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2021年4月30日 

保健センターから連絡が来るだろと、自分は既に二回目のコロナワクチン接種を終えた夫が言う。連絡が来るだろというのは、わたしに、という意味だ。

80歳以上と医療関係者のワクチン接種を終えたポルトガルは、しばらく前から対象が80歳以下になって既に予防接種は始まっている。対象が80歳以下16歳までとは、対象範囲が随分広いんじゃないの?今回は5、6、70代、その次は40代から16歳までと限定付けた方が混乱が起こらないんじゃないか?との思いはするものの、お上が決めたことだ、従うっきゃない。

向こうから連絡が来るだろ、なんて、のんびり構えてていいんだろか。何事もせっつかない夫だ、それはそれでいいのだが、わたしは彼のこの性格ゆえに、一度ひどい目にあっているのだ。

今では、誰もがすることになっている年金掛け金だが、わたしが来た40年ほど前のポルトガルは、夫がそれを払っていさえすれば、妻は該当の年齢に達すると自動的に最低限の年金が支給されたものだ。

ところが数年たったある時、こういう情報には詳しくい知り合いから、「もうその制度は終了。50代でも63歳まで掛け金をしたら、いくらかでも年金がもらえるんだよ。だから、手続きしなさい」と何度か聞かされた。

夫にそれを伝えたのだが、その話はそのまま放置されたようで、ある日、夫の姉のいる前で再びその話に至った時に、彼女にそうなのだと言われて夫はようやく知ったのだが既に遅し。だから、何度も言ったやんか・・・そのせいで、わたしには年金がないのである。この歳で年金がないということは、うかつに離婚などできまへんわな。笑

こんな具合で、わたしは機会があれば、時々夫に一言嫌みを言ってやるのである。

話をもとに戻して。そんな経験があるので、アメリカに住む友人のRobが、「へい!こっちは夫婦ともワクチンを打ったよ」、またフランスに在住する辻仁成氏も「ワクチン接種しました」などと発信しているので、「アメリカやフランスでは、希望者がネットでワクチン接種の予約をするみたいだけど、ポルトガルはないの?黙って向こうから連絡が来るのを待ってたら、いつになるか分からない。いざ日本へ行けるとなった時に、ちょっと困るかもよ」と水を向けてみた。

数日後、夫が、ネットで予約できるみたいだから、してみようと言うではござらんか。既に義兄の分はしてあげたのだそうで、近くの保健センターのサイトにアクセスすると、もう満席。次はいつができるかとも提示されていない。そこで、「いつでもいい」と登録してきたのだ。

こういうことに関しては、うちの人、後手後手だな。当てにしてたらえらい目にあうかもしれん、と実感した具合である。
本当はワクチンの種類を指定したかったんだが、それはできないでしょと、夫。

正直言って、果たして本当に接種して問題ないのかという点にまだ疑問があり、あまり受けたくないコロナワクチンではある。ので、遅ければ遅いほどいいかもだ、などと思っていないこともなかった。

さて、昨夜床に就く前に、スマホの電源を切ろうとしたところ、ん?保健センターからメッセージが入っている。5月5日、Sim ou não(来るか否か)と来た。

急やんか!気持ちの準備がでけてへんで!たのむわ、もう。非情に低い率ではあるが、ワクチン接種後に死に至るという話もあるので、自分がその極々低い比率の中に入らないとは誰が言えようか。

5日やなんて、目の前やん!万が一の旅に出る準備もでけへん。遺書も書けへんで。この辺はもう諦めた。

せめて、何かの時にはお知らせしたい何人かの友人がいるし、日本語教室があるので、これは念のため、何とかしておかなければと思い、我がモイケル娘に、かくかくしかじか、後でメールで手配の順を送るぞ、と言ったら、「縁起でもない!」と怒られた。

どこか抜けてるところがあるくせして、こういうことまで意外と考えてしまいがちなわたしだが、普通みんな、そこまで考えないのかな? 「心配しすぎて寝不足になるな。体調を万全に整えとけ」とモイケル娘に言われ、分かっとるわいと心の中で言い返し、同時に親に意見をする歳になった娘がちょいとまぶしかった。子育てでしっかり自己成長している娘ではある。

ということで、ワクチン接種まであと5日、もんもんもん~のわたしである。
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2021年4月23日 

ある年のことだ。
出張日本語レッスンに出かけ帰宅した。車を止めて自宅があるフラットのメインドアを開けようとしている所へ、郵便やさんが近づいて来て、「Bom Dia(おはよう)」の挨拶でわたしに言うことには、

「セニョーラ、わたしはあなたをこの間見かけて知ってますよ。」 ど、どこでよ?@@
「ほら、ポルトマラソンで写真を撮っていたでしょう?」う、うげ!

