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2022年5月31日 在住44年目に:月日は流れわたしは残る(3)

大阪でのビアハウス歌姫バイト時代から今に至るまで、わたしは色々なことに携わるチャンスに恵まれて来たと思います。

息子が日本の就学年齢に達した1987年にポルトに進出してきた日本企業の児童たちを中心にポルト補習校が開設されました。当時ポルトに在住する日本人がほとんどいなかったため、運よく講師の仕事を依頼され22年間続けました(2009年退職)。これはわたしに教えるための工夫を考える楽しさを与えてくれ、同時に自分も学ぶことが多くあるということを気づかせてくれました。

校則もない、ちいさな塾のような11名の生徒とガイアのCanelasにあったThe Oporto International School校舎の教室を借用して、複式授業が始まりました。あったのは教科書のみで、なにもかも手作りの教育現場でした。

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1987年ポルト補習校の設立祝い。生徒父母ともに借用校のパテオにて。この子たちは今どうしているだろうか。

この15年ほどでポルトに在住する日本人は随分増えましたし、みなさん、高学歴をお持ちです。今なら、補習校の仕事は学歴不足のわたしには声がかかってこないでしょう。講師を体験できたのは幸運なことでした。

また、補習校の出現は我が子たちの日本語教育にも好影響を与えました。息子などは、これまで母親からしか耳にしなかった生の日本語が、毎週土曜日、日本から来たこどもたちと教室で学習しながら聞けるのです。

我が子の日本語教育は母親であるわたしがしようと生まれた時からそう決めて、家庭で工夫して教え始めていましたが、この時期、海外子女教育財団の通信教育をわたしは既に息子のために申し込んでいました。

補習校通いの子どもたちは高学年になって行くと、普段毎日通う現地校の宿題、補習校の宿題、毎月の通信教育を併せて三重苦と俗に言われた、子にとっても親にとってもなかなかに厳しい学習環境でした。

家庭では我が子たちには机に向かう習慣をつけてもらうために、幼児期からわたしが準備し一緒に座ってわずか15分ほど学習するというのから始めました。息子は9年間以上、モイケル娘はそれ以上これを継続しましたが、この経験は今の彼らの礎の幾分かになっているはずだとわたしは確信しています。

我が子の日本語教育の事始めについての日記を下記に。

某月某日

ポルトガルでの我が子たちの日本語英語教育は、35年ほども前の昔のことですから、社会の状況も変わり、そんなに興味の湧かない話ではあると思います。
幼児、小学校低学年向けの、英語教育教材も、ひらがなカタカナ漢字、さらには計算習得の
教材は、現在では数多くあって、どれを選べばいいのか選択にとまどうほどです。

わたしの場合は、それらがなかったので手元にあるもので間に合わせ、後は「自分がアレンジして作成する」これのみです。

British Schoolは当時はまだ5歳児のPrep(5歳児の小学校準備クラス)しかありませんで
したので、息子が4歳になると、ポルトにただ一校ある私立のイギリス・キンダーガーデン
に一年間午前中のみ通わせました。

今とは交通の便が違います。朝のラッシュ時は恐ろしいものでした。今なら市内を巡る自動車道路を走らせて20分ほどで行ける海の近くのその幼稚園が当時は朝、交通停滞が故、車でゆうに1時間はかかったのでした^^;

息子を送り出した後は、午前中時間ができました。義母さん、ふたりの年取ったおばさん、それに我ら3人家族が同居していた当時の家は、週に2度、お手伝いさんが来て掃除をして行きます。

義母さんを始め同居のおばさんたちも、一緒に掃除に動き回りますから、小さな家はいつもピッカピカです!わたしの役目は、と言うと、どうやらあまり手を出さないほうがいいらしい(笑)というわけで、さよう、時間だけはたっぷりあったのでした^^

息子がいないその午前中たっぷりの時間を使って、わたしは教材作りに励みました。それがまた、楽しかったのです。1ページ1ページ、鉛筆の手描きですぞ(笑)ご覧あれ、この写真!

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35年ほど前の4歳の息子のための手作り練習帳の一部。

中身はこんな感じ。

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オリジナルの一冊に、子供がそのまま書き入れると、一回書き込んで終わりです。日本から取寄せるのも簡単に頼めない、コピー代もべらぼうに高かった時代で、とてもそんなことはできない。

入手したオリジナルの絵を写し、マスを書き、クレヨンで色付けします。このようにして、絵を見て物の名前を覚え、ひらがなで書き込めるように、毎日2ページほどを手描きで写しました。

読みは3歳で、英語の真っ赤な文字から入って、4歳にはこんな風に日本語の生活に密着する言葉の、「見ながら書きながら覚える」を導入。これをたゆみなく続け、5歳では、足し算を始めました。

覚えてもらうのにかける時間は「ゆっくりと、急がず」。そして、決してイライラして怒らないこと。
何度も何度も同じことを繰り返し手描きし、子供と一緒に必ず机に向かって座り、時間は長くてせいぜい15分!

褒めますと喜んで、「もっとしたい!」と言い出します。でも、ここがコツ。「今日の分はこれで終わりよ。また明日よ」で、終了です。

夫が仕事から帰宅しますと、今日はこんな文字を覚えたとわたしたちの話は盛り上がる。こうして少しずつ少しずつ夫の日本語の域を子供は超えて行くのでありました。

世の中、グローバル化して便利になりその気になればポルトガルにいながらにして、日本のテレビも見ることができ、欲しいものもたいていは日本から取寄せがきく現在、こんなことに自分の時間をつぶすなど、ちょっと考えられないでしょう。

子育てから開放されてもっと自分の時間が欲しい、自分の好きなことがしたいという母親の話はよく耳にします。わたしも、これやってみたいあれやってみたい、こんな勉強したい、できれば大学の通信教育も受けてみたいと語れる夢や希望はたくさんありました。

が、あの頃のわたしは子供の手描き教材作りに彼らの将来の姿を重ねて喜びを感じていたのでした^^


補習校関係の話はもう少し続きます。
本日も読んでいただきありがとうございます。ではまた。

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2022年5月30日 

某企業のT氏に「こんな食事処があるんですが、ご存知ですか」と紹介されてかれこれ1年くらいになる。氏は既に行っており、「イケますよ」というようなコメントだった。行きそびれていたのは、その食事処が、今回日本文化展示会をしたOvarにあるからだ。自動車道路を45分ほどだから、ほな、行きまひょか、と思い立ってすぐ行ける距離ではない。

もうひとつの理由は、賄っているカップルがポルトガル人だと言うこともあった。和食の味を出せるのは日本人でないと難しいんじゃないかな?との気持ちがあるからだ。 しかし、日曜日は12時に開店だとあるので、Ovarでの展示物撤去作業を2時間ぐらいとみると、行けるではないか。ちょっと寄ってみようかとなった。

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住宅区域のコンドミニアムの地階にある。ちょっと分かりにくいのが難だが、GPSだと問題はない。
店に入ると「居酒屋」ののれんがかけてあり、アットホームな雰囲気だ。

