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2021年9月29日 

アメリカ西南部に住む友人ロブから「New English Reviewに僕のストーリーが掲載されてあるから、読んでくれ」とメールが入って3週間になる。

メールをもらってすぐ案内されたサイトへ行ったのだが、「ぎょえ、英語だったんだっけ」と日本語サイトでも覗く軽い気持ちで行ったもので、あかん、もっと時間がある時にゆっくり読ませてもらおうと逃げるように引き払った。
それで今日やっと、どれと、彼の書いたのを読みに行ったのだが、いやいや、ちょっと混乱した。

なにしろ、英語で物を読まなくなって長いわたしだ。我がモイケル娘からも時々、「おっかさん、スペルが英語とポルトガル語、ごっちゃになってるぞ」と言われる始末。
ややこしいんだよね、この歳になると。三か国語を使いこなすのは無理ざんす。て、じゃ、これまでは使いこなしていたんか?と聞かれると、いえ、そんなことはありませんですぅ(笑)

ロブのストーリーは2編とも今多くの人がニュースで読んで知ったり、もしかすると経験したりしているかも知れない(特にトランプ氏とバイデン氏の大統領選前後やコロナ禍中、ジョージフロイド事件後のアメリカ社会に於ける)歴史修正主義、行き過ぎた平等主義への風刺文だ。

こういう現代英語はわたしが持つ英語辞書では間に合わないので、語彙をネット検索しながら読んだという次第で、情けないところではある^^;

奥方との共著でロブはケンブリッジ大学出版のTOEC試験受験用の本を数冊出している。近頃のメールに見られるであろうハチャメチャな英語を目にして、アハハハ、ロブめ、「おい、Yuko。なんちゅう英語だ」と、内心目を回しているに違いない。

わたしがロブと知り合ったのは大阪時代で、今から40数年も昔のこと。持病の喘息を抱えながら吸入薬を肌身離さず、ヨーロッパ、アジアの行く先々で、英語講師をしながら、費用ができたところで次の国を目指すという、バックパッカー世界一周旅行をしていた途中でのことだった。

あの頃の彼は、旅での記録日記を常に細かく書いていてわたしに見せてくれたのを覚えている。もしかしたら、いずれ、世界旅行記でも出すのかもしれないと思い、「わたしのこと、変な風に書かないでよ」などと、冗談めかして言っていたのだが、あの旅行記録はどうなったのだろう。ロブが書くよりも先に、わたしが拙ブログで彼のことを取り上げているとは、夢、ご存知あるまい(笑)

その彼からしばらく前に「こんな写真があるんだぞ。覚えてる?」とメールで送られてきた。
一枚目の写真は、すぐ「京都の相国寺」だと分かった。ロブに頼まれて、とある日曜日に初心者座禅に連れていった時のだ。

Yuko 2_1

こちらは、多分座禅が終わった後であろう、パチンコ体験(笑)
Yuko2_3.jpg


ところがである。写真に写っている外国人がわたしの記憶にないのである。わたしの横に立つ日本人男性も覚えていない。この日本人男性はロブが教えていた英語学校の生徒かも知れない。 

んで、こちら。何をしてるんだろか。わたしは彼に寄りかかっているかのように見えるが、そうではない。自分の膝に片腕を置いて頬杖をついているのである。これは、ロブよ、おぬしの写真の腕が悪いと思われ(笑
Yuko_2_2.jpg

「このアメリカ人、誰だったっけ?」とロブに聞くと、「ボクもよく覚えていない。ジョンだったかな?」と言う。

ジョンのことはさっぱり記憶にないが、この座禅でのことはよく覚えている。座禅が終わった後、わたしは立ち上がれなかったのである。男はあぐら、女性のわたしは正座であった。わたしは普段アパートでは椅子の生活だったから、正座などほとんどしたことがなかった。

座禅を終えた後は隣の和室で説教を聞くことになっていたのだが、足の感覚がなくて立てず、みなに笑われながら畳の上をわたしは泣く泣く這って隣室に移動したものだ。以来、正座は絶対ごめん被っている。

座禅の件は覚えているのに、ジョンとやらのことは全く記憶にないのは酷い話だ。写真だってピンボケ。撮影者はロブに違いないのだが、ヘタクソめぇ。

最後の一枚は、アパートの部屋の真ん中に乱雑な衣服やらなにやらに埋もれたわたしがいる。渡米のために持ち物全てを処分して、旅行トランクたった一つにまとめなければならなかった。それがアリゾナ・ツーソンの空港に降り立った時のわたしの全財産でもあった。

送られた写真を手にとり、しばらく眺めてみても、足のしびれで立ち上がれず四苦八苦したことは覚えているのに、いっしょに写っている人との記憶が全くないのは、記憶力がいいと自負してきたわたしにとって初めてのことだ。

君はだれですか?
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2021年9月27日

人生100年時代だ。今年74になるわたしが順調にその寿命まで生きるとすれば、まだ30年近くある。そう思うと、今、仕事らしきものものから退き、残り30年を隠居して生きるなど、わたしからすればあまりぞっとしない話だ。

そう思うもので、この10月から週末の日本語オンラインコースをもう一つ増やすことにした。息子や娘の反応は、「げ、また増やすんか・・・」であるが、同居する夫からは、「言っても聞くヤツではないし」とでも思うのか、一言もない(笑)

それで、土曜日は5時間ほど授業することになるのだが、体力的に大丈夫かな?と自分でも少し気にならないわけではない。が、日本語授業は元来が好きなので、しているうちに体が慣れるだろうと思っている。

いえね、上述したように、できるだけ現役でいようという思いに偽りはないのだが、多少の収入を得ることで、自立感みたいなものがあるのも好むところであります。

さて、随分前だが、とある雑誌記事に、

「老後の生活資金は余命と生活費によって決まる。長生きすればするほど多くの資金が必要になる。 寝たりきりや難病になれば多額の介護医療費用がかかる。そうしたリスクを勘案して年間1000万の生活資金を準備し、日本人の最高齢である110歳まで生きると想定すれば60歳からの50年間で5億円の資産を用意しなければならない。」


これを読んだ時は、ワッ八ッハと笑うばかりであった。1億円でいい、できるものなら生きているうちに拝んでみたいような気はする。しかし、そんなことはまず叶わないと思う方が、わたしたちの場合、まともであろう。

我が子二人の教育選択にあたって、「お金は残せない。せめて教育で」と、9年間のBritish School、日本の通信教育と補習校の学費、習い事代をも含めて教育に費やした費用はバカにはならなかった。お金のかかる教育が終わった頃は、今度は親であるこちらは定年に間近かった。

もうどんなに頑張っても、雑誌記事に言うような資産など貯まるわけがない。夫の年金でできるだけ病気をしないように生きる方法しか残ってはいないではないか。

記事読後は少々気が沈んでしまい、数日は「ノーマネー、ノーフリーダム」が頭をグルグル回っていた。この言葉はユダヤ人の格言だそうだ。

かつての職場だった土曜日補習校のスタッフたちにその話を振ってみたことがある。すると、皆口を揃えて言う。 「そら、老後はやっぱり金ですよ。子供を頼らないで、周囲にも迷惑をかけないようにして、万が一の時はホームに入って。こういうことは金がないとできない」
・・・・・・・・・・・・・
あぁ、がっくり。反論する気も起こらなくて、うなだれてしまったわたしではあった。

子供をあてにしているわけではないけれでも、いざと言うときに「子供を頼らない」と言うのなら誰を頼るのか、「家族」って何なのか?周囲、つまり「家族に迷惑をかける」と言う話も、わたしには「うんうん」とうなずけないのである。誰も好き好んで年取って病気になるわけではあるまいし、それが、家族にとって迷惑になると言うのか?