「実はわたしもあの日フルマラソンで走っていて、死にていでゴールにたどり着く少し手前で、パチリパチリ写真を撮っているセニョーラを見かけました。」って・・・・わたしはグラサンかけて写真を撮っていたのに、よくもまぁ、顔を覚えていたこと、死にていではなかったのかぃ(笑)

「あの時、長崎のランナーたちが来てたけど、その関係なの?ジャーナリスト?」(爆)
ジャーナリストはあんなデジカメで写真を撮りませんてば!そして、オタオタと走りません、もっとテキパキ走ります^^;

「来年のポルトマラソンにはわたしも出ようと思ってるのよ。勿論走るのじゃなくて、ファミリーマラソンだけど。(確か5キロ徒歩)」、というような会話で別れたのですが、いやはや、ポルトの街でうっかりヤバイことはできないなぁ^^; どこでどんな目が見てるか分かりゃしない。

これは今に限って知ったことではない。
今でこそ街を歩いたり、ショッピングセンターへ買い物に行ったりすると、時々日本人と思われる人を見かけたりするのだが、わたしが来た40年ほど前は皆無で、自分では気づかなかったのだが、東洋人のわたしは大いに目立ったようだ。

どうしてそれを知ったかというと、「奥さん(わたしのことw)、どこどこを歩いていた」「奥さん、どこどこで見かけた」という話が、いつの間にか夫の耳に色々入っているのである。

夫の耳に入ってヤバイところへ行ったことは、あまりないので困ることはないが、どこかで常に自分が知らない夫の知り合いに見られていると思うと、ずっこけ性格のわたし、アホなことはしでかせないな、と用心したものだ^^;

実際ポルトの街に限らずポルトガルの国が狭いなと感じさせられたことはこれまでにも度々あった。夫と街を歩くと必ずと言っていいほど、数人の夫の知人に遭い、立ち止まってしばし会話することはしょっちゅうだ。これには話がなかなか切り上がらなかったりして、わたしはたいがい頭に来るのである。

まさかと思われるような場所、ポルトを遠く離れた小さな町を歩いていてさえも、夫はよく知人に出会う。一度などは、南部の小さな町で、我が家のペットたちが世話になっている獣医さんにバッタリ出くわしたのには、大いに驚かされ、ポルトガルの世間狭すぎ!と思わされた一件ではある。

そういえばわたしは日本でもこんなことがあった。
渡米したはずが、移住を辞めてアメリカから帰って来たわたしは、広島に住む男友達と、岡山で待ち合わせ、見知らぬ通りをあてもなく歩いていたのだが、とあるカフェの外装に興味惹かれて二人で入った。

カフェは、夜はディスコカフェに変わるのであろう。とても広く天井が高くて床は板張りである。面白いことに、店の片隅にはイギリスで見かけるような赤い電話ボックスがデンと突っ立っていた。
    
二人でコーヒーなどをすすっていると、ボーイさんがツツ~っとわたしたちの席に向かって来、
「恐れ入ります。お客様にお電話が入っております。」とわたしに言う。
    
「え?お客様にって、こんなとこでわたし知り合い、いませんよ。」
「はい、でも外国の方とご一緒の女性は、お客様しかいらっしゃいません。あちらの赤電話にお出になってください。」

えー!だって、こんなとこに来るなんて誰にも言ってないし、岡山は初めての町だし、いったいどうなってるの?と摩訶不思議な面持ちで出た赤電話の受話器の向こうから、
  
「お久しぶりでございます。ノンちゃんグループ(後述)のワダです。念願叶ってボスに岡山でコピーライターオフィスを開いてもらいました。
今日たった今、向かいのビルにのオフィスの窓から、偶然あなたがそこへお入りになるのを見かけたもので、懐かしくてお電話を差し上げた次第です。」
    
そうです、ノンちゃんの付き人をやっていたあのワダちゃんからの数年ぶりの、思いもしなかったコールでした。ワダちゃんたら、あの頃と同じく馬鹿丁寧な口調だ。懐かしさが胸いっぱいにこみ上げてきた。このような偶然はあるのだ。世の中広いようで、ホンマにせまいんやなぁ、とつくづく思わされた出来事であった。

付け加えるならば、その時一緒にカフェに入ってコーヒーをすすっていた「外国の方」とは、言わずもがな、後のわが夫になる人であった。

わたしたちは人生でこういう思いもよらないことに時に遭遇したりする。日本語教室で多忙になり、わたしのデジカメ一人探検隊はいつの間にか街から足が遠のき、コロナ禍の今、雑誌取材の撮影で街を歩くこともなくなった。

が、コロナ禍がある程度収束したら、第1に母国日本へ帰国し、そして、コロナ禍後のポルトを再びデジカメで撮影してみたいと思っている。行動しないことには遭遇もないのである。

小雨の午後のポルト、今日はこんなことを思って古い思い出話を引っ張り出してみた。

「ノンちゃんグループ」については下記「カンツォーネ:La pioggia(雨)」にて綴っています。
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1664.html
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2021年4月21日 

