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2022年6月30日 

陽がすっかり上っていた今朝8時少し前、近頃習慣にしている30分くらいの朝の散歩に出ようとフラットのドアを開けたら、右がわの陽だまりの中にフジオ君が座っていた。「おや、フジオ君、ちょっとお待ち」と、朝ごはんを用意しに一旦家にもどった。

フジオ君と言うのはこの辺りの野良猫ちゃんで、3年ほど前から夕方決まった時間に我がフラットの前に現れてはエサをねだる子だ。名前はわたしが勝手につけて、今では夫も「おい、フジオ君が外で待ってるよ」と夕方帰宅すると言う。

それが、この数日前から、夫の出かける時間が分かるようになったのか、朝もやってくるようになった。朝ごはんと晩御飯をわたしたちは提供するようになった。飼い猫として家に入れようかとも考えるのだが、それには夫の同意を必要とする。

我が家は5匹の猫を長年飼っていたのだが、4匹は寿命でお迎えが来、それぞれが旅立ちって今は5匹目のゴロー君がいるだけだ。そのゴロー君も御年16歳。人間で言うと80歳くらいで高齢猫だから、フジオ君を家に入れるには色々病気の検査が要る。

フジオ君は恐らくまだ5,6歳、もしかしたらもっと若いかも知れない。家猫は長生きするので、10年くらいはまだ生きるとして、ひょっとするとこちらが先に逝く可能性もある。老猫になって引き取り手がなく野良暮らしをしなければならないとなると考えただけで気が萎えてしまう。それで家に入れるのを躊躇するのである。今しばらく様子を見てみようと思っている。

ネコと言えば、ついせんだっての経験から、臆病なのは何日も飲まず食わずで人に見つからない場所で潜伏できるというのを知った。

先週のサン・ジュアン祭り前夜祭の日のことだ。昼も回った頃、突然フラット内で大きな猫の泣き声が聞こえた。また、階上の猫ちゃんが出ちゃったのかな?と思い、我がフラットのドアを開けるなり2匹の黒猫がダッシュしてそのままリビングに入って行った。
うわ!と驚いたが、寝室側には我が家のゴロー君が寝ているので即座に寝室に続くドアを閉めた。

一匹の黒猫はすぐ抱っこできたので、真っすぐ階上のフラットに行くと、あらら、ドアが開けっぱなしではないの。これじゃぁ、ネコが逃走するはずだわ、と思い、ドアチャイムを何度か鳴らしたが誰も出てこない。黒猫を家の中に押し込んで階段をおり、どれ、もう一匹の黒猫を、と探したが見当たらないのだ。

隠れているとすればホール、台所(隠れる所はほぼない)、もしくはリビングルームだ。リビングにある家具やパソコン代の後ろ、上、ソファの後ろ、下(狭くてまず入れない)を一通り探したがいない。が、窓際に置いてある大きくなり過ぎた観葉植物の木、ベンジャミンが倒れている。

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あ、そうだった、窓を開けっぱなしにしてたんだった~ 自分が入った家が違っていたのに恐怖感を抱き、窓から下へ飛び降りたと判断した。我がフラットは二階ゆえ、うちの猫たちは全員窓から落ちた体験を持っている。あはは。しかし、ご長老で親分ネコだったゴンタを除いてはみな外界を知らないので落ちた場所で固まってしまうのである。

そうこうしているうちに階上の住人、10代の娘さんが「すみません、ネコが逃げたようで入って探してもいいですか」と、数人の友達とやってきた。が、見つからない。で、窓が開いていたこと、木が倒れていたことを話して、恐らく外へ飛び降りたと思われると話したところ、彼らは外へ猫を探しに。小雨の中であった。

結局、人を怖がる黒い大きな親猫を見つけることはできなかった(親子の黒猫だそうだ)。あぁ、窓さえ開けていなかったら・・・と後悔するものの、わたしは起きると必ず窓を開け放し空気を入れ替えるのが習慣なのだ。

家猫が野良ネコになることの厳しさを思うと可哀そうで、その夜はろくすっぽ眠れなかった。 それが23日の午後だ。翌々日、25日土曜日の明け方、「ウギャウギャー!フーッ!」のゴローの声で目が覚めた。あ、あの黒猫だな!と即思ってゴローが寝ていたリビングに行ってみると、何もないところに向かってゴローがしっぽを巨大に膨らましている。
夫も起きてきて、やはりこの部屋のどこかにいると知り、再度よく探してみたが見当たらない。果てはソファを動かし、アームチェアはひっくり返したりしてみたが、いない・・・

一か所、まさかと思う場所が暖炉だ。ここも一応覗きはしたが、上に上ったにしても大きなスペースはないわけだからと注意はしなかったが、ここしかないではないか?そう思い懐中電灯を持ってきてよくよく見るとなんと、暖炉の黒い部分(黄色い矢印)は壁になっており、その上部からどうにか入れそうなのだ。しかし、呼べどもニャンとも返事なし。

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人一倍怖がり屋のネコだと聞いているから、そのままにして置くことにした。その日、土曜日はリビングでほぼ一日中オンライン日本語教室があり、昼食の時間帯に階上の人に来てもらうことになった。

母娘二人で、もう一匹の黒猫も母猫を呼び出すために連れてきた。何度も何度も呼びかけ、連れてきた黒猫には「お母さんを呼んでごらん」と話し、ケータイのカメラで暖炉の壁の上にあるスペースから写真を撮ると、うわ、いるいる!光った目がふたつ写っている。

呼びかけること40分。最後は娘さんが暖炉に入り壁の上の隙間から手を入れて、ついに引っ張り出した。この壁、ちょっと触っただけでもススで手が真っ黒になるのだが、もうそんなことはお構いなしだね。ネコは黒猫だったからススの汚れが目立たないものの。あははは。

三日間飲まず食わずで、明け方さすがくたびれたか姿を現したら、そこにはゴローがいたってなわけで、再び暖炉の壁の後ろで息をひそめていたのかと思うと、気の毒やらおかしいやら。いずれにしても無事捕獲できて本当によかったこと!実はこの子猫のほう、こんなエピソードがあるのである。
次回に続く。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた明日。

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2022年6月27日 

「麦の秋」という言葉に出会いました。

「麦の秋」は、「稲の秋」に対して、麦の収穫を迎える初夏のことで、俳句では夏の季語なのだそうです。麦は大昔、地中海地方で始まり、弥生時代には日本にも伝わっていたと言います。

ところが、夏は乾燥する地中海気候からやってきた麦、湿気の多い日本の気候にはうまく適能できず、稲に主役の地位を譲ったまま、現在に至っています。

おもしろいなぁと思ったのは、世界のほとんどの国では小麦の生産が主なのに、日本は大麦の生産が小麦を上回り、このような国は他にチベット、エチオピアと、世界でも2、3カ国しかないとあることです。

ははぁ、では、チベット、エチオピアでは大麦を原料にどんな食べ物があるのかと興味がわきます。

小麦はパンの原料、大麦は日本では味噌や醤油の原料です。また、大麦は麦ご飯ともなります。昔は前年の秋に穫り入れた米が底をつく春から初夏の麦の取入れまで食べるのに事欠き、麦の秋がくればそれで次の米の収穫まで食いつないだとあります。

麦秋や若者の髪炎なす   西東三鬼(さいとうさんき)

黄金の麦畑にそそぐ初夏の乾いた太陽。麦秋の風になびく若者の髪がまるで燃え立つかのようだ、と歌の解説にあります。

「若者の髪炎なす」にドラゴンボールの悟空の「つったってる」ヘアスタイルを想像してしまうわたしなどは、作者の顰蹙を買いそうです。

麦秋
Wikipediaより

ポルトの学校は既に夏休みに入り、今週はまだ涼しい気候がつづきそうです。夏はポルトガルに限ります。この乾燥した夏というのは、実際体験してみないと分かりにくいのではないでしょうか。日本と同じ気温なのに湿気がないので、エアコンなしでもなんとかやり過ごせるのです。

とはいうものの、わたしは暑さにからっきし弱いので、我が家ではエアコンを使ったりしますが、日照りが強い日中は窓のブラインダーをおろして家の中を暗くすると、暑さが大分違います。

関東地方は今日梅雨明け宣言したとのこと。いよいよむし暑い夏が始まる日本、節電のためとて政府の言葉にしがたい、命を落としたら元も子もありますまい。足りないのを補うように策を練るのが政府の仕事、2000円ぽっちもらってどうする!と、愚策に怒り呆れているわたしであります。

ではまた。


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2022年6月22日 

3年ぶりにリスボンのサント・アントニオ祭り(6月13日)、ポルトのサン・ジュアン祭りが復活だ。今日は、何度も拙ブログで取り上げているのだが、季節の行事として紹介したい。

これなくして夏が始まらないと言われる6月23、24日の洗礼者ジュアン(ヨハネ)のサン・ジュアン祭。ポルトガル語でFesta de São Joãnと呼ぶ。
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サン・ジュアンの祭日は24日だが、祭の見どころは23日の前夜祭だ。その数日前から街ではプラスティック製の大小色とりどりのピコピコハンマーやマンジェリコの鉢植えが売り出される。

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独特の香りを放つマンジェリコは魔除けになるとの迷信がある。前夜祭夜11時ともなると、ピコピコハンマーを手に老いも若きも行き交う人々の頭をピコピコ叩きながら、ドウロ河畔リベイラに繰り出す。この夜は誰の頭を叩いても無礼講だ。
また、6月はイワシの旬である。その炭焼きの匂いとピコピコの音とでポルトの街は祭一色に染まる。

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ダウンタウンの路地裏は音楽に合わせてダンスに興じる人々やイワシを食べる人々で盛り上がる。
ぺナ城