人の病気も寿命もその都度してきた自分の人生の選択につながろう。5億円の資産を持っていたとしても、不慮の事故遭遇や不治の病にでもなったりしたら、もうどうにもならないではないか。楽しむこともせず転ばぬ先の杖のためにひたすら貯蓄に励む人生は、またどんなものか?

ノーマネー、ノーフリーダムだから老後のために5億円用意しようと言われてもなぁ、実感が湧かないよ。

しかし、この言葉が橘玲(たちばなあきら)氏が書いてあるカンボジア青年の口から出たのであれば実感が伴うというものだ。
参照:ノーマネーノーフリーダム」橘玲

わたしの若いときは進学してもっと勉強したかったが、経済的な事情でできなかった。が、それをノーマネー、ノーフリーダムと思ったことはない。勉強する方法は本で独学するなど他にもあるからだ。

わたしならノーマネー、ノーフリーダムを「ノーマネー、ノーチョイス。しかし自由はあるぞ。」と言葉を置き換えてみる。

わたしの考える「フリーダム(自由)」は、本があり、音楽があり、ネコがいて、夫がいて、まがりなりにも三食、いや、二食だっていい、食べることができ夜露をしのげる家があれば、老後はそれで結構自由だと思う。

と、「ノーマネー、ノーフリーダム」に何とか反撃してみるのだが。5億円なんて無理言ってもらっても困る。1億円でも一般人からすれば夢の話だろう。 ほんとに、どんな人の口から5億円なんて額が出て来るんだか(怒)

おしまいに、わたしの心をきゅっと泣かせたアジアの国の、とある一枚の画像を。ノー・マネー、ノーチョイス、しかし学ぼうとする意思あるところに自由は見出せる。頑張れよ。

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2021年9月26日

2,3日前のこと。
道路を挟んだ向いの4階建てコンドミニアムの後ろから、今のぼりきった満月が我が家のベランダから見えた。こんな満月を眺めると、思い出すのが我が愛猫のゴンタだ。満月の夜はよくベランダで月光を浴びていた猫であった。

以下、ゴンタ猫の思い出話です。

真夜中過ぎ、寝室の大ガラス戸のブラインダーを下ろしているに拘わらず、差し込む青い光のあまりの明るさに目が覚めました。なんでこんなに明るいのかと起き出して、夫を起こさないようにと娘の部屋へ行きベランダへ出てみると、んまぁ~、我が家のまん前の空にまん丸お月さまの美しいこと!

これが冬時間であれば、寝しなに月を眺めることも度々なのですが、夏時間は向かいのコンドミニアムの後ろから月が昇ってくる時間がグンと遅くなるので、忘れがちです。

煌々たる月光が寝室に差し込んで目が覚めたのでした。ふとそのコンドミニアムの横にある小さな公園に目をやると、黒猫が一匹、臆することなく地面でゴロリンゴロリンと寝返りを繰り返し、人っ子一人いない公園の時間を楽しんでいるのであります。

もう一枚満月の写真を撮って、自由を満喫している黒猫にシャッターを切ろう、どれ、と公園にカメラを向けたら黒猫の姿かたちは最早あらず。一瞬の間に消えていました。午前2時ころの、何だか嬉しく思われた小さな出来事でありました。

我が家にはこの春まで5匹の猫がおりました。最年長は、今のフラットに引っ越してくる前の、庭がある借家にいた時にフイとやって来てうちに住み付いたゴンタです。恐らく隣人が飼っていてろくにエサもあげず外へ出しっぱなしの猫ではなかったかと思います。

他の4匹はあまり抱かれるのを好みませんが、きっと子猫の時から子どもにでも抱かれていたのでしょう、ゴンタは抱かれ慣れており、少しも嫌がりませんでした。夜は家で寝ましたが、この一帯は彼の勝手知ったる縄張りでもありましたから、よく出歩いていました。

ゴンタ

近所のジョアキンおじさんの畑は今でこそ高い石壁で仕切られていますが、そのころは春には菜の花畑、夏にはトウモロコシ畑、それ以外は草茫々でした。ある日、夜になってもゴンタがなかなか帰って来ず、探しに行ったところが、その畑で他の大勢のネコたちに混じってなにやら猫の会合の中にいるようなのを見つけたことがあるのでした。

外界を知っているのはこのゴンタだけで、フラットに引越しして以来、それを今更ずっと屋内で暮らせとは言えず。しかし、フラットは二階ですから出入りができません。そこで週末の土日の午前中だけフラットの表ドアから出してやることにしました。

犬もそうですが猫も外出できる日にちをちゃんと学ぶのですね。週末には夫が向かいのカフェへ新聞を読みに行きますが、ゴンタは決まってフラットの我が家のドアの前に座って、出してもらうのを待っていたものです。

ゴンタ1
時々こんないたずらも。

毎回1時間ほどすると必ず、地階の車庫がある石壁の上から「帰って来たよ。下まで迎えに来て家に上げてニャ」と鳴きました。声を聞く度に、すわ!とわたしはフラットの鍵を手に階段を下りて迎えに行ったものです。

野良だったゴローをいち早く受け入れたのはゴンタでした。
ゴンタ2

他の猫を決していじめませんでしたし、うちの猫同士がにらみ合い取っ組み合いが始まろうものなら、即、飛んでいって仲裁に入り、長老の貫禄があり、たいした猫でありました。

6年ほど前から白内障が進み、わたしたちが気がついたときには歳が歳ゆえ眼の摘出は避けたほうがいいと、かかりつけの獣医に言われ、以後、他の4匹猫に万が一にも目に悪さをされては気の毒だと言うので、ゴンちゃんだけわたしたちのベッドの上で寝てもいいことにしました。

で、朝、目覚めると決まってわたしの頭は枕から落ちており、枕の上ではごんちゃんが心地よく寝ているのでありました。

少しは見えていそうな目もここ3年ほどは光を感じるくらいなのか、家の中を壁に添って歩いていました。この頃から、常にわたしの後をついて歩き、側を離れないようになりました。


わたしがpcに向かうときもこの通り、くっついて。
ゴンタ3

やがて、食べなくなったもので、点滴をしてもらいにかかりつけの獣医院に二日ほど入院したのですが、それでも大して食は進まず、あの手この手で食べさせようとするわたしに、義理立てでもするかのように、ほんの少し舐めるだけでした。

こうしてほとんど静かに休んでいる時間が長くなりましたが、粗相はたった一度だけ毛布の中に。してしまったのを恥じるかのようなその様子に、わたしはいたく感心したものです。

ゴンタ5
ほとんど寝てばかりのゴンちゃん

ゴンタ6

旅立つ一週間ほどは食を絶ち水を絶ち、3月の始め頃の早朝、深い息をしたのが最後でした。
推定年齢17、8歳、人間で言えば90歳近くでしょうか。

目が見えなくなり外出ができなくなってからは、ベランダに出て、写真の渡し板に座っては、しばし鼻をヒクヒクさせて外の自由の匂いを嗅いでいたものです。今は同じ場所に時折、一番若いゴローが座って外を眺めています。
ゴンタ7