日本語の個人授業を週に3回してもらえませんか、と若いポルトガル人から連絡があった。週3回は無理です、と言うと、何とか2回、これでお願いできませんか、と言う。

自分で授業料を設定してきたのにちょっと笑っちゃったが(安かった。笑)、興味をもち、日本語を勉強したい動機はなにかと聞いたら、2年前に日本を旅行したのだが、完全に魅了されてしまった。自分は料理人なのだが、ヘルシーな和食に大いに興味がある。いずれ日本に行って和食を勉強したい。そのための日本語学習だと言う。

現在の日本語オンラインスケジュールには、我が愛しのGG`s(70歳以上の生徒たちへの愛称だ)4人と「マセラッティの君」がまだ加わっていない。仮に全員が戻ってきたら、このスケジュールにすくなくとも5レッスン増えるわけで、大丈夫だろか?と思いながら、若いポルトガルの料理人さんに押されて、先週から授業を始めている。

我ながら、あかんやないのか?と苦笑しているのだが、今回のコロナ禍が今年中に収束するとはわたしには思えないので、余計なことを考えてブツブツ言う暇がないくらい忙しいのがいいのかも知れないとも考える。

ポルトガルはこの月曜日から緊急事態緩和第3段階に入った。
・高校生及び大学生以上の対面授業開始(これで全ての公共教育は開始となる)
・全ての店舗とショッピングセンターの開店。
・レストラン、カフェ等オープン(ただし店内最大1テーブルに4人)平 日22:30、週末・休日は13時まで。
・映画館、劇場、講堂、観劇場。
・最大6人の屋外での運動。
・定員の25%までの結婚式と洗礼

等などだが、同じ国内でもコロナ感染率が高いため、この緩和例が適用されない所も数都市ある。
化粧品も切れ始め、季節が変わったと言うのに着るものも変わり映えしないのは、ショッピングセンターが閉店していたからだが、ハレルヤ!である。

昨日は人出の多い時間を避けて久しぶりにEl Corte Inglês(スペイン系のチェーンデパート)へいそいそと出かけてみた。自分の買い物ではなく怪獣ちゃんの買い物である。

「可愛いけど可愛くな~い」「一度ぶっ通しで寝てみたい~」とのたまっては、手助けなしで子育てを頑張っている我がモイケル娘だが、孫チンの青空ちゃんはいよいよ這い這いしだし、あと追いで少しでも側を離れると大泣きするらしい。
「怪獣だ怪獣」とモイケル、悲鳴をあげている。

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段々両手、指も使えるようになってきました。

あと10日ほどで満10カ月になるその怪獣ちゃんに、夏服を送ってあげようと買いにでかけたのである。すると、ひゃ~、先週行った時にはほとんど人を見かけなかったと言うのに、なんとまぁ、いるわいるわ。笑。

こういうわたしもその一人になるというのを忘れて感心してきたのである。ダメじゃないのね。笑 この状態では、この数日、また感染者数が増えるなと思い、帰宅するなり手の消毒、うがい、洗顔を丹念にしたのでありました。

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2021年4月16日

前回に引き続き、アンダルシアの「ロシオ巡礼祭り」の案内です。

下の写真は「バタ・ロシエラ」と呼ばれる女性のロシオ巡礼祭りの女性の衣装です。

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フラメンコの衣装と間違えられるが、旅し易いように、また乗馬もできるようにシンプルでフリルも少ない。また、髪に花を飾る。

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↓こちらは男性の服装。
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男性の服装は丈の短い上着とつば広帽子。なにやらマタドールを思わせる
カッコよさがあります^^馬もおしゃれをしています。
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ロシオ巡礼の旅の出発前。
ロシオ12

ロシオ巡礼では男性も女性も胸に「ビルヘン(多分、聖母?)・ロシオ」の
メダルをかけています。
 
ロシオ13 ロシオ14

巡礼一行の行進が始まります。
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行列の最後方では、次から次へと路上の牛糞馬糞を片付けていく市の職員さん。
このままではグラナダの街も匂いで品格をおとしますもんね

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素晴らしく美しい立派な牛です!ため息が出ました。
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             花びらと戯れる母子。

スペインのアンダルシア地方を訪れるのは、10代の頃からの憧れでした。
グラナダが産み、スペイン内戦が銃殺した詩人、ガルシア・ロルカに興味を持ったのがきっかけでした。音楽でも「哀愁のコルドバ」
「サンタ・マリアの祈り」を耳にすると、まだ見たこともないイスラム文化と融合した不思議な雰囲気のアンダルシアが浮かんでくるようでした。
・ガルシア・ロルカについては、こちらにて↓
「スペインの光と影:ロルカ」https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-917.html

本日は昔から好きな曲、James Lastの「サンタ・マリアの祈り(原題:Who are We)」をここに。
この曲を耳にするとなぜだかアンダルシア地方をイメージしてしまうのでした。