ポルト市庁舎前やリベイラ広場ではライブコンサートが催され、押すな押すなの人ごみの中、ハンマー、マンジェリコに加えて祭の三種の神器とも言える熱風船があちこちで打ち上げられる。ゆらゆらと夜空を渡っていく熱風船はまるで星のようだ。

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0時ともなるとドンルイス一世橋から盛大に花火が打ち上げられ祭の佳境を迎える。賑わいは一晩中続く。

昔ながらのサン・ジュアン祭を楽しみたければ、一夜明けた24日にフォンタイニャス地域を訪れるとよい。そこは祭の発祥地だ。

「リスボンは遊び、ブラガは祈り、ポルトは働く」とポルトガルでは言われるが、その働き者のポルトっ子が熱狂するのがサン・ジュアン祭である。因みにポルトのサンジュアン祭りはリスボンのサント・アントニオ祭りにあるパレードはない。祭りはポルトっ子が楽しむのである。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。

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2022年6月21日 

夫が珍しくわたしが授業に使っているKanjiワークブックを手に取りながら「papagaio(パパガイウ=オウムのこと)さん、どうしてるんだ?」と聞く。パパガイウさんとは我が友だちであり生徒でもあるマリアさんのことだ。言語習得にはオウムの如くまず口真似の繰り返しからと言う意味で使っている。

御年84歳のポルトガル女性で細身、性格がサバサバしていて批判精神も旺盛。物事への意見がわたしと合うのでる。コロナ禍以来、日本語授業はストップしたままだが、彼女の日本語学習については心配していない。自分できちんと時間を作って勉強する人だからだ。

この2年間はたまにあちらから電話が来たりわたしが電話したりという関係でいる。で、どうしてるかな?コロナ緩和で大丈夫かな?と思い、昨日は久しぶりに彼女を電話に呼び出した。

わたしの電話を受けた時、またわたしの電話に応えるときの第一声はいつも「オ・プロフェソーラ(先生)!」なのだ。昨日もそれで始まり、まぁ、彼女、まくし立てること!(笑) で、大丈夫?コロナは?」と聞くと、「5月の初日に罹りましたよ!」 ぎょえ~のわたしであった。

聞けばTai chi(太極拳)の稽古をもう始めていたというではないか^^;「大変だった!わたしたちの歳では罹らない方がいい、先生」と言う。い、いや、あなたはわたしより8歳くらい上なんだから「わたしたちの歳」ではないと思うぞ、マリアさん(笑) 「わたしの歳では」と言うべきところだぞと内心思ったが、わたしも罹ったら大変なことになるだろう。 
ネコはどうだ孫はどうだとお互いの家族の無事を確かめ、コロナが落ち着いたらまたと元気に受話器を置いた。それにしても太極拳も続けて元気なマリアさん、もう脱帽だな^^
その彼女の面白エピソードです。以下。

某月某日
日本語教室、個人授業の生徒ですが、長年の付き合いで生徒というより友達のマリアさん、週に一回の授業は教えるわたしも毎回楽しい。

78歳の彼女はTai chi(太極拳)を習っていて、冬でも半袖です。うわ!寒くないの?と聞くと、「触ってごらん」と言って腕を差し出します。触ってみると温かいのです。我が家に通うのも途中でバスを降り、20分ほどは歩いてくるのが常です。溌剌としたエネルギーが、本人の体から、精神から伝わってくるようです。

基本文法はしっかりできている人で、読解力本も一通り終わってここ数年は彼女が持ってくる現代作家のエッセイや短編小説を授業で読みます。最近では村上春樹、酒井順子がそれで、私自身は恐らく自分からは手にしないタイプの読み物です。日本にいたころから活字中毒のわたしでしたが、「一緒に読んでください」と彼女がもってくる読み物は、わたしが若い頃手にして読んだ文体と明らかに違っています。

そんな訳で、読み物の内容よりも日本語がどんな風に現代作家に使われているのかを知るのが面白いところです。

さて、その彼女がある日、日本の知り合いから送られて来たので、本の内容はだいたい分かる故、それは置いといて、前書きを読みたいと持って来たのがこの本です。

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ナ、ナスレディン?ひゃ~、懐かしや!

高校卒業後のわたしの英語学習はほぼ独学なのですが、アリゾナ大学のESL(English as a Second Language)コースの留学を決めた時点で、独学では不安になり一時期オーストラリア人が経営し、講師は全員ネイティブ・スピーカーだという大阪の語学教室に通ったことがあります。

そこで、知り合い友達になったイギリス人講師が遊び半分に授業で取り上げたのが、このNasreddinのトンチ話だったのです。もう40年以上も昔のことですぞ(笑) そして、この時の講師兼友人、ロブとは後にアリゾナで会い喧嘩別れのようなことになり、数年前のFacebookを通して30数年ぶりに向こうからコンタクトが入ったと言う、ロブに因む縁がある本でもあります。

※ロブは左カテゴリ「アリゾナの空は青かった」の思い出話で何度か登場していますので、興味ある方はどぞ。 
 
まさか、マリアさんを通じて40年ぶりにナスレディンの名を耳にするとは思いも寄りませんでした。

マリアさんとは、音楽でも面白い偶然があるのですが、それはまた後程。

そんなこんなで、我がアリゾナ時代の話で盛り上がり、字がびっしりの3ページを辛うじて2ページ終えたその日の授業の終わりに、マリアさん曰く、

昨日、街を歩いていると簡易健康診断車の側を通りかかった。と、中年の係員に年配者に受けて欲しいとマリアさんは声をかけられ、結構ですというのに強引に誘われ健康検査をする羽目になった。

その中に力の強さを測るバネ式の計量器があった。取っ手を持ち、グイと引き上げたが幾ら上げようと思っても上がらない。すると記録用紙とペンを手にした係員、まじまじと彼女の顔を見、「セニョーラ、もうそれ以上上がりません。測りを壊してしまいましたデ。」 (爆)

最初のグイのひと引きで既に測りを壊してたって、マリアさん。ギャッハッハの大きな笑い声で授業は終了したのでした。いやはや、体力では8才歳上のマリアさんにわたしは太刀打ちできないでしょう。

もちろん、彼女のその他の検査は全て問題なく健康体そのものだと太鼓判を押してもらったのだそうな。心のどこかに少年期を隠し持っているような、気が合う愉快な我が友、マリアさんの話でした。

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2022年6月20日 

先週は突然穴埋め原稿の依頼が入り、うひゃ~と思いながらも15年ものお付き合いゆえ断ることはできない。締め切りに数日しかなかったので久しぶりに夜更けまでパソコンに向かい、とにかく金曜日まで仕上げられたからよかったが、寝不足がたたって土日はそれを引きづりながらの日本語授業でした。

ポルトガルの12年生は国家試験のため2週間ほど前に卒業、他の学年も先週末で終業したようで、今朝の散歩では静まり返った近くのリセウ。この静けさは9月中旬まで、ほぼ3カ月近く続くことになり、いよいよ夏がやってきます。

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何年も花をみせなかったのが、知らぬ間にベランダでたった一輪のおおぶりなバラが開いていました。めったに切り花はしないのですが、思わず切って台所に。

やっぱり夏休みが長すぎるよといつも思うのですが、日本人のこの見方は何十年ポルトガルにいても変わらない(笑)日本だったら3カ月も夏休みだなんて、親も子供もどうするだろうか?と思ってみても、かようなことは日本では起こりえないので無駄です(笑)

さて、近頃ではもうあまりニュースの話題に上らなくなったコロナですが、周囲では確実に増えているような気がします。ワクチンを接種しているのに、です。夫より年上の元同僚夫婦、わたしたちの甥家族、知人等々、どちらかと言えば若い人たちに多く見られます。

政府のコロナ規制がすっかり緩和され、若い人たちの行動範囲は普段に戻り、この2年間 キャンセルされてきた野外音楽フェスタ、祭りなどの行事が復活しました。年配の感染者は恐らく家族の若い人たちから感染することが多いのではないかと思います。
騒がないのは一時期に比べて死亡者数が少なく症状も重篤化しないからでしょうか。統計の数字より実際の感染者数は恐らくもっと上がるはずだと思います。

政府のコロナ規制がすっかり緩和され、街を歩いてもショッピングセンター、スーパーを見てもマスク姿はあまり見かけなくなりましたが、わたしは慢性気管支炎なので、夏場を除いては吸入薬が手放せません。感染した場合は気管にどういう影響を及ぼすかと考えるとちょっと怖いです。ですから、今でも用心して人が多い場所ではマスクをします。

周囲で感染者が増えている中、84歳、80歳、74歳の夫の三兄弟は今のところそれから逃れられており「Os Três Mosqueteiros(三銃士=アレクサンドル・デュマの小説。アラミス、アトス、ポルトスの三銃士のこと。)」と言われてるのだそうです(笑)

じゃ、わたしは?と聞くと「ダルタニャン」と言う。あっはっは。随分と年喰った三銃士とダルタニャンだこと。そうしてみれば、デ・カプリオの映画「鉄仮面」には、老いた三銃士とダルタニャンが再登場して活躍していたのを思い出しました。
最後の戦いのシーンでは、デュマの有名な言葉、「One for all,All for one」と剣を重ね結束して突撃するんでしたっけ。4人一緒のコロナ突撃はごめん被りたいけどね。

本日も読んでいただきありがとうございます。
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某月某日 

作家向田邦子氏のエッセイに「眠る盃」というのがある。「荒城の月」の「春高楼の花の宴 めぐる杯 かげさして」の「めぐる杯」を少女時代からずっと長い間「眠る盃」だと思っていたというのである。