わたしたちにほとんど手をかけず、猫と言えどもあっぱれなゴンタの一生でした。

真夜中の無人の公園で、寝返りをしながら自由を楽しんでいた黒猫を目にし、春に亡くした愛猫のことを書いてみました。

本日はお付き合いいただきありがとうございます。
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ポルトに来て43年目に入りますが、子供達が中学校を終えるころまでは、生活の中心は彼らでした。

家で二人ほどの日本語学習者をとっていましたが、子供達が学校に行っている時間帯です。また土曜日の補習校講師の仕事の依頼が来た頃は、息子はちょうど就学年齢でいっしょに登校し、我がモイケル娘はまだ1歳未満でしたから、土曜日は夫に彼女の面倒をバトンタッチして補習校にでかけたものです。

20メートル離れた同じ通りに夫の母親がいたものの、子どもはできるだけ自分たち夫婦で育てようと話し合っていたもので、極力、義母に世話のお願いはしないようにしていました。

子育て期間中、したいことがなかったわけではありませんが、「それを犠牲にして」なんて気持ちは毛頭ない。わたしは子育て時代に、それをする事によって自分自身が育てられたと言っても過言ではないと思っています。
       
子供達の学校生活を通じて経験したことですが、日本という独特の文化には、みなさん多少の興味を示します。
                                    
ところがです、その母親のわたしときたら、日本にいた若い時代は目を外へ向けるばかり。少し反骨精神を持ってましたから、それを振り回して、いわゆる日本社会の常識ごときものは、伝統文化から習慣までうっちゃってしまい、「ヘッ!そんなもん」くらいに思っていたところがあったわけで、どうしようもなく残念なことではありました。
                                           
そうしますとです、こちらでの生活が長くなっていくに連れて、このままでは、どうもいけないぞと感じるようなことが多々出てきたのです。
                                          
例えば、こんな具合のリクエストが舞い込みます。

「日本の伝統文化を紹介してもらえないか」  
(↑しょ、紹介できるもんは折り紙の鶴くらいしかおまへん^;紙風船もだまし船も本を見ないとできない・・・^^;お茶?お花?とんでもない!木彫家で我が親友のMichikoが両方とも教える免状を持って現在もお弟子さんを取っているので、それに関する話は聞いていますが、人様の前で紹介できるまで行くには、何年もの修業と多額なお金がかかるざますよ。都会での女一人暮らしの身に、お月謝支払いができるわけがございませんでした)

「着物を着て結婚式に来てくれないか」         
(↑来たあぁぁ!せめて母に着付けを教えてもらって着物を受け取るんだった。着物があるにはあるが、一人で着たことがないでぇ。はい、誰も知らぬをいいことに、一度、勝手気ままに着ていきました。後日そのときの写真を母に送りましたら、「なんという着方をしとるのか!」と叱られ笑われました。
                                   
「その理由も含めて、日本はどういう新年の迎え方をするのか」
(↑これ、その当時は当然パソコンなど持っていませんでしたから、手持ちの日本文化の大雑把な説明が書いてある英語の本を読み漁って勉強する羽目になりましたぞ。逆だっちゅうのよ^^;)
                                               
「日本人はこういうときに、なぜこのような行動をとるのか」
(↑これは、背景となる日本文化の知識がないと説明するに歯がたちません。一般論で説明しますが、「~~~だからだとわたしは思います」で結びます。 一応、逃げ道を一応つけておくんです。ずるい(笑)
                                        
リクエストでぬぬ?と思ったのには「国歌を歌って録音して欲しい。紹介したいから」というもの(笑) 伴奏なしで大きな声で歌って録音しましたです、はいw(←これはどこぞの学校の要望でした)

つまり、日本人である個人のわたしを通じて、日本、日本人を知りたい、となるのです。 いい加減なわたしも、これらにはびびって考えさせられました。海外で生活すると言うのは、非常に個人的なことなのですが、外国の人たちは個個の日本人としてよりも、その人を日本人全体と見るような気がします。

ポルトガルに住むことがなかったら、わたしは相変わらず自分の国の文化に大して興味ももたず、調べもしないでいたかも知れません。日本では普段の生活でその必要性がなくても日々、暮らしていけるわけですから。
                              
そうそう、こういう経験も度々ありました。
自分の国のあれも悪い、これも悪いと欠点を揚げ連らねていたのが、いざ、他国の人達が一緒になって、「そうだそうだ」と攻撃し始めると、自分が言っていたのは棚に上げて、「あんたたちに言われたくないわ!」と俄然腹が立ってくるのですね(笑)
       
母国の外にいて、つくづく感じます。良い所も悪い所も「我がは母国」。

今日こんなことを綴ったのは、近年、我が国の国益よりも他国におもねる人や公の場で人さまをあしざまに言ったりしているのが結構いるの目にし、君ら、本当にそんなんでいいのか!と、思うところがあるからです。

ま、わたしごときが何を言おうとどうと言うことはないのでしょうが、発言の権利、自由があるからとて、故意に言葉尻をとらえては、忌まわしい言葉で言いがかりをつける近頃の学歴ある人たちに、品位も感じられず、大きな失望感を味わっているのです。

【今日の一枚】 ドウロ川、SLの旅
SL

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某月某日 

今日の一枚は2007年11月に訪れたパリ、エッフェル塔内のレストラン
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【本題】

夫は書類の山に囲まれて、自分の書斎があると言うのに、なぜかリビングのテーブルいっぱいにそれを広げている。これは二人の子供たちがポルトにいた時にしていたことと同じだ。

それぞれが自分の部屋に机を持っているというのに、二人ともわざわざテレビが置いてあるリビングのテーブルに宿題を広げ、よく半分ふざけながらしていたものだ。なんで自分の部屋で勉強しないのかと不思議に思ったが、幼いころから、二人一緒にリビングで日本の通信教育を長年させていた時の習慣なのかも知れないと後年思い付いた。

テーブルに広げられた夫の書類を横目に、わたしは、ちょっとしたきっかけで「遠くへ行きたい」から出てきた懐メロの数々を、「ひゃ~」とか「うひひひ」とか独り感嘆語を吐きながら、Youtubeをクリックまたクリック。

「いつでも夢を」「あなた」「喝采」「真夜中のギター」と続け、うは!「夜霧よ今夜もありがとう」なんて、裕ちゃんいい声してるなぁ、とつぶやいたりしていた。この中の「あなた」「喝采」「夜霧よ今夜もありがとう」は、日本語の中級クラスで聞き取り授業に使わしてもらったりした。

なかでも、授業で聞かした後、生徒たちが気に入ってダウンロードし、スマホに入れていた曲には、長渕剛の「乾杯」、矢沢永吉の「アリよ、さらば」、尾崎豊の「15の夜」などがある。
いい音楽は時代を超えて、若者に訴えるものがあるのだなぁと思った。

横道にそれたが、話をもどして。

横から突然夫が
「フランク永井、ないの?」とのたもう。
「フランク永井なんて知ってるの?へぇ~@@」
とちょっとびっくり(笑)。

検索すると出た出た、「有楽町で逢いましょう」!