ではみなさま、また。


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2021年4月15日

2010年5月に、ポルトから車で2日かけて夫とグラナダに到着し、グラナダとコルドバを訪れたことがある。その際に、予期せずして出会ったロシオ巡礼祭り。後で調べてみたところ、世界的に有名な巡礼祭なのだそうだ。今日はそれを再掲したい。以下。


毎年復活祭の50日後に、聖堂から運び出される「聖母像」を崇めるために、セビリアから70キロほど離れた小さな村Almonteを目指して行くロシオ巡礼団の祭りだ。

アンダルシア地方の近県、セビリアやグラナダだけではなく、遠くマドリッドからも巡礼団は、民族衣装を身に着け、馬や幌馬車、キャンピングカーに乗って何日もかけてこの村に集まってくる。目的地はAlmonteから更に15キロほどの「ロシオ村」の聖堂である。

わたしたちはなにも知らないでたまたまグラナダを出発するこの巡礼団の行列を見る幸運を得たのでした。

ロシオ1
花で美しく飾った幌馬車の行列には思わず目を見張りました。

ロシオ2
このように馬車の行列が果てしもなく続いて出発を待機しています。
ロシオ3

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幌馬車やキャンピングカーで行くのは、この巡礼が同士、友愛団体の仲間同士で、歌い、踊り、祈りながらの数日から一週間も続く旅だからです。
ロシオ5

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ロシオ巡礼たちは町の「聖母像」を担いで一路、ロシオ村を目指します。写真はグラナダのロシオ聖母像と、巡礼行列のトップ。町の名士たちでしょうか。
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グラナダのロシオ巡礼祭りのいわれ 
        
イベリア半島のレコンキスタ(イスラム支配からイベリア国土を奪回するキリスト教による戦い)運動は、8世紀初め、現在のスペイン、アストーリアス地方にある「コバドンガ」の戦いから始まったと言われる。

イベリア半島の「聖母マリア信仰」は4世紀ごろに広く広まるのだが、その後イスラム支配が700年に及ぶ。特にスペイン南部のアンダルシア地方にはイスラム支配の首都が置かれ繁栄した。8世紀にイベリア半島北部から始まった「レコンキスタ運動」が完成するのは、グラナダ陥落の15世紀も終わりで、何世紀にも及ぶ両文明の長い戦いであった。

さて、このレコンキスタ運動の最中の13世紀、イスラム支配の中心アンダル地方の山中でのこと。

ある日、猟師が山に入ったところ、とある木の根元でマリア像を見つけます。それを拾って我が家に持って帰ろうとしたところ、どういうわけか突然強烈な疲労感に襲われ山中で寝入ってしまいます。目が覚めると、マリア像がないのに気づき、急いで先程の木の根元まで戻ってみると、マリア像は再び元の場所に戻っているではないか。

というわけで、1270年ころに、「奇跡のマリア像が発見されたところ」としてその場所であるRocioに礼拝堂が建てられ、以後、「Nossa Senhora do Rocio=ロシオの聖母マリア様」として広く知られるようになった。

聖地ロシオにはこの時期、100万人という信者が集うそうです。ロシオ聖母像に触れると一生を健康で暮らせるという言い伝えがあり、教会から運び出された聖母に触れようと多くの人が教会からこの日だけ運び出された聖母マリア像を取り囲み、手をさしのべます。

行列は町を練り歩き、日が暮れるとフラメンコや花火が始まる。参加者の殆どはロシオ聖母の信者で、祭りが終わると再び来た道を帰って行く。

さて、これはわたしの推察になります。
思うに、レコンキスタ運動最後の仕上げとしてイスラム教徒の主要地、コルドバとグラナダを陥落させるために、キリスト教徒の士気を高めるのを目的に、マリア像の伝説はひょっとすると軍略として作られたものではないか?

ま、野暮なことはやめて、素直にこのアンダルシアの春の宗教祭りを楽べきでしょうかね。

次回は行列のいでたちを写真で紹介したいと思います。
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2021年4月13日 

主婦の仕事って大変だな。土日なんか関係なく年がら年じゅうあり、時々、家事鬱になって御飯作りたくないと思っても、台所に立ってなにかはしなければいけないわけで。

これが日本だったら、そういう時はコンビニ弁当とかできあがりのお惣菜とかで、なんとか間に合わせられるのだが、ポルトガルではそうは行かない。

どうしてもと言う時には、夫の分はTake awayで済ませられるのだが、調子が悪い時のわたしの胃は脂っこいポルトガル料理を受け付けないと来る。結局、自分の食べる分はなんとかしなければならないのだ。これは風邪などで寝込んだときなどてき面である。
コロナ禍直前まで、グループ授業は借り教室で土曜日の3、4時間。収量が1時半くらいになるので昼食は迎えに着る夫とレストラン直行である。

