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2021年12月31日 

昨日の夕方で日本語レッスン納め。合間合間に掃除をしてきましたが、もう少し残っています。しかしまぁ、周囲の静かなこと!クリスマスもそうでしたが、これって毎年こうだったっけ?と今頃トンチンカンなことを言っています。
で、今朝は朝からずっと掃除をしているわけですが、ただいま休憩です。

新年に備えてドアを少しピカと磨こうと始めたところ、ぎょえ!ドアが10もある!おまけに細長いガラスが嵌ったのが3つ↓

door.jpg

これだとまずはガラスを拭くのから始まるわけで・・・しかもドアの掃除は裏表ですがな。ドアのトップや蝶番でつないでいる個所などホコリが溜まっており、いやはや、お掃除のおばさん、全くしとりまへんでしたわ(笑)昨日からこれをしているもので、右腕右肩の痛いこと。

静寂な中でひたすら掃除をするのも、いとツマラン。わたしが台所に立つときによくかけるOldiesのCDを家中流しながらの作業中であります。このCDは子供時代から我が青春時代までの思い出のつまった曲をダウンロードして一枚のCDにしたものですが、ざっと曲名を紹介すると、

夏の日の恋、Mr. Lonely、ムーランルージュ、エデンの東、マサチューセッツ、シェーン、Diana、悲しき雨音、シャルメール、Oh, Carol、ビギン・ザ・ビギン 等々

お笑いくださるな、これらを聞きながら調子よく手と体を動かして掃除に勤しんでいるのであります。

この秋からよく働いてきたと我ながら思っています。今日明日は久しぶりの連休ですが、2日の日曜日には再び仕事始めです。働けるうちに働こう!と己を激励しています。コロナ禍の収束を見るにはまだ予測もつきませんが、春だ、春!春には帰るぞ!ということで、

2021年も大晦日を迎えてしまいましたが、みなさま、どうぞよい年を!

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2021年12月27日 

わたしが子供の頃、母と妹とわたしは、下町の祖母の家に住んでいたのですが、母は8人兄弟の長女で、当時はまだ独身だったおじやおばも同居しており、祖母タマばあちゃんの家は14、5人の大家族でした。

男手も大の大人が5人と年の瀬の祖母の家での餅つきは、子供心にも、そのむんむんするような活気に心が躍り、誠に見ごたえのあるものでした。

祖母と母は白い割烹着をつけ、頭には姉さまかぶりの手ぬぐい、合いの手を入れて臼のもちをひっくり返し、おじたちはぺったんぺったんと交代で杵を振り上げ振り下げし、臼から白い湯気を立てての餅つきには、去く年の瀬をひしひしと感じさせられたものです。

つきあがった餅は、広い畳に敷かれた白い布の上で四角に伸ばされ広げられ、それを小さい長方形に切って行くのでした。わたしの田舎、弘前では、餅は丸ではなく長四角なのでした。

どういうわけか、わたしはつきたての餅を口に放り込んだ記憶が全くありません。昭和20年代も終わりの頃です、当時の日本はまだまだ貧しく、特に地方はそうでした。今で言う、豪華な「おせち料理」というものがいつ頃からのものかわたしは知りませんが、祖母の家での正月料理は、黒豆、紅白のかまぼこ、棒タラの甘辛煮、大根と人参のなます、そして、当時は安かった数の子が添えられていたように思います。

高価なもち米を使っての餅は、当時の祖母を筆頭にした吉崎家では、正月最高の贅沢のひとつだったのではなかったかと、今思います。ですから、つきたての餅をポイと口に放り込むのは、いけないこととされていたのかも知れません。母もおじおばたちも鬼籍に入ってしまった今となっては、聞く術がもはや無いのです。

わたしがいた当時の補習校は、日本語での国語算数数学の授業の他に、できるだけ日本の伝統文化も子供たちに知って欲しいと望んでいた関係者が多く、七夕まつり、運動会、学芸会、修学旅行に加えて、餅つき大会もその一つでした

その行事を立ち上げるについては、臼や杵、糯米の入手方法などを職員間で色々意見を出し合った結果、臼は当地のポルトガルで石を利用してみようとなりました。杵は一時帰国する職員のメンバーが調達してくる、もちごめはスペインの日本食屋さんから仕入れる、となりました。

餅つき大会は少人数の補習校としては画期的な計画になりました。こうして父母の協力も得て毎年餅つきの行事が始まったのです。

さて、その餅つきの様子を少し紹介しましょう。

餅つき1
準備中

学校のキャンティーンにある台所を借りて、もち米をふかし、臼に運び込みます。まず、このように杵で臼の周りを回りながら、もち米をつぶします。

餅つき2

そうしてもち米は適度につぶされた後でペッタンペッタンと餅つきが始まります。

餅つき3

ここでちょっと臼に目を向けてみてください。↓ 

餅つき4

臼はポルトガルの石を使って製造注文。床も石ですから杵を振り落としたときに臼がひび割れないように。また、臼の重さはただものではありません。とても男一人や二人の力では持ち運ぶことができないため、車をつけて、さらに床に固定できるようにした、我が校独特のアイデアで作ってもらったものです^^

実は難がひとつ。本物の日本の臼を知らない人が作るものですから、この石臼は口よりも中側が広くなっている「みかん彫り」とは残念ながらならず。しかし、文句を言っても始まりせん。結構間に合わせて使用しておりました。