そして、たまにはサービスしても罰は当たらんわい^^と、わたし自身はたいして好きでもないのだが、夫のお気に入りで、日本で研究していたころ、よく口ずさんでいたさとう宗幸の「青葉城恋唄」をクリックしてあげた。

♪ 広瀬川 流れるほとり 思い出はかえらず 

夫はこのカセットテープも日本から持ってきていた。今回調べて見るとこの歌は1978年にヒットしレコード大賞を獲っている。1978年と言えば、その年の1月にわたしは持ち物の一切合財を売り払って整理し、新天地アメリカへと旅立った年であった。

夫は、広島で残り1年足らずの留学生活を、わたしは長年見てきた夢の実現、三十路を一つ超えたところでのアリゾナ行きであった。日本にいたときも、夫は広島、わたしは大阪だったので、わたしたちが会うのはせいぜい月に1、2回だった。その頃はこんな言葉はなかったが、今で言う「遠距離」なんとかと言えよう。

広島とアリゾナの航空便往復書簡は、毎日のように交換したものだが、夫は一人日本で、どんな気持ちでこの歌を口ずさんでいたのかな?と、今になってわたしは思い返しているのである。

二人して、日本の懐メロに耳を傾けた初秋の静かな夜であった。
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2021年9月19日 

今日の一枚は、2010年春に訪れたアルハンブラ宮殿
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【本題】

ポルトガルはコロナ禍における規制がだいぶ緩和され、先週から通りではマスクなしで歩いてもいいとなりました。が、飲食店、スーパーなどに入る時は必要です。

ポルトガルのコロナワクチン接種者は現在80%以上となっており、本日の感染者数は939人で死亡者数は7人。8月に入ってから感染者数は減少傾向にあります。

が、これから学校が始まりますので、果たしてどうなることか。このまま減少を辿り、年を越せたらいいと思っているのですが、そう簡単には行かないような気がします。

コロナがわたしたちの生活を突然分断し、会いに行きたいのに行けないという世界にわたしたちを閉じ込めてしまいました。この鎖から解き放たれる日がくるのだろうか、それとも世界はコロナと共存しながらの生活をもとめられることになるのか。
わたしについて言えば、年に一度のポルトガルと日本を行き来していた自由が再び得ることができるのかと暗澹たる思いです。

数日前、コインブラに住む長年の日本人友人が電話をかけてきました。7月に日本へ行き、2週間ほど前に帰ってきたといい、ポルトガル出国から日本入国、ポルトガルへの帰国までを細かに話してくれましたが、彼女曰く、「大変だったぁ」。

日本に到着後、用意された施設に三日間滞在。外へ出ることは許されず、彼女はパソコンもスマホも使えないので、暇つぶしに、ポルトガルで使っているガラケーであちこち電話をかけていたら、息子から「なんぼほど、電話代使っとんねん!」(10万近く使ったらしい。あははは)と、叱られたという。

日本に帰国したらお弁当を食べたい食べていと思っていたのが、三日間の滞在先で届けられる食事が昼も夜も同じお弁当で、「もう要らん」となったらしい(笑)

やっとその自粛から解放されて、さて、姉宅まで行くのに公共交通機関は利用できないので、仕方なくタクシーで行ったところ、タクシー代金23,000円なり。更に2週間の自宅自粛。

逆帰国時にはPCR検査代が20,000円、再びタクシーが来た時と同じくらい。(飛行機の便数が減っており、いつも利用する早朝のリムジンも出ていないとのこと)。とにかくいつもよりかなり余分な費用がかかるのですね。

最後に、日本帰国する場合のわたしへのアドバイスが、「あなた、ビジネスクラスで行った方がいいわよ」 ぎょえ~~!!
どういうわけでか、説明はなかったが、彼女はリスボン発のロンドン経由の便に乗ることができず、結局、翌日の便の切符を買い改めて、コロナのこんな時は安全のため、ビジネスクラスで行った方がいい、との息子さんのアドバイスがあったらしい。

ビジネスクラスなど、これまでのわたしの人生で、たった一度しか利用したことがありまへん。それも、運よく予約席が二重になっていたみたいで、日本から親子3人がビジネス席へ案内されたのでありました。

が、実を言えば、今まで通りのエコノミ、もしくは少しランクが上のプレミアム席も、歳を考えると億劫になって来るのです。生きているうちに、後何回帰国できるか分からないしね、うん、ビジネスクラスを考えてみてもいいかもだ、と思っています。

問題はいかにして夫にうんと言わせるか、ですな。
あのぉ、2年分の航空チケット、ということで、何とかお願いできませんでしょうか。それでも足りない場合は、自分が出しますゆえ~、と下出に行くか、はたまた、「もう、いつ行けなくなるか分からんのやで。74にもなったらビジネスに決まってるやん!」と行くか・・・ただいま迷っているわたくしであります。

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2021年9月18日
 
我がモイケル娘が青空ちゃんのために、「アレクサ、We will rock youをかけて」と命じてる。「ぐぐたーぐぐたー」と言いながら拍手しては体を上下に揺らして踊るのだそうだ。

アレクサとはアマゾンが開発したバーチャルアシスタントAI技術だそうで、わたしは今回初めて知った。アレクサは音声コマンドで音楽を再生してくれるのだそうだ。それで、モイケル娘が、「アレクサ、We will rock youをかけて」と命じていたのである。

Queenの歌に合わせて踊っているビデオを見せてもらったは2週間ほど前、青空ちゃんを連れてモイケル娘が我が妹の所沢宅を訪ねた時のことだ。一応リズムに乗っているちっちゃな姿を見て笑いながらも感心していたのである。

ところが、それから1週間後、発熱、咳、下痢で行きつけの小児科へ連れて行かれた青空ちゃんであった。
モイケル娘たちは今のところ、ワクチン未接種だが、所沢の妹夫婦とその次男は2回目を終了していたので、少し気にはなったものの、週末の人出を避けて行くと言うし、所沢宅も、「もいちゃん、ちょっとストレスがたまってるかもねぇ。もう2年もうちに来てないし、人に会わずにいるし」と、一泊OKになったらしい。

行った小児科では血液検査をした結果、問題なし。青空ちゃんは取りあえずこの一週間投薬を続けていたのだが、高熱はでないにしろ微熱、下痢が治まらないというので、薬が終わったところで、再び小児科を訪ねることにしたようだ。

コロナなんかではありませんようにと、このところずっと心配していたのである。モイケル曰く、空ちゃん、鼻咽頭ぬぐいのPCR検査をしたのだそうだ。「ぎゃ~」ろ泣いたと・・・

そりゃそうだろ、可哀想に、痛かっただろうなぁ。あれは大人のわたしだって避けたいもの。身内であの検査をしたのは、今のところ、14カ月の空ちゃんだけである。

「陰性だったから安心してね」とモイケル娘のメッセージが残されていたのを見て、心底安堵した具合だ。コロナ禍の元での風邪や体調不良紛らわしくて、つい、悪い方にと考えがちになりストレスのもとだ。

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鏡を見ることを覚え、頭にステッカーを飾って喜んでいる孫の青空ちゃん。ついでにモイケルママにも飾ってあげたらしい。孫も娘たちもこのコロナ禍をしっかり生き抜き、どうか健やかに育って欲しいと願っているポルトガルのばあちゃんである。
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2021年9月14日
 
ポルトガルに来てからと言うもの、美容院なるものをとんと利用しなくなった。来た当時は、ポルト市内のあちこちの美容院を車ででかけて試してみたものだが、結果、一度も満足したことがなく、「もういいや」で止めてしまったのだ。