3時間みっちり授業したあとの生ビールはうまいし、行きつけのレストランでの昼食は気晴らしにもなる。

それが、コロナ禍で自粛が要請され、レストランで食事するわけにはいかなくなった。三食の食事は家でとなったのである。昨年の3、4月は日本語教室も恐くて閉鎖していたので、昼食、晩御飯のために、せっせと台所に立ったが、このままでは教室開校の目途が立たなくなる、いっそのことオンライン授業を試してみようと、4月末にはグループクラスの3授業をオンライン開講とした。

そうして、教室を再開し、日本語新コースを1グループ増やしたので、土曜日の中級クラスを日曜日夕方に動かさざるを得なくなり、結果、休日がなくなってしまったというわけだ。

この月曜日からレストラン内での食事はできないが、外でのオープン席では4人までテーブルに座ることができるようになったが、人が押し寄せること間違いなし。危ないったらありゃしない。それで、わたしたちは今のままの状態ではレストランでの食事はしない。

しかし、授業が終わるや否や、すぐ台所で食事を作るのが時にすごくかったるくなることがある。かったるいを通り越して、なぜだかプンプンしている自分がいたりする。

一日中詰める仕事ではなく、まぁ、パートのようなものだが、パートしながら、ほれ2食事ほれ洗濯、ほれ掃除というのは、ちょっときつくない?と言いたいのがいえないもどかしさから、プンプンするのである。

男はいいわね、食事ができるまでソファ座って、TVでサッカー見たり新聞読んだりして、と憎まれ口のひとつも言いたいのを、実はこらえてる自分がいる。

いえね、夫も多少は手伝っているんです。テーブルのセッティングしたりと。笑 
が、台所に立つのは、食後の後片付けに1時間以上はかかるので結構な時間がかかるのである。これ、死ぬまでするんかぁ、と。

んで、「歳とったら、食事作りも退職したい!」と言ったら、夫、クックックと笑いをこらえて「歳とったら?」と聞き返してきた。「歳、とったらねぇ」と言われて、ハッと思った。

こんなこと、子供たちが一緒にいたときは、どんなにバタバタ忙しい思いをしても考えもしなかったことだ。夫に言われて気が付いた。自分、もう年取ってるで、73・・・・

なんか、ちょっとオカシかった
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2021年4月12日

日本に住むこと13年目に入る息子の話です。

息子が大学生だった当時のポルトガルは5年コースだったのですが、彼が最初に入学したのはポルト大学経済学部でした。せっかく入ったと言うのに、オレ、肌に合わないと、始まるなりボイコットした息子でしたが、翌年にはリスボン大学のコンピューター・サイエンスを取り、以来リスボンに10年近く住みました。

初年度でほぼ半数が留年すると言われるくらい、ポルトガルの大学の初年度は必死で取り組まないと進級できませんでした。

その初年度がうまく行き、「講師は英語本をそのまま講義してるだけだ。それなら家でその本を読んだら済む」と幼稚園から中学までポルトのブリティッシュスクールに通った息子、英語には問題がないもので、ここで高をくくったわけです。(おアホめが

世の中そんなうまい具合に運ぶわけはないのであります。本で独学ができないとは言わないけれども、それが簡単にできるのなら、大学はいらない。当時はできれば音楽の道に進みたかったようで、在学中の途中から、またぞろ、「音楽~」と言い出してきた息子に、母親は、ピシャリ!

「ああ、やってもいいわよ。ただしこのコースを終わってからにしておくんなさい。」

資格がないとポルトガルでの就職はどうにもならないのです。あっても、コネがないと難しいという社会です。親が資産家でもあるまいし、多少の援助ができたとしても、その親だっていつまでもいるわけでなし。やがて一人で食い扶持を稼がないとならない。

その息子もやっとITコースを修了し幾つかの会社の面接に出かけていたころのこと。

髪、ちゃんと切ってね、服装も少しは配慮してね、と口うるさい母親全開。自分からはせがまないので、夫は面接に際して身なりを少し整えるようにと少々送金したようです。
親の懐具合をおもんばかっていたのでしょうか、なにしろ服装には無頓着だった息子でしたからね。
スーツとまでは行かなくても、身だしなみはある程度きちんとして面接に臨んで欲しいと思い。

さて、いよいよ面接を翌日に控え、念を押したところ、息子曰く、
「うん、買った。見て、このズボン」
「ほぉほぉ、いくらしたの?」
「1ユーロ」
@@い、いちユーロ?
髪は、一時同居人であった友人に切ってもらったとかで、いがいが頭ではござらんか。
こ、こりゃ~なんともできませんわ(笑)

そう思っていた翌日の午後、息子、上がってきました、メッセンジャー・チャットに。
わたし達は、こうしてよく一言二言、家族チャットするのです。
「tadaima」といちおう日本語で(笑)

