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2021年8月31日 

「明日はどこへいく?」「今日はどこへ行こうか?」と夫の口癖を聞かされた夏休みだった。
町中はツーリストも結構来ているし、人混みは避けたい。日中は外が暑いのでいっぺんに体力を失くするするから出かけたくない、1時間もマスクをして歩いていると息切れがしてくるこの頃、夫の元気はどこから来るのだ? と考えたら、そりゃそうだよなと心当たった。

休暇だからと言って家事がなくなるわけではない。むしろ休暇中だからあそもここも整理したいとなるので、なんだか忙しいのである。まぁ、しなければすむのだけれど(笑)

そんなわけで、なんだかんだと引っ張られて出かけたひとつにトンゴブリガ(Tongobriga)遺跡がある。Tongは「jurar=誓う」の意味で、「~briga」は要塞だそうだ。

ポルトから内陸に車で4,50分のMarco de Canavesesにある小さな村、Freixo(フレイシュ)一帯がそれだ。人口845人の村に考古学専門学校があるのには驚いた。

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村にあるのはほとんどこんな石の家だ

トンゴブリガは紀元前からローマ時代に及ぶ遺跡で1980年に発見され、野外劇場、浴場、ネクロポリス、公開広場など、発掘は数か所にわたって現在も行われている。
 
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上は紀元前とローマ時代の住居遺跡と言われる

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上下、発掘中のローマ浴場

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村の入り口のバーベキューレストランはスペースが十分に取られており、人も少なかったので安心して昼食ができた。
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レストランTongobriga

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牛肉のバーベキューは肉が柔らかくて美味しかった。ワインは久しぶりに飲むVinho Verde。モンサォンのMuralha

以下、トンゴブリガの情報。

インフォメーション:
場所: Rua António Correia de Vasconcelos, 51 Marco de Canaveses
週末:10:30~18:00
週日:9:00~12:30、2:00~5:30
入場料:3ユーロ
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某年某月某日

スーパーマーケットの大小に拘わらず、入り口でUNICEFなどのボランティアがよく寄付金をよびかけています。また、イースターやクリスマスの時期には、あちこちの慈善協会から寄付のお願いの電話がかかって来たりします。

我が家は金持ちではありませんが、日々、食べていけてますし、子供たちがいざ必要だという時のために、人肌脱げるようにと少しの蓄えもするように心がけています。で、ええカッコするつもりはないのですが、わたしはうちより遥かに貧しい人たちへの援助として、毎月少額ではありますが、ずっと寄付しています。

なに、ことの発端は、まことにしょうもない出来事なのです。

補習校時代のことで、まだ我が子たちがそこで学んでいたころです。その日の土曜日も授業を終えて子供たちと一緒に車で帰宅しました。 

家に着いたところで、
「おろ? わたしの教材道具一式が入ってる、デカい四角いカバンはどこ?」
ない・・・・なかったのです、いつも行き帰りに入れるはずの車のトランクに。

その日は給料日でもあり、給料袋をかばんに無造作につっこんだまま、帰宅後の家族の昼食の用意もあったので大急ぎで帰ったというわけです。

そのかばんは、しまった!やっぱりあの問題集を持ってくればよかった、などと後悔しないように、授業に必要な教科書以外にあれもこれもと色々なものが入っており随分と重いものですから、駐車してあった車の側の地面にいったん置き、急かして子供達を車に乗せたはいいが、 どうやら、カバンはそのまま置きっ放しにして来たらしい・・・

さぁ、大変!慌てて車で補習校までバックしたものの、がらんとした学校前にはカバンらしきものは見当たりませんでした。 ショックでしたねぇ、あれは・・・お給料もさることながら、教材一式がなくなったと思うと、それが無念。

翌朝、ダメ元だと、夫が学校の区内にある警察へ届け出に行ってくれましたら、なんと!ポルトガルでは非常に珍しいことに、当時学校に住み込みしていたのが警察官の家族で、その警察官が家に帰ってきた時に置き忘れられたカバンを見つけ、預かってくれている、とのこと!

これはもう、ポルトガルでは、ただただ運がいい、としか言いようがありません。

カバンを見つけられなかった土曜日の夜は、がっくり肩うなだれて、昼食夕食の準備に台所に立ちながら、心の中でひたすらカバンが戻ってくることを祈り、誰とはなしに、誓っていたのでした。

「もしも万が一、あのカバンが手元に戻って来たら、給料の全部をどこかに寄付します、約束します、神さま仏さま・・・」と、苦しい時の神頼み。

さて、無事に戻ってきたカバンを手に、わたしはホクホク^^だって、こういうことはこのポ国では、まずありえないことなのですもん(笑)
そして、ふと思い出した、自分が誰とはなしに誓った、あの約束・・・
「こ、こんなんだったら、約束せぇへんかったらよかった~」^^;セコい人間です、トホホ。

戻って来た給料袋を目の前にしては、ドサクサに紛れて自分の気持ちを誤魔化し、しばらくはどこかへ寄付するということは、しませんでした。その誓いをすっかり忘れてしまっていたようでも、何かの拍子にそれが心に蘇ってくるのですね。

自分では悪いことをしたとは思わないものの、それはある種の罪悪感です。

その年の暮れ、わたしは生まれて初めて、夫と二人、UNICEFに寄付金の小切手を切りました。ケチくさいことに、給料の全額ではなく、半額です、テヘ。

その後また、その半額分がいつまでも気になり、ある日、偶然電話がかかってきたポルトの慈善団体に毎月寄付することにしたのです。

それは現在も続いており、もうとっくにわたしのあの当時の給料の何十倍かになっています。
一時期、停止したことがありますが、それは、妹たちと同居していた我が母が私立の軽痴呆施設に入居することになり、いくらか負担するという事情があった時です。

わたしは時々思います。もしも大きな宝くじがあたったら、絶対その半分は、老人ホームや孤児院、動物愛護協会などに寄付するのだと。この「当たったらその半分」というところがわたしのボランティア精神のセコいところでもあるんですがね。


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2021年8月26日

食糧の買い出しをするのに、人の多い週末はなるべく避けたい。特にコロナ禍の時代だ、まだまだ油断は禁物だと思っている。
青菜の種類が要るし外猫のエサも買い足して置いた方がいいので、朝のうちに大手のマーケットまで車でひとっ走りすることにした。

ちょっと行ってくるね、と夫に言うと、オレも行くと言う。「へ~い、じゃ、どうぞ」と言うので一緒に行くことになった。
わたしが近年もっぱら使用しているのはバックパックの類だ。軽いし両手が空くので、いざ、転ばんという時に両手で体を支えることができようと言うもの(笑) 買い物袋も両手に持ってフラットの階段を上がることができる。
バッグを手に、外したマスクを包むハンカチはちゃんと入ってるかと確認するため、開けてみた。モソモソと中を探ると、一瞬、ん?

さ、財布が入ってないような?・・・不安がよぎった。えっと、待って待って、あれへんわけはない。いつもここに入れっぱなしなんだから。と、再三再四、手で探り、最後にはバッグをもろひっくり返した。が、ないのである。なんであれへんねん?
ぎょ、ぎょえーー!