出来上がった丸い餅です。
餅つき5

人のいいおじのひとりが保証人の判を押したがため、家を売却なければならなかったタマばあさん。にぎやかだった大家族は一家離散とあいなりました。

わたしが最後の餅つきを目にしてから、半世紀以上もの星霜を経ましたが、まさか、ポルトガルと言う異国の地で再び年の瀬を思わせる餅つきを目にすることができるなど、想像だにしませんでした。

不思議な織物のアヤからなる人生と言う一枚の布がなすワザでしょうか。

補習校を去って10年になりますが、餅つき大会はどうなっているのでしょうか。日本の一般家庭でも、地方へ行かないとなかなか見られなくなったこの伝統行事、継続して欲しいと思っているのですが。

日本語学習者に年末行事を語る時、知らず知らずに餅つきの話に熱を込めてしまう自分がいます。

では、みなさま、また。

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2021年12月25日

外から車の往来が聞こえないほど静かなクリスマスの一日でした。

昨夜遅くにAveiroの夫の姉から電話が入り、今日の昼食に集まるはずだった長男の10代の子供が、友人たちと遊びに出かけたところ、その仲間にコロナ感染者が出たというので、家族全員が自粛しなければならなくなり、結局、義姉宅は次男夫婦と夫の兄、姉4人の寂しいクリスマス昼食になったようです。

去年に比べて死者の数こそ大いに減少しているものの、それまで1日1000人を切っていた感染者数が12月に入るや日に日に増加し昨日は約13000人です。イギリス、フランスなどは24時間で10万人近い過去最高を記録する感染者が出ています。

ポルトガル政府は、この状況悪化に伴い、先日再びテレワークの義務化、公的スペースでの10人以上の集合禁止、バーやダンスホールの閉鎖などを発表しました。

高齢者に限らず中年、若い人達の感染者が増えたのはオミクロンの性質でしょうか。言ってもどうなるものではないと分かりつつ、もういい加減にしてよね!とつぶやいています。

昨日のイブの雨降る中、プレゼントをわざわざ持ってきてくれた友人で日本語の生徒であるマリアさん。「いいよいいよ、いつになるか分からないけれど、この次まで待ってるから」と電話が入った時に言ったのに。

ほぼ2年ぶりにフラットの玄関口で、夫も一緒に立ち話をしました。確か82歳になったはずです。いつもと変わらず元気な話しぶりに安心しました。彼女はわたしと日本語レッスンをしなくても、きちんと勉強する人なので、その辺の心配はありません。

わたしからのプレゼントとして、日本の小物と、このところ、整理し始めた日本の食器類からお皿を受け取ってもらいました。

彼女のプレゼントは、やっぱり!のポルトの歴史の本です。わたしが長年、ポルトガル語の先生とGermano Silva のシリーズ本を読んでいるのを知っているです。Germano Silvaは90歳になりますが、何冊もポルトについての本を出しており、今回わたしがマリアさんからもらったのは今年10月に出版された最新版。

彼女との電話で、「コロナ禍以来、気持ちが落ち着かず、それを紛らすために日本語授業を増やしていて、ポルトガル語の本を長い間、開いてない」と言ったりしていたので、それでかな?勉強せなアカンで、と(笑)

反省しながらも気持ちがなかなか向きそうもないんだけどね・・・コロナ禍で時間がたっぷりあるはずだったのが、時間をなくなってしまったという、いいような困ったような。

でもマリアさん、本当にありがとう!このプレゼントは、勉強しなくちゃと思い起こさせてくれました。少しポルトガル語をがんばらなくっちゃ!
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2021年12月23日
 
このところ、日本語授業の準備に追われて、ブログに割く時間が少なくなってしまいました。
気が付けばグループ、個人をあわせると週に10レッスンを受けてしまっています。

ブログはやはりある程度の自由な思索時間を得られないと書けないわたしです。
さて、コロナ禍でなるべく人混みを避けようと外出を控えていると、群衆の中に身を置く機会がなくなり、こういう孤立はちょっと怖いかもなぁ、と自分では思っています。人と直接話をしないとしても人混みの中に入ってみることは、世捨て人を望まない限り人間として必要なのだと思わされるこの頃です。

人を家に入れられない現状で、オンライン授業は願ったりかなったりです。大学の夜間コースで日本語を教えている友人によると、生徒たちはみなマスクをしているので、顔が分からなくて困るというようなことを言っていますが、オンラインだとその点カメラを通してですが、お互いの顔が見られるわけです。

授業とは言え、こうして顔を見ながら生徒たちと交流できるのは、やはりいいものです。中級クラスともなると、もうほぼ授業中は日本語での説明になりますから、時にテキストを離れて話をしたりするので、日本語での会話がすっかり少なくなったコロナ禍状況では、嬉しいことだと言えます。

online1_2021.jpg

授業では、こうして黒板を使いますが、向かって左側にある木の代わりに、今はそこに大きなクリスマスツリーが置かれてあります。

12月ともなると、授業では必ず日本文化の紹介として、各クラスで「年越し」「新年」について話を取り上げます。このプリントはネットでイラストや写真を拾い集め、ポルトガル語と英語の説明で作成します。下は新年について。

nennmatsu_shougatsu1_1 - Copy

少し大変なのですが、でも作成している間、懐かしい故国の歳時記づくりでもしているかのような気持ちになり、子供の頃の思い出がよみがえってきます。

昭和20年初期に生まれたわたしは、年越し、新年には深い思い入れがあります。
弘前の下町にあった祖母の家は13人の大所帯でした。大晦日も近づいてくると、長女であった母を始め、女たちは手ぬぐいを姉さんかぶりにして、男たちは杵を振り下ろし餅つきが始まります。だんだんと畳の上には丸められた餅が並べられていくのです。