そのチャット中に、ソファの上で我が家の5匹猫のうちの二匹、ゴン太がクルルに喧嘩を売り出した。

「うぎゃぁ」と、弱虫クルルの助けを求める声。
それを聞いて思わずわたし、ゴン太!と言うつもりが、口をついて出たのは、「ジュアン君!」と息子の名前(爆)

あちゃ~、言ったすぐあとで、一人大笑いしてしまいましたっけ(笑)

息子とモイケル娘の兄妹がいた昔は、しょっちゅうこうだったのです^^;
モイケルをさんざんからかっては、最後に「ジュアン君!」と、わたしに大きな声をださせる(笑)

そのクセが、チャットでの息子の文字を目の前にして、「いい加減にしなさい」のネコたちへの感情が思わず「ジュアン君!」となったのでした。

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最年少のゴローもはや15才

もう、そんな大声をださなくなって何年になるでしょうか。 そして、当時、我が家にいたゴン太筆頭の、クルル、ぺト、チビ、ゴローの5匹猫もここ数年3匹が老衰で身まかり、ぺトとゴローだけになってしまいました。大声を出して叱る相手がいなくなり、サザエさんではないけれど、猫たちのいたずらや喧嘩で追いかけまわしていた日々が懐かしいこの頃です。 

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ねこパズル
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2021年4月5日

黒板五郎さん、いや、俳優の田中邦衛さんが亡くなられた。21年もの長きに渡ったテレビドラマシリーズ「北の国から」は、我がモイケル娘と何度もビデオで見た作品だが、彼が出演した映画、「学校」のイノさん役も深い印象に残っている。

もし、わたしに資格がありもっと若かったら、夜間学校で働いてみたいとその映画を見て思ったものだ。また、かつて「夜間中学の青春(後記案内)」と言う本を読んだことがあるが、わたし自身も青春期は経済的に苦労のようなものをしたので、その本に感動し、夜間学校というものに興味をもったことがある。

田中邦衛さんの、もどかしいくらいの遅口がまたいい。「学校」の山田洋二監督は田中邦衛さんを「善良が服を着てあるいているような人だった」と評している。それがそのままご本人の顔に出ているようではないか。

今日は「北の国から」の最終回「遺言」を取り上げた過去の拙文エッセイを再掲して、田中邦衛さんをしのびたい。以下。

「海の幸山の幸」

大正14年生まれだった母は9人兄弟であった。

その長兄は太平洋戦争で若くして死んだと聞くから、戦後生まれのわたしはそのおじを知らない。母を筆頭に吉崎家は8人兄弟となり、7人がわたしのおじおばになる。わたしと妹は、このうち二人を除いた5人のおじおばと一緒に、祖母が構える弘前下町の大所帯で幼い頃を共に暮らした。

母のすぐ下のおじは当時すでに結婚していて独立、そして、女姉妹で一番若い縫子おばが東京に出ていて結婚も間もなかったころであろう。

昭和も20年代の頃、日本の地方は貧しく母は食い扶持稼ぎに、なにかとその日の小さな仕事を見つけては家を空けることが多く、留守を守る祖母が母代わりでもあった。わたしはタマばあちゃんの初孫にあたるのだ。

その祖母は、秋になると山菜採りに山に入るのであった。弘前の町からバスで昔なら2時間も走ったのであろうか、岩木山の麓の嶽(だけ)へ温泉に浸かりがてら、キノコ、筍、ワラビなどの山菜を求めて入山する。

祖母が採る山菜は毎秋ごっそりとあり、それらは塩漬けにされ長期保存食料となり、時折食卓に載る。中でも断然おいしかったのは、細い竹の子を入れたワカメの味噌汁であった。

後年この祖母の慣わしを引き継いだのが母と母のすぐ下の弟だ。母もそのおじもその季節になると、山へ入って行った。そしてどっさり採った山菜をカゴや袋に入れては抱えて帰って来る。

だが、面白いことに二人が一緒に同じ場所へ行くことは決してない。それぞれ自分だけが知っている秘密の場所を持っているのだという。

これは釣り人が他には打ち明かさない「穴場」と同じである。おじは釣り人でもあったので、山菜採りがない週末などは、早朝に川へ車で乗り付ける。

やがておじは採った山菜を知り合いの工場に頼み込んで瓶詰め缶詰にするに至った。わたしが帰国する度に、弘前から缶詰の細長い竹の子やワラビなどが所沢の妹宅に届けられるのであった。

母は60を過ぎてからの晩年を所沢にある妹夫婦の家族と共に暮らしたのだが、そこでも近隣の林や森に入って山菜探しが始まり、いつの間にかしっかりと自分の秘密の場所を見出して、秋になるとキノコやワラビを採ってきては所沢のご近所に配るようになった。

