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2021年10月29日 

今日は過去記事に手を加えてみました。以下。

♪だれかがこっそり 小路に木の実 うずめて

の歌いだしで始まる、大好きなアニメーション「となりのととろ」。何度も飽きることなくわがモイケルむめと繰り返し見たものです。

わたしは気に入った映画は何度でも観るというマニアックなところがあり、娘も大好きな映画やアニメは台詞をソラで言えるとこまで参ります。

さて、このアニメ、当初は時代がいつごろなのかなどは考えもしないで見ておりました。見ながら、さつきがメイを学校の教室の中で、自分のとなりの席に座らせながら授業を受けている場面に出くわした時は、思わず子供たちを目の前に叫んだものです。

「あ!ママもこれとおんなじことしたんだよ、小学校1年の時に。」
そうです、まさにあれと同じシーンを遠い昔にわたしは実体験していたのでした。

ところは郷里の弘前下町にある城西小学校。昭和20年代も後2年程で終わろうかという頃です。あのころは今のように物が豊かではありませんでした。白黒の、色も褪せがちになっている当時の写真を見ますと、すっかり両膝の出たズボンに、ツンツルてんのセーター、履いてるものだって靴ではなくゲタですよ(笑)

我が家は、下町の祖母、タマあばあちゃん(おばあちゃん)の家に4世帯ほどが一住んでいた大所帯。子供だけでもわたしを筆頭に、妹、いとこと合わせても5人、それに大人が9人と、ただいま11人どころか、合計すると14人で、今思えば食事時はいったいどうだったのだろうか。

貧乏所帯でしたから、日中はなにかしらの仕事で全員外へ働きに出ており、今にしてみれば、14人が勢ぞろいで食事なんて記憶は正月以外はありません。

そんなわけで、わたしが小学校にあがったころは、二つ年下の妹を一人にしておくこともできず、何度か学校へ一緒に連れていったことがあります。こんなこと、妹は、このアニメのメイと同じように、わたしの隣の席に座って静かに絵を描いておりました。

その絵がまた、上手いのですね。それを見て、わたしの担任の先生が褒めるわけです。その時の我が妹の得意そうな顔。わたしは自慢心半分ねたみ心半分と、子供ながら複雑な思いを抱いたものです。

今そんなことは、とても許されないでしょう。学校も部外者は構内に入れないでしょうし、就学前の妹弟を学校へ連れていったりしたら、学校側の拒否はもちろんのこと、父母からの苦言も一言二言どころでは済みそうもありません。

しかし、あの子供の頃、わたしはトトロの中の同じ出来事を実際に経験した一人なのです。

そう思いながらジブリのホームページで調べて見ましたら、やはりとなりのトトロは、昭和30年ころが舞台なのだそうです。
         
日本が貧しくても鷹揚な教育観念を学校も周りの大人も持っていた時代だったのではなかったかと、今振り返って思います。

「あの子がいると他の子の足がひっぱられる」だの、子供の口から出るとは、とても思えないような陰湿ないじめの言葉も聞こえなかった時代です。
できる子もできない子も、豊かな子も貧しい子も、みんな一緒に交じり合って、それがごく普通の学校生活だった時代。

あのアニメが、わたしのような大人も観れる、というのは、ただ懐かしいからだけではないでしょう。現代社会が失ってしまった鷹揚さ、人間としての基本的な生活の芯がうかがわれるからではないのかとわたしは思っています。

最後になりますが、あの頃、わたしの隣に座って絵を描いていた妹は今でも絵が好きで、趣味で友禅染から始まって、日本画も学びました。

そして、これもまた、とても不思議な偶然ですが、車でものの10分もしないで、「トトロの森」に行ける所沢に住んでいます。

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城西小学校で妹を隣の席に座らせてから数年後
 
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2021年10月25日 

日曜日は毎週外で昼食をとることにしている。
夕方6時から中級クラスの日本語授業があり、終わるのが7時半だ。それからあたふたと晩御飯を作るのだが、昼食まで作っていたら疲れるだろうとの夫の配慮だ。

コロナ禍以前は、近くのレストランによく足を運んだのだが、最近はどうも味が落ちたような気がするので、車で7、8分のところにあるドラゴンサッカー場近辺のカフェレストランに行く。

昨日はそのレストランの隣へ入ってみようとなった。奥のほうに案内されて席につこうとすると、あれ?隣席に知ったような顔の家族3人が座っている。えぇっとえっと、と考えていると、すかさず夫が、「ご無沙汰してますね」と挨拶。思い出した!サンチェス夫妻だ。

ご主人は内科医、奥方は心臓科の医者で、お二人とも現在は退職している。いやぁ、お久しぶりと言うので話が始まった。夫妻は子どもが4人で、その中に我が東京息子と同級生だった息子さんがいた。わたしたちのつながりはそれだけではない。実は10年以上に及ぶ、学校の送迎グループの一員だったのである。

我が家から海岸近くにあるBritish Schoolまでは、自動車道路が整った今なら車で2、30分くらいの距離ですが、今から35年ほど前の当時は、自動車道路がなく、市内を通るのでラッシュアワーにまともにぶつかり、それはもう大変だった。あちこちの、「知る人ぞ知る抜け道」を通れども、通学時間はゆうに1時間はかかり、親達は悲鳴をあげていたものだ。

9時から始まる学校、早く出ても遅刻ということはよくあり、子が学校に遅れると学校から引き返して職場に向かう親も必然遅刻^^;この朝のストレスたるや、男親たちはよくやったものだと今にして思います。

日本で運転免許証など持っていなかったわたしが、British Schoolに子どもを入れるなら「君、免許とりなさい!」と恐ろしいことを夫に宣告され、一時帰国を利用して仕方なしに日本で自動車学校に行ったのは30も半ば過ぎていた。元来が運動神経の鈍い方、結局、若い人たちの2倍近くの費用がかかってなんとか合格したのであったっけ(笑