子どもの頃は除夜の鐘が鳴り始めるまで起きていられなかったもので、大晦日の夜がどんな風であったか覚えていないのですが、この餅の光景は鮮明に記憶に残っています。

こんなことを思い出しながら「日本のとしこし」や「新年」の資料を作成するのです。新年を花火大会で迎えるポルトガルとは全く違った日本の静かなる正月の迎え方には、興味を示す生徒が多いです。

今年も、その日をもう来週に控えています。
本日のポルトガルに於けるコロナ感染者10549人、死者19人。
また増えてきました。

どうぞみなさまも油断せずお気をつけください。

本日はこれで。

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2021年12月21日 

大好きだったパヴァロッティ、ドミンゴス、カレーラスの三大テノールがパヴァロッティの死去で活動が終了されて後、時々聞いていた「Il Divo」のカルロス・マリンがコロナで亡くなったとのニュースが入った。

それに加えて、クイーンのブライアン・メイも、友人の誕生ランチに出かけてコロナに感染したと言う。出席者は全員3回のワクチン接種を受けていて当日の朝のテストでは陰性だったにも拘わらずだそうだ。

これで、わたしの恒例のAveiro市にある義姉宅でのクリスマス、新年食事会出席は、「否」と決まった。

今年は3年ぶりの食事会になるわけで、どうしたものかなぁとは迷っていたのだが、やはり行かないことに決めた理由はただひとつ、万が一感染して自分に何かあった場合、子供たちにも初孫にも会うことなく逝くことになるのだけは避けたいがためだ。

ワクチン接種していようと、これの意味するところは「感染しない」ではない。クリスマスの買い物で多くの人がマスクなしで街を歩く姿を見ると、みんなワクチンをしたから大丈夫だと勘違いしているんじゃないのかなぁとわたしは思うのだ。

極端に用心して行かなければならない場所へも行かないのは問題だが、用心するにこしたことはない。外出から帰ったときの手洗いは若い頃からの習慣なので、これは大丈夫だが、前ほどアルコールを使っていないことに気づく。段々、コロナ生活に慣れてきたと言うか、緩慢になって来たと言うか、こういう時が危ないのかも知れない。

そんなわけで、食事会は10人は集まるので、行くという義兄にプレゼントを預けて今回もクリスマス新年は、出席しないことにした。
やっかいな世の中である。
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2021年12月19日

イベリア半島でエレトゥリコ(Electorico)と呼ばれる路面電車が最初に走ったのはポルトでした。40年ほども昔、わたしがポルトに来た当時も、トロリー電車とエレトゥリコが街を網羅していました。

路面電車

今では、その路電が、混雑したポルトの旧市街をノロノロ行くのは、ノスタルジックでなかなかいいものだと思って眺めるのですが、大阪に住んでいた頃は、京阪電車やメトロの公共交通機関で毎日のように通勤していたのですから、当時のそんな時代遅れめいたポルトにはいささか、失望したものでした。

路電やトロリーが少しずつ姿を消し、ドウロ川沿いの一路線を除いては全て退役となり、市民の足として長年活躍してきた路電たちを展示する「路面電車博物館」が、マサレロ区域にオープンしたのは1992年のことです。それが、老朽化と同時に入館客も減りついに2010年に閉鎖され、いったいいつ再開されるのかという状況でした。

しかし、ポルトは近年多くのツーリストが訪れるようになり、先月2015年に新装開館されました。修繕には860万ユーロがかけられたと言われます。

路面電車
現在走行する3路線のひとつ、Line18

路面電車

路面電車

路面電車
 
路面電車
初期のオープン路電
   
16台の路電コレクションを始め、今回は緊急時の支援車やトロッコ車なども加えられました。

路面電車

路面電車

ここで、思いがけなく、[Ermesinde行き]と書かれた、昔、我が家の近くを走っていたトロリーバスに出会うとは、なんて懐かしい!
車が運転できなかった当時、ダウンタウンへはこれに乗って出かけたものです。

路面電車

さて、ハイライトは当時の路電へ送電されていた熱電力センターが2階に再現されたことです。

路面電車

路面電車
古い機械類も磨かれてみると、美しいものです。


路面電車
入り口にあるギャラリーには、昔の切符やパスも展示されており、興味深い。


路面電車博物館へは、ポルト旧市街のLine1の起点インファンテ駅、もしくはLine18の起点カルモ駅から乗車します。また、博物館では、150ユーロから路電の貸し出しサービスもしていて、イベントなどにも利用されているとのこと。これは面白いアイデアではあります。

では、みなさま、本日はこれにて。
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2021年12月16日 

12月に入るやデパートや大手のスーパーマーケットの店頭にはcabaz(カバス)がずらりと並みます。Cabazは贈り物のセットで、日本で言うお歳暮の贈答品にあたります↓

cabaz_1.jpg
Wikiより。

日本と少し違うところは、職場の上司や仕事関係のお得意先への義理がらみの付け届けはしない、という点でしょうか。一年を振り返ってみてお世話になったと思われる人に感謝の印の贈り物を届けます。

いったいポルトガルではどういうものが贈られるのかと、ちょっと興味があるところでしょう。まずワインやウイスキー。このあたりは日本と変わりませんね。ポルト・ワインやウイスキーは高価なものを贈りますから、たいてい一本ですが、Vinho Verde等のテーブルワインとなると、ドバッと10本から20本が届けられたりします。