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わたしたちはその日の一番客だった。

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メニューの品数は少ないが、餃子はおいしかったし漬物もあっさりしてサラダとしていただける。
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下のお好み焼きだが、大阪風お好み焼きと断り書きを入れてある。ポルトで口にするお好み焼きは広島風が多いのだが、わたしは俄然大阪のお好み焼きファンだ。
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大丈夫かな?と少し不安を抱えつつ注文したサバ↓たたき風でこれが殊の外、美味しかった!    
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メニューにはその他、鯖寿司、いなり寿司、ごはん、鮭の味噌ソースなどがある。日によっては豚骨ラーメン、焼きそばなども出るようだ。わたしにとって残念なのは生ビールがない点(泣)。瓶ビールで我慢だった。
居酒屋はポルトガル語で「Tasca Japonesa」。機会を見て多分もう一度、この居酒屋に足を運ぶと思う。

※Tasca Japonesa AKAI
住所:R. Brg. Pinho Freire 169, 3880-342 Ovar
開店時間:12:00~3:00時 7:00~10:30
休業:火曜日
Tel:256 037 754

ではまた。
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2022年5月28日 

いつごろから、人に向けた「許せない」あるいは「許さない」と言う言葉を頻繁に耳にしたり目にしたりするようになったのだろうか。

「仮借しない、容赦しない、許容できない、勘弁できない、弁明の余地なし」など、その他、たくさんの似たような言い方があるのだが、「許せない、許さない」は、わたしには「罪、罰、義務などから決して放してやらないぞ」というような非情な言葉に聞こえたりするのだ。

岸田首相の率いる現政権以前の「安倍政権を許さない!」、また「自衛隊を許さない」、共産党に至っては「日の丸、君が代を許さない」と反政権のフレーズにもよく見られた。

「許せない、許さない」の言葉が個人に向けられることも多いようだ。わたしの周囲にも使う人がいる。きっついなぁと思いながらその都度思い出す歌のセリフがある。

「あんた、あのこの何なのさ」

若い人は知らないだろうけれど、1970年代初期にヒットした宇崎竜童ボーカルのダウンタウン・ブギウギ・バンドが歌った「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」に登場するセリフである。(下記にて歌を案内)

「許せない・許さない」はわたしが使いたくない言葉の一つだ。あんたに人を許す許さないの権限があるんか?と、つい突っ込みたくなるのである。相手をとがめてもう受け入れないと言う意味であろう。使っている本人は、「腹立つなぁ、ひょっとすると受け入れられへんど」くらいの意味であろうか・・・

世の中には腹の立つことをする人がごまんといる。わたしも、とある同国人からSNSでこの数年来プライバシー侵害を受けてきた。直接個人的な話をしたことがない相手なので、人づてに聞いた話のあることないことを混ぜて公に書いているのである。話に事欠いてか、わたしだけでなく家族のことも書いているので酷い輩だ。

法廷に持ち込むことも考えたが、人から聞いたことを書いたまでです、などと昨今の信用できない週刊誌如きのように言われたら勝ち目がないであろう。最終的には、こういう毒気のあることに反応していたら自分の健康が持たない。その人の毒気から離れようと決心し、以来、それから遠ざかって今に至る。書いている人は恐らくわたしを意識しているのだろうから、そういう人はいつまでたっても毒気を吐き続ける。もう知るかい!となった。

その都度、許せない!と言っていたら、心底疲れるだろう。また、言われた相手はひょっとして「すんまへん」と出かかった言葉も飲み込んでしまうかも知れない。件の人は残念ながら、思うだにしないだろうが。

人を故意に殺めたりなどは別だが、世の中の大概のことは許されて済むのじゃないかと思っている。自分も何かで許されて生きてきたと思うんだよね。それが人と人が生きて行けるということではないのかなとわたしは思ったりしている。

そう言えば、今日のニュースに元日本赤軍幹部の重信房子が20年の刑期を終えて出所したとある。刑務所から出所したところなのであろうか、誰からか知らないが花束をもらって公にああやって顔を出せるとは、と思った。これが無実の罪で服役させられたのなら話は別だが、れっきとしたテロリストで世界中に指名手配された長年後、やっと逮捕に及んだ人である。メディアの騒ぎ方もちょっとおかしくないか?との感を否めない。

わたしの世代はこの名前を知らない人は恐らくいないであろう。当時の日本、世界を恐怖に陥れたテロリストの彼女と彼女の仲間の牙にかかり命を落とした人たちの遺族こそは、重信房子に「許せない」と言うことができるであろう。

許せない、許さないとの言葉を、「腹立つなぁ、ひょっとすると受け入れられへんど」とか「そんなの大嫌い!」くらいの気持ちで口にするのを慎まなければいけないんじゃないかと、随分前から気になっていた言葉について、今日は書いてみた。



本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。


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2022年5月27日 

1週間のオヴァ―ルでの日本文化展示会も先週で終わり、夫と二人してこの間の日曜日に展示物を撤去してきました。
体力を考えると恐らくこれが最後になるかな?いや、ポルト市内での依頼ならもうちょっとできるかも知れないと懲りずに思ったりしています。

展示物を引っ張り出しどれを展示するかを決め、会場に搬入し展示、そして会場からそれらを撤去します。この撤去ですが、どのようにしまい込むかを知っている自分でないとだめで、夫も手伝うと言ってくれるものの、本心を言うと「じゃ、これをこんなふうにここに入れて」とやるのは却って手間取るんですね。要は、「ジャマなんや~」であります。あはは。

いつもだと相棒のOちゃんと二人でさっさとするのですが、今回は2週末を続けてしかも遠方なので手伝ってもらうのはちょっとできません。それでも、2時間の予定が1時間半で終えられましたから、かなり片付けも手馴れてきたと言えましょう。

家に持って帰った展示物は、すぐに片付ける体力と時間がないもので、空いている子供たちの部屋にしばらくド~ンと放置です(笑) この片付けを自分が終えるまでお掃除のおばさんには、子どもたちの部屋は放っといてもらいます。そして、毎日少しずつ日本語授業の合間を縫って展示物を仕舞ってあった元の場所に戻して一件落着となるのです。今のところ、まだ二つのベッドの上にいっぱいのってる~、という状態です。

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写真の野点がさは、傘の内側のかがり糸の美しさを見てもらいたいため、故意に傾けられてあります。これについてはこちらでどぞ。「美しいわたしの日本(1)・野点傘(もどき・・・)」↓
      https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-825.html

展示物の片付けを始める前に、担当のT氏から花束を渡され、記念写真を撮っていただきました。何度もボランティアで展示会をしてきましたが、こんな風にしていただいたのは今回が初めて!Oちゃんがいなかったのが残念!