しかし、髪は伸びる・・・
で、ある日、思い切って自分でザクザク切って見た。後ろ髪は手鏡を持って何回となく見直しながら切るのである。洗髪してドライヤーで乾かして見ると、うん、なんとか見られるではないの?と、あいなり、以後、40年、一度もこちらの美容院には行っていない。 自前床屋である。

若いときのと現在のわたしの写真を見たネット仲間に、「ヘアスタイルが今も昔も同じじゃん!と変に感動されたことがある。ヘアスタイルを変えないのは、自分に一番似合うのがこのおかっぱだ、というのもあるが、これだと自前床屋でなんとか済ませられるという大きな理由があるのだ。

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上の似顔絵のように何十年と変わらぬヘアスタイル。だが、顔は確実に歳を重ねているのだが(笑) ときどき失敗して一部を切り過ぎ、それに合わせようとどんどん短くなり、ぎょえ!の時も何度かあるが、いずれ伸びるもの、まぁ、心配するほどのこともあるまいと思うようになった。後ろ髪に至っては、自分には見えないから気にならないからいっか、わっはっは、てなもんだ。

で、今日はCDに保存している古い写真を整理していたのだが、2年ぶりに帰国してきたモイケル娘とリスボンに住んでいた息子も合流して、アレンテージュ地方を家族旅行した時の息子の写真が出てきた。それを見て笑っていた。

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お前もすごい頭してたなぁ、さすが自前床屋分はあるわい。リスボン時代の息子はカツカツの生活費でやりくりしていたものだが、食事は自炊、髪も自前床屋なのであった。

息子とわたしの理由は違うが、自前床屋の出来具合については、「自分じゃ見えないからいいや」であった(笑) わたしのこういういい加減なキリギリスキャラは似なくてもいいのになぁ、と、類似点が多いので自分を目の前に見るみたいで苦笑する。

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2021年9月13日

かれこれ15年ほど前に読んだ吉川英治による「新平家物語」16巻を今一度読み返している。コロナ禍でここ2年ほど帰国できず、手元に読む本がないのだ。

この本を、あの本を買ってと、モイケル娘にネットのアマゾンサイトから買いだめしてもらっているが、本を送ってもらうのに人が結構出入りするであろう郵便局まで幼児連れで行ってもらうのは、避けている。

平家物語のエピソードは拙ブログでいくつかとりあげているが、今日は後白河天皇を父に平清盛を義父にもつ高倉天皇の寵姫、小督についてあげたい。以下。


無性に美しい日本語が恋しくなることがある。そんな時に手にする本が長谷川櫂氏の「一度は使ってみたい季節の言葉」だ。わたしはこの本を一挙には読まず、その時その時に応じて開いたページをゆっくり読む形を取っている。

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あたかも初秋の装いをなすような空色を仰いで後、開いて思わず目を惹かれた「秋の声」の項。平家物語の高倉天皇と琴の上手で美しい小督(こごう)の悲話が取り上げれらている。ざっと要約してみます。

平家全盛の平安朝末期、時の高倉天皇は美貌と琴の誉れ高い小督という女房を深く慈しんいた。しかし、天皇が小督に溺れる事に怒る中宮の父である平清盛を恐れ、小督は宮中から姿をくらます。天皇の嘆きは深く、密かに腹心の源仲国に小督を探せと命じる。

折りしも仲秋の名月の頃、月が白々と照る中、嵯峨野のあたりを訪ね回る仲国は、小督が応えてくれるのを期待し得意の笛を吹いた。すると、あたりからかすかに「想夫恋(そうぶれん=男性を慕う女性の恋情を歌う曲)」の琴の調べが響いてくる。

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(Wikiより)


以下、平家物語からの抜粋です。

亀山のあたりたかく松の一むらのある方に、かすかに琴ぞきこえける。峯の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに おぼつかなくは 思へども 駒を早めて行くほどに片折戸をしたる内に琴をぞ弾きすまされたる。控えて これを 聞きかれば少しもまがふべうもなき小督殿の爪音なり。


ここで我が目は「ちょと待てぃ!」と相成ったのであります。わたしにとってはこの「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」というのは、子供の頃から、恐らくは歴史好き、歌好きだった母を通して覚えたであろう、
♪「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 
  呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」

となる「黒田節」の歌なのであります。これは果たしていかなる事か?

そこで調べてみたところ、「峯の嵐か松風か たづぬる人の琴の音か」は平家物語で最初に語られ、謡曲「小督」に登場し、やがて「黒田節」の2番目にとなったと言う。黒田節の2番目文言には、後半に「駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん)」とあり、これは二川相近(ふたがわすけちか)なる福岡藩士による作だという。

言って見れば、子供の頃からそれと知らずして平家物語の「小督の琴」の文言を歌っていたということで、一冊の本から手繰った発見は少し刺激的であった。

最後に高倉天皇と小督のその後はどうなったかご存知の方もおられようが、記しておきたい。

小督は清盛を恐れて宮中に帰るのをしぶるが、「想夫恋」の曲で彼女の真意を悟っていた仲国に押し切られこっそりと天皇の元に帰ってきた。2人はひっそりと逢瀬を重ねるが、清盛におもねる者から秘密が漏れて、小督は京都清閑寺に出家させられてしまい、高倉天皇もほどなく21歳の若さで世を去る。

高倉天皇の子どもが、後の壇ノ浦の戦いで入水する幼い安徳天皇だ。
これから第六巻に読み入る。

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某年某月某日 

<今日の一枚>
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山頂にある「Lagoa da Fogo」。 火の湖と言う名からは想像しがたい美しい水面のカルデラ湖。

本題

ポルトと長崎は姉妹都市です。わたしがポルトに来る前年に提携を結んだと聞きますから、もう40数年になります。

ある年のこと、ボランティアで長崎から来るグループの皆様のポルト散策案内役を引き受けたことがあります。そのきっかけは、このブログでした。

長崎市の方から、プロのガイドさんではなくて、ポルトに住む素人の視点で案内をお願いしたいとメールが入りました。そういうことなれば、自分自身もいい勉強になるので散策のコースを作成し、案内準備をしたものです。それで、ポルト市の国際課からも、改めて依頼が入り、連絡をとることになりました。

国際課のスタッフとの最後の打ち合わせでポルト市庁舎まで足を運びました。市庁舎に入ったのは初めてです。舎内には誰もが入れるわけではなく、受付でアポイントの確認がなされ、国際課の担当の若いマルタ嬢が受付まで出迎えに来てくれました。

6階のオフィスではその上司も含め、3人で安全面を考慮しながら最後のコースを取り決めました。少し世間話なども出て、それでは月曜日に本番でお会いしましょう、ということでお開き。

マルタ嬢がわたしを階下まで送ってくれることになったところで、「あら、名刺をまだお渡ししてませんね。」と財布から取り出し、夫とわたしのそれぞれの名前が入っている名刺を手渡しました。

その名刺に2、3秒視線を落としたマルタ嬢、突然名刺に記されてあるわたしの苗字を読み、「Sode○○○・・・、この名前、わたし、知ってますよ!」と言う。

わたしの苗字は珍しい部類で、これまでにわたしは同姓の人に出会ったことが一度もない。昔、大阪にいた時分、電話帳で探してみたことがあるのだが、そこでも見つからなかった。ネット情報では日本全国でおよそ120人くらいいると推測されている。