話を戻して、朝の通学は、比較的近距離内に住む4家族の男親たちが(学年もそれぞれ違う)グループを作り、夫たちが1週間の当番制を組んだ。幸いにして、親たちが皆、病院勤めだったので、集まりやすい場所「サン・ジュアン病院」集合となった。全員が到着したところで、その週の当番の車に子供たちを詰め込み、学校まで運ぶ。

最初は4人の子どもだったのが、その兄弟たちも通学するようになり、1台の乗用車に子どもだけで6人7人となり車の中は子どもの顔だらけ!小さい子は大きい子の膝にのる。乗用車に乗れる数が定められている今は、できないことだ。

だが、あの頃はまだそんな規則がなかったのである。今思うとちょっとぞっとするが、幸い一度も事故が起こらずに来た。座席では数人の子どもたちがワイワイガヤガヤ、イタズラし合うのもいて、そういうのを運ぶ当番の父親はさぞかしストレスが溜まったことだろう。

迎えは、学年が違うと下校時間も違うので、我が家は結局、中古車を一台購入して、わたしが行くことになった。当時は車を運転するのが怖くて仕方なかったものだ。こうしてあの頃を振り返ってみると、お金がいくらあっても足りない時代だった(笑)

サンチェス夫妻とは、食事が運ばれてくるまで子供たちの現在の様子をお互いに話し、スマホに保存する写真を見せ合ったりした。あちらの長男が44、5歳、孫も6人だが、もうみな10代だ。我が家はやっと去年孫が生まれたばかり。

わたしたちも歳をとるわけだ。懐かしい思い出話に花咲かせた食事前のひと時であった。

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制服を着た小学生の頃のジョンボーイとモイケル娘
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2021年10月21日 

15カ月になる我が孫の空ちゃんの散歩から帰ったモイケル娘が言うことに、「これ、フジちゃんだと思う。動物病院の近くで見た」と、写真を送ってきた。フジちゃんは、2016年、結婚する年の6月に、道端に倒れていた瀕死の猫を見捨てることができず、獣医に運び、家に連れ帰った野良猫ちゃんである。

獣医によると、推定年齢4、5歳、他の病気もあるだろうが、脱水状態、餓死寸前だったようだ。ガリガリにやせ細り、四肢を動かすこともできず、横になったままなのだそうな。なんとかエサをあげようとすると、「シャッ、シャッ!」と威嚇だけは根性出してするようで、このことからしてノラ猫ちゃんであろうと判断。

既に先住猫3匹をアパートで飼っていたので、一緒にしておくわけには行かず、大きなケージに入れてそれをカバーしベランダに置きながら、仕事からの帰宅後、自分の3匹猫の面倒を見、ノラ猫ちゃんを獣医まで点滴に連れて行くこと一か月、よく面倒見てあげたものだと思う。その間、ボランティア活動をしている施設や動物愛護協会など、あちこちにあたってみたが、この手のノラ猫には、どこも手を貸してはくれなかったのだ。

獣医の診断では、治療には何カ月もかかると言われ、このままだと、娘の体力が消耗するのは目に見えていたため、お金の問題は二の次にして、動物病院に入院させることをわたしは提案したのだった。

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娘がノラ猫ちゃんを連れて行ったもう一軒の獣医さんは、年配でクリニックそのものはパッとしなかったらしいのだが、「入院費はいらない。治療費と食費だけでいい。」と言ってくれたそうで、親切な獣医さんに出会って本当にラッキーだったと思う。猫ちゃんも娘も(笑)

その間、モイケル娘もできるだけネコちゃんの入院先に顔を出すようにしたようですが、何しろ残業が多いので、閉院後の帰宅も多く、そのうち、週末くらいしか覗きにいけないとこぼしていたものだ。

費用はかさばると、ギョッとする金額になりかねないので、そろそろ、一度お支払いしなさいと、いくらかサポートすることにしたおっかさんこと、わたしが言ったところ、件の獣医さん、この後は「うちが面倒をみよう」と言ってくださり、『不治の病から立ち直ったから、フジちゃん』と名付けられたとのこと。

体重はみるみる増え、足の突っぱりも完全回復。なんとか姿勢を保てるようになったのだが、後ろ足は依然として動かず。人馴れしておらず、いつも鋭い目か怯えた目のフジちゃんだったが、それから1年半たった2018年、面倒見てくれた病院のケージの中で。

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目から察するに、人間に対する不信感はまだ取れていないようだが、ふっくらしている。ほとんど治療は終わったものの、これでは里親は難しい。かといって一生涯ケージで過ごしてもらうわかにもいかない。
2018年末のモイケル娘の報告によると、「避妊手術を施した後、試しに外へ出してみたら、毎日ご飯を食べに獣医さんの家に帰ってくる」のだとか。これだと、家と外を自由に出入りする飼い猫と同じようなもので、フジちゃんの件はなんとか一件落着、めでたし!
これが3年前、保護してから5年前のことだ。

fujichan.jpeg

写真を拡大してみると、左前足の茶色模様からフジちゃんだと分かる。道で悠々と寝そべっているところを見ると人にもなついたようで、少し汚れているが、痩せてはいないのでエサは件の獣医さんのところでもらっているのだろう。貫禄もついてるようだ。

野良猫野良犬にとって、生き抜くのは厳しい現代社会で、今日までがんばって生きて来たのを見てなんだかとても嬉しくて、わたしは実際に会ったことがない猫だが、思わず書いてしまった。

フジちゃんのことの顛末はこちらで取り上げています。興味あらばどうこぞ。

spacesis in ポルトガル 子猫を抱いてPt.2:瀕死のノラちゃん

・spacesis in ポルトガル モイケル娘が保護した猫ちゃん、その後

spacesis in ポルトガル 瀕死の保護ネコ、フジちゃんのその後
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2021年10月19日

前回の続き、エリゼ・ヘンスラーについて。

ドン・フェルナンド2世は1885年に69歳で亡くなります。遺言で、シントラにあるムーア人の城やペナ城を含む森など自分の全財産をエリゼに遺すのですが、これは騒動になったことでしょう。何しろ外国人の元庶民です。