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そして、いただいた写真を見て気が付いたこと!当たり前なのだけど、自分が亡くなった母に似て来てる(笑)

YY日本語塾はボランティアの一環として影絵上映もしてるんですよ、と、云わんでもええのにうっかり口を滑らしたら、「おお、じゃ、来年のこの時期のDia de Familia(家族の日)にまたお願いできないでしょうか!」 うはははは。果たして来年のこの時期、まだしぶとく生きてるかっちゅうんですね(笑)

依頼されることで、もしかするとまだ仕上がっていない作品「かたあしだちょうのエルフ」をがんばって完成させられるかもしれないと思ったりしています。

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作りかけ・・・

問題は、右手親指が変形しつつあるので切り絵の刀が握れるかどうかです。影絵の切り絵に使用する用紙は結構分厚いもので、手に力が要ります。これまで苦労なくできていたことが、年齢を重ねることにより徐々にできなくなっていくと言うのは悔しいことではあります。

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「エルフ」のワンシーン

ポルトガル語の朗読は我がモイケル娘がしてくれました。そして、BGMはRion Kingから「Circle of Life」、野生のエルザから「Born Free」そして「Out of Africa」のテーマソングが決まっているというのに、2018年図書館での上映を最後に気が乗らなくなってしまったような。なんだかんだしているうちにコロナ禍時代に入りましたからね。

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「エルフ」のワンシーン

影絵は、仕上がった切り絵を音楽とナレーションに合わせて、何度もリハーサルする必要があります。そして、影絵上映は展示会と違い決して一人ではできない。大きなスクリーンの両端にわたしとOちゃんが控え、呼吸を合わせて、手持ちの切り絵の出番をうまくこなし、折り膝の痛いのをじっと我慢の15分。

うっかり自分たちの頭がスクリーンに映りでもしたら、カッコ悪いったらありゃしませんね(笑)どんなに素敵なお話も興ざめとなります。

YY塾のこれまでの作品は「キョーリュー年代記」「かぐや姫」「百万回生きたねこ」、わたし個人の作品は「Giving Tree(邦題は、大きな木)」がありますが、ご興味のあるかたは、拙ブログにてタイトルで探ってみてください。

一作もビデオ撮影していないのが残念です。と言うのは、当のわたしたち二人は影絵スクリーンの裏方をしているんですもの(笑)
さて、Circle of Lifeを聞きながら一人で盛り上がって久しぶりに「エルフ」を手掛けてみようかな?

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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2022年5月26日

昨日に引き続き。

無一文で嫁いできたもので、飛行機の切符を買うこともできず、帰るに帰れなかった状態を今振り返るとなんと無謀なことをしでかしていたものかと(笑) 昔からの無鉄砲な性格そのままでした。

しかし、それが却ってよかったのでしょう。そうこうしているうちに息子が、娘が生まれポルトガルに住んでいることを忘れるほど、家族や猫たちとの生活に日々おおわらわ、10年経ち20年経ち、ぐ~るぐ~ると4周りもしました。

来ポしてからの最初の孤独感と子育ては自分を忍耐強い人間にしたような気がします。夫の家族との同居6年間で、一度だけ、もうアカン、子どもさえ連れて行けるならポルトガルを捨てて日本に帰ろうと思い、夫に切り出したことがあります。結果は、今ご覧の通り別れることもなく、たいした喧嘩をすることもなく、無事、夫婦で子供たちを育て結婚も今年の3月で44年目に入りました。

息子と年が6歳離れたモイケル娘が生まれようとする頃、夫の母の家が手狭になり、同じ通りのスープが冷めない場所の借家に引っ越しました。結婚6年目にして、自分の台所が持てたのです。当時で築70年は経っていると思われる家でしたが、小さいながらも庭があったのが嬉しかった。好きな紫陽花とバラをたくさん植えてもらいました。そして、たくさんのネコと犬一匹を飼い出しました。

子供たちが幼かったこの借家にはたくさんの思い出があります。その一つを紹介させてください。以下。

桃ノ木

借家だった古い我が家の小さな庭の、一本の桃の木の話です。
ほったらかしで手をかけたことがありません。それでも一年おきに甘い立派な見事な桃の実を提供してくれました。最高で80個ほどの実を収穫したことがあります。自分の庭でもぎとった果物を食卓に運ぶのは格別な幸せがあります。

ところが、この桃の木を私たち家族は誰も植えた覚えがないのであります。庭の真ん中に、ある日、ひょろりひょろりと伸びている植物を見つけて、始めは「抜いちゃおうか。」と思ったのですが、庭師のおじいさんがやって来る日が近かったものでそのままにしておきましたら、おじいさん、抜かないで行ったんですね。庭師が抜かないというのは何かの木であろうかと、のんきなものです、そのままにして様子をみることにしました。
   
それから丁度3年目!見上げるような一人前の木になり、ある早春の朝、二階の我が家の窓から木の先々に薄ぼんやりと見えたもの、「あれ?なにやらピンクの花が咲いてるぞ?」と発見。時節柄からして、ひょっとすると桃の花?」と、あいなったのであります。何しろ床にゴミが落ちていてもかなり大きなのでない限り、見えないほどド近眼のわたしです。
   
さて、台所の出入り口から庭に続く外階段を下りていくと、案の定、まぁ、ほんとに桃の花でありました。桃の実そのものは食べても、桃の花なども、最期に見たのがいつであったかを思い出せないくらい長い間目にしていません。小枝を少し折っては家の中に飾り、子供たちと多いに喜んで観賞したのでした。

その年の夏は、気づかないうちにいつのまにか面白いほどたくさんの見事な実がなり、子供たちと木に登りワイワイもぎとりました。ひとつひとつの桃を枝から手で摘むその感覚ときたら、それはもう、童心に帰ったような嬉しい気持ちと満足感がありました。我が家にあるカゴも箱もいっぱいで、80個以上も摘んだのです。
 
とても食べきれず、生ものですから長期保存はできないので、階下のマリアおばさんにもおすそ分け。で、「本当言うと、植えた覚えがないんですよ。」と言いましたら、おばさんいわく、 「あら、じゃ私が食べた後に窓から捨てた桃の種の一つがついたんじゃなぁい?」
「え?・・・・・・」   

あらま、道理で。わたしたちの借家は3階建てで3家族がそれぞれの階を借りていました。庭の敷地も低い石垣で三つに区切られ、各々使っていたのですが、車庫つきのわたしたちの庭はそのなかで一番大きい庭でした。

引越しする前からカーラがたくさん植えられてあり、それにわたしが大好きなバラと紫陽花をたくさん加えて、季節になるときれに咲いていました。が、りんごの芯やらタバコの吸い殻やらが、庭を掃除しても後から後から落ちているのです。
   
ははん、これは階下のおじさんだな・・・ひょっとして灰皿の吸殻を窓から全部庭に捨てているのかも。自分の庭がうちのすぐ横にあるんだから、なぁんでそこに捨てないのかね。自分のところはこれでもか!というくらいきれいにしといて、ゴミ、ガラクタ類はみな、よそ様のところへ押しやって、って輩が結構こちらにはいるのでありましす。

家の入り口を掃除するも、ゴミを箒で通りへ掃きだすのが、こちらの普通のやり方ではありました。チリさらいひとつで内へ持ち込んでゴミ袋に入れればいいのにと、何度も思ったことですが(笑)

