迷いあり、夢あってこそ若さだと言えよう。故事に異を唱えるつもりは決してないが、若いうちに人生を悟ってしまうのは面白くないような気もする。人生は束の間だと悟り帰郷した盧生に、ふむと頷けるのは、わたしが70半ばに達するからであろう。盧生の悟りにはとても足元にも及ばぬ我が人生70年ではある。
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