夫、ドン・フェルナンド2世の死後、エリゼはこの小さなシャレーに住みますが、遺産として受け継いだ上記の二つの城はドン・カルロス1世(ポルトガル王国最後から二人目の暗殺された国王)によって、エドラ公爵夫人ことエリゼ・ヘンスラーから買い取られ王国のものになります。同時に、エリゼはシントラのシャレ―を去り、彼女が18歳の時に産んだ一人娘のアリスとアリスの夫とともにリスボンに住みます。

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後年のドン・フェルナンド2世とエリゼ(Wikiより)

1929年にエリゼは92歳でリスボンにて生涯を閉じます。ポルトガル最後の国王だったドン・マヌエル2世と、前ドナ・アメリア王太后は1910年の革命で当時はイギリス、フランスへ各々亡命しており、ブラガンサ王朝は崩壊し、ポルトガルは共和国になっていました。亡命先からの王家の帰国は禁じられていましたが、庶民出身とは言え王家とゆかりのあるエリゼの葬儀には二人とも代理を送り、かつての王妃に礼を尽くしています。

エリゼは自分の墓石について遺言を下記のように遺していました。

縦横4メートルの土地を買い シントラ山頂にあるのと同じ十字架(Cruz Altaと呼ばれる)を墓石のトップに置くこと、十字架のサイズは墓地の大きさに比例しること、墓石には「ここにドン・フェルナンド2世王の寡婦、眠る。1836年生誕」と刻むこと。

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シントラ山頂の薔薇十字です(Wikiより)登山できますが、わたしはまだ行っていません。

下がエリゼ・ヘンスラーの墓地。リスボンのプラゼーレス墓地(Cemitério dos Prazeres)に彼女は眠っています。

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Wikiより

エリゼことエドラ伯爵夫人に関する記録は少なく、オペラ歌手から王妃になった彼女の生涯に少なからず興味を持つわたしです。

日本には、明治時代に同じく庶民からオーストリア=ハンガリー貴族と結婚して伯爵夫人になった日本女性、クーデンホーフ光子がいますが、彼女は夫の死後、相続した財産を巡り一族と裁判沙汰になるも勝訴して伯爵家を取り仕切ったとのこと。伝記もなく歴史から忘れ去られたようなエリゼ伯爵夫人の生涯について、いつかもう一度焦点をあててみたい気がします。

後年のエリゼ・ヘンラーはリスボンで、ポルトガル王家の滅亡を見ることになりますが、王家のペナ城での最後の様子を次回は載せたいと思います。

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2021年10月18日

庶民の出とは言え、エリゼは国王フェルナンド2世の妃です。どんなにか豪華なシャレーであろうかと期待するところですが、なんとまぁ小さな、そして可愛いらしい。エリゼの故国スイスのアルプスとアメリカの田舎の山荘をイメージして、彼女自らが手がけたデザインだと言われます。1869年に建築されました。

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ドアや窓枠、ベランダなどにはコルク材が使われています。

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小さなローズが絡んでロマンチックな窓

ここで少しフェルナンド2世についてメモしておきたい。
当時のポルトガル王家の決まりでは、王配、つまり女王の夫はプリンスという称号でした。これは現在のイギリスのエリザベス女王の夫、プリンス・フィリップが例に挙げられます。イギリスと違うところは、女王との間に子供が生まれた場合、女王の夫には国王の称号が与えられるという点です。

実は、女王ドナ・マリア2世はドン・フェルナンドとは2度目の結婚なのです。最初の夫はドイツのロイヒテンベルグ公アウグストですが、結婚後間もなく肺結核で急逝、女王との間に子供は生まれませんでした。ドナ・マリア2世17才にとっては再婚のドン・フェルナンド2世19才との結婚17年間に、二人の間にはなんと11人の子供が生まれています。(うち、4人は誕生後死亡)。

よって、ドン・フェルナンド2世は第一子が生まれると同時に国王の称号を得、摂政として国政を行いました。ドン・フェルナンド2世は女王の政策を多方面でサポートしたと言われます。陶芸、水彩画も趣味で芸術面に造詣が深いフェルナンド2世は人々から「芸術王」の別称を与えられています。

また、彼は、中世から存在する錬金術の叡智を持つ秘密結社「薔薇十字団」のグランドマスターだったとも言われます。そうして見ると、ドン・フェルナンドが精魂込めて造りあげた不思議な雰囲気を持つペナ城はなるほどと頷けます。

余談ですが、薔薇十字団員として名を馳せるせるのは、18世紀にヨーロッパで多くの伝説を残したサン・ジェルマン伯爵がいます。彼はフランスを中心に活躍しました。哲学者ボルテールをして「決して死ぬことがなく全てを知る人」と言わしめています。

わたしが20代に読んだ本では、サン・ジェルマン伯爵は歳をとらない。周囲が知らないうちにいつのまにか何年もどこかへ姿をくらますのだが、再び姿を現しても歳をとっていない。ヒマラヤへ行くらしい、と書かれてあったのを覚えています。サン・ジェルマン伯爵については調べてみると色々面白い物語があると思いますので、興味のある方は検索してください。
 
さて、シャレーの内部です。
広い間はなく、部屋のインテリは統一されておらず、どの部屋もそれぞれ特徴をもっています。
 
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天井には薔薇十字団のシンボルである大きな薔薇の花が見られる。

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レースを思わせる青と白を貴重にした部屋

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葉を伝わしたデザインは白い壁に緑が映えて可愛らしい。

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二階のどの部屋からもベランダに出られる。

シャレーの四方にあるベランダからは、遥か彼方に海や山頂のムーア人の城、そしてこんもりとした森の上に姿を見せるペナ城が眺められます。この小さなシャレーは、特に、とかく低い身分に対する周囲の蔑みも受けたであろう、妃エリゼにとっては息苦しい宮中生活からの逃避の場であり憩いの場でもあったことは想像に難くない。ドン・フェルナンドとエリゼはよくこのシャレーに留まったようです。