でもまぁ、こうしてマリアおばさんが食べた桃の種を窓から我が家に放り投げたお陰で今まで持ったことのない桃の木の所有者になった訳だし、今回のところは帳消しにしとこう!と相成ったのでした。

2年続けて桃の木は、立派な実をわたしたちにくれました。我がモイケル娘などは、木登りをし、車庫の屋根づたいに裏にあるだだっ広いジョアキンおじさんのCampo(カンポ=畑)の大きな大きな木にまでたどり着き、際どい遊びを楽しんだものです。

そうそう、我が家の子猫がその木のてっぺんに上ってしまい、それにはホトホト手を焼いた。一晩木の上で過ごし、翌日、モイケル娘が木の枝ギリギリのところまでのぼって、ようやっと胸に抱きしめることができたのでした。

3年目にも入ると、桃の木は以前ほど実をつけなくなりました。何しろまったく手をかけなかったものですからね。すると、我が家のお掃除のベルミーラおばさん、

「ドナ・ユーコ、これはお仕置きをしないと!」
お、お仕置き?木にですか?
   
「そうです。木の根元に大きな石を置くのです。」
んまぁ(笑) しかし、その大きな石をどこから手にいれまする?ろくすっぽ世話をしないのですから、毎年たくさんの実をもらおうとすること自体厚かましいと言うもの。結局、お仕置きはなし。


もう随分昔の話になります。その家から数メートル離れたフラットがわたしのツイの棲みかです。庭がありませんから桃の木は我が家の所有物ではなくなりました。

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ではまた。
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2022年5月25日 

自分用の、また子供たち、孫への私の人生ノートメモとして数回に分けて書いておきたい。以下。

1979年5月19日に、パリ経由でポルトのさびれた小さな空港に降り立ちました。今でこそサ・カルネイロ空港と名がつきすっかりきれいになりましたが、当時は昨今のようなにぎやかさがなくちょっと不安になるような田舎の空港でした。10年を4周りも遡る若かりし日のことです。

大阪での一人暮らしでは給料からの貯金はなかなかできませんでしたが、仕事が退けた後9時までのビアハウス歌姫バイトを数年続けられたのはラッキーでした。それで貯まったお金を持ってアメリカ留学、できればそのまま移住をと思っていたのが、気が付けばポルトガルです。

持っていたお金はアメリカ留学で使い果たし、ほぼ無一文でポルトガルの夫に嫁いできたことになります。カーネーション革命5年後で、まだ、独裁政治の影が色濃く残っていました。

近所の年端もいかない子供が、「ファシスタ!ファシスタ!」と棒っ切を野良犬に振り回していたのには、ギョッとしたものです。そんな言葉はここに来るまで映画の中でしか耳にしたことがありませんでしたからね。

ポルトガル語が全く分からずあの頃は英語が話せる人も周囲にほとんどいなかったので、たちまちのうちにホームシックにかかり、お姑さんたちと同居の家の一室のベランダから空を眺めては涙したものでした。女性が一人でカフェに入るなど見られない時代でした。

国際電話など年に一度、奮発してかけるくらいでしたから、日本とのつながりは手紙のみです。、親や友人には心配をかけたくなかったので、愚痴はいっさい書き送りませんでした。ポルトガルでの生活を文字でしたため、いったいどれだけの航空便レターを日本に送ったことでしょう。赤と青のストライプが入った封筒が舞い込む毎に胸をわくわくさせて封を切っていたあの頃の自分を思い出すとちょっと目が潤みます。

よぉ今日までポルトガルに住んだものだなぁと、誰も言ってくれないので自分で言って労をねぎらっておるんです(笑)

日本人もおらず、友もなく。思い切って一人で街に出れば、すれ違う人々からはジロジロ見られ「しね~しね~」と後ろから浴びせられ困惑したものです。いえね、「しね~しね~」は「シネーザ、シネーザ(中国女)」と言っていたんですね。今にしてみれば笑い話ですが、トロリーバスに乗って街へ出、歩くのが恐くなりました。

スーパーマーケット、ショッピングセンターの類は皆無。土日の週末の親族同士のお呼びお呼ばれのお付き合いには悩まされました。なにしろ、「初めまして。Yukoです」の後、言葉が続かないんですから。意地になってポルトガル語なんか覚えてやるかい!なぁんて思ったりしましたからね。あははは。

でも、今にしてみればこれは核家族社会以前の、親族同士が交友を暖め合うひとつの方法だったのです。週末は家族でショッピングセンターへ云々という娯楽の類がほぼなかったのですから、レストランでではなくそれぞれの家に人を招き招かれする、それが娯楽でもあったようです。

言葉が分からず食事も会わなかった私にとって、当時の昼から夜までかかる長時間の食事会は「これ、懲罰かぁ~」と思われるほど苦しかったなぁ(笑)と言うので、今回は当時にまつわる過去記事をひとつ。

某年某月某日 「石畳」
ポルトは悠久の街である。大西洋に流れ込むドウロ川べりから市街中心にむかって、幾重にも丘陵が重なり、段々畑の様を呈して赤レンガの屋根がぎっしり並んでいる。この街では時間はゆっくり流れる。人々は素朴で子供たちは路地裏で日が暮れても遊びまわり、ときおり焼き魚の匂いが漂ってくる。

長崎にある石畳の道は、そのロマンチシズムで人気のあるスポットだと思われます。もしかすると、この長崎の石畳の故郷はポルトガル・スペインではないのかとわたしは推察するのですが、どうなのでしょうか。

石畳もホンの一部であれば、雨にぬれてもロマンチックであるけれど、気をつけないと人も車も滑るんですネ。ハイヒールのかかとはと言えば、まるで石畳に噛みつかれでもするかのようで、どうもいけません。(当時の私は時にヒール付きの靴をよく履いていました)

姿を消しつつある石畳でが、まだそこかしこに残っています。
この石畳はさいころ型の石を敷き詰めたもので、ひとつの面は20年ほどの耐久性があると言われています。

一面が減ってきたところで掘り起こし、面を変えるのです。そしてさらに20年、また掘り起こし面を変えて20年。この単純な繰り返し作業で行くと、さいころ面は6面あるのだから、最後の6面目が減った暁には石畳の道の齢(よわい)は120年!!!