よくありがちな話で、おっちょこちょいなら人にひけをとらないであろうわたしだ、同じような体験を持っており、これを読んだときにはなんだかすごく向田邦子という作家が身近に感じられ、以来ファンになったのである。

かごめとかもめをの区別がつかず、「かごめーの水兵さん、ならんーだ水兵さん」と歌っていたし、かごめが鳥などではなく、竹で編んだかごの網目だと知ったのはずっと後の大人になってからだ。

また、愛唱歌「朧月夜」にある、「菜の花畑に入日うすれ、見渡すやまのは~」と、これは大好きな歌のひとつなのだが、補習校の朝の歌に選択し子供たちに教えるまで、「見渡す山野は(Yamano wa)」と歌っていた。

「見渡す山の端」だと歌詞を文字で見て知り、ぎょえ!と冷や汗をかいたものだ。以来、ソコツな自分だからこそしていたかも知れないその間違いを、他人もしているに違いないと勝手に思い、しばらくの間は聞かれもしないのに会う人ごとにこの歌の解説をしたものであった。子供たちにも「ここは、こういう意味でこう歌うんですよ」と、さも知ったように話したわたしではあった。

おなじみの歌、

夕やけ小やけのあかとんぼ、
おわれてみたのは いつの日か

漢字で歌詞を書くと「負われて見たのは」となるのだが、大人になってもずっと「追われて見たのは」と歌っていた。よく意味を考えると、「追われてみたのは」ではおかしいと気づくはずなのだが、子供のころの刷り込みは疑ってみようとも思わない。「洗脳」というのはこういう怖いことだとこの時改めて思った。

さて、どうしてこんな話かというと、ある日のこと、いつもの通り、日本に住む我がモイケル娘、「ただいま~」とスカイプにあがってくるなり言うには、「おっかさん、まりちゃんが要(かなめ)君に会ったって!」

まりちゃんとは我が妹のことで、モイケル娘にすればおばにあたるのだが妹には「まりちゃん」で承知してもらっており、そのおばとも娘は時折ネットチャットしていた。

「かなめ君て、ふしみ・かなめくん?」と聞くとそうだと言う。

思い出の坂道を一気に駆け上るシグナル「ふしみかなめ君」なのだ。こう書くと初恋の人とでもたいがい思われるんだろうが、そうではない。

わたしの子供時代、弘前の下町だった新町(あらまち)に母とわたし、妹の3人は祖母に同居していた。当時独身だった母の兄弟たちもおり総勢13人が祖母の一つ屋根の下に住んでいた。その隣家の床屋さんの一人息子君で、ことチャンバラでは近所で右に出るものがないくらいピカイチのガキ大将だったわたしに、毎度やられては泣いて家に帰っていたかなめ君なのだ。

妹はガキ大将のわたしにしょっちゅうくっついて共に遊んでいたあの頃、わたしにも妹にも、なぜだか今に至って色あせることのない名前、「ふしみかなめ君」なのである。

それを我がモイケル娘がなにゆえ知っているかと言うと、そういう昔話の類をこのおっかさんから繰り返し聞かされていたのであった。

まりちゃんこと、我が妹が言うには、ついこの間、ダンナと一緒に弘前へ帰ってきた。(義弟も弘前出身である)そのついでに今は祖母の家もなくなってしまったが、新町に寄った所がひょいと床屋から出てきたのが、なんとその要君だったそうだ。

共に遊んで、いや、要君にしたらしょっちゅう泣かされた遊びなわけだが、要君に会わなくなってゆうに半世紀にはなろうから、わたしなど彼の顔はまったく覚えていないというのに、我が妹、よくぞ分かったものとすっかり感心した。

ふしみ理髪店とでも看板があったのだろう、わたしたちと同じ年恰好の床屋の主人と見て、要君とわかり話しかけたのだそうだ。

さて、ここからわたしの「眠る盃」なのである。

ふしみかなめ君とは切り離せない連鎖する津軽言葉がわたしたち二人にある。彼がうわ~~んと泣いて家に走り去る姿を見ては二人して「ガニアベガニアベ」と喜んでいたのであった。

この語源も知らずに我らは使っていたのだが調べて見ると、蟹を食べるのに塩加減がちょうどいいことを津軽では「いいあんべ、ガニあんべ=いいあんばい)カニ塩梅(蟹あんばい)」と言うのだそうで、わたしたちはその言葉をどこかで聞き、勘違いして「泣かせてやった、へ~んだ」くらいの意味で使って
いたと思われる。

泣いて帰ったかなめ君のご両親からは一度も苦情が来なかったことを思えば、子供同士のこととてそれも遊びの枠と大目に見ていたのであろうか、あの頃の世の中はのんびりしたものであった。

故郷の夢を見た時は、いつも幼い頃の思い出が生き生きと甦り、無性にあの頃が愛しくなる。

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弘前公園堀のボートに乗って。この頃はさすがふしみかなめ君を泣かせるチャンバラごっこをしていなかったと思う。要君の右隣の家と反対の空き家になった左隣をお化け屋敷と称して色々な遊びを創り出していた。のど自慢のようなことなど(笑)

思い出のバスに乗って 黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の向こうの坂道

あれから60余年、人生の色々なバスに乗り継いで、わたしはこんな遠いところまで来てしまった。

今日も読んでいただき、ありがとうございます。
それでは、また!
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2022年6月14日 

4人家族だったのが、二人の子供たちが日本に住み着き今では夫婦二人暮らしだ。5匹いた猫たちも順番にお迎えが来て、16歳のゴローネコ一匹になってしまった。

子どもたちがいたころは、掃除、洗濯、アイロンかけを毎日のようにしていたものだが、それも回数がぐんと減った。それでもコロナ禍以前は、土曜日のグループ日本語クラスは借り教室でしていたが、週日は毎日のように個人授業の生徒さんが出入りしていたので、入り口ホールとリビングルームはしっかりと掃除していたものだ。

なにしろ、5匹も猫がいたので猫の毛も生徒さんが気にならないようにせっせと掃除。と言えば聞こえがいいが、あの・・・^^;週に2度、掃除のおばさんに来てもらってたのである。

今は、上述したように夫と二人、ネコも一匹、それに日本語はオンラインにしてしまったので、生徒さんが家に入ることもなくなった。で、我が家の3代目もお掃除のおばさんは、週に一度やってくるドナ・アナ・マリアだ。

2代目のおばさんは我がモイケル娘が誕生する前、つまり夫の母たちと同居していた頃からの人で、遠方へ引っ越しするまでの20年以上も我が家に出入りしていたのである。今日はその2代目の掃除のベルミーラおばさんの話だ。以下。

某月某日 ポルトガルのコネ社会
 
今の若い人については、家を訪問したことがないので分からないけれども昔のポルトガル女性のきれい好きは半端ではなかった。

現代と違い専業主婦がほとんどだったこともあるだろうが、それにしてもその徹底さには感心を通り越して、そこまでやる意味がどこにあるんだぃと時に反発を覚えたくらい、亡くなった夫の母や叔母たちは家の中をピカピカに磨いていたものだ。

台所にいたっては、本当に先ほどまでここで料理し汚れた食器が重ねられていたのかと思われるほど台所は片づけられる。調理台にはきれいなレースが置かれて、その上には台所に相応しい陶器の果物入れや置物などが飾られるのだった。流し場には水滴ひとつ残さない。

3時間もすれば再び台所で料理をすることになるのだというのに、いい加減な片付け方をしないのである。嫁いできた当初それには驚いた。 ある日、手伝いをせねばなるまいと思い夫の母やおば達と一日中一緒に台所に立った日のこと、残念ながら修行の足りないひ弱な我が両脚は大根のようにパンパンに腫れ上がったものだ。

ピカピカに磨かれた家中の家具にはたいてい手製のレース編みのテーブルセンターやテーブルクロスなどが敷かれる。わたしがポルトに来た40年ほど昔は、バスの中で、電車の中で、病院の待合室で、果てはいかがなものかと思われたが、公の場での、例えば郵便局、市役所などの窓口でさえも女性職員が暇を見てはせっせと編み物に手を動かしていたのさえ、目にしたものだ。

さて、話を戻して。週に2度、もう解雇したくも解雇できず(倹約のためなんですが^^;)ずるずる今日まで20年間午前中の3時間、大きくもない我がフラットの掃除を頼んでいる、Dona Belmira(ドナ・ベルミラ)というおばさんがおります。

Donaと言うのは、ポルトガル語で既婚女性の名前の前につけられます。例えばわたしの場合は、「Dona Yuko」と言う具合に。ま、奥さんということでしょうか。

さて、そのD.(Donaの略)Belmira、今朝我がフラットのドアを入るなり、自分が先日行った血液検査クリニックでの不満をまくし始めた。

ポルトガルでは血液検査は病院ではしない。それ用の場所があり、そこで採血してもらい、後日検査結果を受け取りに行き、それから、その結果を病院の担当医にもって行って診断を仰ぐのである。

D.Belmiraが何に立腹してるかといいますと、こうです。

どこもそういう検査のクリニックは人でいっぱいになるのは目に見えているので、家を朝早く出た。それでも自分の番号札は44番。じ~っと我慢の子、自分の番号が呼ばれるのをまだか まだかと待っていたのだそうです。

だんだん44番に近くなり、いよいよ42番が呼ばれた。彼女の番号札は44番だ。いよいよ次の次だ。すると、42番から43番、44番をすっとばして50番54番を看護婦さんが呼んだのだそうだ。こういうことはよくあるのです^^;これは看護さんが番号を間違えるのではなくて、間に知り合いとか、知り合いの紹介とかの人をサーッといれるのでして^^;言うなれば、コネですね(笑)