夫は支度ができて待っている。そこへ、「財布があれへん~」と今にも泣きだしそうな声でわたし。わたしがこういう粗忽をしでかした時、夫は実に沈着な人なのである。そして、決してあやまちを責めない。

ポルトガルで財布を無くすということは、日常生活に支障をきたすのと同様だ。金銭はあまり持ち歩かないが、財布の中に納められてあるのは金銭よりも大事で、常に所持しているべきIDカードこと身分証明書、キャッシュカード、自動車免許証、保険証などで、わたしもそれら一式が、財布に入っている。

えらいことなんです、財布を無くすってことは・・・それをやっちゃったんである。
だからね、疲れとるねん、この頃。 昨日も夫に、「明日、ローマ遺跡を見にいかないか」と誘われたのだが、一昨日、暑い中アマランテ(ポルトから車で4,50分のところ)まで行かせられて(笑)、わたしゃ疲れとるんや、と断ったのであった。

さて、財布を昨日どこでわたしはバッグから出したかと記憶をたどってみると、たった一か所、夫と車で出かけたチャイナショップである。以前は大手のマーケットで手に入っていたMorigana豆腐が、近頃は棚から消えてしまった。ひょっとするとチャイナショップにあるかもしれないと、夫に車の中で待ってもらい、それを見つけて、払うときにわたしは財布を取りだしたはずだ。

その後は、近くのスーパーマーケットで他の買い物をしたのだが、支払いは夫がしてある。
落としたとしたら、チャイナショップだろう。まずは、電話をしてみた。夫がポルトガル語で聞いてみたが、答えは「ない」であった。
そうこうしているうちに、キャッシュカードが心配になり、ネットで確認してみると、お金が使われた形跡はなし。落としたのは昨日の午前中だから、あれ?とは思ったものの、とにかくキャッシュカードの使用をネット上でストップした。

その後、直接、聞きに行った方がいいと判断し、まずは近くのスーパーマーケットへ。ございませんでした。それから、さきほど電話で問い合わせて「ない」と言われたチャイナショップへ。

この辺りで、財布はもう出てこないだろうとわたしはほぼ諦めたのであった。IDカードの再発行なんで、また列に並んで、長い時間をかけて申請することになるのを考えると、気が遠くなりそう。我ながら、ほんまに抜けてると深くこうべを垂れるばかり。

昨日、免許証の更新に行ってきたところで、コロナ禍ゆえ、なにかと気をつけなければいかず、カードの再発行申請にかかる時間を思うと、いやになりまっせ。

チャイナショップに入り、レジのお兄さんに、昨日、ここで買い物したんだが、赤い財布が落ちてませんでしたか。どうもポルトガル語がよく理解できないらしい。この質問を夫は二度繰り返した。二度目はゆっくりと。
すると、お兄さん、おもむろにレジの下の引き出しを開けて、「これ?」と出してきたのは、まさに私の赤い財布だ!
もう、命が縮まったよ。

お兄さん曰く、床に落ちていたのを家内が見つけたのだ、と。
ほんとに嬉しかった!お礼は後日に」と帰ってきたのだが、ストップをかけたキャッシュカードを除いては、無事、全てのものは手元に戻った。ハレルヤ!

なんかどーっと疲れて、家に着くなり寝てしまった本件ではあった。

て、こんな気分になったことが、実は以前にもあったのを思い出し。
明日はその話をば。
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某年某月某日
 
一昔以上も前になるでしょうか。

在ポルトガル日本大使館主催で、日本語学習者を対象にした初めてのエッセイコンクールがあった時のことです。
当時は、ポルトに滞在する日本人の子供たちが通う土曜日の補習校で国語数学を教えていたし、ポルトガル人たちが日本語を学ぶ環境も違っていたので、今のように日本語のグループ授業など、していませんでした。

が、個人授業の生徒が2、3人いました。

その中のL君は20代でしたが、日本のゲームが好きで漢字も自らよく勉強し、色々語彙の質問をして来たものです。夜間大学に通っていて、週に1回、60分の日本語レッスンで、およそ10年くらい教えました。
その間、L君はわたしの指導の下、漢検2級、そして、最後はJLPT2級を合格しました。多分、わたしが持った生徒の中でベストだったと思います。

漢検2級は2度受けさせました。一回目の合格点が80%少しだったので、
「L君、合格点ぎりぎりだね。この点数だと準1級は無理です」
なんて意地悪くわたしに言われ、翌年、再受験し94%で合格しました。

L君にそう言ったのは、彼ならもっと点数をあげることができるはずだし、準1級にわたしが取り組んでいたのを見て、それを目標にしたいとの大志を持っていたからです。

さて、話をエッセイコンクールに戻します。
この年のコンクールではL君が最優秀賞を取ったのでした。大使館での授賞式に出席するにあたり、エッセイを朗読することになっていました。

レッスンの日に、コンクールに送った応募エッセイのコピーを持ってきたL君、「どれどれ、見せてごらん。ちゃんと書けてるかな?」と、わたし。

なにしろ、本人は大学の試験やら、バイトやらで忙しい中、ギリギリに仕上げたようです。おまけに、応募前にわたしは一週間ほどコペンハーゲンに出かけていて、原稿を見てアドバイスはしたものの、清書したのを見てあげることができなかったのです。

出だし。
「日本とポルトガルの出会いは、ほぼ500年前の種子鳥にさかのぼります。」

ふむふむ。 ん?ま、待てよ・・・なんかおかしいぞ・・・

「おい、L君! 種子鳥ってなんじゃいな!」(爆)
と、すでに受賞が決まった作品の第一段落トップに誤字を見つけて、その場で大笑い!
L君の言うことがまた、これですよ。
「さすがボクは、誤字丸菌(ごじまるきん)が多い先生の弟子です。」(爆)

「誤字丸菌」とは、当時ネット仲間が週に一度集う、「カフェ・バグダッド」というチャットルーム内でのわたしにつけられた愛称でして、誤字は読んで字の如く、いつもキーボードを早く打ちすぎて、しょっちゅう誤字を出す。
「丸、もしくは○」は、大して太ってもいないはずなのに、顔が丸いためも入ってか。(笑)
「菌」は、何だか、結構みなさんに感染するようで、わたしの誤字が出ると続いて仲間もよく誤字を出していたようで^^;

L君、よく言ってくれるわよね(笑)

彼の筆跡は日本人顔負けの、とても均整のとれたお手本にあるような美しい字なのです。で、わたしは旅行に行っている間も、大使館の審査員の方々に、先生が代筆したと思われること、間違いないだろうなと、とても心配していたのですが、「種子鳥」で、いっぺんに、その疑惑は吹っ飛んだことでしょう!