して見れば、二人とも異国の人です。エリゼは多言語を話すことができたと言われますし、ドイツ出身の彼女、きっとドイツ語も話せたことでしょう。オーストリア人のドン・フェルナンド2世とは言語の面でも意思にこと欠かなかったと思います。

さて、その後の二人はどうなったのかと気になるところではありますがこれは次回に。

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2021年10月17日 

10月16日付のネット情報によると、新型コロナワクチンの2回目接種率は、1位のアラブ首長国連邦87%についで、85%以上のポルトガルだそうだ。日本はと言うと66%の19位になっている。

ポルトガルにおいては、緊急状態が警戒状態に引き下げられ、これまでの多くの制限が今月撤廃された。もちろん、旅行時、医療機関内、団体イヴェントにはワクチン接種証明が求められ、公共交通機関利用時もマスクの着用義務があるが、今月末までは、国はこの警戒状態で様子をみるようだ。

さて、先週は眼科へ行って来たのだが、気になっていた白内障のほうは、あるにはあるが、今のところ心配しなくてよいのだそうだ。が、もともとド近眼の視力は、更に悪くなっていて、メガネを替えることになった。

先週金曜日の午後は、メガネを作ってもらうためにダウンタウンへ行って来たのだが、人出もあり、ツーリストも結構見かけたし、カフェも開店されオープンカフェ席はみな満席状態であった。随分活気が戻っていた気がする。

メガネ注文ついでに、夫とダウンタウンを少し歩いてみた。

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改築のため、数年間、建物全体がシートで覆われてきたBolhão市場 が、今回はシートが取り払われていた。年内に完成するかな?

ひとつ気が付いたのが、この市場の側にあったDelta Caféがいつの間にか、「Manteigaria Café」になっていたことだ。Manteigariaは、ポルトガルの伝統菓子パステル・デ・ナタ(Pastel de Nata)の製造元でもある。外からでもナタが作られる店内の様子が見られる。

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店のシンボルを見て、一瞬、ん?これはメーソンの握手か?ではあったが、果たしてどうなのか。

夫と休憩がてら入ってみた。
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ここで食べたナタは洗練された味(と、わたしは思う)で、コーヒーも併せてなかなかにおいしかった。
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こうしてダウンタウンでしばしの間だがくつろぐのは2、年ぶりだ。行き交う人々の服装が夏から変わり、街角には秋の風物詩の焼き栗の屋台が出現し、それを頬ばりながら歩く人たち、地図を片手のツーリスト。

今、街は確実に活気を取り戻している。人間の生活はこうでなくてはいけないと切実に思った。わたしたちが、この冬、パンデミックがなんとかやり過ごせたら、わたしも極力コロナ禍以前の生活に戻るように努力し、街へ出ようと思っている。人々と行き交うこともまた人生の一幕だ。もちろん、今しばし、気を緩めないで、だが。

「えりぜ・ヘンスラー」については、明日に。

ではみなさま、また明日。

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2021年10月15日 

どこへ行きたい?と問われると「シントラ」と答えるわたしに、「またぁ?」と夫に呆れられるほど好きで、これまでに何度も訪れてきたシントラですが、わたしが行き始めたころと違い、近年は拙ブログで紹介してきたスポットのどこもかしこも観光客がいっぱいです。

それで、かつてのようにゆったり歩いて、面白いシンボル探しもできなくなってしまったのは残念ですが、観光地は人が来てなんぼです、こうなると季節外れを狙って行くほかない。

この秋は、コロナ禍でまだ観光客も少ないはずです。できれば再訪したいと思っているのですが、果たして夫が同意してくれるかどうか(笑)

と言うので、7年ほど前に取り上げた「エドラ伯爵夫人こと、エリゼ・ヘンスラー(あるいはヘンスレー」シリーズを書き直してみました。

エリゼ・ヘンスラーは一般人から王妃になった人で、シントラ山中の「シャレー(スイスアルプス等で見かけられる山荘)」を主な住まいとしました。

Chalet de Condessa d´Edlaの入り口
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ペナ城を取り囲む広大な森の中に造られたシャレ―は、1999年に火災被害を受けて、長い間放置されていました。修復され一般公開されたのは2011年のことです。

エドラ伯爵夫人については興味深いストーリーがありますので、シャレーと森の案内とともにそれも取り上げていきたいと思います。

「エドラ伯爵夫人」と言う称号は夫人がドン・フェルナンド2世と結婚する際にもらったものです。ドン・フェルナンド2世は19世紀のブラガンサ王朝、ドナ・マリア2世女王の王配(女王の配偶者のこと)でした。オーストラリア人でハンガリーの名門貴族出身のドン・フェルナンド2世は、1755年のリスボン大地震以来荒れたままになっていたペナ城に惚れこみ、今日の姿に造り上げたので知られています。

34歳の若さで亡くなったドナ・マリア2世の跡を継いだのは、後継者のペドロ王子がまだ13歳であったため摂政となりましたが、15年間寡夫を通した後、運命の女性、エリゼ・ヘンスラーという女性に出会います。エリゼはスイス生まれで、アメリカ、パリで教育を受け、スカラ座でも歌ったことがあるオペラ歌手でした。

Condessa3[1]
エリゼ・ヘンスラーことエドラ伯爵夫人の肖像(wikiより)

1860年2月、エリゼはポルトのサン・ジュアン国立劇場で、そして4月にはリスボンのサン・カルロス国立劇場でヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」に出演して歌いました。見ていたフェルナンド2世はこの25歳の美しい歌手、エリゼにたちまち恋をします。エリゼは歌手というだけではなく彫刻、絵画、建築など芸術にも博識で非常に教養のある女性でした。

フェルナンド2世はエリゼと正式に結婚し妃に迎えたいと言うのですから、さぁ、大変。国王と庶民、しかも歌手という身分違いのこの結婚にはどれほどの障碍があったことでしょう。これはエリゼに結婚前日になってようやく「エドラ伯爵夫人」と言う称号が王の甥によって与えられたことから分かりますし、また、ポルトガル王家の歴史から忘れ去られてしまったということからも分かります。