たいしたものです。ひょっとすると目の前に見られる石畳道が100年ほども経っているかもしれません。そこを日常的に歩いているというこを考えると感動的でもあります。

たかが1、2年帰らなかったというだけで、目まぐるしく景観が変わってしまう日本と比べると、なんというこの悠長さ、この頑固さ。え?新道路工事の金がポルトにないんじゃないの、って?それを言っちゃぁ、おしまいよw

時には、ハイヒールのかかとに噛み付き、車もその振動で痛みが早いのではないかと気が気でならない石畳も、ポルトを「悠久の街」とわたしに言わせしめる一因ではあります。

因みに石畳をポルトガル語では「calçada portuguesa」と言い、モザイク模様の石畳も含みます。おしまいに、ヘタクソな一首をば。^^

わがいえの前を流れる悠久の時はゆったり石畳となり 


我が家の辺りは、わたしが来た当時一面林だったのですが住宅地に開発されました。昔、この辺りが林だったとは知らない人が多いでしょう。が、我が家の面する通りは今も石畳を敷き詰めた道です。

本日も読んでいただきありがとうございます。|
ではまた。
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2022年5月22日 

Facebookでつながっている我がモイケル娘の友人Kちゃんが、「絹絵に描かれたこの屋号」の読み方をどなたかご存じないかと写真を載せていた。

崩し字であろうとわたしなりに探ってみたのだが結局分からなかった。探りながら、前に似たようなことをしたことがあるぞ?と思い出した。

あ!あれだあれだ。モイケル娘が3年間会社勤務をした後、どうしても勉強してみたいと言い出し、東京のとある大学院で近世文学コースを選んだときのことだ。

夫には、そのコースってどんな職業につながるのかと問われ、「し、知りまヘン。けど、本人が勉強してみたいと言うのだからええんじゃないですか。職業につながる学問をする人ばかりだと、世の中、知識人や教養を持つ人ががおらんようになりまっせ。」なんて偉そうに言って娘の肩を持ったおっかさんでした。

東京で兄貴との共同生活中、モイケル娘が、いざ!と再び学生生活を始めた春、わたしは帰国したのだが、当時の彼女の奮闘ぶりにわたしも加担しようとしたある日のずっこけ親子の話である。以下。

某月某日
いやぁ、参った参った。
紀貫之さまではありませんが、「娘もすなるくずし字といふものを、母もしてみむとてするなり」でありまして、モイケル娘が初めて取り組む1800年代に書かれた小説の原文読みの課題、いやはや崩し文字の漢字もさることながら平仮名のややこしいこと。
書をただ眺める分には、美しいなぁで済ませるものの、読むとなるとこれは殆ど苦行であります。二人して迷路に入り込んだ心地して、面白いもののその結果、いと恥ずかしき(笑)

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以下、モイケル娘のブログ記事借用して。大学から帰宅した娘から講師の正解を聞き、ガハハハと爆笑してしまったくずし文字探りテイタラクでありました。

題して「心は豚にひかるる大八車」

―ここからモイケル娘の文を引用
いやー。参った。
文字に襲われる夢を見ました。はっはっは。

自分のペースでできることをやるしかないと再度自分に念押しを。
周りはどうあれもっと気楽に失敗しまくろう\(^o^)/

と思うことにした結果

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赤枠内の文字を「豚にひかるる大八車」と解釈して、今朝の発表で先生の盛大な苦笑いを頂きましたww正しくは「縁にひかるる」ですね。

いやー、おかしいとは思ったんだよ。
でも他の字が浮かばなかったし、そもそも辞典の豚の字と似てたし、
右のルビも「とん」に見えるし。

「えん」だったんだねー。

ちなみにこれは1688年に増田円水に書かれた『好色大神楽』という浮世小説です。物語が井原西鶴のなんかの小説(忘れた)に酷似しているのがひとつ注目すべき点だとかなんとか。

ほんと気分は暗号解読者だよ。
今日から暗号解読者を名乗ろうかな。
どうも。暗号解読者です。ディサイファーです。

豚は大八車をひきませんよ。―引用終わり


江戸時代に「豚」っておったのかな?いや、ブタとはイノシシのことかも知れんぞ・・・しかし、なんで「心は豚にひかれる」なのだ?と不可思議に思ったものの時間切れになり、えぇい、分からん、しないよりはましだというので「ブタにひかるる」と相成り(爆)

これからが恐いような楽しみのような~

この時は、恥ずかしい誤読をしたものの翌日に正解が分かって気持ちもすっきりしたのだが、さて、Kちゃんの件は果たしてその後どなったのだろうか、と気になるのでありました。

ではまた。


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2022年5月18日  

この前に依頼されてした日本文化展はいつだったのかと探ってみたら2017年3月、市立図書館の一室ででした。5年も前になります。

昨年、企業内で展示会をお願いできないかとの問い合わせがあり、コロナも少し落ち着きが見られようかと思ったもので、会場になる場所の下見をし、昨年、2021年9月にする予定でした。が、その後再びコロナ感染者が増え始め、高齢者に数えられるわたしは延期を申し出たのでした。

この春からポルトガル政府のコロナ規制も大きく緩和され、今回はどうかとの打診を受けて、春先の帰国予定も諦めていたところで実施することにしました。

先週の土曜日には助っ人のOちゃんをOちゃんのご主人が、そしてわたしと夫が別々にOvarまで車で。展示品のほとんどは我が家にあるので、それらを詰め込んでOちゃんと二人でヒト働きしてきました。これまでの経験から、殿方は現場にいてもらわない方が仕事がはかどることを知っているので、Oちゃんのご主人と夫には場を外してもらいました。

土曜日は通常わたしもOちゃんもオンラインでの日本語教室があるのですが、午前中だけして、後のクラスは生徒たちには申し訳ないがキャンセルし、午後2時か展示物の飾りつけを始めたのですが、3時間で終えるつもりがやはり予定を1時間オーバーでした。

下見をしておき、前もって頭の中でこのように展示をしようと考えるものの、毎回、会場が違うもので持ち込んだ展示物を荷物から引き出し、いざ飾り始めて見るとこうしたほうがいい、これはこっちがいいと、その場に合わせたセッティングをしていくことになり、どうしても時間オーバーになります。

この展示設定を3時間で終えられるようになったときが素人ベテランと言えるかな?その時が多分わたしにとって最後のボランティア展示会だな(笑)

今回苦労したのは会場の壁になる部分が少なかったことです。壁を背景にしないと展示物が空間に紛れて引き立たない、それと、額が立てかけられません。 その点が残念ながら満足度を削いだと思います。

正面はこんな感じになりました。

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5年間も布類を仕舞ったままでしたから、なるべく折り目が目立たないようにするため、これらのアイロンあてを会場準備前日にしなければなりませんでした。その後は翌朝、出発前まで写真のように竿にかけておきます。
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今回は1週間の展示で、気になったのが留袖の展示仕様です。図書館でも回廊で一般向けに一か月ほど展示したことがありますが、この時は、図書館の展示プロの人がしましたので、問題なく終わりました。が、それ以外はたったの一日の展示会です。会場にわたしたちが控え、展示物になにかあった 場合はすぐ処理できたのですが、今回は遠方なのと日本語の授業が日々あるのとで、とてもそれはできません。

それで、着物展示にはあれこれ考えてピンや紐を使うなどして少し手を加えました。これがです、近頃手指の力がすっかり衰えて右親指など変形しており、ピンをさすにも力なく、指が痛むのでありました。1週間、留袖の展示の形が崩れないようにと願うのみです。以下、画像を載せてみます。

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正面の右側、壁なしです。 かすかに桜模様があしらわれている二枚の和紙。あまりの美しさに心打たれ手に入れました。

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少し拡大してみました。塗り物は、我が故郷弘前の「津軽塗」もたくさん入っています。