わたしの苗字は長いのでポルトガル人からすると長覚えにくいらしく、普段のわたしは夫の苗字を通称として使用している。今回の連絡上のメールや電話のやりとりも、全て夫の苗字でしていたので、マルタ嬢はわたしの本名を知らなかったわけですが、「どこでこの苗字を?」と問うと、「ジュアンのお母さんですか?」と、マルタ嬢がわたしの顔を見て逆に聞いてきた。

わたし 「おお!それではあなたもOBS(Oporto British School)の出身なの?」(わたしの二人の子供はそこを卒業した)マルタ嬢 「いいえ、でも、わたしはジュアンの友達ですよ。わたしのボーイフレンドとジャスパーとジュアンが友人同士なので、よく一緒に遊んでいるんです。」

ジェスパー君とは、我がブログでも紹介している画家で、幼稚園からの息子の同級生である。当時リスボンに住んでいた息子は帰省して来ても、家に落ち着いていることはなく、あちこちのOBS時代の友人たちとつるんでは、ほぼ毎日、明け方の君であった。
わたしと夫は、彼を「morcego=モルセーゴ=こうもり」と呼んでいたものだ(笑)

いやぁ、こんなところで息子の友達に逢おうとは!その奇遇にマルタ譲と肩を抱き合って、若い子のようにキャッキャ喜んだのでありました。

ちょっと苗字の話をしますと、ポルトガルではファーストネームも苗字も二つまで持つことができ、それが普通ですが、どちらも三つずつ持っている人もざらにいます。

わたしの二人の子供のポルトガル名はと言うと、ファーストネームが日本名とポルトガル名、苗字は夫の持つ二つの苗字のうちのひとつ、そして、もうひとつはわたしの日本の苗字です。

つまり、例えばモイケル娘の場合は、モイケル(ポルトガル名)・M子(日本名)・Sode○○○(わたしの苗字)・C・S(夫の苗字から)となりますが、やはり長たらしい(笑)

マルタ嬢に会ったことで、わたしは息子が自分の日本苗字もきちんと友達に知らせていると言うことを知り、実は意外に思ったのでした。

わたし自身は、ポルトガルで手続きをすれば夫の苗字に変えることができますが、日本の苗字に少しこだわります。自分の苗字に対するこだわりは、ポルトガルに来て子供を育て始めてから感じ始めたように思います。

特に母が亡くなり、紋付きをわたしがもらうことになってからです。この苗字を継ぐのは、わたしと二人の子供たちでしたが、モイケル娘は結婚すると同時に嫁ぎ先の苗字を名乗っているので、残るは息子です。

何年ポルトガルに住んでも、日本人の部分をなくしたくないというようなそんな思いが、苗字に対するこだわりを生んだのかもしれません。子供たちはそんなことなど考えていないのではないかと漠然と思っていたのですが、この時のマルタ嬢との話に、母はちょっと嬉しかったものです。


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2021年9月10日 

<今日の一枚> Convento dos Capuchos

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シントラ、質素なるフランシスコ会修道院の入り口

本題

リンゴの産地弘前で子供時代を過ごしたわたしは、りんごで育ったとも言える。雪の下(今で言う国光)や、だいなかは大好きなりんごだ。60代半ばまでは洗ったりんごにかぶりついて皮ごと食べていた。それがおいしいのである。しかし、そうやって一度歯を壊してから怖くなり、以来かぶりついて食べるのは止めた。
 
トマトについては、いじましい思い出がある。長男の妊娠初期、とにかくトマトが食べたくて仕方がなかった。が、そのトマトが一番欲しかった時は季節外れ。今でこそ、1年中を通じて、多くの野菜や果物が店頭に並ぶが、当時のポルトガルでは季節外れのものを手に入れるのが難しかった。それで、夫はしょっちゅうトマトを探し回っていたものだ。

トマトもりんご同様、わたしはよくおやつ変わりにそのままかぶりついて食べたりする。
リンゴやトマトの味に気が付いて長い。リンゴのもつ独特の匂いや味がしなくなったのである。トマトについても同様で、皮も実も固い。普通のトマトはもう匂いもしなくなった。

数年前のこと、とある企業のお偉いさんの日本語レッスンを終えて、秘書のヴィルジニアさんに挨拶に行ったところ、「Yukoさん、社の畑で採れたこのトマト、食べてみない?」といただいたことがある。

色がピンクに近く形も普通のトマトの丸みとは違い、どれも不揃いの大きさだ。これが、食べてみると、皮は柔らかいし、みずみずしい。味はと言えば、これまで食してきたトマトに似ているがあっさりしている。大いに気に入り、以来、スーパーで見かけては買ってくるようになった。

ポルトガル語で、「tomato coração de boi(牛の心臓の形をしたトマト)」と呼ぶのだが、英語では「Heirloom tomato(エアルームトマト)」もしくは「Heritage tomato」と言う。

下はわたしが今回買ってきた「tomato coração de boi」

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↑↓普通のトマトと切り口がちがっている
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エアルームトマト、グリーントマト黒いトマトなど、種類がたくさんあり、わたしはこんな形の小さいのも食べてみたのだが、甘くておやつ変わりに食べられる。

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さて、エアルームトマトの「Heirloom」とは、英語辞書を引くと「先祖伝来の家宝」とある。つまり、先祖代々から、毎年種を保存して、各家庭の畑で作られてきたのであろう。 

してみれば、昔、アメリカ映画で「フライドグリーントマトFried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe」というのがあったのを思い出した。その時は、「へぇ、緑のトマトを揚げたのってどんなのだろうか」と思ったものだが、いつだったかそのグリーントマトをサラダで食べたことがあり、結構気に入ったのだった。

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1991年に作られたこの映画はわたしの好きな映画のひとつだ。小さな田舎町の駅前にWhistle Stop Caféというカフェがあり、Fried Green Tomatoesはその店の名物料理。そのカフェを中心に、友情、人種問題やドメスティックヴァイオレンスが取り上げられて、現在と過去を行き来する。

興味のある方は下記で今のところ、見られます。
「Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe」
https://www.youtube.com/watch?v=QeJCHHHIOZg

今日は、たかがトマト、されどトマトの話でした。
みなさまは、エアルームトマト、ご存知でしたか?
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2021年9月8日 

<今日の一枚>
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石が先だったのか家が先だったのか。モンサントの岩の村。できればもう一度行ってみたい所だ。

本題
日本ではどうか知らないが、ポルトガルでは毎日のようにアフガニスタン関係のニュースが放映されている。ニュースを見るたびに、タリバン暫定政権が発足し、これからこの国の人々はどうなるのだろうかと思うと気持ちが暗くなる。

特に、この20年間、ブルカを脱ぎ教育を受けてきた女性たちにとっては、再び歴史がもとに戻されるわけだから、大いなる恐怖だろう。

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タリバンに破壊された楽器。音楽も自由に享受できないのだ。

かつて、アフガニスタンで「キリスト教の洗礼を受けたがゆえ死刑宣告(後に西側諸国の批判により死刑は撤回されたが、被告は亡命しなければならなかった)」と言うニュースを聞き、21世紀の今、いったいどうしてこんなことが起こるのか、と一瞬思ったものだ。 が、自分の考えがいたって断定的な、己の住む側からでしか世界を見ていないことに気づかされた。

日本からは距離的にヨーロッパより遥かに近いアフガニスタンだが、私たちから見るとアフガニスタンの人々は宗教の自由さえ持たない、さながら中世時代に住んでいるかのようだ。