D.Belmira、黙っておりませんです(笑)なんでよ。なんで43の次が50になるの!と、早速その場で看護婦をひっつかまえて、一席ぶった。

「ちょっと、看護婦さん、お待ちよ。今、呼んだ番号、何番と何番?
この番号札、順番でしょ?」
「そうですよ」と看護婦。
「あたしゃ、44番なのよ。43の次がなんで50になるの?」
「あたしの里じゃ、43の次は44が来る。50は49の後と学校で
教わった。ここは違うのかい?」

ここまで聞いてわたしはキャハハハハと大笑いしてしまった。
更にD.Belmiraは続ける。

さすがの看護婦もこれには抗しきれず、仕方なく43、44と呼びなおし(笑 )しかし、その後がいけまへん^^;

「見てくださいよ、D.Yuko!」と採血の痕がついてる腕をわたしの目前に突き出し、「あの看護婦ったら、腹いせに2度も間違った振りして、針が通らないとこに突き立てて!」見ると、腕の同じ箇所に3つの注射針の痕が(爆)

必ずしも故意にしたとは思われないが、なんともわかりまへん^^; えらい気の毒なことではありましたが、わたしは、D.Belmiraがプリプリ怒っているのに拘わらず、「あっはははは」と大声で笑わずにおれないのでした。

こういう小さなことから大きなことまで、ポルトガルがコネ社会であるのは間違いない。フェアじゃないと知っていながら、時々わたしも夫の七光りを受けて、43番の次に50番が来るようなことをしてもらってることが残念ながら・・・ある^^;

そのようなことを自ら頼みはしないが、日本から日本人の妻を連れてきたというので、夫を知っている人たちは、知らぬ間にそういう計らいをしてくれてるはずです。そう思ったら、「あっはははは」と笑った後で、気がひけてしまいましたっけ・・・

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。

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2022年6月12日 ジョニ・デップのNinth GateとシントラのChalet Briester

ここ数年、日本語教室が忙しかったのとコロナ禍とで、好きなポルトガルの歴史探索やシンボル探索を怠っていました。何年か前に日本からやってきた妹夫婦を連れてシントラを訪れたことがありますが、シントラはポルトの次にわたしが愛する町で5回ほどは行っています。

妹も「ユウ(わたしのことである)の案内で、ガイドブックにはない、普通ならば気づかないものをいっぱい見せてもらえた!」と我が案内を大いに面白がってくれました。行く度に新たな発見があり、わたしにとっては実に興味深い町です。わたしが行こうと何度も言うもので、の多少食傷気味な夫ではありますが、それを横目に、秋も深まる頃に来て見たいなぁとねだっています。

1990年代始めに初めてシントラを訪れましたが、宿泊したホテルのロビーから森の中にお城や旧貴族の館の塔がちらりほらり見え、まるでおとぎ話に出てくるような景色に感嘆の声をあげたものです。

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シントラの森の中にはこのような小宮殿や屋敷がたくさん隠されているのです。上の写真左に見える幾つかの尖塔がある屋敷は、今では多くの観光客が訪れるようになった「キンタ・ダ・レガレイラ」です。

この写真を撮ってわたしが最初にキンタ・ダ・レガレイラを訪れた時は、ツーリストが全くいなく、わたしたちだけでした。この屋敷に魅せられ、以後何度も訪れましたが、2014年くらいまでは人が少なく、シンボル探しには絶好の時間でした。一度などは、閉館時間に1時間足らずの時に一人で入ったことがありますが、庭園も屋敷もわたしがたった一人の見学者で、実に嬉しい思いをしたものです。

2016年に我がモイケル娘と婿殿を同伴した時は、団体客も含むあまりの人の多いのに失望して以来、シントラを訪れていません。市にとっては多くの観光客が訪れることで財政が潤うのでしょうが、あれでは新たなシンボル発見をするためにゆっくり見て回ることもできません。

さて、摩訶不思議なシンボルがいっぱいの町でなのですが、昨日は何気に目に飛び込んで来たニュースに、おっ!と思ったのです。なんと、今年2022年の4月から「シャレ・ビエステール」が一般公開されているというではありませんか。わたしたちが行った時は、私邸ゆえ門は閉じられており、外から邸の写真を撮るに終わったのでした。

8年ほど前にも拙ブログで取り上げているシントラの中腹にある「Chalet Biester」の紹介です。

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門外からやっと撮れた屋敷の写真。屋敷は個人住宅で入ること叶わず^^;

ポルトガル語では「シャレ・ビエステール」と読みます。Chaletと言うのは建築様式でアルペンスタイルの家のことだそうです。「Chalet Biester」は19世紀の建築様式イギリスのクィーン・アンスタイルとネオゴチック、ネオロマネスクが混同しています。建築家はJose Luis Monteiroです。

Biester館の存在を知ったのは、ジョニ・デップ主役の「The Ninth Gate(邦題:ナインスゲート)」をテレビで偶然観たときです。Ninth Gateと言うのは「影の王国への九つの扉」の意味。原作は、1993年に書かれたスペインの作家、アルトゥーロ・ペレス=レベルテの「デュマ倶楽部」で映画監督はロマン・ポランスキー。う~む、デュマ、ポランスキーと聞いただけでも摩訶不思議な作品と思えます。

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Wikipediaより

ジョニ・デップが演じるCorsoは稀覯本(きこうぼん)を発掘してはそれを売り込むことを生業にしています。ある日、世界に3冊しか現存しないと言われる祈祷書『影の王国への九つの扉』のうち、どれが本物なのかの調査を依頼されます。
捜査をするうちに不可解な殺人事件が起こり、やがて本物の本を見つける鍵は堕天使ルシファーの署名が入った挿絵の版画にあることを突き止めまる訳ですが、3冊の稀覯本を捜し求めて行く先がパリ、トレド、そしてシントラのこの屋敷です。

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シントラが出てくるのでこの映画を観たのではなく、偶然見ている途中で「あれ?知ってるジャン、この道・・・、シントラだ」と相成ったのでありました。わたしが調べる限り、シントラは太古の昔から「月の山」と呼ばれてきたエソテリックで多くの神秘思想主義者を魅了してきた町ですから、この映画の1シーンに取り上げられたのはさもありなん。

下記にネットで拾った画像をアップして見ます。

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森の中にあるBiester屋敷。

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正面。映画を観たからか、どことなく妖気が漂っているような気がする単純なわたしであります。映画では屋敷の前の噴水の中で、稀覯本の一冊を持った館主の死体が浮かびます。外見もさることながら、内部をもネットで拝見してみました。

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最初の持ち主はドイツ系のコルク大商人、Ernest Biesterだと言われます。

この部屋などはじっくりと観察して探ってみたい思いに駆られます↓
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屋敷内にある礼拝堂。色具合がフランスの「レンヌ・ル・シャトー」に似通っていないか?
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神秘主義には定番のドラゴンが見られる
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ジョニ・デップの映画そのものはシンボル探索好きのわたしには面白いものでしたが、断っておくと、わたし自身は特別にオカルトに興味があるわけではないのです。昔から残されて来たシンボル読解と、それらを未来の人々に伝えんとした人間の心理に興味をもつ者です。

いかにしてキリスト教が欧米社会を支配してきたか、キリスト教から見る悪とはなんだったのかとヨーロッパ圏に住んでみて、これを知らずして欧米の文化は理解できないだろうとの結論に達し、追っかけ始めた謎シリーズではあります。

私たち人間そのものが善と悪を内に持つミクロコスモス、されば、宇宙全体、マクロコスモスも然り。神、悪魔は言葉として知っているものの、それに対する欧米人の考えはキリスト教文化を背景に育っていないわたしにはなかなか理解し難いものがあります。

どこかで目にした、「悪魔には問題があるが 神にも疑問がある」がわたしの正直な気持ちでしょうか。

最後にNinth Gateの中からの言葉を。「Every book has a life of it’s own 」
ということで、シントラのシーズンオフにでも、この屋敷を訪ねてみたいと思っています。

ではまた。
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2022年6月10日

初夏の風光は麗しい。果物屋の店頭にサクランボが並ぶ季節でもある。5、6月のサクランボにはなぜだか青春の影が揺れ動いている気がする。

「さくらんぼの実る頃」は、歌手の加藤登紀子さんがアニメ「紅の豚」中、フランス語で歌っている。6月の季節をロマンチックに歌っているが、調べてみるとこのシャンソンは1870年代の第3共和政に虐殺された多くのパリコミューン参加者を悼んで市民に歌われ始めたのだそうだ。

また、作詞家はパリ・コミューンの一員で、当時、バリケードを築き政府軍に抵抗していたコミューン軍に参加しようと、手にさくらんぼのカゴを抱えてやってき、落命した若い看護婦に捧げられた歌でもあるそうだ。

こんな謂われを知ると、あっという間に終わってしまう可愛いさくらんぼは、夏を目の前にした明るい光の中で、なぜだか少し寂しげでもある。

今日は我が青春の大阪時代、男女100人ほど(うち女子は5、6人)が住んでいた下宿ビルの20歳の頃の思い出話を。かれこれ半世紀も昔のことになる。以下。

某月某日 我が青春の「津国ビル純情」

大阪住吉区の杉本町にあった津国ビル下宿屋には門限があった。シンデレラ・タイムの12時である。それを過ぎると、例え前もって電話で「12時をちょっと過ぎるけど門を開けといて」と頼もうが、玄関は管理人夫婦が時間通り閉めて開けられることはない。

いずれにせよ、門限時間まで遊ぼうとしたら、タクシーで帰れるだけの経済的余裕が要るので、貧乏学生やわたしのように定職のないようなのが結構いた下宿ビル、そういうことで締め出しを食うのはあまりいなかった。いたとしても男の話であるからして、さほど心配にも及ぶまい。