これなどは、日本で言うビールの感覚でしょうね。そう言えば、ビールはこういうお届けものに使われることはポルトガルではないですね・・・
   
その他、室内の飾り物、クリスタルのデキャンタ、銀製品、そしてたまに金の装飾品などもあります。これらはかなり高価なものですから、受け取る方も躊躇します。
   
銀食器を身近に置かない日本文化では、価値を知る人は意外と少ない気がします。かつて、日本へ帰国する知人にお餞別として銀の菓子皿を差し上げたことがありますが、果たしてその価値を認識してもらえたかしら・・・もしかして、今頃は4万円がすっかり黄ばんで、もしくはズズ黒く変色してしまってるかもしれません。わたしも時々飾り棚の銀製品に手をかけるのを忘れて、くすんだ色にしてしまうことは度々ですから、人様のことは言えません

このように銀製品は、飾り棚等に入れてできるだけ空気にさらさないで、しょっちゅうやわらかい布でハァーッと息を吹きかけて(笑)拭く手間をかけなければならないという面倒があります。

食べ物のお届け物としては、「バカリャオ=bacalhau」と呼ばれる大鱈を開いて塩をまぶした干したものがあります。これは、肉類を食さないクリスマス・イブと、そして大晦日に他の野菜類とゆで上げ、酢とオリーブオイルをかけて食べるポルトガルの定番料理です。

また、豚の脚一本からなるからなる生ハムなんてのもあります。わたしの大好物です^^

生ハム

わたしはこの生ハムが大好きなのですが塩気が多いので近頃は血圧の関係上、極力避けなければならないのが残念至極。


さて、この生ハムと言えばこんあ話があります。

かつて庭付きの借家に住んでいたころのことですが、冬の間の湿気を追い払うのに、日中は車庫の戸をよく開け放していたものです。当時は夫の書斎がなく、写真に見られる生ハム、もらって大いに嬉しいのだが、置き場所に困り車庫の壁にぶらさげて置いたものです。

ある日の夕方、車庫に車を入れ終えて「ただ今」と家に入ってきた夫いわく。

「生ハム、君、上にもってきたの?」
我が家は3階建ての家屋の一番上でした。
「あんな重いもの、わたしが抱えて来れるわけないじゃない」
「でも、壁にぶらさがってないよ」
「ええ??」

慌てて車庫へ行って見ると、確かに夫の仰せの通りあるべき場所に生ハムの脚が・・・ない@@ 車庫の奥へツーッと目をやりましたら、れれ?ワイン棚にずらり並んであるはずのワイン、ウイスキーの本数もガバと減ってるではないか!

し、しまった! そうです、こそ泥にしてやられたのでありました。

当時のわたしは、常日頃から窓開放主義の、性善説を信じていた人間でしたよ。日本にいたときからきちんと戸締りをするなど心がけたことがないのです。仕事で日中空けているアパートも、当時飼っていたネコのポチが自由に出入りできるようにと、表通りに面した台所の窓は、いつも少し開けっ放し。それでもあの頃の日本は世界一安全な国と謳われたように、一度も空き巣に入られたことがない。

そんなものですから、ポルトガルへ来てからも風通しをよくするためにと、何の疑いもなく車庫のドアは、特に夏は、そして冬でも天気のいい日には開けっ放しにしておりました。どうも、それで目をつけられていたようです。

考えて見ると、それまでにも何度かおかしいなぁと思ったことに思い当たる。「確かに夏のシーツ全部を車庫のここに置いたつもりなんだがなぁ。見あたらない」とか、「あれぇ?夫がいただいた陶芸作家の人形一式の箱、どこへいっちゃんたんだろ・・」等々。
実は、最近になって、この頃に持って行かれたと思われる子供服、おもちゃに今頃気づいたのであります。トホホホ。

子どもたちに着せた手編みのセーター全部、ムーミンのおうち、帰国するたびに買い集めてきた息子の鉄道模型シリーズなど、大きな箱に入れてあったはずなのに、先日、孫の空ちゃんに持って行ってあげようかと、車庫を探してみたところが見当たらない。

なに、このフラットに引っ越すときに確認していなかったのだから、持って行かれて既に20年以上は経っているのでしょう、のんきなものです。さすが、日本語の子ども本は残っておりましたわ。

ふん!ワイン、ウイスキー、それにこの生ハム一本で、こそ泥たちめ、幾晩か酒盛りかと思うと、さすがわたしも面白くないというものです。こういうことが数度あったので、物を盗まれるよりも自分が家にいるというのにこそ泥が堂々入っていた事実に恐れをなし、とうとうわたしはドア開放主義を止め、以来車庫のドアをしっかり閉めることにしたのでした。

ポルトガルに来た当時は性善説を取っていたわたしも、こういう事情で、いつの頃からか、「人を見たら泥棒と思え」みたいな人間になってしまったなぁ、の感ですが、友人のOちゃんに言わせれば、まだまだ「お人よし」が抜けきらないのだそうで。
人って変われそうでなかなか変われないものなんでしょうね。

ではみなさま、また。
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2021年12月15日 
    
ずいぶん前だが、「動物の親も子育てには苦労している」と題したこんな画像を見かけた。

ちょっと待て1
「ちょっと待ちなさいってば!」

そしてこちら、「待てと言うとるじゃろが」
ちょっと待て2

「ほらね、だから言ったこっちゃない」
ちょっと待て3

これらの画像を目にして思わず笑ってしまったが、わたしには覚えがある。下の写真を見よ。動物が人間に換わっているだけで、「待てと言うとるに!」とわたしと息子の全く同じシーンではないか!