日本の子供が通う我が職場で、低学年の子供がよくする間違いです(笑)

大使館からは、我が生徒の授賞式出席招待の電話が入りました。行きたかったのは山々なれど、式はリスボンで夕方4時からです、すると、帰宅は真夜中近くになるでしょう。翌日、仕事が控えてますから、出席は不可^^;

しかし、この授賞式に出席した顔ぶれが凄い!
日本大使は勿論のこと、ポルトガルの文部大臣、EC国会のメンバー、リスボン市長、それに、元大統領のイアネス氏と、そうそうたるものです。L君、びびってました。 「先生、一緒に行こうよ」って(笑)

こういう公の場でエッセイを朗読するのですから、その指導をして、「大丈夫だい、心配すな、行け!」(自分は行かないから。笑)と背中をポンと後押しして送りだしたのでした。

彼は大学の授業が終わってから、お母さんを伴って授賞式に出席しました。

今のところ、わたしの日本語教室では、このL君を超える生徒が出ていません。

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2021年8月20日

昨年7月2日に誕生した初孫の青空ちゃん、13カ月を過ぎて元気に成長しているようです。
しばらく前に掴まり立ちから掴まる物なしで立てるようになり、手を添えてあげると歩くこともできます。ミルクもコップで飲めますし、パッパ、マンマなどの言葉も聞かれるようになりました。

面白いなと思うのは、色々な音に興味を示し、特に3カ月の赤ちゃん時代から、ママであるモイケル娘が発する「プップ、ププププ、ペッペ」でよく喜んでいましたが、今は「ゴツン!ズボ!」の擬音語を聞くと大笑いしています。
朝5時過ぎにはもう起きだして、しっかり向き合って育てている娘はさぞかし大変だろうと思います。手抜きするところがないんだそうで(笑)

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13カ月の青空ちゃん

私は若い頃は目にもとめなかった栄養ドリンクですが、帰国時の時差ボケ中に、滞在先の妹に勧められ、オロナミンCとやらを一度飲んで以来、時差ボケ中とポルトに帰ってくる時に飲むようになりました。

で、なんだか体がシャキッとするような気がすると、子育てで疲れているだろうモイケル娘に、試してみたらどう?と言ってみたら、娘曰く「プラセボ効果じゃないのん?」

プラシーボ効果とは、偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられることを言うのだそうで、意外と暗示にかかりやすいわたしは、なるほどと納得(笑)

ついでに「オロナインは飲まないぞ」と言われ、面目なしでした。(昔、オロナミンとオロナインをうっかり混合して言ってしまったことがあり、よく覚えとるわ)
「子育てて疲れてるあなた、これを飲めば元気になる!みないなの、ないかなぁ」と言ってました(笑)

おっと、話を元に戻してと。
「昨年、出産予定日3週間前になって、臍帯の動脈血管が一本足りないと、それまで通っていたクリニックで言われ、モイケル娘、急遽、中央病院へ移され、精密検査のため一週間入院した時には、不安で眠れない夜が続きました。

わたし自身は東京息子もモイケル娘も安産でしたので、それがどういうことか分からず、情報を得るためずっとネット検索し続けたものです。

モイケル娘も不安であったと思いますが、健気にも、「大丈夫。母体が不安だと赤ちゃんにも影響すると思うから、わたしは大丈夫だと信じる」といい、まるで、おっかさんと娘がひっくり返ってしまったような状態ではありました。

一週間悩んだ末、万が一のときには、自分は娘夫婦を手助けするために、完全帰国しよう、そして、これまで自分がしてきた日本帰国を今度は逆に年に1、2度ポルトガルに帰国しよう、と決心したら、よし、なんでも来い、と気持ちが楽になりました。

その頃に、ラメーゴの「ノッサ・セニョーラ・ドス・ルメーディオの聖地」まで出かけ、願掛けをしてきました。、時に、この広い世界には人智を超えた力、意思のようなものがあるのではないかと思うのです。


と書いてありますが、願かけをして、その2週間は今まで絶ったことがないコーヒーを断ちました。ま、こう言いますとね、ただの気休めに過ぎないと思われる人もいるかもしれませんが、自分の力ではどうにもできないとき、人は、天を見上げたりして神仏に祈るのかもしれません。

青空ちゃんが無事に誕生した後、コロナ禍で実はずっとお礼参りをしようしようと思てきたのですが、やっとそれが今週月曜日にできました。
日本で言う所謂お賽銭箱の小さいのが教会の中にあるのですが、なんと!驚いたことに、折ったわたしのお札が入りきらないほど、お賽銭箱はいっぱいでしたよ!
ははぁ、コロナ禍の中、わたしのように願掛けに来た人がたくさんいたんだろうなと思った次第。

わたしにはもう一か所、お礼参りしなければならない場所が東京にあるんですね。いやいや、変なお礼参りではありませんから、友達の皆さん、ご心配に及ばない(笑)これは、コロナ禍がもっと落ち着くまで実現できないです。何しろ、帰国そのものがまだまだ大変なんですから。

ラメーゴについては、こちらで案内しています。
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-2335.html

ではみなさま、また。
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2021年8月16日

「先生、ぼくのケンドー、見に来ませんか?」と日本語生徒のD君に招待された。随分前の話ではある。

昔、大阪で会社勤めをしていた頃、みんなが「ブーヤン」と呼んでいた同僚の剣道稽古を見に行ったことがある。あの時の「ヤー!ットゥー!の掛け声の強烈な印象が残っており、棒っきれを振り回してチャンバラごっこに明け暮れた子供時代を過ごしたわたしは、ケンドーの名に惹かれたのだ。

招待された場所はBessaのサッカー場の隣、ボアヴィスタのパビリオン内だった。稽古場の両側の壁は一面鏡になっていて、二列に向かい合って並び、一技終わるごとにずらして対面する相手を変えて行く。

「ヤー!ットー!」の掛け声とともに、竹刀がバシンとぶつかる激しい稽古を期待していったのだが、それはなかった。みな、真剣に師範の動作を見、話に耳を傾け、動作はいたって静か。
静寂な稽古場に時折かかる「ヤー!」の声は、時に自信たっぷり、また時に自信なさげで、個人の気合の入れ方がそのまま出ていて、面白い。

剣道と言えば、近頃ではさっぱり音沙汰がなくなったアメリカ、カリフォルニアに住む、中年になってから剣道を始めた友人がいた。始めた頃はさんざん文句を書いた手紙をよこし、読んだわたしは笑いをこらえられなかったものだ。

「防具をつけてからと言うもの、死ぬ思いだ。こてー!と叫んで、しこたま手首を打ってくれる。痛いのなんのって、ほんとに頭にきて、竹刀を捨ててなぐりかかってやりたいぐらいなのだ。華麗どころか喧嘩ごしだ。」

「練習が長いと息が続かない(なんしろ中年だからね。笑)、足が動かない、汗びっしょりで頭痛が始まる。練習始めの早や撃ち百篇でもう帰りたくなる。」

一緒に剣道を始めた長男が「お父さん、なんでそんなに苦しんでまで剣道へ行くの?」との問いに、アメリカ人の奥方いわく、「お父さんはね、仏教でいう苦行をしてるのよ!」(爆)

剣道を始めたきっかけはというと、ある日、多少出てきた腹を吸い込み、横文字新聞紙を丸めて子供たちと太刀さばきを競ったところが、おとっつぁん、気が入りすぎ、力任せ。それをまともに面にくらった息子が泣き声で果し合い中止。「いい年して、何ですか!」とまるで、小学生を叱る先生のごとき威圧と、こんなショウ-もない男となぜ結婚したとでも言いげな奥方の呆れ顔だったのだそうな(笑)

わたしは手紙で彼の剣道の話を読むと、モイケル娘と取り合って読んだ「ちばてつや」の漫画、「おれは鉄兵」を思い出して、おかしくて仕様がなかった(笑)

鉄兵
Wikipediaより

「試合でさ、竹刀構えてしばらくシーンと向き合うだろ?それでよ、突然、デカイ声で、あっ!と言いもって、床に目を向けるのだ。すると、人って面白いぞ、釣られて相手も下をみる。そこを狙っておめーーん!」

おいおい、お前さん、それはだまし討ちじゃんか・・・^^;
まるで鉄兵そっくりだ、と思いながら、その光景を想像するとおかしいったらない(笑)
くだんの彼も、鉄兵のようにチビなのではあった(爆)