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↑焼き物が好きだったおばから譲り受けた急須と茶飲み茶碗

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人形コーナー。 背景が壁でないのが残念なり。木彫はわが友彫刻家の堺美地子の作品です。

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絵手ぬぐいを入れたガラスの額数枚。万が一ホールのガラス壁が割れたらと考え、怖くて後ろにたてかけるやめました。残念なり。
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↓正面、留袖の横は、百人一首かるたを並べ、茶の湯道具、こけし類、かんざし、舞扇とうちわが並べてあります。

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我が家の家紋つき留袖。野点がさは5年も長棹に入れっぱなしにしていたため、ちょっと破れてましたっけ。あはは。もちろん修繕しして。

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その下には何年も前に拙ブログファンの方から寄贈いただいた家族の桐げたです。拙ブログを今でも覗いていただいてるでしょうか。ご覧でしたら、ご一報をくださいませ。

素人のわたしたちがする、手元にあるものを利用してのディスプレイです。ん?と思われる点もあるかと思いますが、その辺のところはご勘弁いただきたいと思います。

この展示会は某社内ですので、一般の方にご案内できないのは残念です。本日は5年ぶりのボランティア展示会のご案内でした。

ではまた。
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某年某月某日 

ドウロ川に沿ってTuaからSL蒸気機関車での旅をしたことがあります。その帰路に出会った数年前のできごとです。

SLの汽笛はピョーピョーと鳴りなんだかやけに哀調を帯びて、旅の終わりを告げていました。車内は指定席ではないので、途中の2度の停車駅でわたしたちは車輌を変えてみました。最後は向かい合った座席が4つしかない小さな車輌でした。

乗客はわたしたちとわたしたちの席の向こう座席の老人だけです。ふと、あれ?ポルトガル人の年寄りの一人旅とは珍しや?と思ったのです。ポルトガルでは夏休みはたいがいカップルで、あるいは家族連れでの旅行者がほとんどです。

往復3時間半ほどのSLの旅も、いよいよ終わろうかと言うこ頃、最後のサービスでミーニュ地方の民謡を奏でて歌う5人の楽隊が各車輌を回っていました。楽隊がわたしたちの車両にやってきて、陽気な民謡を演奏しました。二曲目、三拍子のなんだか少し哀調のある歌が始まり、夫と向かい合わせに座っていたわたしは、なんとはなしにその老人に目が行きました。

手拍子を取り、一緒に歌を口ずさんでいます。我が夫はというと、なにやら終着駅からの帰りの車のルートを確認するのに地図とにらめっこ。音楽も終わり楽隊が隣の車両に移って行き、わたし達の車両は再び静かになり、ガタゴトガタゴト、汽車は揺れ老人もわたしたちの体も揺れ。

と、その時、先ほど楽しそうに手拍子を打って歌に合わせていた老人の目にみるみる涙が溢れてきました。頬をつたう涙を人に知られまいと頬をぬぐうその仕草を3度ほど、それから車窓に両腕を乗せ、さざなみ光るドウロの川面をじっと眺めやっていました。

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わたしは見てはいけないものを目にしてしまった思いがして気持ちがざわめき、帰宅してからも老人のその姿が頭を離れず、あれこれと思いを巡らせずにはおられませんでした。

老人の顔に深く刻まれたしわ、日に焼けた肌、そしてごつごつしたその手からして、農業もしくは漁業に携わってきた人であろうか。あの歌に過ぎし日の思い出があったのだろうか。死に別れた伴侶のことか、それとも若き日の恋人だろうか・・・このSLの一人旅そのものが、過ぎし日の思い出をたどるためだったのだろうか?夫にも容易に言えないような情景を見た気がしたのでした。

近頃は、行く先々のあちこちのスナップに夫が写っていて、あぁ、せっかくのいいアングルなのに、旦那が入ってるよぉ。「あぁた、ジャマだから、ちょっとそこ、のいてよ。」とは言えなくて、困ったもんだ、と思ったりしていた常日頃。

くだんの老人を思い出すと、もしかして将来わたしが先にいなくなったら夫もあんな風に一人旅をするのかなぁ。あんな孤独な夫の姿を天上から見るのはイヤだな。夫より先には逝けないなぁと思ってみたり。

え?憎まれっ子世にはばかるで、あんたが先に逝くことはないから心配すな?だ、誰だい、人がしんみり慮っている横からそんなこと言ってるのは・・・さてもさても、SLの吐くススがらみの煙と老人の姿とで、ホンに煙が目にしみたドウロ川SLの旅ではありました。

オールディーズ「煙が目にしみる」はこちらで、聴けます。
古い歌ですが、The Platters、いいですよ^^



本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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2022年5月12日 

我が子たちが中学生のころまでは、British School、補習校、通信教育、ポルトガル語、数学やピアノレッスン代等の教育費で、お足が歩くどころか飛ぶようになくなり、日本への帰国は3年に一度ほどだった。

帰国年の夏はわたしも子供たちも心が弾み、気の毒に、後に猫たちと残される夫の気持ちを大して考えもしなかったものだ。一度などは夫から「自分の国じゃないけど、僕だって日本に行きたいんだ」との言葉を耳にした時は、ありゃ?と思ったものだ(笑)

日本での生活年数よりもポルトガル滞在年数の方が遥かに長くなり、ポルトガルにしっかり根を下ろしているように見えるわたしだが、内心は、未だに日本とポルトガルの間を常に揺れているのである。母を筆頭におじおばたちもみな鬼籍に入り残るは妹だけで、要は帰る家がないと言うのに、これは困ったものである。

この揺れる気持ちは子どもたちが日本に住んでいるということも関係するのだろうかと思ってみる。それが全くないとは言えないが、そうではない何かがわたしの心を揺らす。郷愁の思いはなんだか年々深くなっている。 そして、ポルトを後に日本へ帰国する前より、ポルトへ帰ってきてからの方がその思いは後を引いたりしている。

日本滞在から帰って10日ほどの間に悩まされるのは、時差ボケだけではない。食の移行、気分の移行も実は意外と大変で、この間は、旅行カバンに入れて持ち込んだ日本食を胃に詰め込む。そして、日本をまだ引きずりポルトガルに足をつっこんでいる期間中は、あれこれの思考をしばらく停止するように努める。この期間をわたしは勝手に「空間の落差」と名づけている。

二人の子供たちと共に、2、3年ごとに帰国していた時分は、ポルトに帰るなりすることが山積みだったので、それらをこなすことに追われて「気分の移行」など思いつく暇もなかった。が、これが結構やっかいなことに気づいたのは毎年一人帰国できるようになってからだ。

レンタル携帯で子供たちにメッセージを送り、池袋の宝くじ売り場前で待ち合わせしよう~、とか、台所に立つ妹が、包丁を持ってまな板の上でトントン野菜を刻む音とか、食卓に並ぶ和食器の優雅さ、舌鼓するうまい酒、など等、これら身近だったものが、わずか22時間で自分の生活から消失してしまう現実を迎える気分は、結構堪える。