と、言いたいところであるが、女のこのわたしこそお仲間がいたが、実は門限破りの常習犯であった。

しかし、一言言わせてください。それは遊び呆けてではなく、生活費を稼ぐためのレストランの宣伝撮影助手のバイトが理由であった。

下宿にカメラマンの卵N君がおり、彼は副職としてこういう撮影の仕事をしていた。照明やらなんやらのアシスタントがいるというので、わたしにこの話が回ってきた。撮影場所のライトのあたり具合に小道具を使うので、わたしがそれを上に掲げたり照明ライトを持ったりしてのバイトだ。大した収入にはならないが、生活の足しにはなる。撮影の話が来るたびわたしは引き受けていたのだが、問題は門限だ。

この仕事はレストラン閉店後でないとしできない。よって、撮影は夜10時半ころから始まり一時間半ほどで終わる。後片付けもあるからして、繁華街から下宿屋までタクシーで帰ったとしても12時を回る。

コの字型の下宿ビルで、わたしの部屋は一階中庭に面しており、入り込むことはできなかったが、運良くN君の部屋は通りを前の、雑草が生えただけの広い空き地に面していたのだ。

そこで、撮影がある日は、N君、自分の部屋の窓の鍵をかけずにでかける。そして、仕事終了後二人でタクシーを下宿屋の近くまで乗りつけ空き地をざざ~っと横切って、手はず通戸締りのしていない窓から入り込む、ということを、わたしたちは繰り返していたのだった。

あの頃は物騒な世の中ではなかったからそんなことができた。わたしなどは後年、枚方(ひらかた)にある自分のアパートの台所の窓は、愛猫ポチが日中自由に出入りできるようと、年中少し開けっ放しにしていたが一度も泥棒に入られたことはない。

さて、その夜も難波にある中華料理店の撮影を事なく終えて、いつもの通りN君の窓から入り込む。「お疲れさん、またあしたね」と言いもって、わたしは窓から入るときに脱いだ靴を両手に持ち、抜き足差し足姿でN君の部屋のドアを開けた。

とたん、「こらぁーーー!」
なんと、目の前に怒声とともに管理人のおっさんがつっ立っているではないか!「また、お前らか!一回や二回ならいざ知らず、何べんやっとんねん!」

これは完全に袋のねずみで何の言い訳もできない。もとより嘘をつくのが下手なわたしである。現行犯ともなれば、もやは潔く罪を認めるしかないのであった。

おじさんは、毎夜門限時間になると、下宿屋ビルの屋上から通りに面した側を見張っておったのである。悪い趣味だよ。ふん!

二人とも現行犯の写真を撮られたわけではないから、しらを切ろうと思えばできたやもしれない。なぜなら、若いわたしたちはしょっちゅう誰かの部屋に集まっては明け方まで話し込んだりしていたのだし、それについては何のおとがめもなかったのだから。しかし、両手に靴を提げて、人様の部屋に行くか?(^^;)

あっさり門限破りを白状したわたしたちはこっぴどく叱られ、以後すっかり目をつけられて深夜に及ぶ撮影のバイトは終了になったのであった。

半世紀も昔のことで、あの頃の下宿生は概してみなやりくりに貧して、今のようにアパートに一人住まいするなど夢のような話ではあった。しかし、3畳の自分の部屋を一歩出ると、廊下でも食堂でも多種多様の人に出会うわけで、若いわたしたちは気が合う合わないを別にして、3畳間の誰かの部屋に集まってはその町にある大阪市立大学の学生を中心に夜毎青臭い議論を、先の不安な人生についての意見を交わしたものだ。

それはわたしの「それぞれ意見はあるが自分で考えてみよう」という姿勢を持つようになった原点になっていると思う。若い時の議論は目を拓かされることが多い。人は色々な意見を持っているものだということも学んだ。それは未だに学ばされている。


当世の若い人たちは今、そういう議論をするのだろうか?してきたのだろうかと、むやみに自己中心我欲に固執する異様な事件が多い近頃の母国を見ながら、サクランボの季節に遥か我が青春時代を振り返ってみた。

下記では、「紅の豚」の挿入歌でもあるシャンソンの「サクランボの実る頃」を加藤登紀子さんが歌っています。

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2022年6月9日 

明日の10日は「Dia do Portugal(ポルトガルの日)」と言って休日です。
正式な名称は「o dia de Portugal, de Camões e das Comunidades Portuguesas. 」。「ポルトガルの建国と、カモインス、ポルトガルのコミュニティを記念する日」となります。呼称が長い・・・

わたしがポルトガルに来た昔は一般的に「カモインスの日」と呼ばれていました。ご存知の方もいるでしょうが、カモインスとはポルトガルを代表する16世紀の隻眼の大詩人、「Luís de Camões」のことで、1580年のこの日が彼の命日であることに因みます。

ポルトガルにあるヨーロッパ最西端ロカ岬の石碑に刻まれた「ここに陸尽き、海始まる」の一文の作者でもあります。カモインスについては、拙ブログで何度か取り上げていますが、興味のある方はこちらでどぞ。
ここに陸尽き、海始まる」https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1591.html


今日は国の象徴であるポルトガル国旗を紹介します。

国旗ポルトガル

ポルトガル語で国旗をBandeira(=バンデイラ)と言います。現在の国旗は、ポルトガルが王政から共和国になった後の、1911年6月に制定されました。

濃い緑と赤の比率は緑が五分の二、赤が残り五分の三を占めます。赤はポルトガル民族に流れる血、勇気、頑張り、喜びを表し、緑は海と希望の色、また、戦いに於いてポルトガルに勝利を与えた栄誉ある色として選ばれました。

中央には、ドン・マヌエル一世がポルトガルの大航海時代の象徴として選んだ大きな地球儀を据えてあります。背景の白は平和を、真ん中の五つの青い盾は、ドン・アフォンソ・エンリッケによるオーリッケでの戦いで破った五人のムール人(アラブ人)王を表します。(註:イベリア半島の大半はアラブ人によって占領されていた)この印を「quinas(キーナス)」と呼びます。ポルトガルサッカーチームは「equipa das quinas(キーナスチーム)」と呼ばれますが、これに由来します。
   
盾に中の五つの白い星は、この戦いに勝利するためにドン・アフォンソ・エンリッケを加護するキリストの五つの苦痛(十字架刑に処せられた時に受けた五箇所の傷)を表します。

キーナスの周りの七つの黄色いcastelo=城は、ドン・アフォンソ三世によってアラブ人から取り戻された七つの城です。

ポルトガル国旗には、遠い昔のイスラム教徒から国土を奪回(reconquista=レコンキスタ)し、世界に誇る華やかな大航海時代の栄華を経て王政から共和国成立という壮大な歴史を垣間見ることができます。
   
いずこの国もそうであるように、ポルトガルもこれらの歴史はきれいごとであるはずはなく、共和国になった時点で王家の紋章であるquinas盾など取り払ってしまうこともできたことでしょう。それをしなかったところに、ポルトガル人の国民性をわたしは感じます。

一国の歴史は、遥か昔からの積上げがあり延々と繋がっているのです。民族はそれらの歴史を受け継ぎ、連綿とつながった先端に民族の今があると思います。

どこの国にも負の歴史があります。国旗を変え、国歌を変えたところで、それらの歴史が帳消しになることはあり得ません。国の歴史を厳かに受け止め未来に進んで行くべきだと言うのが、国旗国歌に対するわたしの考えです。

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国際スポーツ競技大会や国としての意思表示には一般宅でも国旗を飾るポルトガル人

海外にいると、自分の国の国旗、国歌、「日本」に対して国内に住んでいた時以上に、「わたしの国」「わたしが生まれ育った国」と言う強い思いをわたしは抱きます。皆様はいかがでしょうか。因みにわたしは両国の国旗を持っています。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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2022年6月8日  

わたしの日本語教室は文法中心です。これまでは借り教室での授業だったので好きなように教室を変えることは無理。授業料も安く設定しているので、わたし個人の設備投資は厳しい。で、授業スタイルは言うなればアナクロ授業と言えます。

わたしはホワイトボードの、あの書くときの滑る感じが嫌いで(下手な字が更に下手に見える、あは。) 実は未だに黒板を使用しています。わざわざ注文して作ってもらいました。いやはや、まったくのアナクロ授業ですやんね(笑)

某企業のえらいさんこと、マセラッティの君から日本語レッスンの依頼が舞い込んだ時は、彼のオフィスまでレッスンがある毎に重い黒板を持ちこんじゃったりしました。マセラッティの君、それを見かねて、わたしのためにとうとう黒板を発注したという話まであるわけでして(笑)

下のイラストは、関東在住の友人でイラストレーターのTyuさんが、そんなわたしの話を耳にして昔描いてくれたものです。ちょっとやそっとではモデルになれるものではありません。トレードマークの茶髪グラサンがちゃんと描かれており、お巡りさんもビックリ。年配者の雰囲気がどことなく感じられる絵で(プン!)、誠に光栄なことなのです。

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そんなわけで、授業開始前に生徒に聞かせるJポップのため、あるいはヒアリング練習のためにと、その都度、ラジカセ(これも今どきはもう売ってないなぁ^^;)と長いコンセントを持っていくわけです。コロナ禍以前は、こんなアナクロ授業をしていたのでありました。

先だってボランティアで日本文化展示会をしたオヴァ―ルという町は、コロナ禍直後、ロックダウンの憂き目を見ましたが、あの頃の2か月ほど、わたしも借り教室を退去し、怖い時代になったとひたすら恐れて家を出ませんでした。
が、ものの2か月も経つと、目的を持たなずじっと家に潜んでいる毎日の生活にこそ恐れをなして始めたのがオンライン日本語教室です。
旧生徒たちも引き続き日本語学習をしたいと集まり、機械音痴のわたしのずっこけぶりを暖かく見守ってくれました。昨年は新コースも開講し今に至ります。