「剣道も人生も同じです。小さいとか歳だとか、言い訳はしないことです。かつての少年部の日本チャンピョンは片腕の少年でした。」と自分より10歳以上も若い師範の話を聞き、以後、かれは奥方の毒舌、失笑にもめげず剣道を続けると決めたと言う。あれからどのくらいの年月が経つだろう。

礼に始まり礼に終わると言われる剣道だが、果たして彼は剣道をどう捉えたのであろうかと今の彼の姿を想像しようと試みる。が、始めるきっかけと文句たらたらの手紙のおかしかったのだけが蘇ってなんとも浮かばないのではあった。

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2021年8月15日  

子供達がいた頃は、夏休みが来ると「うわ~!@@」で始まり、9月の新学期が始まると「ふ~っ」と夏の一仕事が終わったことに胸をなでおろしたものだ。

新学期が始まった最初の一週間は家中がやおら静かになり夏の日差しの暑いのも一通り山を越え、柔らかめの光が窓から投げ込まれるその時が、母ことわたしの遅まきの夏休みであった。わたしの、子どもたちがいた夏はいや全く一仕事だったのである。

17年間、普段は車での学校送迎に始まり、帰宅後は、やれ宿題の、通信教育の、補習校の勉強のと、これに、ピアノの稽古だ、数学の家庭教師の家だ、やれ乗馬だと加わり、親も子に合わせてスケジュールぎっしりの毎日であった。

稽古事も近隣ではないので、すべて車で送迎。1時間のことなので結局車の中で待つ、と言うことになる。まったくお付の運転手の役割である。

家庭学習にいたっては、日本語の学習は当然ながら、自分の能力を超えそうな英語、ポルトガル語も、時には辞書と首っ引きで子供達と取り組んだこともある。ポルトガル語の学習では、今でも心に残っていることがある。以下。

小学校4年生のモイケル娘のポルトガル歴史の成績が一向に芳しくない。British Schoolであるから、どうしても英語圏の科目が主要になり、一週間に一度しかない授業ではある。家庭語がポルトガル語でない我が家にいては、いたし方ないところもあるのだが、もう少し成績アップを願ったわたしたち、(というより、母親が。笑)娘と二人、テスト勉強に取り組むことにしたのであります。

ちなみにこの頃のわたしは、ポルトガル語など碌すっぽ勉強したこともなく、独学でかじった知識しかなし。さぁ、取り組んで見たはいいが、これがあぁた、「あははは」と笑うっきゃぁない代物でした。つまり、そんなわたしの生半可なポルトガル語では、取り組むにも取り組み様がなかったんであります。

あれ?いったいどこで文章が終わるのよ?いつの間にやら話が変わったのよ?主語はどれ?なんでこんなに文が長いの!この言葉、同じ意味じゃないの!なんでわざわざ違った言葉を使うのよ~(涙)と、読むほどに頭がこんがらかって来そうでした。。大人がこんな状態ですからね、子どもに、さぁ分かれ、成績あげろは無理ってもんです。

歴史ですから語彙も日常生活で耳にするのと違い、これまで耳にしたこともないものばかり。娘と二人、辞書と教科書にかじりついて1ページを終えるのにどれだけの時間を費やしたことか。く○!絶対理解してやる!と、そこで母はやおら大決心。

モイケル娘が学校に行っている間は、家事そっちのけで小4のポルトガル歴史の教科書と取っ組んだ。
こうして下準備して置き、娘が学校から帰ってから再び二人で机に向かう、という日々。
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モイケル娘よ、覚えておるかな?あの頃使った歴史の教科書は捨てられないで、今でもわたしは時々ひもときます。と言うのは、当時より少しはポルトガル語が理解できるようになったわたしは、この歴史の教科書がなかなかよくできているのに気がつき、参考にすることが多くなったのです。なにしろ、ポルトガル語が簡単だし。ほっほっほ。

テストの結果はと言うと、やはり上がりました。この辺りは4年生の娘の努力もさることながら母親のガッツに負うところが多いと自負する親 。

後年、ポルトガルの地方を旅行しながら、
「もいちゃん、ほら、ここ、教科書に出てたじゃない?」と連発のわたしでしたが、本人は、
「覚えてな~い」でした・・・
子供って忘れるの、早いなぁと思ったものであります。


ポルトガルの歴史にわたしが興味を持ち始めたのは、恐らくこの娘との歴史勉強がきっかけだったと今にして思います。それと、ダン・ブラウンの「ダヴィンチコード」を読んだのを機に、テンプル騎士団が、イスラム教徒からイベリア半島を奪回するレコンキスタの戦とポルトガル建国で大きな活躍をしていたのを調べたことから知ったからです。

騎士団総司令部として建てられたトマールにあるテンプル騎士団修道院(14世紀に壊滅させられるがポルトガルではエンリケ王子、後の航海王子をグランドマスターに頂き、教皇の許可でキリスト騎士団と改名して残った)には何度も足を運んでいますが、今年もまた出かけて参りますぞ。

では、本日はこれにて。
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2021年8月13日 

ボアビスタにあるセラルヴェス現代財団は、18ヘクタールの広大な公園を構え、敷地内には二つの現代美術館があります。
昨夜は夕食後、ライトアップした園内を1時間ほど夫と歩いてきましたので、昼夜対象の写真で案内したいと思います。

公園入り口を入るとすぐの小さな広場に、普段は巨大なオブジェが見られるのですが、昨日はライトアップがされていませんでした。
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色鮮やかな赤いシャベルのオブジェは、日用品をモチーフにする彫刻で知られるスェーデン生まれの世界のポップアーティスト、アメリカのクレス・オルデンバーグとその妻、コーシェ・ファン・ブルッゲンの共同作品です。

ライトアップされた現代美術館は、直線と空間を生かした透明感を放つ白一色の建物です。ポルトガルきっての建築家シザ・ヴィエイラが手掛けています。まるで影絵を目にしているようです。
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園内の並木道もこんな風にライトアップ。人も少なく幻想的な散歩です。
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下は敷地内の二つの美術館のもうひとつ、カーザ(Casa=家、屋敷)と呼ばれます。ポルト、サンベント駅の建築家として有名なマルケス・シルバが造った元伯爵低で、ポルトガル唯一のアールデコ調建物です。

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カーザと庭園の見事な調和美はベルサイユ宮殿をヒントにしたと言われます。
下は夜のカーザです。

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今回はカーザの前に、巨大な蜘蛛の彫刻がありました。シルエットが見えます。

「ママン(フランス語で母の意味)」と題するこの蜘蛛はルイーズ・ブルジョアの有名な作品で、大きさ9271 x 8915 x 10236 mm、素材はステンレス、 青銅、 大理石です。

「ママン」は、世界の数か所で設置されており、わたしが初めて目にしたのは、六本木ヒルズででした。お腹の中には大理石でできた卵が入っていて、なんとも奇妙な作品ですが、ポルトのセラルヴェス公園で、再びお目にかかろうとは夢にも思いませんでした。
「ママン」は、カーザの中央に座して、シルエットで周囲を圧倒しています。一度目にしたら決して忘れられない彫刻です。ここに設置するのは大仕事だったろうなと思います。