ちょっと待て2
1983年。息子3歳前

この日は夫の友人の娘さんの誕生日でわたしたちが招待され、カメラマンがいざ記念撮影をとシャッターを押した瞬間の息子と母親の一場面なのだ。おとなしくカメラマンの前で並んでいた他の子供たちも息子の一瞬の行動に思わず口を開けて驚いたり笑ったり。

天衣無縫な息子の性格がよく表れていて、わたしが大好きな写真の一枚でもある。思えばあれから40年近くが経つ。その息子や娘がいないクリスマス、何回目になるだろうか。

東京へ向かう前の息子はリスボンに長年住んでいたのだが、月に一回、夏の休暇やクリスマス、正月には必ず帰省していた。しかし、日本からとなると仕事柄、大学の夏季、春季休暇以外は簡単に日本からポルトガルまで帰って来るわけにもいかない。
モイケル娘はというと、日本での大学受験を目指して「必勝ハチマキ」はないのかと言って見たり、「合格必勝」と書いた紙を自分の部屋の壁に貼り付けたりして気合を入れていた時期、それを横目にくっくっくと隠れて笑っていたあの日から早や17年。

「おっかさん、わたしがいなくなったら、ちょっとなんだろうから」とホームページ開設を勧めてくれ、日本へ渡る前に自分の受験勉強の傍ら、その手ほどきをしてくれたのが2004年。我が一昔以上の星霜を重ねた。

大学時代の息子とは同居していなかったが、よく帰省したし、そうでないときは、夫婦でリスボンへ様子を見がてら会いに行ったりしたのでその人間成長ぶりを垣間見ることができたが、モイケルについては、花の娘時代を目の前で見ることができなかったのは返す返すも残念なことではある。

かく言うわたしも、大人へと移って行った青春時代の過程を親が見ることはなかったのだが。

人は一人で成長するのではない。世間にもまれ人との交わりを通して苦しみや哀しみ喜びの中から学んで人として成長するのだ。出会うべきして出会った人と新たな人生を歩み始めるまでを青春時代と呼ぶのだとわたしは思う。

わが娘の青春時代は過ぎ、ただいま子育て真っ只中である。息子はと言うと未だにひとり身だから青春時代と言えようか(笑)

上の写真を眺めながら、「ちょっと待ちなさいってば!」と親の価値観で諭す時代は終わったかなと思うこの頃だ。

本日も読んでいただきありがとうございました。
ではまた。

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20121年12月14日 

久しぶりに真っ青な空を広げたポルトです。
火曜日は唯一日本語授業がない日で、いつもだと午前中は食糧買い出しに行くのですが、こんないい天気、もったいないとにわかに思い立ってボアビスタ区域にあるParque da Cidade(市立公園)を歩いてきました。

時々車を飛ばして散歩に行っていたのですが、コロナ禍が始まって以来初めてです。週日の昼ゆえ、人もまばら、小一時間ほどの散歩でした。

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もう少し早く来てたら紅葉が見られたろうと残念に思いました。

池にはかるがもがたくさん。
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池から上がって、おや、みなさん、どちらへ?と思い、散歩道の向こうに目を向けますと・・・

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あらら、二羽の鳩が散歩道の真ん中でラブシーン中でたっけ(笑)

スマホカメラを向けても逃げませんでしたよ。撮影後、オジャマしないようにとしばらく立ち止まっていましたが、やがて、二羽で池の方へ仲良く飛んで行きました。いや、申し訳ない、鳩のラブシーンでありました(笑) すみません、トピックの「ラブシーン」に釣られた方がいましたら、ご勘弁を。

園内をくまなく回ると10キロは歩くことになります。

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この公園ができて30年くらいになるでしょうか。できて間もないころに補習校の子どもたちを連れて遠足に行来たことがありますが、その時は今のような森林にはなっておらず、言うなれば裸のお山でした。それが植樹され続けて樹々も大きくなり立派な公園になりつつあります。
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この10年先、更に木が伸びてこんもりとした森林になるかな?と楽しみにしているのです。その頃も、こうして散歩したいものです。
では、みなさま、また。
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2021年12月13日 

宮殿よりも写真で見た庭園のアズレージュに興味を惹かれ、一度行ってみたいと思いながらも長年できなかったリスボンのモンサント森林公園の端Largo São Domingos de BenficaにあるPalacio dos Marquezes do Fronteira庭園。

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先月末のリスボン三日間旅行で訪れて見ました。
宮殿そのものは、1671~1672年にかけて初代フロンテイラ侯爵により、狩猟や夏の別宅として建てられました。1755年11月のリスボン大地震で侯爵の主要住居も崩壊したため、この宮殿を改築増築して住居としました。

現在も子孫の12代目が住んでいるので、宮殿内はガイド付きで一部しか見学できないというのと撮影禁止とのことで、わたしたちはスキップ、宮殿正面の左側入り口から入り庭園のみを見てきました。
リスボン滞在の三日間は天気が悪かったため、画像が悪いのが残念なのですが、何回かに分けてご案内します。

今回はCasa de Fresco(フレスコの家)
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家と書かれてあるものの庭園の一角にある洞窟のようなスポット。Casa de Frescoは、内外部の壁に貝がらやガラス、石、陶器の欠片がぎっしり埋め込まれています。