毎年それを楽しみにするご近所も出てきたものだ。70半ばまで脚が元気なうちは、弘前の田舎へ帰り毎年のように山での母の山菜採りは続いていた。

母より若い山菜ライバルのおじが先に身まかった時、言ったものである。「とうとうわたしに秘密の場所を明かさないで、あの世へ持って行った。」と。そういう母も生前のおじに自分の持ち場を明かすことはなかったようだ。

母が亡くなった今、祖母からの、いや、恐らくはそれ以前のご先祖様の代からの山菜の見つ方、見分け方、そして秘密の場所の秘伝は母の代で途絶えてしまったことになる。

都会に出たわたしは、母やおじが採ってきては、味噌汁や煮物にした細長いしなやかな竹の子を一度も都会のスーパーでは見かけることがなかった。

母も叔父も隠し通し、あの世まで持っていってしまった二人の宝の秘密の場所はいったいどこだったのか、と考えると、なんだか可笑しさがこみ上げて来る。

そして、そんな可笑しさを胸に留めながら、わたしはいつも、倉本聡のドラマ「北の国から」最終回、「遺言」のワンシーンを思い浮かべる。

生きるのに不器用な主人公、黒板五郎が二人の子供に遺言をしたためる場面である。
「金など欲しいと思うな。自然に食わせてもらえ。」

海の幸山の幸を自ら捨て去り自然の恩恵を受けて生きることを葬って来たわたし達現代人には到底書けない、素朴でありながら、しかし、ずしんとを重みのある遺言だ。

今にして思えば、祖母も母もおじも海の幸山の幸を知る人たちであった。


「夜間中学の青春」
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1987.html

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2021年4月4日  

ポルトガルのコロナワクチン接種状況は、高齢者から始まり、医療関係者、そして現在は学校関係者の接種が始まっていますが、ワクチン不足で私たち70代に回ってくるのは、まだ先のようです。

二回目の接種を終えた医療関係者の夫は、接種後の異常はありませんでしたが、80代の夫の姉は2回目後に発熱が続き、目下様子を見ている状態です。

副作用が気になるのと、短期間でのワクチン開発に対する不安とで、できれば今回のワクチン接種はしたくないのが本心ですが、万が一、5、6月中に、帰国ができる!となった際に、「ワクチンを接種してる人に限る」の条件付きなんてことでもあったら困ります。

また、「感染した人とワクチンをした人が人口の8、90%を越えると集団免疫ができる」という話もあるので、やはりワクチン接種をしようと決心したところです。
今週はイースター期間なのですが、日曜日の今日、昨年のイースターに続き自粛が強制され、居住区域から移動することは禁止です。

こんな中、日本に住む孫チンの青空ちゃんが満9カ月になりました。身長71センチ、体重8.1キロだそうです。
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モイケルママの本を広げて読んでるふり(笑)これが読めるようになるにはあと20年近くかかりますねぇ。

こちらは自分のおもちゃをじっと眺め、研究です。笑
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シャツの裏に着いているタグをしきりにみ見ています。好奇心いっぱいです。
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お座りができることによって寝ていた頃にくらべ目の高さが変わり、視野も広がります。ヨチヨチと動き始めたら、モイケルママは大変だな^^
どうか親子ともコロナ禍にめげず、初見のその日まで順調に成長してねと願うのです。
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2021年4月1日 

定期的に日本大使館から日本語のニュースレターがあるが、わたしは時々、大使館のポルトガル語サイトも覗いてみたりする。昨日はその「時々」であった。

すると、ページトップに「Mensagem para o Sr.Watanuki(綿貫氏へのメッセージ)」のキャッチフレーズが目に入った。
ん?と思いクリックすると、「Vive o presente e terás paz(今を生きよ、さすれば平穏を手にする)の副題と共に、「綿貫氏、1月31日に逝去された」とある。

かなりのご高齢であっただろう、その報せに数年前のリスボン、コインブラでは開催されたのにポルト(マトズィーニュス)での展覧会が中止され、見られなかったことを思い出した。あの時、少々無理をしてでも、リスボンかコインブラまで出かければよかったと後悔したのであった。

以下、氏との出会いになったきっかけを綴ってある。

2017年11日15日 芸術家 綿貫宏介

真っ青な秋晴れの日曜日の午後、夫の兄も誘って、隣町のサンチアゴ館で開催されている日本人の芸術家展覧会へ行こうとなりました。ポルトガル語ではQuinta de Sãotiagoと呼ばれますが、何年も前から行って見たいと思いながら今日まで来てしまいました。展覧会が丁度いいきっかけになりました。

館の建築は19世紀後半にポルトガルに住んだヴェネツィア出身の建築家Nicola Bigaglia。ネオマヌエル、ネオゴチックを装った館は当初は裕福な一族の別荘でしたが、現在は隣町Matosuinhos(マトズィーニュス)の小さな博物館になっています。

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館の全容。


ところが、上階の部屋数室をぐるり回ってみたのですが、肝心の日本人芸術家、綿貫氏の作品がひとつも見当たりません。

おかしいなと夫と二人言いもって、階下へ降り、案内係に聞いてみました。すると、「実はその展覧会は中止になった」と言う。なんとまぁ、それならそうと玄関口に、それらしきことを書いて知らせるべきではなかろうか?