マナコつぶればなぁ・・・・・と言うこの感傷に負けまいぞと負けん気を起こしポルトガルでの生活で正気をとりもどすのにゆうに10日ほどかかるのである。

コロナ禍の下、この2年少し「空間の落差」を忘れている。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。


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2022年5月10日 

今日は我がモイケル娘の誕生日です。ポルトガルを後にして、日本を目指して行って既に18年の月日が経ちました。

娘を日本へ送り出す時、「どうするの!もう帰って来ないよ、ポルトガルに・・・」と言った夫の言葉を今でもはっきり思い出せます。そして、夫の予想通り、結婚し娘を持つ一人の女性になり、はははは、、ポルトガルには帰って来そうもありません。が、わたしの方は、自分もそうでしたからね、とおの昔に覚悟済みであります。

夫婦で娘をポルトの空港から見送った日にちも、2004年6月30日とはっきり覚えています。
その年、娘の手引きでホームページなるものを作成したのでした。それがあって今日のブログも続いているということになります。
そして、その日6月30日は夫の誕生日でもあったのです。

あれから18年、自分の歳が70のちょうど真ん中になるのも、至極うなずけると言うものです。モイケル娘が大学を卒業した年に、今度は息子が日本を目指し合流して二人で東京近郊に住み始めたのが2009年。その間の夫のしょげようったらありませんでしたね。

昨日の母の日には、その二人から「母の日、おめでとう」とメッセージをもらいましたが、上に述べたように、もう20年近くも側におらず、子供たちに料理してあげるでなし、洗濯もののアイロンをかけるでなし、部屋も主がいないので汚れないゆえ、かつてした如く毎日のように片づけるでもなし、思えば母親らしいことはほとんどしておらず、なんだかこそばゆい。

モイケル娘に、ソラちゃんはまだ、母の日なる言葉も知らないだろうけど、あと1年もすれば、ソラちゃんから「母の日、おめでとう。いつもありがとう、ママ」と、あんたも言ってもらえるねぇ、と話していたのです。
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5月の始めにして22カ月を迎えた孫娘ソラ坊だが、保育園でもよくおしゃべりしているようで、先日、娘が保育士さんから聞いた話:

ソラ:ママ、いつむかえに くるかなぁ。(と、保育士さんに)
保育士さん:4時半ごろだと思うよ。
ソラ:4時半かぁ。ママね、迎えにくると、ソラ~って呼んで、
   ぎゅ~っと抱きしめてくれるんだよ。

2歳に足らずしてよくしゃべるのぉと感心しているのだが、話を聞いたりスカイプで様子を見たりしていると、幼い頃の我がモイケル娘とは性格が少し違い、なかなかにお喋りだ。観察力もある。モイケルママに言わせると、「手ごわいんじゃ~」(笑)←ママが優しいんだね。

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元気いっぱいのソラ坊。お転婆だな。

でも、ぎゅ~っと抱きしめるのは大事なことだよ。ふと、わたしは子どもたちにそうしてあげてたかな?と考えてみたら、なんだかよく覚えてないんだよね(笑) 孫に会う前にすでにボケが、と言われそうですが、元が天然ボケですからね、そこは心配していない。

モイケル娘の誕生日から孫の話に逸れましたが、わたしも今度会ったら、娘も息子も孫もぎゅ~っと抱きしめたい。

とりとめのない本日の話、お付き合いいただきありがとうございます。
ではまた。
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某月某日

今日のポルトは夏日より。

こういう気分のいい日は気も緩み、ここ久しくやっていないことをヤリガチなので、気をひきしめよ!とわが身に言い聞かせてます。久しくやっていないこととはなんぞや?以下でござる。

午前中の出張授業を終え、その足でハイパーマーケットへ食料買を出しに行き、重い荷物を車から出してフラットに運び上げる。5匹ネコたちが、腹減った、待ってましたとばかりに玄関で出迎え。大急ぎで内ネコ飯をあげ、どれ、それでは、外ネコへもエサを運ぼうか、と準備し、えーっと家の鍵、鍵。バッグの中だ。

帰宅時に玄関ホールの椅子の上にそのまま置きっぱなしのバッグから鍵を取り出し、パッと出て、ドアを閉めた、と、その瞬間、「ぬぬ?」と己の両手を眺めたところが、左手には外ネコエサのトレイ、右手には、デ、デ、デジカメ??なんでやのん?家の鍵でなければならんのに、右手に載ってるのはなんで、デジカメなんよ!一瞬、頭ん中が真っ白。

そして、理解した。鍵を室内に置いたままドアを閉めてしまったおバカな自分がそこにいる、と言うことを。うーーーっ!これが午後1時半。

水曜日は夕方4時半から、ダウンタウンの塾で日本語があるのであった。ふむ、慌てることはないぞ。まずは、こういうときのために、すぐ近くに住む義兄のもとに合鍵を預けてあるのだ。そこへ行って見よう。

それがダメなら次の手がある。その日は、Oちゃん宅の教室で日本語授業があり、家を出るのは3時45分だから、夫がそのうち帰ってくるだろう。水曜日の午後は夫、仕事がないので、いつも彼がショファ(お抱え運転手)のお役目をしてくれていたのだ。

とりあえず外ネコへエサを運び、義兄の家の呼び鈴を押したんです。が、応答なし。2時間ほど外で待っていれば夫が帰ってくるだろう、とタカをくくったが、この時既に運の尽きていたのでありました。

4時をまわったに、夫の姿は見えず。待て待て、4時15分でもまだ、クラスはなんとかできるぞ。いつも、ちょっと困るくらい早めに教室に着く生徒がいるので、家に入れたらすぐさま、ケータイで「ちょっと遅れるから待っておれ」と電話連絡ができる。 しかし、気になるので、向かいのカフェへ行き、「おいちゃん、すみません。鍵を家の中に置いたまま出てしまったので、お金あらしまへん。後で払いますよって、電話かしてくなんしょ」と頼み、塾先である相棒のOちゃんに電話してみたものの、こちらも応答なし。

し、しまったかな? と、この辺りから心細くなってまいりました。この間、何度義兄の呼び鈴を押しに行ったことか。な、なんでぃ、かんじんの時におらんなんて、合鍵預ける意味がないやんか・・・と、己の粗忽で起きたロックアウトにひとり愚痴るものの、どうにもならしまへん。

この時点で、クラスは完全に諦め申した。どうにもできません。こんなのは初めてのことであります。いえ、鍵を家の中に忘れたのではなくて、初めてなのは、クラスをうっちゃったということです。遅刻すらすることがなかったのです。これまでは・・・・

外で待つのも6時くらいになると、ご近所やコンドミニアムの住人たちが心配して声をかけ始めました。水を差し入れてくれたり、「うちで待たない?」と申し出てくれたり。

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フラットドアの前で突っ立って待っとるわたし・・・

「ケータイ使っていいから、ダンナに電話してみたら?」と言われるものの、番号暗記は全てスマホに任せて、自分は覚えとらんのだす^^; 唯一つ、しっかり頭に入ってたのが相棒Oちゃんの電話番号だったなんて。とほほほ。

コンドミニアムの住人が、緊急連絡の際にと、夫のケータイ番号を持っていました。それで、彼が電話をしてくれたものの、これまた応答なし。当然ですが、診察中検査中はゼッタイ電話に出ない人です。んで、あれ?今日はなんで仕事やの?ま、まさか、まさか、へたすると、8時まで帰ってこない?なんて、考えたくない~~!