これは、ドン・ペドロ王の時代、王が一度使ったものは全て、誰も使用してはならないという迷信があり、宮殿完成時の披露宴会で初代フロンテ色侯爵がドン・ペドロ王を主賓として招き盛大なバンケットを催しました。バンケット後、それに使用された食器類、コップ類等を全て割り、それらを散りばめたと言われています。
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この欠片は、今回わたしたちが見ることができなかった礼拝堂も同じだそうです。

下はCasa de Fresco内部。モンクの叫びにも似たような像がなんとも異様な気がします。なんだかぞくっときますがな。

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frescoとはポルトガル語では「涼しい」と言う意味がありますから、わたしたち日本人が夏に涼を求めてお化け屋敷に入るように、ここもそんな意味合いでこんな像を置いたのかしらん?なにしろ、この宮殿はもとは夏の避暑地として使用していたと言われますからね(笑)

フロンテイラ宮殿にはまだまだミスティックなものに出会いました。

本日はこれで。

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2021年12月10日

「病は気から気は病から」とは、ようゆうたものです。「自分、疲れてるんちがうか?」とか「こんなワクチンばんばん打って、どないなるねん」とか気にしてましたら、一日半ほど寝込みまして、これはある意味、気からやろな、と思います。

夕べは久しぶりに親子4人が揃ってる夢を見ました。モイケル娘が補習校の行事に行くというのに、親のわたしたちには、補習校からなんの連絡もないってどういうこっちゃねん!と、わたしが怒ってるわけです。もう10年も前に引退した職場ですよ。我ながら、あははは、であります。

んで、側で、我が東京息子が、ママの「百万回生きたねこ」の影絵だけど、あれ、著作権、大丈夫なの?なんてのたもうておりまして^^; わ、分かっとるわい。気にはしてるんだが、お金とらんし、ポルトガルの子供たちのためやしと、そこんとこ堪忍してもらいたいねん。

昨日はちょうど「懐かしいなぁ。影絵のボランティアもしばらくしてないや・・・とFacebookに再掲された写真をシェアしたところでした。ほんま、単純なわたしであります。

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なんか、過去にしてきたことが絡んだしっちゃかめちゃかの夢みて、まだ疲れてるな、こんなときは、笑わなあかん、と、昔の子どもたちのことを書いた記事を読んで思い出し笑いをしていました。 以下、ポルトガルで生まれ育った娘が日本の大学受験を夢見て頑張っていた10代のころの話、「帰国子女物語」から、「のび太の受験生鉢巻」より。

夫と娘が出かけた後のある朝、娘の部屋に入ってベッドの頭の上の壁に貼り付けられた合格必勝の文字が飛び込んできたのにはびっくりしたw

この頃である、「母ちゃん、鉢巻ないか?」とモイケル娘が聞いてきたのは(笑)

「おばか!鉢巻で勉強するんじゃない、気合だ気合!」と娘の言葉を一笑に付した母ちゃんであったが、
今思えば、日本の受験生の雰囲気を少し味わってみたかったのかなw それに、ドラえもんの「のび太」も宿題すると言っては鉢巻してたものね^^(殆ど嘲笑してますw)

父親からの日本大学入学支援のOKも出ておらず、塾もなく、目標を共にする仲間もいないポルトガルでの受験生、モイケル娘の孤独な戦いではあったと思います。しかし、夢を持つっていいよね!それに向かったひたすらまっしぐらだ!

最後の一年間はかなり厳しかったに違いありません。帰国子女と言うと、案外簡単に難関校に入学させてもらえると、親も子も周囲も考えがちです。そういうところもないとは言いませんが、難関校を突破するのは端が思うほどた易くはなかった。まして一度も日本の学校で正規の授業を受けたことがないのです。

9年間の週1補習校と同じく9年間に渡る4教科の海外子女教育財団の通信教育を受け、親と(親の協力なくしては不可!)地道にそれを続けて来ましたが、それで十分なわけはない。世界各国からの帰国子女の殆どは親の海外赴任について行き、将来の帰国にあわせてそれなりに、みな有名校の通信教育を受けたりしているのである。

日本語からして既にもいける娘とはレベルが違うでしょう。これをいかにしてクリアするか、が大きな問題となってのしかかって来ました。

帰国子女受験のもう一つの問題は、日本の勉強ができればそれでいい、と言うことではないのです。「海外での成績がばっちり物を言う」つまり、日本語での勉強は当然のこと、こちらの滞在校での成績もよくがんばらなければならない、という点です。

これはもう、恐ろしいことです。
色々な参考書類を読むごとに、「エライこっちゃエライこっちゃ」なのでした。おまけに、ズッコケ親子が狙うは、向こう見ずにも例の吉本康永氏著作の「タダで大学を卒業する方法」なる本の絶対おすすめをそのまま信じての、ケーオー、ワセダなのでありました。知らないと言うことは、げにおそろしき・・・ (引用終わり)

と書いております。

こんな風に向こう見ずのお金がない親と子の「目指せ日本の大学受験」から、もう17年も経ったとは。ということは、我がブログ歴も2004年のホームページも数えれば、はや17年になると言うわけです。

よくもまぁ、どうでもいいことをずらずらと17年間も書き続けてきたものだと、我ながら呆れているのであります。 
日本の大学を目指したモイケル娘の夢、アメリカ留学を目指したわたしの夢と、若い時の夢にひたすら向かうエネルギーって本当に凄いものだなと、今振り返って改めて思うところです。

今のアメリカに憧れはしないけれど、少なくともあの頃のアメリカも、そして日本もまだよかった時代じゃなかったろうか。

今、時代は大きく変わろうとしているような気がします。かつて私たちが見て追いかけた夢は夢でなくなり、人々は、わたしの孫の世代はこれからどんなことを夢見るのだろうかと少し不安な気持ちがなきにしもあらずです。