さて、カーザの横には芝生の庭園があるのですが、
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庭園の向こうから不思議な空が段々広まってきました。
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これも現代美術の一つなのでしょう。しばらく眺めていると、こんな風になりましたよ。
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そして、間もなく「Treetop Walking」に。地上数メートルに作られた木造散歩道です。

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大きな白いランプはまるで月のように見え、別世界を歩いているような不思議な感じです。

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ローズガーデンの棚道も、
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夜はこんな風に。
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白いライト模様が色々に変わり、迫ったり遠のいたりしま。このタイプにわたしは弱いもので、ちょっとふら~っとしてしまい酔った感じになりました。情けないことに、暗示にかかりやすい人間なんです。

夕食後の散歩にはとてもよかったと思いますが、難点が一つ。こんな自然の公園なのに、マスクが義務付けれていて、散策を終わる頃にはマスクで息苦しくなってましたっけ


彫刻「ママン」を見るなら、ライトアップされていないので日中の散策をお勧めします。

インフォーメーション:
Serralves em Luz(セラルヴェス公園:夜の光散策)
21:00~23:00
2021年10月17日まで
入園料:12.5ユーロ
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某月某日
 
週に二度ほど車を走らせてハイパーマーケットへ食糧買い出しに行く。その専用袋が3つ、時には4つになるのだが、フラット2階の我が家へ食糧を運び上げるのに階段を2往復する。歳のせいか、この買い出し荷物が年々重く感じられてきた。

毎日の食卓に欠かせない果物や野菜類、外猫たちの猫缶だ。それに、米や牛乳が加わるとほんと、ズシリと重いったらない。
それらをいったん車から降ろしてフラットの表玄関ドア内に入れ置き、せぇ~の!と内心の掛け声で2階まで運ぶ。

さて、とある日のこと、表玄関ドアを開けて買い出ししてきた食糧を運んでいると、フラット内で固定電話の呼び鈴が鳴り響いた。ありゃ、うちのだ。

今ではスマホの需要が広く広く広まり、固定電話の呼び鈴などめったに聞かなくなったが、うちは今でも固定電話をそのまま置いている。かけてくるのは決まった人か、わたしたちのスマホ番号を知らない人、もしくは間違い電話だ。

急いで家のドアを開けると、古いのにエラそうにデンと入り口ホールに構えている黒い固定電話が、応答まだかい!とでも言うかのように、鳴り響いている。

取る者も取りあえず、受話器をとる。
こちらがハイと応答するかしないうちに、いきなり、
「あんたはいったいどこのどういう人なの!」と中年女性の声(と思う)が言う。
「ほぇ?」「あ、あの、どこのどういう人って、そっちこそどこの誰だ?」

相手の剣幕に気おされて、思わずどもっっちゃったわたしに、
「何度もうちに電話かけてきて、こっちは分かってんだから!」
っとっとっとっと。なんじゃい電話には最初の礼儀と言うものがあるだろ。

外からかかった電話に応答すると、「Donde fala?」と見知らぬ輩が自らを名乗らずに、直訳すると「そちら、どなたはんでっか?」と時々くるポルトガルだ。

電話をかけてきた方がまず名乗るか、「○○さんのお宅ですか」と自分のかけた相手が違っていないかを確認するのが礼儀というものだろ。そういう時は、こちらもついムッとしてオウム返しにDonde fala?でやり返すことになるのだが、怒鳴り込み電話は初体験だ。

分かってるって何が分かってるのだ?聞き捨てならぬぞ。見知らぬ家にストーカー電話するような時間はこちとら、ないわぃ。あんたこそどこに電話かけてるのか分かってるのかぃ!と、こちらの電話番号を告げ、不機嫌にまくしたてたら相手は一瞬沈黙した。しばらく「間」。そしていきなりガシャンと切られた。

わたしに言われて電話番号を確認でもしたのだろう。間違いに気づき慌てて電話を切ったのだろうが、な、なんでぃ、失敬な!この○ソ暑い中(某月某日は暑かった)、重い買い物荷物を運び、何かの急用ででもあったら大変だと思い、慌てて電話口に出たと言うのに、なんだい!

しかしまぁ、くだんの女性、ストーカー電話でよほど頭に血が上っていたのだろう。後で考えてもみたら、先方も変チクリンなポルトガル語でまくし立てられ、ドヒャ、まちがえちゃったか!みたいな気持ちと驚きで慌てて電話を切ったのかもしれない。

そう想像したら可笑しくなって、買ってきた食材を冷蔵庫や冷凍庫に移しながら、「バッカだねぇ」と一人つぶやいていた。
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2021年8月10日 

今日もほとんど暑くならず。空気を入れかえるために、しばらく窓を開け放して置くと吹き込んでくる涼しい風が窓辺に置いた2メートルを超えるベンジャミンの葉をよく揺らしている。時に涼し過ぎてカーディガンをひっかけようかと思うくらいの日がある。

してみれば暦の上ではもう立秋かな?

と言うので、今日は秋に先駆けて。


「君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」
―君のためなら命さえ惜しくないと思ったが、今は君のためにこそ長生きしたいと思うー

藤原義孝(ふじわらのよしたか)が詠んだ歌です。、類稀な美男子で歌の才能にも恵まれた義孝は、疱瘡(ほうそう)で外見が醜い姿に変わり、わずか21歳で夭逝したと言われます。

これは百人一首50番歌になり、恋の歌であると同時に作者が夭折したことにより、解説には残された人の悲しみをも内包しているとあります。

さて、ここからが今日の本題です。この解説の中で義孝13才の時に作ったと伝えられる歌(和漢朗詠集)が紹介されています。

秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻の上風 萩の下露

下の句は「おぎのうわかぜ はぎのしたつゆ」と読みます。
荻の上風 萩の下露

この下の句に興味を持ち、ちょっと比べてみることにしました。荻と萩は漢字も読みも似ていて、うっかり者のわたしなどは最初同じように見えて冷や汗をかいたのですが、オギはイネ科ススキ属、ハギはマメ科で花をつける秋の七草の一つです。

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wikipediaより

二つの似た漢字、言葉を並べ、上風、下露と「上下」の対比、更に風は地上を吹き露は萩の葉から滴り落ちると言う、これもとても面白い対句になっています。古来より荻は「上葉を揺らす風」、萩は「葉に置く露」を詠まれてきたといわれます。

俳人の長谷川櫂氏は著書「記憶する言葉」の中で、「日本語の中には人々の長い年月にわたるいくつもの思い出がぎっしり詰まっている言葉があります。例えば桜と言う言葉には、王朝貴族の喜びや悲しみ、江戸庶民の浮かれ騒ぎ、それに戦争の忌まわしい記憶までも畳み込まれています。言葉は記憶するのです。俳句を読むのは、季語に内臓された思い出を蘇らせることです。」と書いています。

俳句ではありませんが、藤原義孝のこのような美しい歌に触れ、日本語の七五調の「記憶するリズム」が自分の中にも組み込まれているのだろうと感じたのでした。

俗物のわたしは「ハギ」と言う言葉を目にして、恥ずかしながらとっさに「萩に猪」の花札を思い浮かべたことを白状しまして。誠に無粋なヤツでございます。

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本日はこれにて。

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2021年8月9日 

息子と娘が千葉で同居し、まじめに日本社会で仕事に取り組んでいた頃、ある日、仕事から帰ってきたモイケル娘、スカイプで顔出し曰く、「知り合いのお母さんから誕生日のプレゼントにと佐賀牛(肉)が届いた」!!!