しかし、ドン・フェルナンド2世、御歳53歳にて1869年6月10日にリスボンでエリゼ・ヘンスラーとの結婚にこぎつけます。進歩的な思想ゆえか恋ゆえか。フェルナンド2世が手がけた異国風の不思議な様式のペナ城を見ると、自由な想像力を持ち合わせた王だったということがうかがえます。

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シャレーのある森からはまるでお伽話にでも出てくるようなペナ城が見える。

さて、ペナ宮殿にいたのでは生きた心地もしなかったであろうエリゼは、やがてガーデニングという趣味を同じくするフェルナンド2世の協力を得て北アメリカやニュージーランドなど世界中から植物を集め土地の特質を生かしたペナ公園の造庭の乗り出します。この中には日本からの杉も植えられています。

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シダあり、岩あり。シントラ山中には神秘性が感じられる。
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次回はシャレ―内部を案内します。
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2021年10月12日 

見知らぬ相手から舞い込んだ数通の恋文をつき付けられ(えへへ。自慢しとったらいかんで~笑)、頑固な我が親父殿に、「こんな手紙をもらって、いったいお前は学校で何しとるんだ!」と、お門違いにもこっぴどく怒られたものだ。高校時代のことである。

こんな手紙というからには、親父殿、宛先人の無断で開封しとったのであろう、いかんぜおとっつぁん。なんでわたしが怒られなあかんねん?と思っても、すぐ手の出る人だったので、恐くて口には出せなかった。そういうところは、まるで向田邦子の父親のような人であった。

パソコン、スマホ時代の今だったら、メールやLINE、その他のSNSを使って告白するのだろうが、タイプされた文字に比べ自筆の手紙にはその人の性格がにじみ出ているようで、封を切るのも胸がときめいたりするものだ。ラブレターではなく恋文と言ってみた。
ラブレターと言うとすぐさま浮かんでくる印象的な一通がある。今日はそれを書いてみようと思う。

何度か拙ブログで書いて来たのでご存知の方もいるだろうが、我がモイケル娘が通っていたのは、ポルトの「オポルト・ブリティッシュ・スクール(Oporto British School)」だった。

幼稚園から9年生までの11年間、この英国学校で教育を受けた。ポルトガル語、ポルトガル歴史、体育授業を除いては、全員イギリス人、もしくはアメリカ人の先生である。

中学生ともなると、子供を本国のパブリック・スクール(寄宿舎のある学校)へ送り出すイギリス人家庭もあるが、小学校クラスはポルトガル人と海外から来てポルトに滞在している欧米人やアジア人との比率が当時は半々くらいであった。

そういうモイケル娘の小学時代にまつわる話である。
え?spacesisさんの恋文じゃないのか?いえいえ、わたしのではなくてモイケル娘への初恋文ですよ(笑)
 
我が家の家庭語はほぼ日本語だったが、モイケル娘は6歳離れた兄貴の影響をかなり受けていたようだ。何しろ今のようにパソコンなど普及する以前の話、日本語と言えば、帰国した友人たちの好意で送られて来るビデオからしか耳にしない時代である。ドラえもん、モーグリなど、ほとんど息子用で、男の子が主人公だった。

そんなわけで、補習校小学校にあがるまでは、モイケル娘は自分のことを「ボク」と呼んでいた。だって、兄貴が「ボク」、ビデオの主人公も「ボク」、我が家へ遊びにやって来る日本人の男の子たちも「ボク」です。

母親のわたしはと言えば、子供たちを相手には「わたし」を使わず、日本式に「ママはね」である。自分のことを「ボク」と呼ぶのだと彼女が思ってもいたし方ないわけで。日本人の大人には何度か、「おたくのお嬢さん、ボクっていってますよん」と聞かされたが、いずれ自分で気付くであろうと、のん気にわたしは放っておいたのだった。

さて、そういう環境のせいかどうかはわからないが、British Schoolでの小学時代は男の子とばかり遊んでいたようだ。

小学校2年生のころのある日、いつもの通りに学校へ迎えに行くと、「リチャードが、ママの作ってくれたお弁当をひっくり返してふんずけた」と言う。(このお弁当については後日に)

リチャードとは同じクラスの金髪でちょっと太った男の子だ。いつも仲良く遊んでいるはずなのにと思い、よくよく聞いてみると、どうやら「ヤキモチ」かららしい(笑)

ヤキモチの原因はこの子だったようだ。

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学校のアルバムのバック・カバーとしてアップされたこの写真は、「世界一周」というテーマで各国の伝統衣裳を身につけて学芸会で日本を案内した時のものだ。

ご両親と日本から来たK君とは喧嘩しながらもとても仲良くしていたようだったが、K君はやがてロンドンに引越ししてしまい、モイケル娘のしょげようったらなかった。

ついでに付け加えると、この学芸会で二人は日本の歌を披露したのだが、その歌があらまぁ、

♪蛙のうたが~聞えてくるよ、グワッ グワッ グワッ グワッ
  ゲロ ゲロ ゲロ ゲロ グワッ グワッ グワッ グワッ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だ、だれが選曲したのよ^^もっと可愛い歌があるでしょが!と、見に行ったわたしは、頭ガクンとうなだれたのであった(笑)今となっては懐かしい思い出だが。

さて、弁当踏んづけ事件からしばらくして、リチャードからもらったという白い封筒に入った手紙を持ってきたモイケル娘、わたしも一緒に拝見。リチャード君には失礼であったけれど、我が娘、なにしろまだ未成年だったからね。

それは確かに恋文であった。
し、しかしです、リチャード君、普段からあまりお勉強が好きではないらしく、ところどころにスペルの間違いをした形跡が見られたのである。それをちゃんと消しゴムで消せばまだ紳士的なものを、指をなめて消した痕跡が一目瞭然!

