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2020年11月30日
 
我が子たちが幼かったころはせっせと編んだセーターです。多分モイケル娘の6歳くらいまではなんとか続けられたのですが、以後、子供たちはどんどん成長し、編み終わるのが追っつかなくなり、止めて30年近く。

去る7月に孫娘の青空ちゃんが誕生し、しからば昔取ったきねづかとて、棒張りを持ってみました。青空ちゃんが6、7歳くらいまでは、目に問題がなければ年に数枚は作ってあげられるでありましょう。

そう思って、残り毛系とでとりかかったのですが、何と言っても30年近く前の残り毛糸です、プチプチ切れたりします。結局新しく毛糸を手に入れ編み始めました。

これも、サイズや毛糸の太さ、減らし目などの仕方も忘れ、なんだかまた初歩に戻った気分です。しかし、元が人に習ったわけでなく独学なのだから、まぁ、いいではないか、と日本語気オンライン教室の合間を縫ってはざっくざっく編んで数日前にそれができあがりました。 

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幼児は頭が大きいので左肩を開けボタンをつけました。大きめにできたので、青空ちゃんが着られるのは春先か来秋だな。裏をひっくり返せば、恥ずかしながら、手直しがあちこちに見られる30年ぶりの初作品であります。

下の写真はわたしの作品を着た遠い昔の子供たちですが、できれば息子が着ている残り毛糸を使って自由に模様を入れたセーターを再現してみたいと思っているのです。
amimono2.jpg

編み目が揃うには、まだ数枚編まなければいけないでしょうが、次はこれだ!と、車庫から無古い本を出してきて、張り切ってます。

amimonohon1.jpeg

これはレギンスも挑戦し、セーターは下の写真のようにアレンジ模様を入れて、我が妹や友人の子供のために何枚か編んだものですが、さて、果たして覚えているだろうか?

amimono1.jpg
お揃いのセーターを着た息子ジョンボーイと従兄のしんちゃん。

デザインは、車に乗っているピンクのゾウさんだったような・・・これが、車庫を探しても出てこないのでありま。

前の家は今のフラットと違い、庭に車庫があり、そこに普段使わないものを入れて置いたのですが、なにしろ、車庫のドアを全開していたもので、どうやらちょこちょこコソ泥が入って、夏用のシーツ、食器類、息子のゴーカート、挙句は生ハム一本とかワインボトル、ウイスキー類までなくなっていたのに、ある日気づいたわたしでありました。

たくさん編んだセーター、それに夫の姉がよく作ってくれたモイケル娘のスカート類も、そっくり出て参りません。やはり、コソ泥めに持ってかれたのでしょう。

それでも、どこかの子供が着てくれたのなら、それはそれでよしとしよう。

本日はこれにて。
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2020年11月27日  

聞くも涙、語るも涙 の昨日11月26日でありました。ちょっと大げさか。
ほんとにもう、この歳になって自己嫌悪に陥りそうだ。

11月に入り、日課の毎朝の散歩の時間が薄暗いのと、雨天が続いたのとで、このところ、おろそかになっていた。これではいけないと思い、曇り空の下、昨日は思い切って歩こうと1時半ごろ上着をひっかけ、念のため折りたたみ傘を手にして家を出た。

ドアを閉めた。とたん、ぎょえ!か、鍵を持ってないやん!あちゃ~、ここしばらくやってなかったのに、またぞろやってしまった(泣)ロックダウンじゃなくてロックアウトだよ、こりゃ。ケータイなし、お金なしだ。

夫のケータイ電話番号も頭に入っていないので、ケータイなしだと連絡もつかない。実は便利なようなケータイだが、こういう時に困るのである。

しかし、あまり慌てることもあるまい。武漢コロナであまり外出するなとのことだし、近所に住む合鍵を預けてある78歳の義兄、出かけていることはあるまい。仮に出かけていたとしても、多分食材買い出しくらいだろうから、せいぜい1時間も待てば帰宅するだろうと、とりあえず、散歩をすることにした。
一回りして40分ほど後に、義兄の家の呼び鈴を押した。表通りに面した窓はちゃんと開いているのは、在宅している証拠だ。が、応答なし。
通りを見まわしてみると、義兄の車、晩が見当たらない。買い物か。じゃ、もう一回りしようと、またも歩きはじめる。
先日、よったばかりの義母の墓についでに足を運んで、供えられていた枯れかかった花を片付けてきた。