宿題を直に目て訂正してあげられない、漢字学習では筆順にざっと目を通してあげられないなどのオンラインレッスンの不便さは残るものの、Zoomを通してビデオ日本語会話が利用できるようになりました。

文法中心の学習方法は変わりませんが、各課ごとの短い日本語ビデオ会話を導入しました。ZoomのこのShare(画像や映像を共有する機能)はとても役立っています。文章をリピートしてもらいくり返し見せることでおのずと会話文を覚えるのではないか、と言うことを今試しています。

日本が舞台ですから、場面場面で日本の習慣や街、家族の様子なども見ることができます。会話文を覚えてもらうだけでなく、仕上げでは、場面について説明を加えたり質問したりします。

例えば、登場人物ブラジルのサントスさんが友達といっしょに日本人宅を訪問する時の場面。

日本人の友達は「どうぞお上がりください」といいます。この「どうぞお上がりください」は、なぜ「お上がり」なのか。日本の住居は上がり框(あがりかまち)があるので、それで、ちょっと「step up」になるんやで~と説明を加えることができます。

また、サントスさんと友だちは入った時の同じ方向のまま靴を脱いで上がります。その後、日本人の奥さんがしゃがんで、サントスさんたちの脱いだ靴の方向を変えて靴を揃える場面を見るのですが、「どうしてあんなことをするのか」などの質問も出てきます。
こういう質問をしてくる生徒は、目を凝らしてビデオを見ていることが分かります。

オンライン授業でも対面授業でも遅れて入室してくる生徒がいることに変わりはありません。先に入室して待期してもらっている間に、Jポップの映像(Youtubeからだが)を流します。できれば歌詞が出て来るのを選びます。自分が好きな曲なので、どうしても古いのになりがちですが、ええやんね^^ 今の日本の歌は速すぎて歌詞について行けないのが多いし、と言い訳です。

ただ、オンライン授業は宿題を直に見てあげられないという難点がありますが、わたしは、宿題を写メで送らせています。これの訂正と説明を加えるのに時間がかかり肩が凝り、しばしば目が痛くなるのですが、致し方ありません。

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↑例)本来は自筆ですべきなのですが、タイプ式も受け入れます。時に、横に写メしたり逆に写メして送ってきたりする生徒がいるのですが、自分の頭も横に、逆さまにして読むようになりしんどい。が、それは自分の手抜きです。画像をセーブして方向転換すればいいのですもんね。怠け者め~

こう言いながらも、それぞれの宿題に「よくできました!」「Nice work!」「Well done!」などと評価を入れてあげるのも楽しみなわたしです。いい評価をもらうと勉強する気になるんですね。大人も子供も同じです。わたしもアリゾナでMr.Cjerryからいい評価をもらったときは凄く嬉しかったものです。

今日は、わたしのオンライン授業を少し案内しました。
ではまた。

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2022年6月7日 

朝8時、日はすっかり上っており、暑いかな?と思ったが半時間ほど歩くことにした。帽子を取りサングラスをかけ運動靴でフラットの階段を下りる。

近くにリセウがあるのだが、ちょうどその登校時間だ。歩いて登校する生徒もいるが、親が車で送ってくるのもたくさんいる。すれ違う女学生の多くはオーデコロンの香りを振りまいて行く。

ポルトガルでは私立学校は別だが、女の子は14、5歳にもなると、ほとんどの子がオーデコロンをまとう。近頃は「香害」なる言葉があるそうだが、すれ違いざまに撒かれるこの香りにわたしは弱い。

学校を通り過ぎると、道の片側が広い畑、もう片側はこんもりとした林だ。出勤時間帯でもあるので車が多い。車の窓を開けてガンガン音楽をかけ大声で歌って行くのがいた。おにいさん、朝から頑張る気満々なのねと、笑いながら歩いた。今日の一日が始まります。

さて、我が東京息子が嘆いている。
8月にポルトに帰る航空券を検索したところが、羽田発フランクフルト経由便がエコノミで39万円になってる!と。うわ、確かにぎょえ~だよ。

7月8月の航空券はこれまでも高いのが相場だ。コロナ禍で2年以上も帰国していない邦人がヨーロッパにはたくさんいるはずで、子どもたちの夏休みを利用して日本を目指すだろう。

ロシアのウクライナ侵攻で燃料もおのずと値が上がり、その上飛行時間が4、5時間長くなっているのだから仕方ないのだが、今までの格安状態が尋常じゃなかったのかもしれないと、思ったりする。

今夏の航空券の値段は多くの人が世界の国々を旅行するようになるグローバリズムの波以前の値段でなかったろうか。飛行ルートもヨーロッパ、日本間ならコロナ禍前は11、2時間だったのが14~17時間となった。昔は17、8時間かかっていなかったけ?

ポルトガルに来て3年ぶりで1歳になる息子と帰国した時は、ポルトからロンドンのガトウィック空港へ行き、そこで一泊。翌朝、リムジンバスでヒースロー空港へ移動したと記憶している。

1歳の息子と紙おむついっぱいの大きな旅行鞄を引きずっての帰国は大変だった。1980年代初期のことだが、当時はロンドンからアンカレッジ経由だった気がする。航空券が高かったので3年間は貯金に励んだものだった。

そんな時代もあったのだが、当時は若くて体力があったのである。それがいつの間にか、11、2時間のフライトが当たり前になってしまい、14、5時間と聞いただけで、ひぇ~!と悲鳴をあげているのだから、人間、楽な方に慣れてしまうとこんな具合だ(笑)

もっとも、14、5時間はフランクフルト、パリ、ロンドンなどの主要都市からで、ポルトガルからは日本への直行便がないので、乗り換え時間を加えると更に5、6時間を要し、結局ほぼ丸一日の空の旅になる。

息子は今色々な航空会社を当たっているようだが、安いからと言ってあまり信頼のない便は買わないようにと願っている。何だったら今年の誕生日のプレゼントとして、足りない分を手伝おうかとも思うおっかさんである。なにしろ、息子、2019年の夏以来の丸3年ぶりのポルトガル帰国になるのだしね。わたしも勿論だが夫はさぞかし心待ちにしているだろう。

本日も読んでいただきありがとうございます。
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2022年6月5日 

ポルトガルに来て、わたしたち家族は2度の引っ越しをしました。
最初の6年間は、夫の母、夫のおばとわたしたち3人家族で小さな家でした。モイケル娘が誕生する少し前に、夫の母たちが住む同じ通り、言わばスープの冷めない距離にある借家に移りました。

そこに16年ほど住み、それから終の棲家となった今のフラットを得たのですが、ここも夫の母たちが住んでいた家のすぐ側です。要は40数年同じ地域を居にしているわけです。

物が増えると引っ越しは大変になりますが、子どもがいるとどうしてもそうなり、彼らがいなくなった後も、子どもたちの物は使わないと言うのに夫婦二人の家で、それらはふんぞり返っているのであります。

何とかしなくちゃと思いつつ、子どもたちの思い出がつまっている部屋、家具、細かい物たちを思い切ってパッと処分できないでいます。断捨離するぞぉと宣言してこのざまです。あはは。

引っ越しと言えば、息子とモイケル娘の日本でのこんな笑ってしまう話があります。

2011年某月某日

何かにかこつけて、少しでもお金をふんだくるのが日本であると、こと大学入学費や引越し代が身にふりかかる度に思います。入学金が高すぎる、こんなにとらんでもええやないの、とモイケル娘の大学入学の時には本当にそう思いました。若い時、日本で2年ほど留学したことがある夫でも「君、桁ひとつ間違ってるんじゃないの?」と言ったくらい、ポルトガルとは二桁も違う入学金額でした。

賃貸アパートについても同様です。
「アパートの方が安いね。アパートとマンションとなんで値段がちがうのかな・・・?」なんて、すっかりポルトガルボケしてしまったわたしに、今じゃいっぱしの日本人になりつつあるモイケル娘が言う。

「おっかさん、マンションはアパートより壁造りがしっかりしてるんだぃ。」
「兄貴のように音楽をするのには、マンションじゃなきゃどんなことになるやら」

こんな話を切り出すのは、我がモイケル娘と東京息子、先週土曜日に引越ししたからであります。理由は、今まで住んだちっちゃなマンションが2年過ぎたので契約更新となり、またまた更新料の15万円、出費になるのだそうな!

いったいそれはなんやねん! ということは、月々の家賃が実質、今現在払っているのに+6000円ということじゃん!と怒ってみても、今時はどこも2年ごとの更新だと言う。そうでないところはそれなりに何かあるのだそうな。たまったもんではありません。それでも仕方がないので、黙って更新料を払うか、「もうええわ、こんなとこ。出てったる!」となるかです。

で、結果、我が子たちは「出てったる!」を選んだのであります(笑)

今まで息子の部屋として使っていたのがどうも日当たりが悪く、一日中暗い。「日本でお金を貯めてくるよん^^」などと調子のいいことを言って2年前にポルトを後にした息子はそれが気に食わない。

引越しするには新たに礼金やら敷金やらが必要になります。二人で分担するとしても、東京息子はあるの?と聞くと、

「ない。でも、
モイケル銀行がローンで貸してくれるのだ」 あっはははは!当時、モイケルは働きだして2年、既に大学院で勉学するために貯金し始めていたのだろ。

引越し先は今の住居から5分ほど離れたところだと言う。引越し前夜の金曜日も深夜近くだというのに、東京息子はご帰宅していないとモイケルが言う。「こういうヤツだ~。もう当てにしない!」と多少おかんむりだ。それにしても引越し荷物は4階から運びおろすのだ。息子、どないする気やねん?