そのお母さん、モイケル兄妹が切り詰めて生活していることをきっと慮り、栄養満点の牛肉を届けてくれたのでしょう^^、その日の夕食は、兄妹で早速すき焼きと決め込んだようです。

この話を聞いたわたしは思わず「あっはっは!」と笑わずにおられませんでした。咄嗟に自分に起こった同じような出来事を思い出したのであります。

かつて、大阪で一人暮らしをしていたわたしは渡米資金を作るため昼のオフィスでの仕事が終わってから、梅田新道にある「アサヒビアハウス」で歌姫のバイトをしていたことは、折に触れてブログで書いていますが、その頃の話で、これは、ビアハウスエピソードの番外編にでもなるでしょうか。

愉快な常連客が多いその中には外国人客も結構おり、ヘタな歌姫であるにもかかわらず、彼らは応援してくれました。

キャセイパシフィック航空のクルー仲間たち。キャセイ便が大阪に入るときは、閉店9時半間際にど~っとグループでやってき、ビアハウスの閉店後はデキシーランドジャズの生演奏が聴ける、すぐ側の「シェイキーズ・パブ」へと一緒になだれ込んだものです。ここにはわたしたちのひいきの女性クラリネット奏者がいたのでした。

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当時のシェイキーズ。

インターナショナルスクールの先生をしていたウォルター氏。誰がつけたか、「Mr.Walter」から「Water」をもじり、アサヒでの通称は「清水さん」!わたしたちが「しみずさ~~ん」とマイクで呼び出すと、出てきて歌う十八番が「瀬戸の花嫁です。日本語で歌う「外国人清水さん」は毎回ホールの客に大うけでした。こんな写真が出てきました。ウオルターさんは決まって金曜日に来る人でした。

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日本女性と結婚し、当時わたしが住んでいた京阪沿線にベーカリーのお店を持つドイツ人菓子職人トムセンさん。わたしのおかっぱのヘアスタイルから「アサヒの、ミレーユ・マチュー(フランスのおかっぱ歌手)と呼び、照れくさくて照れくさくて入る穴を探し回ったものでした。

彼と一緒に歌ったのがドイツ語の曲で、わたしも好きな「Du Kanst Nicht Treu Sein」。邦題は「お前は浮気者」。 こんな陽気な歌なんです。


Youtubeより

そして、梅田の語学学校の経営者、オーストラリア人のご年配のブルーノ・マーチン氏。彼の持ち歌はお国の「ワルツィング・マチルダ」です。わたしのファンだと言っては、バッグなどの贈り物をよく携えてきたのですが、本職の歌手じゃあるまいし、その辺は分相応にわきまえることができましたので、わたしは物品を受け取らなかったでした。

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右手前がマーチンさん

すると、とあるわたしの誕生月の11月に、「もっと太りなさい」と届けてくれたのが「極上生ビーフ、神戸肉(爆)! 留学資金を必死で稼いでいた時期でしたから、わたしが家でゆっくり料理なぞする暇はなかったもので、それには、もらって困惑するわたしをよそに、周囲の常連仲間たちは大笑いしたのでした。因みに当時のわたしの体重は42キロ。今とは比べ物にならないほどスッキリしておりました。

わたし 「おっかさんも誕生日のプレゼントで肉をもらったことがあるぞ!」
モイケル 「へぇ~。わたしのは九州の肉だじょ^^おいしいんだじょ^^」
わたし  「おっかさんのは神戸肉だぞ!どうだ、参ったか!」

と、二人で他愛もない「もらった肉比べ」(爆) 誕生日のプレゼントに「肉」というのも珍しいと思うのだが、これが親子2代でとなると、なんだか可笑しいったらない。

コロナ禍で思うままに気晴らしもできないこの頃、こんな他愛もないことを思い出して、自分を元気づけています。

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2021年8月8日 

8月も上旬が終わろうかというのに、このところのポルトの最高気温はずっと21,2度だ。夏らしい暑さがないのである。

過ごしやすくていいのだが、このまま夏が終わってしまったら、9月のぶどうのビンディマ(vindima=ぶどうの収穫)はどうなるのだろうと気になる。

さてと、昨日の話にもどりまして。
かつての我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にしてみると随分愉快な職場だったと思い出されます。大阪支店は少人数だったこともあり、社員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。

パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡は、電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。

どちらが始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメッセージをわたしかボブが書き始め、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで文字だらけ。

ボブやわたしに他の社員たちのメッセージも加わり、それらを目にしては大笑いしたりして、小難しい洋書が積みあがった狭いオフィスはなかなかに明るい感じでした。

誰の目にでもつくその封筒を、ある日、我らが所長が手にしてしまい、「なんだ、こりゃ、お前たち!」と相成りお叱りを受ける羽目になった。以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;

お叱りを受けるまでは続けられたという大らかな会社の雰囲気があったと言うことです。たまに休暇で上京すると、本社オフィスに顔を出してみたりと、そういう親近感が本社支社にありました。

東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとは休暇を利用して同僚でヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともありました。

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ちょいと、我がオフィスをばここで紹介。

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10人くらいの小さな支店で社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし。

手前の女性Tとわたしは同い年でしたが、わたしの先輩。当時のわが社は、いち早く、社員のボーナス額に評価制を取り入れていました。本社支店合わせても、エヘン、Tとわたしは最高の事務職コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーしなければならなかったTの苦労やいかばかりかw

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鳥取砂丘で。20代、30代、40代でこれです。逆おしくらまんじゅうw 赤い人がわたしw 今ならさしづめセクハラとかでお咎めを受けるかしらw そんなことは思いもせず単純に童心に帰って。

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こんな雰囲気のオフィスで、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあって然るべき(笑)そのうち、ボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その後二人はニューヨークへ。

法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで目標額に到達してオフィスを退職しアメリカへ渡る。ずっと住むつもりが、何の因果でかポルトガルに住むことになりました。

Ofice

渡米前1977年オフィス時代最後。パソコンを使う今の仕事場と違い、雑としたオフィスですが、この数年前から、社は既に大型コンピューターを取り入れ、旧式の伝票をタイプで打ち込むのとコンピューター様式伝票を打ち込むのとで、仕事が倍になり、同僚のTと必死に頑張った時代でした。

こんなオフィス時代の話を我がモイケル娘によく話していたもので、彼女の日本へのあこがれは強まるばかりだったのでしょうね。
娘を日本へ送りたくなかった夫に時になじられました。「君が日本のいい思い出ばかり話してきたせいだよ」。

わたしが勤務した社は、今はもう知る人もいませんが、貸しビルだったのが本社は自社ビルになり、支店も場所を変えたものの、現在も学術情報を提供して健在です。ボブ・グロンディンと聞けば、あの頃のオフィス時代と彼の粋な日本名「炉端愚論人」が即、浮かんでくるのでした。

炉端で愚を論じる人はこれにて、一件落着。

本日もお付き合いいただきありがとうございます。


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2021年8月7日 

昨日のビアハウス話に少し関連して。      

アサヒビアハウスのバイト歌姫時代は、同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」と、ふといたずら心でその人の名を検索した某年某月某日のこと。