「笑わなあかん」から、今日はこんな話に及んでしまいました。
ではみなさま、本日はこれにて。  
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2021年12月9日 

夫も義姉も義兄もすでにブースター接種を済ました。サントス家のGGズ(爺さま婆さま)の中で残るはわたしのみになっていた。
が、先週センターからケータイに「12月6日午後2:42分、できるか?」とメッセージが入り、仕方がない、行って来た。

コロナワクチン接種はしないほうがいいという意見の人もいるので、果たしてすべきかせざるべきか、どちらがいいのかは今の段階では分からないが、わたしは呼吸器官が弱いということ、74歳という自分の歳を考えると、このワクチンが将来何かの病の原因になるとしても、若い人たちと違い、彼岸の向こうから及びの声がかかるのと同じくらいになるんじゃないかということ、そして、人様に感染させる率が少ない状態で、来春にはできるかぎり帰国したいとの思いがあるので、心から望むわけではないが接種してきた。

それにしても、いったい何回ワクチン接種を請われるのだと思うと、少し腹が立つのも否めない。次の変種株が現れたらまたするのか?もうほんまにイヤになるわ。次はもうせぇへんで!と思っている。

夫と義兄の時は、ワクチン接種が終わるまで3時間くらいくかった。わたしの第一回、2回もも3,4時間かかり、頭から湯気が上がっていたのであったが、今回もそれを考えるとうんざりだ。

せめて午後の日本語授業をキャンセルすることにならないだけでもましだと考えよう、授業がない月曜日の午後にあたったのだから。そう考えて、小雨の中、3時間は待つ覚悟で防寒服に大きなショールも用意して出かけた。
今回の接種会場は家から車で優に40分ほどかかる、行ったこともない場所である。自分の車のカーナビを使ったのは初めてだ(笑) もちろん夫同伴だったので運転は彼だったが。

雨の日だったからか、会場入り口前の駐車場に車を止めることができたのは、待ち時間が少なくて済みそうだと思って入ったら、案の定、そうだった。今回はものの1時間もかからずに済んだ。ワクチンは前回したモデルナと違いファイザー。

帰宅後、余裕ありと見て、固めのチーズケーキ作りに手を出したのが、まずかったかもしれない。晩御飯も早めにつくったのだが、突然寒気に襲われ、夜9時ころにはもうベッドにはいった。

悪寒は収まらず、そのまま翌翌朝まで寝る羽目になってしまった。ワクチンのせいか、はたまた、たまたま風邪をひいたのか、あるいは、リスボンから帰って来ての疲労がでたのか、実際のところは分からない。

いけないのは、この歳になり体調悪く、こうやって寝込むとろくなことを考えないということです^^;
今週の日本語クラスはこういう風に進めよう、あれを準備して、これも用意して、と考える分にはいいのですが、下手すると、こうなりゃ、いつお迎えが来るか分からないから、あれをしとかなきゃ、これもしとかなきゃ、となったりしますからね。で、おちおち眠っていられなくなるんです^^;

ただひとつ、今回、寝込んでしまって思い直したのは、春にはどうしても帰国してやる!とすっかり決めたことです。受けたくもなかったコロナワクチンを受けてきたのはそれがためでしたからね。

新変種株がまた出たら、ひょっとして帰国を再度先延ばしするかもな?と思ったりしていましたが、感染させないしないときちんと準備を整え絶対行く!今は元気でも残されてる時間は分からないのだから。

ということで、本日はこれにて。


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2021年12月5日 

今年もクリスマスツリーを飾ってみました。この季節になると思い浮かぶのがビージーズの歌「First of May」です。

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邦題は「若葉のころ」だそうで、子供の頃の切ない思い出をクリスマスと5月の若葉の頃に寄せて、美しいメロディーで歌いあげています。

♪When I was small, and Christmas trees were tall,
 we used to love while others used to play,
 Don't ask me why, but time has passed us by,
 someone else moved in from far away.

時節柄、クリスマスツリーが我が息子より大きかった頃のクリスマスにまつわる思い出話をひとつ。

息子が生まれて6歳までの6年間を、わたしたち夫婦は夫の母親、そして彼の母親の姉(夫の叔母)と共に小さな家に住んでいました。

その頃は、クリスマスともなると、毎年、生木の杉を買って来て、木が傾かないようにと色々苦心してきな鉢に立てては飾りつけ、リビングルームに置いたものです。

12月も半ばになると、クリスマスツリーの下は溢れるような大小様々の贈りものでいっぱいになります。贈りものはきれいにラッピングされ、それぞれ誰から誰に、と名前が書かれてあります。       

その頃はまだまだ元気だった夫の母親でしたが、彼女は9人兄弟で、田舎に住む者もいれば、ポルト市内に住むもの、同じ通りに住むものもおり、人の出入りがまことに多い家でした。

人が良く、何か頼まれるとイヤとは言えない性分の夫の母ということと、夫の病院勤めを頼ってやってくる親戚たちとで、私達が同居していた小さな家には、常に客がいると言うような状態でした。

こういう人たちが、このクリスマスの時期ともなると、東洋系の顔を持ったちょっと不思議な魅力の我が息子に、とプレゼントを携えてくるのです。プレゼントの中には、日本のわたしの母や妹、アメリカに定住してしまった我が友の物も毎年欠かさずありました。