もちろん引越しやの手配はしてあるのだが、聞くと「安いのを頼んだから何時に来るのかわからない」・・・・・その間に旧マンションと新マンションを行ったり来たりの荷物運びをするのだと言う。てっきり引越しやがいっぺんに荷物を全部運ぶものだと思っていたおっかさん、

おっかさん: 自分で運ぶって、じゃ、引越しやは何を?
モイケル:  冷蔵庫とか洗濯機とかの重いものだけ運んでもらう。
        後は段ボール箱に詰めたりして、自分でレンタルの台車で運ぶ
おっかさん: だ、台車?
モイケル:  うん、ほら、これだ。

2022_daisha.jpg

おっかさん: ・・・・・・・・たった5分の距離とは言え、こ、これで
       人通りをガラガラ押して運ぶん?(爆&汗)

モイケル: ええのだ。だって、全部運んでもらうと、近距離とは言え、
       4、5万とられる。重いものだけ頼んだら17000円で済む。

日本の大学を目指したとき、バイトは極力避けて学業第一にせよ、との親の忠告を聞き、バイトは殆どせず足りなげの仕送りでやり繰りした大学生活4年間、耐乏生活から娘が学んだことは、「自分でできることは、なるべくお金を払わずにする」であろう。えらい!

と思いながらも、ガラガラ台車で段ボール箱を積んで押していく姿を想像しては、クックックッ・・・と笑いをかみ殺していた母でありました。


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ではまた。
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2022年6月4日

ポルトに来て40年来わたしの髪はセルフカットである。日本に住んでいた時もなかなか気に入った美容師さんに巡り合えず、しょっちゅう美容院を変えては試していた。

ポルトに来る前に、一度だけ髪を切り軽くパーマをあてたことがあったが、空港でそのヘアスタイルのわたしを見て、夫が少し困惑気味だったのを覚えている。

来た当時は日本にいた時同様、あちこちのヘアサロンを試してみたが、結局どこも気に入らず、仕舞には「自分で切ればいいわぃ」とヘアサロンを試すこともしなくなった。ショートカットだと、とても自分ではできないので、さくさくと切ってすませるおかっぱボブもどきだ。

以来40年、わたしの髪型は、友人たちが「若い時と髪型が変わってないじゃん」と言う、その「もどき」で済ましてきた。はさみ一丁でできるのであるし(笑) 「後ろ、どうやって切ってるの?うまい具合にできてるじゃない」と、所沢の妹にも知り合いたちにも今では感心される腕であるのだ。エヘン。 なぁに、後ろが多少揃わなくったってわたしはかまわない。後ろは自分じゃ見えないからね(笑)

そしたら、このわたしと同じことをしてるヤツがいた(笑) リスボンに住んでいた頃の息子である。大学生時代は長髪にしていたのだが、卒業して少しバイト如きの仕事をするようになると、長髪とはいかなくなり、息子の長髪姿がわたしは好きだったのだが、短髪にしてしまった。

Joaobando1.png
左端がリスボン息子

リスボン時代の彼は自分から親のわたしたちにお金をせびることは一度たりともなかった。お金がかかるとて、髪もその母親同様、自前床屋であった。その息子がある日リスボンから帰ってきた時の話だ。以下。

2008年某月某日

「ただいまぁ」と御飯前にリスボンから帰省した息子。ヘアスタイルがすっかり坊主頭になっていた。台所にくるなり、「ママ、おれ、ちょっとバカやっちゃったよ。」と言う。

わけを聞くと、日本人の友人の知り合いに、素人なのだが、自分でフィルムを作るのでそれにキャラクターとして出演してくれと頼まれたのだそうだ。

別にセリフがあるわけでなし、サント・アントニオ祭の中をぶらつくだけでいいとのこと。それで10日ほど前に、華やかなサント・アントニオ祭りのパレードが行われたリスボンの夜のリベルダーデ大通りをぶらぶら歩くのをカメラに撮った。最後のワン・シーンを残してその日は終わり、近々残りのシーンを撮る事になっていたという。

ところが息子、それをコロッと忘れて、ポルトに帰省する前に自分でバリカンをつかい、頭を坊主にしてしまったところで、「いけね!撮影したときと髪型が違っちゃったっけ・・・」

撮影時の髪型に戻すには3ヶ月待たなければならない、なんかうまい言い訳はないかと言う息子の心配をよそに、「お前、役者なら降板もんだ。これが笑わずにおらりょうか!」と台所で大笑いしたのであった。
親である手前、口には出せねど、「この親(わたしだすw)にして、この子あり。」と密かに思い、
可笑しくて仕方なかった(笑)


なんかねぇ、こうやって子供たちの思い出話を書いていたら、急に寂しくなっちゃいました。娘と孫の今夏の帰国はとても望めませんが、息子は帰って来そうかなぁ。

6月10日から日本も入国規制が大分緩和されると言われていますが、出発するまでの諸々の書類を揃えたり、なんだかよく分からにゃいファストトラックとやらの手続きをスマホでしたりと、しちめんどくさい。

おまけに航空券のたっかいこと!3年前と比べ、体力が確実に落ちていると思われるわたしに、エコノミは、死を覚悟せよ、と言われるようなものだが、そのエコノミですら値段がうなぎ上り。 これまでよりも長い飛行でもありますしね。

この入国緩和チャンスを待ち焦がれて、夏休みを利用して家族で一時帰国しようと言うヨーロッパ在住の邦人が多いんでしょうね。きっと飛行機は満席だと思います。

そんな中、ヤング高齢者のわたしが搭乗したら、出発前に陰性だったものも、ひょっとすると陽性になってしまう可能性もなきにしも非ず。わたしの周囲には、3回目のワクチン接種をしたにも拘わらずコロナに感染した同年代の人たちが結構いるのです。重症にはならないけれど、発熱、咳などでしんどい思いをしているようです。

わたしは今、秋の帰国を考えています。それまで、我慢してがんばらなくちゃ!
今日はまとまりのない日記になりましたが、ご勘弁ください。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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2022年6月3日 

始めに。昨日書いた某ブロガ-のご子息ですが、夕方合否結果が出て3校に合格したとありました!後はその中から自分が行きたい大学を選びます。本当によかったこと!どんなにか嬉しいことでしょう。

さて、今日は明日3クラスある日本語授業の準備をしながら、なぜだか息子がいた頃のことを思い出し(笑) 今日は息子の話です。現在は日本の大学数校で英語講師をしている我が東京息子がリスボンに住んでいた頃の話をば。

リスボン大学のコンピューターサイエンス学科を卒業したと言うのに、なぜか英語講師になってしまった東京息子です。
大学卒業後、リスボンのリセウでpc授業の講師をしていたのが、学校のやり方が公正じゃないと言い始めました。失職したくないがために学校に妥協した他の講師たちと真っ向対抗し、結局一人辞める羽目になりました。

その息子が一夏の丸一ヶ月、9時から6時までTEFL(テフル=Teaching English as a Foreign Lauguage=外国人に英語を教える教授法)コースをとり、めでたく英語教師免除をもらい、リスボンのとある語学学校で英語の特別個人講師をしていたときのこと。

生徒は日本からやってきた30代の女性だそうで、「ポルトガルで英語?」と、わたしはちょっと違和感があったのだが、それは置いといて。 教本には書かれていない教授法のコツのようなものがあるので、そのツボを押さえておくと、授業はいいものになると思い、補習校での20数年間と日本語講師のこれまでの経験があるわたしは、息子にあれやこれやメッセで話しながらアドバイスしていた。

息子が再び日本語を勉強するきっかけに或いはなるかもしれないと思い、ある日、外国人のための日本語教本英語版をコピーして息子に送った。この教本は、英語を教えるのにも役立つかも知れないと思ったのである。

その日も、息子の個人授業はうまく運んだか(一回のレッスンが3時間ぶっ通しである)とメッセで聞くと、ずいんぶんうまく行ったとのこと。送った日本語教本が英語授業に役立ってるらしい。

「ねね。BOINってどういう意味になる?」と息子が聞く。

ネットでの会話は今でこそ息子とはひらがな漢字交じりの日本語だが、当時のメッセ会話はすべてローマ字の日本語だった。
「ボ、ボイン?^^;」・・・・

「そ、そりゃあんた、maminha(マミーニャ=オッパイ)の大きいのを言うのだよ。」と、俗語も知っておいたほうがいいと思ったので一応ちゃんと説明をつける。

「"ボインちゃん"なんて言ったりして使うのだ」とわたし。(←残念ながらわたしではないw)
と、せんでもええのに、余計な例まで上げて^^;

息子「じゃ、HAN-BOINって?・・・・ママ、それじゃ、意味が通じないよ。
    第一、これは日本語言語の言葉だぁ~!」
母  「うげ!@@か、勘ぐりすぎた!」

息子よ、先にそれを言ってくれぃ。

ボイン 母音 拇印と色々あって、ローマ字でBOINっつったって分からんぞ、と自分の早とちりを棚に上げて(笑) 息子の言うのは「母音、半母音」だったのでした(汗)

いやぁ、日本語も色々ですわ。あんたが早とちりなだけだって?@@ は、はい、さようでござんす。

息子のずっこけ話は明日に。
本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。


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2022年6月2日 

ポルトガルの6月はExames Nacionais(国家試験)で、子どもたちが神経をピリピリさせる時期です。特に12年生(日本の高3)は、自分が行きたい大学へ行けるかどうか、この試験結果と高校3年間の成績とで決まります。