「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」と英語名で検索してみる。

ボブについては炉端焼きをかこつけて、かつてこんなことを書いています。以下

炉端焼きの居酒屋に、わたしは限りない愛着がある。そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京阪沿線宮之阪駅前の炉端ではわたしは常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌なのが、わたしにとっては難と言えば難だったのだが、炉端にジャズやらシャンソンを望むのは、中華料理店でフランス料理もどきを注文するようなものだろう。
泣き節の演歌はあまり好きではないが、それが炉端にぴったしなのには、どうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしはよく炉端に案内したものである。広島大学病院研究所に移る前の半年を大阪大学で学んでいた夫も時々わたしに引っ張られて行っていた。

わたしの勤務先は大阪支店だったが、東京本社には、ボブがいた。本社とは仕事上しょっちゅう電話連絡をとるのだが、初めて彼と話した時は、電話の相手がアメリカ人だったと聞かされるまで気づかなかった。それくらい、彼の日本語はクセがなく日本人に近い発音だったのにはひたすら感心したものだ。

その彼が週末を利用して大阪へ遊びに来た際、アサヒ・ビアハウスと炉端に案内した。日本語はコーネル大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いにあれやこれやと議論したのである。もちろん日本語で(笑

日本びいきの彼は、自分の名前、Roberto Grondineを日本名で「炉端 愚論人=ろばた・ぐろんじん」とつけて、印鑑まで作ってしまった。

ついでに言うと、その日はオフだったアサヒ・ビアハウスに彼を案内した時は、ホールで演奏のポルカに合わせ踊って跳ね回り、相手をさせられたわたしは引きずりまわされヘトヘト。見ていた常連達もボブのステップにはすっかり目を回したのだったw

当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあった。駅を出たすぐ横にある炉端焼きには、我が親友で今では木彫かとして活躍する「みちべぇ」とよく行った。

みちべぇは女性で、わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、当時、同じ駅のすぐ側にご両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、年の差も忘れて意気投合。以来40年以上のつきあいになる。

ポルトガルに来た当時はアサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、同時に今のように手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端への思慕は募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論をぶってみたい」と、そんなことを夢見た時代だった。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の場は、会社や上司の愚痴あり、そして人生の夢を語る場でもあった。お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場ではなんだかできたような気がするのだ。わたしは炉端のそういうところがが好きだったのだと思う。

炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるものではないようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、現代人たちは、どういう形で本音を言うのか、人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、言い合うのは日本的じゃないような気がする。
しらふで語ることも勿論大切ではあるが、人の人生って理屈だけでは語れない部分があるのじゃないか。すると、やはりちょっとお酒なんかあったら、語らいやすいなぁ、なんてわたしは思ったりするのである。
(引用終わり)


Robert Grondineを検索すると、日本語英語両方で出てきました。なんと、彼は東京にとある国際的な法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭を持ち、ワイドショーの討論にも出演して国際経済問題を語っていたとは!

在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにかけ、まぁ、あなた、随分活躍しているのね。

と思いきや、次の文字に軽いショックを受けました。弁護士. 2011年10月に逝去。

ポルトガルに来てからも、日本人の奥方の名前とともに、クリスマスカードがニューヨークから舞い込んでいたのですが、わたしは子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途絶えてしまったのでした。まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。

享年59歳。ネット上で見る恰幅のいい写真に、彼の若い頃の面影が見られます。炉端愚論人殿、少し早かったのが残念であります。

ボブとのおアホなエピソードがひとつありますので、次回はそれを上げてみます。


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2021年8月7日 

フェイスブックでつながっている大阪は梅田新道、旧アサヒビアハウスの知人から数日前に突然メッセージが入った。
「ソデさん、アサヒの常連で読売テレビのKさんてご存知?」 と聞く。

昭和一桁生まれの方だと言うから、わたしがアサヒビアハウスで歌姫バイトをしていた時は、40代前半だ。 写真でも見れば思い出すだろうが、名前にはちょっと記憶がない。亡くなられたので、近々、ビアハウスの常連仲間たちで、偲ぶ会をするのだそうだ。

FBの知人Ronさんはわたしより一回り以上も年下で、アサヒビアハウスでは直接行き交っていないのである。 わたしが歌っていたのは、まだカラオケもなかった時代だった。
  
旧アサヒビアハウスは、4つの時代に区分できると思う。

我が先輩歌手、宝木嬢一人の時代、宝木嬢と塩さんこと、当時の店長に誘われて、オフィスがはねた後、歌には素人だったわたしが加わった時代(今、振り返ればこの時代が黄金時代だったと思う)、店長が変わり、わたしもいなくなり、宝木嬢を中心に、音大卒の歌姫たちが数人入れ替わり立ち代わり歌っていた時代、そして、アサヒビアハウスが入っていた古いビルが改築され、名を「アサヒスーパードライ・梅田」と変えて新装開店した時代だ。

旧アサヒビアハウス時代は、個性のある常連が多々いて、6時半から9時半まで3回、各30分ずつのステージでわたしたちが歌うのは数曲、後は常連たちがそれぞれ毎回同じ持ち歌を披露しては、客席の拍手を浴びるのであった。

「アサヒスーパードライ・梅田」になってからは、経営陣も変わり、それが許可されなくなったと聞く。 わたしたちが歌っていた歌曲や古いオペレッタの挿入歌なども聞かれなくなったと言うから、昔からの多くの常連たちはさぞかしがっかりしたことであろう。
わたしも帰国したおり、かつての常連仲間が集まって歓迎してくれ、東京から一度梅田のアサヒスーパードライに足を運んだことがあるが、あまりの店装の雰囲気の変わりように、まさに、ぎょえ!

店内に大理石の柱があって、少し薄暗く、古いが重厚な木のテーブルやイスが醸し出していた、まるでパリの古いビストロのような大人の集い場所では、すっかりなくなっていた。

バイトで歌っていた当時のわたしは20歳後半で、ほとんどが40代から60代の常連たちだ。先輩歌姫の宝木嬢も、下戸のアコーディオンのヨシさんも既にステージを去り、仮にわたしが再訪するとしても、常連仲間のどのくらい残っているのだろうか。

わたしとは違った時代に旧アサヒビアハウスに通ったRonさんと、しばし、文字チャットで懐かしい思い出話に花を咲かせたのだった。

あんな店はもうあれへんやろな、あの雰囲気を文字でどうやって伝えたらいいか分からん、とRonさん。同様だ。が、一人胸に閉まっておくことができず、もどかしい思いで綴ったのが、エッセイ「あの頃、ビアハウス」だ。

言葉足らずの拙文ではあるが、読んでいると、写真を見ると、あの頃必死に生きていた若かった自分と歌を通して思い浮かんでくる常連仲間との楽しかったビアハウス時代が、鮮明に蘇ってくるようで、懐かしさに目が潤む。

「青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気にみちて日に新たな活動を続けるかぎり、青春は永遠にその人のものである」
―アメリカの詩人サミュエル・ウルマンの詩から

あぁ、かくして我、星霜40数年。昔の青春に今、光見て明日も生きんとす。

エッセイ「梅新アサヒビアハウス」は左欄下の「あの頃、ビアハウス」カテゴリで読めます。
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-category-54.html


また、アサヒビアハウス時代のスライドアルバムをミラーサイトで作ってみました。よろしかったら、どぞ。
「ポルトガルの空の下で」 https://blog.goo.ne.jp/spacesisporto
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2021年8月3日 