自分が住む国にいてみな似たような環境で育ったわたしたちは、常識非常識という観念でいとも簡単に人を批判したりする。 しかし、その常識とやらをそのまま他国に持ち出して、人を批判するべきではないのだと思うようになった。

わたしたちは、自分の物事を測る尺度が正しいと思いがちだ。自分の育った国はこうだから正しくて、それと違う他国のやり方は無教養だ、と言ってしまうこともあったりする。

イスラム教が国教の国にいて、キリスト教の洗礼を受けたがために死刑というのは、先進国にいるわたしたちから見ると、ばかげている話ではあるが、世界にはまだまだ自由のない精神の暗黒時代にいるかのような国がたくさんあるのだ。

平和漫然とした国でふんぞり返って、暗黒時代の国だと批判する傲慢を捨て、いったいが20年間も国際社会から復興支援を得、米軍から訓練も受けてきた国軍もあるというのに、カーブル空港での惨事はどうして起こったのか。

国軍はどうしたのだと問えば、大統領はいち早く海外へ逃走するわ、軍は戦わずしてタリバンの首都制圧を許すわ。 訓練したアメリカ側に言わせれば、アフガニスタン軍は訓練中もやる気がなかったという。独立の気概を持たない国、自国のために闘う精神を持たな国家は簡単に崩壊する。他の国がそんな国の面倒を見るわけはなかろう。

我が国に関しても似たようなことが言えまいか。軽々しく「いざとなったらアメリカが守ってくれるだろう」などと無責任に考えている日本人が大勢いる気がしてならない。平和九条は話し合いが通じる国が相手の条件だ。日本を取り巻く4か国にその条件が通じるとは思えない。残念ながら世界は腹黒いのである。

アフガニスタン国難を見て、ふと母国日本の将来に大いに不安を感じた。今のままではいけない。自分たちの国の独立は自分たちが守る気概を持たなければならない。

今日は、言葉足らずながら、アフガニスタンの現状をテレビで見るにあたり、自分の思いを
綴ってみました。お目汚し、失礼。

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2021年9月7日 

自分が撮って貯めてきた写真を、「今日の一枚」として載せていきたいと思います。
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本日の一枚は、隣町ガイアにあるMiramar海岸の「Capela do Senhor da Pedra」

本題です。
我がモイケル娘が日本の大学で、息子がリスボンで仕事らしきものをしており、夫と二人暮らしが始まったころのこと。

とある日の午後、すぐ近くに住む夫の兄がやって来ました。義兄はパソコンを購入して既に2年ほど経っていたのですが、これまではネット云々の話を本人から聞いたことがない。

パソコンは持っているものの、ネット接続していなかった夫の兄、いったい何に使っているのかな?なんて思ったりしたものの、人さまのことですものね、聞きませんでした。

さて、大の男二人が椅子を2脚並べ、pc画面の前で何やら始めておりました。わたしは昼食の後片付けを食器洗い機に任せて、ソファに腰掛け、両手に日曜版の新聞を持ち、読む振りしながら、そぉ~っと二人の様子を新聞の陰から覗いていたのでした(笑)

すると、夫の兄貴、hotmailアカウントを作りたいらしい。 お、いよいよネット環境にしたんだな。夫が何だらかんだら言ってるのですが、兄弟二人とも頑固なのですよ(笑) で、二人とも、きちっと理屈がわからないと承知しない性格です。

わたしなどがもいける娘にホームページ作成を教えてもらったときなど、可愛いもんです。
「なんで?なんで?」なんて聞きまへん。
「はい、こうよぉ。はい、今度はこっちぃクリック~」と娘。
すると、「ほいほい」とわたし。
素直なもんです、なんの疑問も持たずにゴキブリほいほいのごとし。

それ以前に夫はもいける娘と話したいがため、アカウントを作ったのですが、チャット歴はわたしの方が長いので、仕方を教えるっちゅうのに、自分一人でやって最初のメッセンジャーにはメルアドをそのまんまハンドルネームにしてたのでした(爆) し~らないっと。

二人のやりとりが可笑しくて、わたしは新聞の陰から覗いてクスクス笑ってる。で、たまに、どれどれと覗きに行くと、「ほっとけ」と言う(笑) 全くもう可笑しいったらありゃしない。

すったもんだで、とにかく二人してなんとかできたようです。

兄貴が帰った後で、「なんで今更、アカウント?」と聞きますと、
「税金申告がインターネットですることになり、メール送信するんだ」とのこと。
「ええ?だって、パソコン持って無い人とか、操作出来ない人、どうするのよ?」
「人に頼むことになる。金払ってでも」
・・・・・・・・・・・・・・・・
そんなアホな・・・

この国、嫌いじゃないけど、そういうハチャメチャなとこ、かなわんわ^^;
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2021年9月6日
 
8月が終わると同時に休暇も終わり、日本語教室もこの週末から始まった。お掃除に来てくれるドナ・マリアが2週間の休みを取ったので、授業の準備に加えて家の中のことも色々する必要がある。ま、あまり暇がない方がいいかなと、ポジティブにとらえている。

今日は生活から離れた話をば、ちと。自分のメモとして記録しておきたいがためだ。

以前、ポルトガルの新聞記事に、「ぬぬ?」とわたしが興味を惹かれたのがあった。「サー・コナン・ドイルが、さ、殺人?」と、目に飛び込んで来た見出しがきわどい。

サー・コナン・ドイルと言えば、言わずとしれた、架空人物でありながらファンの熱狂のあまり、うっかり実在人物と勘違いしてしまいそうな、イギリスの名探偵、「シャーロック・ホームズ」の創作者である。 なにしろ、ロンドンのベーカーストリートには堂々と、「シャーロック・ホームズの住所」までがあるのだ。

わたしも20代にケンブリッジに一か月滞在した時に、ロンドンに出てその住所を頼りに探しに行った。どうやら現在は博物館になっているらしいが、当時は目立った目印もなかったので、探すのに却って興奮を覚えたものだ。

わたしが子供の頃、本らしき本とし手にしたのも、アルセーヌ・ルパンシリーズとこの「名探偵シャーロック・ホームズ」シリーズだった。憧れの主人公たちであったのだ。大人になってもそれは続き、今でも探偵、推理物が好きで、本に限らずドラマもそうである。

本で言えば「フィリップ・マーロー」、「リウ・アーチャー」、「ケイ・スカーペット」、英国ドラマでは「Prime Suspect(第一容疑者)」、オックスフォードを舞台にした「Endeavour(エンデヴァー)」、「Silent Witness」、「Vera」、果ては言葉がよく分からないのに、ポルトガル語の字幕を読みながらがんばって見てるフランスの警察ドラマシリーズまである。

さて、記事によると、コナン・ドイルの著書「バスカビルの犬」と言う作品が、どうも盗作であり、真の作者は、友人であった、同じく作家、ジャーナリスト、そして、弁護士の、バートラム・フレッチャー・ロビンソンだとの噂があり、それを隠すためにコナン・ドイルは彼を殺害したの説を述べている。

バスカビルの犬
私が持っている「バスカビルの犬」

作家、科学者、病理学者などの6人からなる現代の調査団は、腸チフスで死亡とされるロビンソンの死因は麻薬による「毒殺」であるとの結論に達しているとのこと。

サー・コナン・ドイルとロビンソン夫人は愛人関係にあり、夫人をそそのかして服用させたということらしい。もちろん、コナン・ドイル・ファンはこの説に反撃している。いやぁ、こう言う話って、事実は小説より奇なりと、物語を地で行くようで、わたしなどはつい吊られてしまう。

現在ならば墓を掘り起こして検視する可能性も考えられるのだが、果たしてこの話はその後どうなったのだろうか。

コナン・ドイルがホームズをして言わしめたせりふに、

When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth. (不可能を消去して、最後にも凝ったものがいかにありそうもないことであっても、それが真実だ。)

と言うのがあるが、コナン・ドイルの殺人容疑は別にして、果たして「バスカビルの犬」の真の作者についてはどうなのだろうか。 

こう言う話って、事実は小説より奇なりと、物語を地で行くようでわたしなどはつい吊られてしまうのだが。  

下記、過去記事「私の好きな探偵ものの主人公たち」です。
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1922.html</a>

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2021年9月5日 Queenのロックにのる!