10月半ばから12月半ばまで催されると日本大使館からの案内にはあって、まさか、キャンセルなどと思いもしなかったもので、大使館サイトの再確認をしないで来たのです。やっぱ、ポルトガルやーー!と夫と義兄相手に愚痴ることしきり。

綿貫翁がこの夏、リスボン、コインブラ、マトズィーニュスと足を運んでおり、紙面でその姿を懐かしい思いで拝見していたのですが、どんな事情があったにしろ、ほんま、なんちゅうこっちゃの!

わたしが勝手に「翁」と呼びし綿貫氏、1926年生まれとありますから御歳91。1956年にリスボン大学に外交史研究のために留学したものの、ポルト、コインブラ、バルセロナなどで絵の個展を開き、リスボン国立近代美術館を始め欧州、アフリカの美術館にもその作品が収蔵されているそうです。日本では絵画のみにとらわれずデザイン、彫刻、篆刻などを展開し、独自の世界を作り上げた芸術家です。

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ポルトガルの新聞より、コインブラでの氏

その若い時期に、マトズィーニュにも住んだと言われ、今回、リスボン、コインブラでの個展に続き、ポルト近辺でもという運びになっていたようですが・・・

氏が覚えていらっしゃるかどうか、実は日本でわたしは3度ほど綿貫氏にお会いしているのです。この日、展覧会に同行した義兄はポルトの美大を出ており、義兄の今は亡き恩師が当時ポルトガルにいた綿貫氏と知り合いだったようです。
夫が日本に留学するにあたり、時間があればこの人を訪ねてみよ、と紹介されたとのこと。もう40年以上も昔のことではあります。

月に一、二度の週末のデートで、「今日、この人のお宅を訪ねるのだが一緒にいかないか」と誘われ、のこのこついて参ったのが、当時は神戸の御影(みかげ)にあったご自宅でした。お茶をいただきながら、綿貫氏と夫は初対面だというのにポルトガル語で弾んでおり、全く言葉が分からなかったわたしは手持ち無沙汰でありました。

やがて、氏がこう言いました。「晩御飯に君たちを誘ったんだけどね、彼、明日は広島へ帰るから、今日はずっと君と過ごしたいと言ってるよ。」・・・うは

夫と知りあったのはその年、1978年の6月も終わりで、彼が大阪外大で留学生として日本語コースを受講していた時です。その年の9月、知り合って2ヵ月後に夫は広島大学病院の研究生として移動しました。

わたしは、と言えば、歌姫バイトのお陰で目標の貯蓄額を達成し、長年の夢叶い、翌年の1月にはアメリカのアリゾナ大学でESL(Engilish as a Second Language)コース受講の段取りがついており、そのままアメリカに居残る計画でした。

その先どうなるか二人の将来は見えない状態で、彼は日本に、片やわたしはアメリカにと離れ離れになっていたのが、アリゾナ大学のコース終了後、一大決心をして半年後に日本に帰国し、大阪の親友のご両親宅に転がりこんでいたわたしでした。
それで、広島、大阪と離れて月に1、2度のデートだったのです。

話を戻します。氏と夫がポルトガル語でそんな会話をしていたなど知りもしなかったわけです。その後、2度ほどわたしが下宿していた親友のご両親宅へ氏から電話が入り、当時新しい作品集を出すにあたり、モデルが数人必要なのだがとお声がかかって、御影のご自宅に足を運んでいます。分不相応です、モデルの話は結局お断りしちゃいましたね。

綿貫氏はやがて有馬の無方庵なる工房を中心に活動、91歳になった現在もアトリエを起点に氏独得のデザインで活躍しておられます。


と書いたのが4年ほど前のことだ。
モデル依頼の話を断って以来、わたしが氏にコンタクトをとることはなかったので、そのまま縁は遠ざかった。その後、当時のポルトガル人の恋人と結婚してポルトに在住すること40年にもなるとは、氏は知るはずもなかっただろう。

大使館ともっと密に連絡を取り合うようにしておけば、あるいはお会いでき、過ぎし日の遠い昔を懐かしみ、いいお話ができたかも知れないが、わたしはこういう交流がダメなのであって。この手の機会をドンドン逃がすタイプだ。

享年95歳、「今を生きよ、さすれば平穏を手にする」。氏の経験からくる人生哲学であろう。

う~む、95歳、まだ20年ほどあるぞ。笑 
孫が20歳で息子60、モイケル娘55歳かぁ。

綿貫氏を思い出しながら、夕方帰宅した夫を捕まえて、「綿貫さん、亡くなったそうよ」と伝えたのであった。
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