このところ、猫のゴロー君が寂しがって明け方に寝室に入れろと鳴くのである。眠りが浅いわたしはその鳴き声で目が覚める。

無理もない。ゴローが拾われて我が家に来た時は先輩猫が4匹もいたので、夜寝るときは、注文して作ってもらった特大籠の中で、日中は私たちの部屋のベランダに近い場所で、夜は台所でみな一緒に寝ていたものだ。

ネコ

それが、先輩猫たちは高齢で順番に彼岸に旅立ち、今はたった一人になってしまったものだから、寂しいのだろう。

5匹いた猫のうち、ゴンタ一匹だけがわたしたち同様、ベッドの掛布団の上で夜は寝ていた。猫ひいき、いや、えこひいきではないか(笑) しかし、寝てる間に、ニャンだとか、喉鳴らしのゴロゴロだとか、掛布団を頭でよけて必死にベッドの中に入ってこようとする他の猫と違い、ゴンタと言う猫はそんな悪癖を持っておらず、ひたすら静かに寝るのみで、気にはならなかったのである。

が、ゴローは喉鳴らしの音がしこたまうるさい。夜ともなるとその音が気になるようで、夫は「うるさ~い、眠れない」と言うので、可哀想だが寝室へのドアは閉めることになる。それで、今はリビングのわたしの椅子の上で寝ている。

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「つまんないな・・・」と言ってます

5匹もいたときは、三つある猫トイレはしょっちゅう片づけないといけないし、うっかり食事の時間を忘れでもしようものなら、いつの間にやら、5匹が仕事しているリビングに集まり、それぞれ、テーブルや家具の上に乗ったみなの視線を背後に感じたりして、ハッとなったものだ。その視線をも無視していると、こうなる。

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食事療法で食べ物が違う猫がいたり、早食いして仲間の猫のを横から取るのがいたりで、猫達の食べる場所も、台所、台所のベランダ、入り口ホールと3個所に分けるのでおおわらわだ。

就寝時だって、ストーブの前から離れないで全員が大籠の中で寝ている冬は、重いので夫と二人で大籠に寝ている猫ごと台所まで運び(わたしは大籠をひっくり返して全員を籠から出すが、夫は心地よく寝ているのに可哀想だからと言って、そうやって甘やかすのだ。笑)、冬以外は、あちこちに陣取って寝ている猫たちを全員台所に集めるのに、ベッドの下を見、家具の上を見して探し回らなければならず、時々頭にきたものだ。

が、それらをしなくてよくなった今、楽になったのになんだか気抜けしている自分だ。することがない、つまんない、と心中つぶやいていたりするって、どういうことだ?

してみれば、コロナ禍以来、とんと人とも会わなくなり夫がいない日中は、おしゃべり猫のごろーのゴロゴロニャゴニャゴニャンに、日本語で応答しているわたしだ、猫のゴローじゃないが、わたしも本心は寂しいんだろな、と他人事みたいに言ってみる。

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両手のひらにのっているわたしの時間は、後どのくらいの重さだろうか、などと書きながら、今日は粒あん作ってます。焦げる寸前でかろうじて火を止められました。あんこでも食べて、がんばろう。

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2021年8月1日 

我がモイケル娘は明日で13カ月になる青空ちゃんの子育てで、寝不足だぁ、休みたいぃとあごを多少出し始めていると言うのに、助っ人になるはずだったおっかさんは、長く続くコロナ禍で帰国が叶わず手助けもできない。ポルトにいて、「することねぇ。つまんねぇ。」と、近頃は落胆気味でござんす。

いえね、することがあるにはあるんです。日本語授業準備やら夕飯作りやら、家の中の片付けやらと、実はいくらでも。
ところが、よし!と気合が入らない。ここずっと珍しく日中20度ちょっとの気温のポルトで、何かをやり始めたらはかどるであろうはずなのに、ダレ~としてしまいます。

これもそれも、毎年の帰国を楽しみに働いてきたのが、このご時世でいつ帰国できるか見通しが暗いというのが、たたっていると思われ。 しかし、今日から8月、これはいかんぜと本棚の整理をし始めたのであります。

helderpacheco.jpg

一冊の本を手に取り、そうしてみたらこの本の著者がらみでこんなことがあったなぁと、我が日本語生徒さんであり友人でもあるマリアさんとの出来事を思い出していたのでした。


さすがにこれではいかんなぁと、子供たちが家を出たのを機会に、己のおぼつかないポルトガル語を恥じて言葉の勉強になると思い、ポルトの街の歴史に関する本を、四苦八苦しながらなんとか読み、デジカメ探検と称して読んだ場所を訪ね始めたころのことです。

毎年、サン・ジュアン祭がやって来ると、その祭りに使われる「野生にんにくの花つき茎」、何ゆえあれを使うのか、そのいわれを誰に聞いても分からなかったわけです。ネット検索しても、当時はサン・ジュアン祭そのものの歴史は出てくると言うのに、「alhos porros」(にんにくの茎)がピコピコハンマーに近年はとって変わったというのは出てくるというのに、肝心のにんにくのいわれがない。

いろんなことをよく知っている我が友マリアさんに、ある日、我が家での日本語レッスン後に話してみました。すると、「ポルトの伝統的なことなら、なんでも知っている人が一人いるわよ。電話帳持ってきて。」と、さっさ電話を調べ番号をメモ。そのまますぐ、彼女は我が家の電話のダイヤルを回しました。ところが、応答なし。

翌朝、彼女からの電話です。
「むこうさんに、日本人でどうしてもそのことを知りたいと調べてる人がいると話したら、直接説明してくれるみたいよ。2時に電話して!」と言う。

んもぉ、マリアさんたら、わたしのポルトガル語でどうせよと言うのよん、と内心困惑しながら、電話しようとしていた矢先に、再びマリアさんから電話。

「ねね!わたし、その人の本をたくさん持ってるんだけど、今調べてみたら書いてあった!」
お、おいおい、マリアさん・・・
話をもう一度よく聞いてみると、その方「Helder Pacheco(エルデール・パシェコ」」という著名人だそうで、マリアさん、自分も面識はなしなのだ・・・そんな人のとこに、ハチャメチャポルトガル語で電話突撃させるつもりなのか~~!

しかし、すでに2時に電話すると約束を取り付けてる。おまけに、もう質問の答えは分かりました、ご説明はけっこうでございますとの電話になるじゃん・・・ んんもう~、マリアさんたら(汗)

ヘタクソなポルトガル語で電突でした。 にも拘わらず、Pachecoさん、親切にきちんと応対してくださり、最後には、また何かあったらいつでも連絡していいよとまで言っていただき、少し感激したspacesisでありました。

よし!Pachecoさんの著書を買って、次回にはご自宅まで押しかけよう!と、その時は目論んだりしたのでありました(笑)

夜帰宅した夫に、
「Helder Pacheco」って知ってる?」と問うわたしに、「もちろん。ポルトについての本をたくさん書いてる。なんで?」と言う。
「きょ、今日、その人と電話で話した・・・」

いきさつを説明すると、聞くなり夫、「ププッ。」っと笑うのでありました ふん、いいのだ、好奇心と日本人魂の誠意でぶつかっていくのだ!(笑)

夫に話すまではかなりな著名人だということを知らずに、マリアさんにそそのかされて、やもえずとは言え電話突撃したのですから「盲、蛇におじず」。

この頃の意気込み、ちょっと思い出して気合いれないとなぁ。
オンライン日本語教室が来週には夏休みに入るので、充電しよう!
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