一通り歩いて再び義兄の家の呼び鈴を押す。応答なし。前にも思い夫に言ったことだが、これじゃぁ、合鍵を預ける意味がないじゃん。これまでの経験上必要な時には絶対おらんのだもの。と言うことは、以前にも何回かロックアウトをしてるのでありまして。トホホホ。

義兄貴、この自粛の時期、いい歳して、どこをほっつき歩いてるねん!ほんまにもう、肝心な時に絶対おらんのだから!と心中毒づき、またもや、歩く。こうなると、散歩なんてものじゃない、歩く苦行である。

4時半くらいにもなると辺りは薄暗くなり、3時間も歩き回ってさすが足が痛くなり、フラットのドアの前に座る。毎日夕飯を運んでいる野良猫の一匹が、「お、今日は早めに飯にありつけるか?」とでも思ったか、すり寄ってきた。

そいつとしばらく遊びながら、合鍵はもうすっかり諦めていた。義兄貴、お待たせ~って帰って来たって、鍵、もう要るかい!と自分の迂闊なのを棚にあげてなじっている。笑

フラットの前でボケ~ッと突っ立っていると、お?夫の車だ。
「あれ、どうしたの?」と夫。
「かぎ・・・」と一言のわたし。
「またやったのか~!」「兄貴、今日はリハビリででかけてるよ」
「あ、そでございますか」

家に入れたのは夕方6時近く。5時からオンラインレッスンがあったはずができなかったので、すぐさま、生徒にこれこれしかじかでロックアウト、コンタクトできなくてごめんなさい、とメッセージを送った。

生徒からは、「分かります。ボクもしょっちゅうやらかすので、友人二人に合鍵を預けてます。」って。笑

外を4時間も歩き回ったので、体が冷え、意気消沈なのとで、晩御飯を作る気合がない。簡単に手抜き料理で今日は親子丼だと火にかけて、午後する予定だった土曜日の授業準備にとりかかった。

そうなると、没頭して他のことを忘れる性分なんであります。晩御飯、焦がしました。判断力が低下しとる。
天中殺かい!

今朝、息子相手にこの話をした。
わたし: もうポルトガルの鍵生活、イヤになった。日本に帰りたい。
息子: またやったの?どうにかできないかな。
     今後は、手首か足首に鍵つけるのはどう?
わたし: あほ~。犯罪者じゃん、それ。
息子: じゃ、手首にパパのケータイ番号の入れ墨だ
ですと。

夫は散歩に出るとき、ケータイを必ず持てと言うけれど、そういうのは嫌いなんだよね。散歩の時くらいケータイやpc類から解放されたいとぜいたく申してます。
打つ手をかんがえなきゃ。まだ全く気合が入らないspacesisであります。

こちらでも、おアホなことやっております。
粗忽は歳を重ねても治らぬのだ
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2020年11月24日 

鳥のことはまったく知らないのだが、散歩していると時々林の中からさえずりが聞こえたり、目の前を鳥が飛び去っていくのに出会ったりする。
それで、今日はこれまでわたしが出会った中で、孤高で美しいと思われる鳥のことを書い過去記事をあげたい。

子どもたちが二人、まだポルトガルにいた頃の夏。族旅行で行ったポルトガル南部のRibatejo地方、テージュ川も上流の、人家の少ない静寂な宿泊先に、「Estalagem Vale Manso」というのがあったのだが、そこの食事処から朝食時二日とも、山並みの見える天空を悠々と飛翔する一羽の鷲を見た。