もちろん、わたしたち家族もお互い思い思いのプレゼントを買い集め、少しずつそれをツリーの下に置いていくのです。

それらの贈りものを開けるのは、24日のクリスマスイブの質素な晩御飯が済んだ後でなければならないのです。 待ち切れそうになく、今にも包装紙を破って開けてしまいそうな息子を
諭すのは、容易なことではありませんでしたが、毎日ツリーの下に増えていく贈り物の数を数えてはじっと我慢して24日の夜まで待つのでした。
     
さて、クリスマスツリーの枝には、しばらく前からおぼつかない字で「To Father Christmas」と白い封筒に宛名書きのある一通の手紙が乗せられています。
それは息子が覚えたての言葉と文字で、Father Christmas(つまりサンタ・クロース。英国式ではこうなる)にあてて、自分が欲しいものを願う手紙なのです。

Dear Father Christmas,
ボクは、今からママやパパの言うことをよく聞いて
良い子になります。
だから、ぼくに次のプレゼントを置いて行ってください。
(以下欲しい物のリストがずら~っと続くw)
                         ジュアンより            
         
と、ザッと内容は毎年こんな具合です。本当に自分が欲しい贈りものは、こうしてFather Christmasに頼むのです。Fatehr Christmasはこのリストにあるもの全てを置いて行くわけではありません。このリストの中から、ふさわしいと思われるものが選ばれて、24日の真夜中、子供が寝静まっている間に、ツリーの下に置いていくというわけで。

24日の晩食後、かなり遅い時間に、家族のそれぞれがプレゼントを開けるわけですが、なんとかがんばって、Father Cristmasがやって来るのを待とうとする幼い子は、せいぜい11時までが限度で、やがてコックリコックリ船を漕ぐ。結局、一番欲しい贈りものは25日の朝にならないともらえないのです。

さて、息子が6歳の時のクリスマス。25日の朝一番に目覚めるのは彼です。起きてまっすぐクリスマスツリーがあるリビングルームへ直行し、目を見張って口をOの字型に開け、驚きと喜びいっぱいの表情で、そこに置かれてある大きなプレゼントに飛びつき、包装紙を引きちぎります。ひとつひとつ開けるごとに興奮また興奮での連続です。
       
その年は、ことの外嬉しかったのであろう。この贈りものがたまらなかったようです。

翌日26日の朝のことです。ガバと起きて部屋を出、再びまっすぐクリスマスツリーのある部屋へ突進したのには驚きました(笑)もはや何も置かれていないツリーの下をはっきりみては、ひどくガッカリした面持ちでスゴスゴと自室に引っ込んだのでした。その姿を見てわたしたち家族は大笑いしたものです。

息子よ。毎日がクリスマスだったら、いったいどうなるだろう。Father Cristmas, いくら働いても間に合わないよ。年に一度だけ、じっと我慢して待つことこそが、大きな喜びを育むことになるのです。

その息子も今では40歳。母親のわたしを見下ろす身長です。あの頃夫の母の家に出入りしていた親戚や知り合いの顔ぶれも、随分いなくなってしまいました。
「オ・ジュアンズィーニュ!」(ジュアンちゃんの意)と絶え間なく息子を呼んでは可愛がっていた義母も寝たきりで10年、94歳で亡くなりました。

エヴァーグリーンのクリスマスツリーの下で、月日は移り変わり、人も変わりました。
Time has passed us by.よかったら下のビージーズ、Fisrt of Mayをどうぞ。



それではみなさま、また。

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2021年12月3日 

冬の旅行は好きではない。が、夫に行くぞと言われ、既にホテルの予約も取ったというので、致し方なくリスボンへ3日間行って来た。

リスボンは昔、息子が10年ほど住んでいたので何度も往復しているのだが、実は観光らしきものをしていなかったのである。息子に会うのが目的で、会って食事を共にし、アパートをちょっと立ち寄っては帰って来る毎度であった。

じゃ、雑誌記事の取材も兼ねて、夫に付き合うかと出かけて来たのだが、思いの外疲れてしまった。帰ってきたその日から、オミクロン騒動でポルトガルは再びコロナ禍規制が厳しくなり、セーフだった。

リスボン市内を車で移動するのは、混雑が大変なのと駐車場を探すのに苦労するのとで、今回は車をホテルの車庫に置き、市内の移動はもっぱらタクシーでとなった。何しろ、メトロもバスも路電も、このご時世では遠慮したかったのである。

夕食を取るには時間が早いというので、目の前がテージュ川のComericio広場に面したMuseu da Cerveja(後日、紹介)にて、軽食をとった。

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Praça de comercio 広場のクリスマスツリー

この日は日曜日で、ツリーをみんがための人で広場はにぎわっていたが、広場からバイシャ地区に続くArco da Rua Augusta通りに目を向けると、ぎょえ!身動きができないくらいのもの凄い人出で、通りに入るのは止めた。

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広場から見たArco da Rua Augusta通り。

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この時期の風物詩、焼き栗屋があちこちに見られる。

リスボンのダウンタウンはどこもかしこも人でいっぱいだ。NY、東京、パリの大都市とは比べられないが、やはり都会だ。

リスボンの街に身を置くと、今は東京に住む息子を思わずにはいられない。街を歩きながら、息子はこの街のダウンタウンに10年住んでいたのだと考えると、どこかに息子の影が見えないかと、ふと思った。いるはずはないのだが、なぜかその影を探している自分に気づき、ちょいと切なくなりゃんしたね。

その息子にも、来春は果たして会えるだろうか。立てかけていた来春帰国の計画も、オミクロン変種株で今は止まってしまったのだが。

本日はこれにて。


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