間違った言葉の辺りに、唾で消すと残るあのズズ黒さが、歴然と残ってあったのだった。娘の手前、わたしは笑いをこらえるのに苦労したものだ。あれが母親のわたしが知る限り、娘がもらった初ラブレターであった。

リチャード君はその後しばらくすると本国のイギリスへ帰国、2年ほどしてから写真入りの航空便が舞い込んだことがあった。庭を前に、自宅で撮ったという写真にあるリチャード君は、
少し成長していたが、多少太り気味なのは相変わらずだった。娘が返事を出したかどうか、わたしは尋ねていない。

リチャード君の恋文と呼ぶにはあまりにも幼すぎる、いわゆるラブレターもどきを思い出すと可愛いのと可笑しいのとで、今でもクスリと笑いがこみあげる。

女の子が多いクラスだったが男子とくっついて遊んでいたもので、これが後にちょっとした問題にぶつかることになったのだが、この話はまたの機会に。

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写真は、学校のアルバムに掲載された、とてもハンサムで人気があったローラソン先生と戯れるモイケル娘とリチャード君
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2021年10月11日 

今日は、わたしがする素人オンライン授業について書いてみようと思う。

遅くとも週の木曜日までに生徒たちに送付しようと思い、ひもすがら週末の日本語教室4クラスの練習問題を作成する日が増えた。
生徒から送られてくる宿題をチェックしパソコン上で訂正するのも手間がかかる。カーソルを動かして間違っている個所を灰色でマークし、その下に正解を赤字でタイプする。間違った理由も青字で簡潔に、英語を使って説明する。近頃は英語のミススペルが目立ち、あれ?とおもった時は、スペルのチェックも欠かせない。宿題のチェックは例えばこんな感じだ。

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こうやって生徒一人一人に送り返すまでに結構な時間がかかるのである。送付されてきた宿題は、できるだけ早くチェックして送り返してあげないと、学習効果がないと思っている。

こうしてみると、コロナ禍以前の対面授業のころに比べて、パソコンの前に座って仕事をする時間がずいぶん長くなっていることに気が付く。これに、オンライン授業の時間も加わるわけだから、近頃は目がショボショボすることが増え、これはいかんと思い、今週には眼科で検査をしてもらうことになっている。

日本語学習のカリキュラムは変えていないので、これまで作成してきた学習資料を使用すればいいと思われがちだが、Microsoft Wordで全て作成してきたもので、Gmailに添付して送ると、日本語文字フォントが変わったり、1ページの文字行がずれこんだりしてしているのだ。それで、スキャンする作業が増えた。 
 
また、学習の進め方はグループによって微妙に違ってくるので、その点が気になるのと、テキストにある練習問題だけでは不足でもあり、結局自分で練習問題を作成することが多い。

オンライン授業をするなど本気で考えていなかったので、hangoutsで始めたころは勝手がよく分からずもたついたものだが、やっとhangouts授業が落ち着いたと喜んでいたら、無料で時間制限なく使えたのが、途中から1時間以上は有料になった。

色々考えた結果、生徒の多くはhangoutsよりもZoom利用者が多いのでそちらに切り替えだ。Zoomの使い方も今はネットで勉強できるので、本当に助かっている。

無料Zoomも40分の時間制限があるので、それだと60分の個人授業、80分のグループ授業共に、生徒もわたしもいったんZoomを切って入り直さなければならないので不便である。それで、時間制限がない有料にした。

対面授業と比べてオンライン授業の利点は、と言えば、わたしの場合、Zoom機能を利用して毎回ヒアリングを取り入れることができる点だ。それも、カーソルさえ動かせば聞き逃した個所が何度でもリピートできる。

コロナ禍以前の借り教室はオーディオ設備などなかったので、ヒアリングを授業に取り入れる時は、今どきなかなか見ないラジカセ、それに電気コードを持って行くことになる。CDなので、聞き取れない箇所を何度もリピートするには、Zoom機能のようには行かない。

オンライン授業のもうひとつの利点は、ポルト近辺外からも参加できる点だ。我がグループクラスには、マデイラ島、リスボン、中南部のベージャからの生徒もいる。中には、1カ月ちょっと国外に滞在するので、その間も授業を受けたいと言って続けている個人授業生徒もいる。インターネット接続さえできるのなら、時差の問題はまだ残るけれど、世界中どこからでも出席が可能だと言える。

Zoom機能にはホワイトボードもあり、授業では黒板代わりに利用できるのだが、わたしは相変わらず黒板党で、この重い特性黒板を一時は持ち歩いていた。

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生徒からは、下図のように見える。
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大学で英語講師をしていて、コロナ禍中はオンライ授業もした息子からは、「アットホームでいいね」と、誉め言葉をもらった(笑)
ホワイトボードはいやだと黒板に執着し、友人のイラストレーター、ちゅうさんからはかつてこんな絵をもらったこともあるくらいだ。

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茶髪、グラサンでポルトの街を黒板かついで行く変なおばさんの設定らしい(爆)わたしはこの絵がとても気に入っている。
オンライン授業も2年目に入り、授業中、生徒に笑ってもらえる余裕もできたと言えようか。いえ、相変わらず、ズッコケで笑われたりもしているのだが。はははは。
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2021年10月9日 

いつものようにいつもの景色の中で、一日が終わろうとする夕暮れ時、宵闇時。

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わたしは何度も同じような夕暮れの写真を撮っているのだが夕焼けを見ると、なぜかしら「あぁ、ほんまにきれいやなぁ。」と心惹かれ、夫に呆れられながらも、ベランダから望む同じ景色をデジカメに納めずにはいられない。こと夕暮れ撮影に関しては懲りない性分だ。
夕暮れには子供の頃の時間が紛れ込んでいる、わたしはそんな気がしてならない。
ぎんぎんぎらぎら 夕日がしずむ、と思わずこんな歌が浮かんでくる。

わたしの子供時代は昭和20年代。パソコンどころかテレビもなく、塾もなく。今のようにそれらに時間をむさぼられることもなかった。

学校から帰ると、夕焼けが空を染める日暮れまで、外で棒っきれを振り回し、ターザンの真似をし、下町少年探偵団ごっこをし、墓地まで行っては帰ってくる肝試しをして遊んだものだ。