朝の散歩から帰ってパソコンをつけた。
いつも最初に画面に出てくるのは子どもたちと連絡をとりあったりチャットしたりするのに使っているSkypeだ。

画面下のSkypeアイコンに赤丸が付いている時は、どちらかがメッセ、画像、もしくはビデオを送ってきているということである。

お、今朝も孫の空ちゃんの動画が来てるなと、動画を開けて、ぎょえ!
いきなり耳に入ってきたのが、Queenの、かの「ドンドンチャ、ドンドンチャ」で始まる「We will rock you」ではないの!

空ちゃんが両手をたたいてロックのリズムにのっている。甥のKがスマホで聞かせているのだ。そのうち、ソファに上がり、立って上下に体を揺らして(踊ってるつもりw)、わわわわ、危ない危ない、頭の重さでのけぞって落ちそうだ。 2分ほどの間、そうやって周りの大人から一斉に視線を浴び、やいやい褒められて手をたたき踊り、お調子者じゃ~(笑)、

と、朝から大笑い。

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ぶどうがりに行ったそうです

モイケル娘、彼女のおばにあたる我が妹宅を訪ねることなく2年、ほとんど誰の助けもなくひたすら子育てをしてきたのだから、ストレスもたまろうというもの。コロナ禍さえなかったら、もう少し事情が違っていたと思う。

モイケル娘の自宅から片道2時間ほどの距離だから、少し気がかりではあったが、閉じこもってばかりいてどうする!の気持ちもあるわけで。空ちゃん、14カ月で初めての遠出のおでかけであった。

街中で見るもの耳にするものが新鮮だったろうか、人間歴14カ月の彼女の目に初めての世の中はどんな風に映ったのだろう。

妹たちも空ちゃんに会うのは初めてだ。わたしはもちろん帰国できない状態なのでまだ。
妹が何と言ってくるか楽しみではある。

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母と子の背中


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2021年9月3日 

ある日のこと、かれこれ30年近くもお目にかかっていない御仁から、突然の電話を頂いた。

誰あろう、わたしがポルトに来た当時のポルト市長Veloso氏です。知り合いというほどのお付き合いでもないのだが、Veloso氏は、ポルト出身の歌手でポルトガルの大御所歌手のひとり、Rui Velosoのお父上でもある。

わたしがポルトに嫁いで来た年の前年に、ポルト市は長崎市と姉妹都市の協定を結び、当時、ポルトに住むただ一人の日本人であったわたしは、夫とともにVeloso氏を中心とするお仲間に時々お呼ばれしたものだ。

その時に、そのお仲間にに入っていて、以後ずっと友人付き合いをしているエディトさん宅に招待された。彼女は商務官であったご主人と共に日本に6年ほど滞在した経験があり、日本語が放せたので、わたしは見知らぬ土地のポルトガルにいて、本当に嬉しかった。
彼女曰く、「市長がどうしても今度の長崎訪問で日本の歌を日本語で歌いたいと言う。あなた、少し指導してくれない?」との依頼があり、ポルトガル語をほとんど話せなかった当時のわたしはびびりながら、Veloso氏に日本語での歌を指導もどきをしたことがある。

Veloso氏が選んできた歌は

♪母がまだ若い頃、ぼくの手をひいて
  この坂をのぼっては いつもため息をついた

で始まるさだまさしの「無縁坂」と言う哀しい歌だった。

ポルトガル語では意味の説明ができず、わたしは大してうまくもない英語で簡単な説明をしたのだが、Veloso氏はとても音感がよく、不思議に思ったのだが、氏はコインブラの大学生時代には学生ファディストだったのだそうだ。道理で歌も堂に入ったはずである。

黒いマントをまとい、石畳の狭い路地で歌われたであろうセレナーデはさぞかし素敵だったろう。一度はシノセレナーデを聞きたいと思いながら、ついに機を逃してしまった。

わたしが日本語発音の手ほどきした「無縁坂」をVeloso氏はその年に長崎を視察訪問したときにご披露したのだそうだ。

電話ではその話が出て、齢80何歳のVeloso氏、話し方も矍鑠(かくしゃく)としており、とても80何歳とは思えなかった。そして曰く、実はもう一曲日本語の歌のレパートリーが増えたと(笑)

「何の歌ですか?」と問うと「え~っと・・名前がすぐに出てこんわい。」と言いもって、受話器の向こうで歌いだした(笑)

♪知らない町を 歩いて見たい
 どこか 遠くへ行きたい 

あ、知ってますよ、この歌!と途中からは、わたしも一緒に受話器を耳にあてながら二人で歌たのであった(爆)

これは、わたしが15の頃、歌手ジェリー藤尾が歌ってヒットした「遠くへ行きたい」という歌なのですが、どこか寂しげな、今でもすぐ口からそのメロディーも歌詞も出てくる好きだった歌のひとつですが、しかし市長さん、その歌をわたしと歌いたいがためのお電話ではありますまい(笑)

実は5月のポルト長崎30周年記念祭に引き続き、この28、29日には長崎市議のみなさんがおいでになり、その中にお手伝いのわたしの名前を見つけたVeloso氏、グループのお一人と旧交を温めるのに、ちょいと通訳を、との話ではありました。

お手伝いしたいは山々なれど、すでにボランティアで引き受けているご長崎一行様のポルトご案内の準備で手一杯^^; 本当は引き受けて、お礼にRui Velosoのサイン入りCDでもおねだりしたいところではありましたが(笑)そんなわけで、その時は知り合いの通訳の方をご紹介することでおわりました。

が、その日の夜会でお会いし、結局、Veloso氏が持ち込んだギターの伴奏に、氏とわたしは無縁坂を歌い、田上市長まで飛び入りの合唱となったのでした。

今日は、ふと歌手のジェリー藤尾さんが8月上旬に亡くなったという記事を目にし、今は亡きVeloso氏のこと、この歌が流行った頃に、「知らない町を歩いて見たい どこか遠くへ行きたい」と口ずさんでいた自分の15の頃を思い出しています。

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都会の雰囲気を持つ憧れだったおばと妹と15の頃

本当に、どこか遠い町へ来てしまったんだなぁ、その知らなかった町を今歩き、知らなかった海を眺め、愛する人に巡り合い、知らなかった町で日々を送ること40数年になろうとは、あの頃のわたしには想像できなかったですね。 人生、紆余曲折。「遠くへ行きたい」がしみじみ心にしみる今日です。

「遠くへ行きたい」聴いてみてください。


Youtubeより
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