我が子たちは幼稚園から9年生までをBritish Scoolで英国式教育を受けましたが、10年生からはポルトの私立学校へ転入しました。ポルトガルの大学へ行く場合を考えてのことです。彼らにしてみたら、これまでの英語授業が突然全てポルトガル語授業になり、言ってみればこれもまたポルトガル国内であるものの、帰国子女のようなもので、学習面で苦労しただろうなぁと思います。

イギリスへ留学するならそのままでよかったのですが、もしも、ポルトガル国内の大学進学となると生半可なことはできないのです。先に述べたようにポルトガルの高校3年間の成績と国家試験の成績結果でどこの大学のどの学部かが決められます。大学では成績上部から選んでいくわけです。

点数は20点満点。試験は誤答だと、日本のように0点にはならず、点数をひかれます。なんでもいいから書けとか、選べというわけには行かないのです。同時に国家試験に合格して(正解50%必要)初めて高校を卒業したことになります。

国家試験はポルトガル国内で一斉に行われ、日本でのように、数校受験するということはできません。我が子たちの頃はありませんでしたが、現在ではこの国家試験は、小学校2年生、5年生、8年生、9年生、11年生、12年生が受験義務があります。50%以上を得点しないと落第となり学年をリピートします。個人的には小学生にはきついんではないかと思いますけどね。

今日はわたしが時々行く著名人のブロガーさんが、ポルトガルと同じような教育制度を経て息子さんがいよいよもって今日の夕方に大学の合否結果がでる、ドキドキがとまらないと綴ってありました。分かるんだよなぁと、我が子たちのポルトガルで国家試験、そしてモイケル娘の日本での大学受験のことを懐かしく思い出しています。

息子は希望校だったポルト大学経済学部に入学したものの、一か月もすると「自分に合わない」と休学し、翌年リスボン大学理学部でコンピューターサイエンスに入学し直しました。心配だったのは、大学は日本で!を目指した娘の合否でした。かのブロガーさんと同じくドキドキ、落ちていたらなんとなぐさめようか等々当時のことを思い出していました。以下、あの頃の日記を引っ張り出しました。

2004年9月24日(合格発表日)

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2004年6月30日、空港にて希望に胸膨らませて旅立つモイケル娘。

朗報です。もいける娘、W大学教育学部に無事合格との電話が、こちら時間の朝5時に入りました。受話器を置くなり夫が寝こけている寝室へ飛んで行き、「やったーー!」と思わず大声で叫んでしまいました。

「朝7時くらいまでは落入関係なしに、電話を入れるな。その後どちらにしても寝付けなくなるから」なんて言いながら、実は本日の発表の結果が気になって一晩寝返りをうっては悶々とし、ほとんど一睡もしていないのでありました。本人は入った気でいたみたいだが、こう言うことは結果が出てみなければわからない。落ちていたらなんと慰めようか・・・全部落ちたら経済面では楽なんだが。あはは。

いやいや、待てよ。やはり、できるものなら一発で合格して欲しい。うん、きっと通ってるぞ。今頃は小躍りして喜んでいる頃かも知れない。電話が入るまであと何時間あるのだ?もうとっくに合否結果が出てるはずなのに。合格やったらすぐにでも電話くれたらええのに・・・

やっぱりアカンかったのかな・・・ガックリ肩を落としてしょげている姿まで目に浮かんできては、それを追い払い追い払い我ながらちぐはぐなことを考えて、何度も寝返りをうっていたのでした。

うむ、これで堂々と「英語圏外の国で生まれ育った帰国子女大学合格までの親子珍受験戦争」なんての、書けるかも~~(本当に拙ブログにあげました。興味あるかたはこちらからどぞ。


spacesis in ポルトガル 帰国子女ネタ(受験編) (fc2.com)
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-category-6.html

もいける、合格ほんとうにおめでとう。これから帰国子女の底力を発揮して大いにやってください。約束の合格祝いの自転車、買ってあげるから待っといてねん。ん?「転」じゃなくて「動」の間違いじゃないのか? あはははは。今回は誤字ではありませんぞ。しっかり間違いなく、「自転車」が合格祝いの約束の品なのです。
あぁ、しかし、これから、うちに足りないものが飛んでいきます~


2004年9月26日

帰国子女枠大学受験は、夏が私立大学受験期で、国立大学受験の2月くらいまで続きます。

10年くらい前までは、帰国子女ブーム(笑)もあって、比較的大学に受け入れられやすく、主に英語と面接で入学決定されていたのですが、ここ数年はその仕様が変わってしまいました。
帰国子女がたいして珍しくなくなったのです。

国語Ⅰ、Ⅱ、英語(エッセイも含む)、日本語での小論文が受験科目、そして大学によっては面接が加えられます。これでわかるように、帰国子女とはいえ、受験は結果的にはやはり学力がものをいうことになります。

国語Ⅰ、Ⅱと言えば、古典は入らないものの、日本の高校卒業程度の国語力が要求されます。国語力を試されるのがもうひとつ、日本語での小論文です。出される課題が何かは、当然その場になってみなければわからない。ただ単に、海外での生活体験を書くことではなく、時事、政治、教育にいたるまで、体験を通しての確固たる自分の意見が求められます。

これは海外に滞在する子どもたちにとっては、普段からの大変な努力が要求されるわけです。

海外での成績、そして、その国における大学入学資格になる国家試験の成績も審査に入ります。日本語も日本の高校生と同等を求められ、海外での成績も見られるのですから、端が、「ええやん、帰国子女って楽に入れるし」という見方は、大きな間違いだと知らされました。我がモイケル娘のように外国で生まれ育った場合は、企業関係の帰国子女とはまた違った諸問題を抱えます。

ポルトガルの高校から日本の大学入学を果たしたモイケル娘、巨人の星、地上の星ならず、「ポルトの星」だ~と言われてます(爆笑)

ゆけゆけ、もいける、ドンとゆけ!(笑) 
思えばもう18年も前のことなのでした。


件のブロガーさんの息子さん、どうかいいニュースでありますように。
希望はいい。なによりもいい。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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2022年6月1日 

2週間前の土曜日のことだ。オヴァ―ルの展示会設定がやはり4時間はかかり、終わったのが6時を回り、それから、ざっと後片付けをしてOちゃんと送って行った。

Oちゃんはボアビスタに住んでいるので、Campo Alegre通りを下り際、「Galiza」がなくなって残念だねぇ、などと話していたら、あ!開いてるじゃん、いつの間にか!

「Galiza」と言うのはCampo Alegreにあった行きつけのCervejaria(普通のレストランは3時くらいに一度閉店し夜8時くらいに再開するが、Cervejariaはずっと開いていて生ビールを中心に前菜も結構用意されている。いわゆるビアレストランだ)なのだが、コロナ禍以前から経営者の金銭的な問題が持ち上がり、自粛の打撃を受けてついに閉店に追い込まれてしまった。

わたしがポルトに来た時からの行きつけのレストランで、その話を聞いたときは残念な思いでいっぱいになったものだ。ちょっと飲みたいなの気分の時は必ずといっていいほど、わたしたちは足を運んだ。店のウエイターたちも年配者で顔見知りだった。わたしはそこの「かにのカクテル(飲み物にあらず。カクテルグラスに盛り付けられた前菜)やタコのオリーブ酢のものが好きで、行くたびに注文したものだ。

まさか閉店してしまうとは思いもしなかったもので写真に納めなかったのが悔やまれる。友人や日本からのお客さんをよく案内したりもした。展示会や影絵の打ち上げ式と称してOちゃん家族とも行ったこともある。

少し夕食には早い時間だが、展示が終わったことだし行ってみようとなり、家にいるOちゃんのご主人にも電話してもらい来てもらった。友人と食事をするのは、4月の夫の友人であるスペイン人の医者夫婦とWordl of the Wineのレストラン以来だ。その時も数年以来だったが、Oちゃん夫妻とも同じ街にいながらなんと2年ぶりなのであった。それもこれもコロナ禍のせいである。

久しぶりの会話は子どもたちの話が中心になり、初孫の空ちゃんのビデオなどを見せては鼻の下を伸ばしていたわたしではあった。で、いつの間にやら男同士女同士がそれぞれの話題に入っていたのだが、この時、Oちゃんとわたし、会話の途中で、「はっ!」とお互いの顔を見合わせ、一瞬の沈黙後、「ぎゃっははは」と大声で笑ってしまった。

わたしたち4人はポルトガル語で会話をしていたのだが、そのままOちゃんとわたしの日本人同士が日本語でなくポルトガル語で話していたではないか!(爆)

コロナ禍が始まっての2年以上、わたしが日本語を話す機会と言えば、時々モイケル娘が孫の様子を見せるのにスカイプを使う時くらいだった。日本語授業は、英語でする個人授業生徒一人を除いては、全部ポルトガル語である。Oちゃんはと言えば、この春に補習校を退いたので、以後は彼女も人との会話はポルトガル語。二人とも日本人と接触する機会がなくなったということだ。

多分、そんな環境だったので、お互いがハッと気づくまでポルトガル語でまくし立てていたという具合であろう。

若い時に英語の勉強だとして、日本人同士で会話を英語で試みたことがあったが、気恥しくて続かなかったものだが、それと同じで、日本人同士がポルトガル語で話すなんて、おかしいったらなかった。

さて、肝心のこのレストランだが、店内は「Galiza」時代と変わらないが、メニューに大きな変化があった。前菜がないのだ。わたしとしてはいただけない。Galizaはわたしたちのような昔からのなじみ客がたくさんいたので、オープンしたと期待してくる人もたくさんいるだろうが、恐らくわたしたち同様、期待外れを感じて引き上げるだろう。残念。

本日も読んでいただきありがとうございます。
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