わたしたちを子供の頃に振り返らせる不思議な力が夕日にはあるような気がする。今日は懐かしい子供のころに帰っていくような美しい夕焼け色の絵を。

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これは、夕焼けの絵をずっと描き続けていらっしゃるメルヘン画家坂田喜作さんの作品。絵の中から、今にも「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」と、歌が聞こえてきそうな一枚だ。こんな子供時代があったことを懐かしんでいる。
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2021年10月6日 

今月始めで15カ月になった初孫の空ちゃん、赤ちゃんをすっかり卒業したようです。まだ走ることこそできませんが、歩き始めたので外の散歩では、興味あるものを見つけると「あた、あた、あった~」と指さし、母親をその方向に引っ張って行きます。これは母親の口癖を真似ているのではないかと思われ(笑)

「だいこん」は「ダイキン」。今朝は「お名前は?」と母親に聞かれ「ソ~ラ」と答えていました。

送られてくるビデオを見ると、15カ月と言えど性格がうかがえるようでなかなか面白い。モイケル娘によると、「一人遊びさせている時でも、こちらがちゃんと見ているかどうか確認するんだよ」「ちょっと叱ると納得しないのだろう、物や猫に八つ当たりしてるぅ」(笑) モイケル娘も色々工夫して、しっかり相手をしているみたいです。

先日ビデオで話していると、帽子を一人でかぶろうと頭にのせてみるのだが、何度やってもうまくいかない。と、しまいには両手で自分の髪をぐしゃぐしゃにして悔しがっていました。うむ、これはキカンキの気があるわいな、と笑いながら思ったものです。

我がモイケル娘はなかなかに辛抱強く優しい性格。その彼女曰く「ソラは手ごわいヤツであ~る」(笑) 娘の性格とはちょっと違った孫かな?と、それはそれで楽しみであります。

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先日、初めての動物園で

ふと、自分が息子娘の同じころに、どんな風に接していたかと思い出しています。息子が生まれて6歳になるまでは、夫の母や夫のおばたちとの同居生活でしたから、食事や掃除等の家事をすることはなく、持つ時間は全て子育てに費やすことができました。
が、もう40年も昔のこと、紙おむつは高価なのでほとんど利用せず、おむつは手洗いでした。

テレビは我が家は今でもそうですが、日中はつけませんでした。今と違い、子供向けの番組もありませんでしたしね。
もう一つ、子育てをしていて日本と違うなと思ったのは、当時はベビーカーに赤ちゃんを乗せて散歩する人をほとんど見かけなかったことです。赤ちゃんはなるべく外に連れ出さない習慣だったようです。(今は別ですが)

ずっと後で知ったことですが、天気のいい日に、毎日この石畳の道をベビーカーを押していく東洋人は、「ほら、今日も行くよ」てなもんでご近所で有名だったそうです。こちらの人は、窓を開けないで内側から外をじっと眺めてる人が多いんですね。

同居していた夫の母の家は親戚の出入りが多かったもので、息子は、大勢に抱かれ話しかけられて、人見知りを知らずにして成長しました。ものおじせず、誰とでも気軽に付き合える性格を養ったと思います。

周囲で飛び交う言葉もポルトガル語、英語日本語です。幼い時ゆえ、どんな風に感じたのか聞く術がないのが残念です。
モイケル娘が生まれるころは、夫の実家がすぐ側にある借家に引っ越しましたので、いわゆる核家族になりましたから、ちょっと環境が違いました。

息子はブリティッシュスクールの小学校にあがり、家での言語は英語と日本語。娘にしたらポルトガル語が欠けたわけです。
わたしの時間も一家の主婦になったわけですから、家事をしながら二人の子供を育てるという一般的な生活になりました。それに、土曜日は補習校講師の仕事が始まり、モイケル娘は赤ちゃん時代から土曜日半日を父親と過ごしていました。
こうして振り返ってみると、同じように育てた子供たちもそれぞれ環境が少し違っていたことに気づきます。家事と授業準備、息子の弁当作り、勉強を見る時間も取りましたから、モイケル娘は幼いながらも案外我慢していたところがあったかもなぁ。辛抱強く、あまり自己主張しなかったのは、環境もあったような気がしないでもない。

現在、娘が孫のソラちゃんに向き合ってじっくり相手をしているのを見ると、つくづく、えらいなぁと思っています。

下は今のソラちゃんと同じ、14,5カ月のモイケル娘。
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2021年10月1日  

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

高校時代に好きで覚えた室生犀星、「小景異情ーその二」からの詩だ。

若い時分には大阪に出て少しひねくれた目で故郷を見ていたので、反抗心と故郷へのノスタルジアが入り混じった犀星のこの詩に、自分の心を重ねていたのである。
さほどに「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と、まこと、粋がっていたのであった。「なんでやの?」などと聞いてくれるな、おっかさん。人様に言えない事の一つや二つ、人なら誰にでもあることだぼん。

とは言っていたものの、そんな複雑な故郷への片思いは今ではかなぐり捨て、故郷を日本を恋うる心に素直に従うようになったのは、還暦も過ぎたあたりからか。わたしも随分と角が取れて丸くなったものである。

Facebookの弘前シティプロモーションでこんな懐かしい写真を目にしたときのことだ。

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Wikiより

弘前では「お山参詣(おやまさんけい)」と呼ばれる初秋の伝統行事なのだが、久しぶりにお山参詣の行列時に唱える唱文の謎解きを思い出した。以下に綴ってみる。


年に一、二度は弘前へ足を運んでいる妹夫婦、ある年、弘前のホテルでチェックアウトしようと部屋で荷物をまとめていたら、外から「サ~イギサ~イギ ドッコイ サ~イギ 」と聞こえてきたのだそうな。