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鍵代わりにデジカメ持ってたので、こんな空を写してみたり↑、こんなご近所の手入れの行き届いた庭を写してみたり↓
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そんで、こちらはご近所ネコの「マンマ」。わたしを見つけると、すぐ飛んでやってきます。
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やっと、検査が終わった夫からコンドミニアムの住人の一人に連絡が入ったのが午後8時。一人の患者の検査に3時間かかってしまった。まだもう一人いるんだけど、どったの?がび~ん。

ウソやん、なんで今日が仕事の日なの。どこにおんねん!と叫ばんばかりのわたくし。仕事仲間が休暇をとったので、この日は臨時で仕事とのこと。もう待ちくたびれ果てて、抗議する気もおこりまへん。

義兄に連絡を取った夫、後30分ほど待て、とお達しを受けました。なんでぃなんでぃ、7時間外で待っとるんじゃ~~。

やっとこさ、義兄から合鍵を受け取り家に入ると、スマホにOちゃんから8回もの電話(笑)。最後は、生徒さんもわたしも、何かあったんじゃないかと心配してますぅ、とメッセが残っていました。へぃ、何かありましたぞ、とすぐさま連絡を入れ、デジカメ右手に、ネコエサ左手に、かくかくしかじかと話し二人して大笑い。生徒たちには即メールで詫び状を書き。足痛、腰痛、ヘトヘトになった一日でありました。

我ながら、たまんないな。

本日も読んでいただき、ありがとうございます。
では、また。
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2022年5月4日

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帰国準備?いえいえ、そうだと嬉しいんですが、我がモイケル娘と東京息子のベッドの上に乱雑に置かれてあるのは日本文化展示品の一部です。

某日系企業から依頼があったのをコロナ禍の状況を見ながらというので、引き受けてから伸ばし伸ばしに1年が経ってしまいました。日本への帰国もしばらくはないだろうというので、今月半ばから1週間、社内で展示会が催されることになりました。その準備です。

ポルト市内ではないので、搬入も空いた時間を見てちょこちょこ運ぶいうわけには行きません。車で40分ほどかかる町ですから、夫の仕事のない時を頼んで行くことになりますが、多くのポルトガルの人に、日本文化に触れてもらいたいと言うのが、このボランティア活動を始めたきっかけですから、「迷惑かも知らんが、すまん~」と相棒のOちゃんに声をかけました。体力の衰えを切実に感じるこの頃ですが、できる限り続けたいと思います。

社の担当の方からは、「ものをひっかける所がないのですが、着物などはどうやって展示するんですか?」と聞かれましたが、うふふ、当日見てのお楽しみです、と答えておきました。ほんと、裏話を知ると、ぎょえ~なんですものね、わたしたちの着物展示方法(笑) 亡き母にも、紋付き、出番だよ、と心の中で言っております。

本当言うと、コロナ禍中、気が落ち込んでいて、このような状況では展示会はもうすることがないかも知れないと思い、人にあげたものが結構あります。あ、あれがないな、しまった!あれもあげちゃったや、の状態であります(笑)

よく見たら、鯉のぼりの吹き流し、父さん母さん鯉はあるのに、おろ?子供の鯉があれへんやん?とまぁ、こんな具合で、これから14日まで、展示準備でバタバタしそうです。何だか気合が入って来た気がします。エイエイオー! 

って、Oちゃんと夫に迷惑がられてるかもなぁ(笑)
ではまた!
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某年某月某日

わたしは元来が粗忽もの、それを脳内では日本語、英語、ポルトガル語の三カ国語が飛び交っておるわけで、この年齢ともなると日本語からポルトガル語や英語に切り替える言語の瞬間スイッチが効かなくなってきております。

ある年のこと、雨が降ったりやんだりのリスボンの街を夫とモイケル娘の3人で、カルモ教会目指して歩いたのですが、方向音痴の夫を先頭にして参った我ら、行けども行けども目的地にたどり着かず、とうとう口から出たブツクサ。

母「ゆっくり時間があってリスボンをZaraZara歩くのならまだしも、短い時間だと言うのに・・・」
モイケル娘「ほぇ?ZaraZaraっておっかさん?」

し、しまった!脳内スイッチの入力が遅かった!ブツクサ言った丁度その時我が視野に入ったのが目の前の店名「Zara」・・・とほほほ、「リスボンをブラブラ」と言いたかったところがZaraZaraになってしまったのでした。さすがおっかさんとモイケルが大笑い、情けない。これが表題の「リスボンZaraZara」の謂われであります。

旅行出発に先立ち、準備としてネットでざっと検索するのが常なのですが、今回ばかりは影絵の準備に追われその時間もなく、夫に任せたのが間違いであった。ロシオ広場からあんなに大きく見上げることができるカルモ教会です、そ
んなに遠いはずがない。坂道を上って行くうちに、これはオカシイと気がついた。

しかし、いつものごとく自信ありげに先を行く夫に迂闊にそれを言うと不機嫌のが目に見えている。さっきまでカルモ教会がやっとこさ見られると嬉々として歩いていた我が表情もいつのまにやら顔はくもり目はきつく、口元も「への字」に結ばれてじっと我慢の子。
さすがの夫もこの辺まで来て「まちがったかな?」とソワソワしだした。
「あったりきよ、だんさん、こんなに遠いわけないって。地図、見せてみぃ~」と内心では思うものの、ゆめ、口に出してはなら
んぞ(笑)

だが、ものは考えようで、グルグル迷ったおかげで思わぬ写真が撮れた。

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路面電車です。雨に赤が映えて素敵です。

リスボン路面電車
こちらも車体に鮮やかなデザインが施され、
 
方向を変えたところでカメラを向けると、あらま、ただ乗りのヤングマンがポーズをとって。
リスボン路面電車

ポルトにも2台の路電がありますがこんな風にカラフルにするのもいいなぁと思ったり。

こちらは、歩いて歩いていつの間にか辿り着いたサン・ペドロ・アルカンタラ展望台。目的地のカルモ教会からはずいぶん離れていたのですが、この展望台のすぐ横で、もう一台の路電を。
 
リスボン路面電車
石段から先は進めずここは終着点。

運転手もサービスでカメラにポーズを取り写真におさまって。
リスボン路面電車

道に迷ったおかげで市内を走る路電を見ることができたというわけです。

さて、丘の上にサン・ジョルジュ城を、そしてリスボンの街並が見渡せるこの展望台まで来て、さすが道を間違ったと認めた夫ではありました。
リスボン路面電車

本日もお付き合いいただきありがとうございます。
ではまた。
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