数年前にも人里離れたアレンテージュ地方の山中で、人も見かけなくなり、この先更に、車で行くべきか引き返すべきかと、家族4人車中で話し合っているときに、車のフロントガラスを通して目の前をバサリと大きな鳥が飛んで行くのを見た。子供たちとあれは鷲だろうと話したのであった。

自然環境云々とわたしたちはよく口にするが、自然を取り壊し住宅地や町を作り、知らず知らずのうちにわたしたちは自分たちに都合良い、まがいものの自然を建造しているのである。町に住むわたしたちの周囲にある、いわゆる自然と呼ばれるものはこのまがいものであろうと、わたしはこういう鳥との出会いに触れる度に思う。

一度、取材のために夫と行ってきたポルトの隣町ガイア市奥にあるParque Biologico(自然公園)で期せずして三度目にハゲワシにお目にかかった。実際あんなに近くで見たのは初めてで、その羽の美しさに思わず目を奪われたものだ。

ハゲワシ1

数羽いた中に、デジカメを向けるわたしにエラく興味を持ったのか、その鋭い口ばしでカメラをつつくかと思われるほどに、「ぬぬっ」っとネット越しに近づいて来て、興味津々の表情を向ける一羽がいた。

見よ、その強大なくちばし、その爪足!

ハゲワシ2

元来が怖がり屋のわたし、「なぬ?」とでも言っていそうなユーモラスな鳥だが、間近にする嘴と鋭い目に思わずズズッとデジカメ持って後ずさりしてしまった。

標札には簡単に「Grifo=ハゲワシ」とあったが、家に帰り調べてみると、ハゲワシには数種類があり、これはどうやら「シロエリハゲワシ」と言うらしい。アフリカ、南ヨーロッパなどに生息し、翼を広げて飛翔する姿は2.6メートルにもなると言う。

ハゲワシ3
この写真はWikiから

翼を広げグライダーのように悠々と飛翔するハゲワシは、他の動物の死骸でも探しているのだろうか、「掃除屋」との別称を与えられながらもその飛翔する姿は美しいであろう。

が、自然公園のハゲワシは、わたしの写真から分かるように、鉄と網とで囲まれてままならない。自然公園とは言うものの、もとはと言えば人間が元来の自然を壊して創造したもので、まがいものの自然なのである。

このシロエリハゲワシ達はきっと天空高く飛翔できるのを夢見ていることだろう。自由に飛べないなんてつまらねぇ。暇つぶしにカメラを向けるおアホな人間の顔でも、どれみてやろうか、ってところだろうか。笑
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2020年11月22日 

犬も好きですが、猫好きです。かといって、ねこっ可愛がりはしません。猫とはべたべたせず、ともに生活しているという感じです。夫は、と言えば、わたしに引きずられての猫好き。

現在は18、16、14才の老猫3匹がいるのですが、3年ほど前までは5匹飼っていました。3年の間に一匹は老衰でなくし、もう一匹は最後まで介護をしました。

今日はなくして1年くらいになる白黒ハチワレ猫のクルルのことをあげます。

某月某日
「お~い、yukoさぁん」と、近所のジムで一汗かいて、シャワーを浴びるためにバスルームに入った夫が呼ぶ。

こういう時のお呼びはなんなのか、分かってますねん。笑 「ほれ、これ、見てご覧」とか、「これですよ、これ」とかの物証を示すときの夫のお呼びだ。

今ブログ書いてるんだってば・・・と思いながら、めんどうだが、そのめんどうそうなのを声色で気づかれないように、「はぁ~い。ヨッコラセのセ~」と腰を上げて一応行ってみる。

「なに?どうしたの?」と、さりげなく。笑

すると、我が家の5匹ネコの中でも一番情けないヤツ、白黒のはちわれ猫「クルル」が、「どうしょう?」とでも言いたそうに、バスルームをうろうろしているのが目に入った。「現行犯で捕まえた。やってたのはクルルだ」と夫が言う。