ホテル9階の窓から土手町を見下ろすとお山参詣の行列が通って行く。行列を見ようとて慌ててエレベーターで階下へ降り、こけつまろびつ行列に追い抜き、いっしょに並んで歩いたのだが、行列の唱文が子供のころに聞いて覚えていたのと少しも変わらないのに可笑しくて、ついにこらえら切れなくなり大声でウワハハハと笑ってしまったと言う。
 
お山参詣というのは津軽に昔から伝わる岩木山最大の祭りで旧暦の8月1日に五穀豊穣、家内安全を祈願して昔は白装束にわらじ、御幣やのぼりを先頭に行列をなし岩木山神社を目指して歩いた行事だ。

商店街の土手町から坂道を下り、わたしたちが子どもの頃住んだ下町の通りを岩木山目指して行列が歩いていくのだが、検索してみると子供だったわたしが記憶しているのと違い、行列の様子も少し変わったようだ。

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wikiから

昔は白装束でお供え物を両手に抱えての行列だったのが、今では随分カラフルで「行事」と書くより「イベント」とカタカナかローマ字にしたほうが似合いそうだ。

さて、妹がこらえら切れなくなり大声でウハハハと笑ってしまったという、その唱文が、これである。

♪さ~いぎ さ~いぎ どっこ~いさ~いぎ
 おやま~さ は~つだ~い
 こんごう~どうさ
 いっつにな~のは~い
 なのきんみょう~ちょうらい

毎年こう唱えながら目の前を通り過ぎていく白い行列、子供心に神聖なものを感じてはこのお唱えをいつの間にか諳(そら)んじていたのである。この御山参詣が終わると津軽は秋が深まる。

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Wikiから

長い間、そのお唱えの意味など気にしたこともなかったのだが、帰国したある年亡くなった母が残した着物を妹と二人で整理しながら、子供の頃の思い出話の中でひょっこり出てきたのがこの「サイギサイギ」だった。

亡くなった母は津軽で生まれ育ち、60まで住んだ。その後は妹夫婦の住む東京へ移り所沢の妹夫婦の家を終の棲家とした。妹の連れ合いも津軽衆なので、東京にありながら夕食時の食卓はおのずと津軽弁が飛び交おうというもの。帰国した時のわたしは母と義弟が交わす津軽なまりを聞くのが懐かしく楽しいものだった。

その母が、「時すでに遅し」の意味でよく使っていたのが「イッツニナノハイ」である。 はて?いったいこれは元来がどういう意味合いなのであろうかと、妹とそのとき、疑問に思ったのだ。

たまたま、当時わたしは、我が母校の後輩で「サイホウ」さんと言う女性仏師と時々メールのやりとりをしており、聞いてみたところ、これが元になっていますと教えていただいのが下記。

懺悔懺悔(サイギサイギ)  
過去の罪過を悔い改め神仏に告げ、これを謝す。

六根清浄/六根懺悔?(ドッコイサイギ) 
人間の感ずる六つの根元。目・耳・鼻・舌・身・意の六根の迷いを捨てて汚れのない身になる。

御山八代(オヤマサハツダイ) 
観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・地蔵観音・普賢菩薩・不動明王・虚空蔵菩薩・金剛夜叉明王

金剛道者(コウゴウドウサ)  
金剛石のように揺るぎない信仰を持つ巡礼を意味す。

一々礼拝(イーツニナノハイ)  
八大柱の神仏を一柱ごとに礼拝する。 
          
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ) 
身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。

唱文のカタカナの部分は津軽弁の発音である。


どの方言もそうだが、津軽弁は独特のなまりが多い方言だ。我が同窓生である伊奈かっぺいさんは津軽弁でライブをする人で有名だが、彼いわく、津軽弁には日本語の発音記号では表記不可能な、「i」と「 e」の間の発音があり、津軽弁を話す人はバイリンガルである、とさえ言っている(笑)。

わたしと妹が笑ってしまったのは「六根懺悔」が何ゆえ「ドッコイサイギ」になったのかと、津軽人の耳構造はほかとは少し違うのであろうかとの不思議にぶつかったのであった。

大人になったわたしたちにしてみれば、「どっこい」という言葉はなじみでありが、とても唱文の一語になるとは思われない、なんで「ドッコイ」なのよ?と言うわけである。

実は「さいぎさいぎ」も「懺悔」ではどうしても津軽弁の「サイギ」に結びつかず、わたしは「祭儀祭儀」と憶測してみたのであった。そして、数日の検索で、ついに語源をみつけたぞ!

「懺悔(ざんげ)」は、仏教ではサンゲと読むの一文に出会ったのである。「サンゲ」が津軽なまりで「サイギ」になったと考えられる。

御山参詣は日本人の山岳宗教につながるものであろう、修験者が霊山に登るのが弘前に行事として定着したと思われる。

子供のころは、祖母の家があった弘前下町から、高校生になると、父と母、わたしと妹の4人家族が住んだ桔梗野のたった二間の傾きかけた埴生の家の窓からは、岩木山の美しい姿が日々仰げたものである。

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wikiから

テレビやパソコンからの情報入手方法がなかったわたしの子供時代、空耳で覚えていた唱文も今となってはいい思い出につながり、ふと頭を横切るたびに笑みがこみ上げて来て、懐かしい人々の顔が浮かんで来る。

正規の唱文の発音よりも300年も続いてきたであろう津軽弁の唱文に耳を傾けながら、修験者を受け入れてきたお岩木さんは、津軽弁がそのまま誠に似合うようだとわたしは思うのである。

♪「さいぎさいぎ ドッコイさいぎ おやまさはつだい こんごうちょうらい(と、わたしは覚えている)イッツニナノハイ なのきんみょうちょうらい」

下町を歩いていく白装束と幟と、「イッツニナノハイ」と言う母の姿が浮かんで来るようだ。「一々礼拝」がどうして、、「イッツニナノハイ」、時すでに遅しの意味になったのか、謎は未だ解けていない。
孝行したいと思えど、我が母は既にみまかり、ほんま、「イッツニナノハイ」でございます。

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本日も読んでいただきありがとうございます。
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