しばらく前から、ネコの誰かが、時々バスタブの丁度お湯が流れ出る箇所に、大の方をするのである。それも丸い水の流出口の丁度上に実にうまい具合に。

夫はバスルーム兼トイレのドアをきちんと閉めるのだが、わたしは、人が使用しているときを除いては、ドアを閉めっぱなしにしておくのが嫌いで、夫とは正反対に開けっ放しが好きだ。

こういう小さなところで、結構好き嫌いが反対の部分を持つわたしたち夫婦だが、あまり言い合いまでは行かない。なぜなら、夫が習慣でした後、わたしは知らん顔してわたしの習慣でやり直すから。笑

バスルームは二つあり、ひとつは玄関ホールに、もうひとつ、家族がしょっちゅう使う、ドアを開けっ放しにしておいても客の目に触れないところにある。

これまで猫たちがわたしたちのバスルームを使用なんてことはなかったのだが、なぜクルルが今になって、人間用のトイレを拝借するようになったのかと考えてみると思いあたるふしがある。

クルルはおどおどしているところがあるネコで、どうも他の猫たちからすればかいやすいようだ。ネコトイレは3箇所にあるのだが、恐らく、トイレ中に仲間の奇襲を受けたくないがため、「ゆっくりしたいから奥さんたちのトイレを拝借~」となったのではないかと推察。

ひどく叱るとパニックに陥るネコなので、少し注意して、当分の間はバスルームのドアを閉めることにした。

と、このブログでくるるネコのことをこうして書いてる矢先に、↓

gato

黒猫ぺトに追いかけられて、ダーッ!と我がパソコンの後ろに避難してきた!この臆病な目。5匹もいると、ネコ社会もそれなりにしんどいのだろうね。笑

わたしに注意されて、しぶしぶ引き下がった黒猫ぺトを見届けて後、ほっと安心してクリスマス・ツリーのツリートップを見上げるクルル猫だった。

くるる2

かつて、雑誌「ねこの気持ち」にこの写真でデビューしたことがあった。

kururu2.jpg

今日は他愛もない猫の思い出話でした。
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2020年11月21日
 
一週間やそこらなら、風邪をひいたとか体調を崩したとかで外へ出ずじまいの時もあるが、それ以上の閉じこもりを強いられたのが、3月の武漢ウイルス対策のロックダウンだ。

人は朝から晩まで一つ所にとどまることを強要されると、とたんにストレスを発症するようだ。わたしもその例に漏れないのだが、自粛期の半ばからは、思い切ってこれまでの対面授業だった日本語教室をオンラインに移すことでひたすらそれに没頭し、ストレスをある程度紛らわすことができたと思っている。

気もちのどこかに、このウイルスの被害者数は、毎年のインフルエンザによる被害者数よりずっと少なと言われるし、風邪みたいなものだと言う人の説を信じたかったりするが、そこが危険なのかもしれないと自制する。それで、なるべく国の忠告に従い極力自粛をして来たわたしはその点では優等生ではないかと思う。

昨年までずっと当たり前にできたことの全てが2020年は中止を強いられたのだ。イースター、サンジュアン祭り、日本帰国、息子のポルトガル帰国、あらゆるコンサートやイヴェント、学校教育、ハロウィン、誕生会、そして、恐らくクリスマス、新年の集いなども、そうなるだろう。

「毎年、同じことができるというのが本当の幸せ」と映画「日日之好日」の中で樹木希林さんが演じたお茶の先生の言葉が、今回ほど身に染みたことはなかった。

週末はレストランを始め店と言う店は全て13時で閉店なので、Take awayができず、午前中3時間の日本語2クラスの授業を終え、大急ぎで簡単な昼食を用意した。なに、ピザを焼き、サラダを作っただけの昼食である。笑
3時間通しのオンライン授業は、この歳には結構堪えるのであり、食事の後片付け後は、猫とともにベッドに2時間ほど横になる。

やがて、夕食の支度と外猫のエサ運びをするとて、台所に立つ。夏場は9時過ぎでも明るい外が、5時半ともなると、すでに宵闇が迫っている。

台所の大窓から空を眺めると、西の空にブルーモーメント現象が見られた。空気が澄んだ日の夜明け前と夕焼けの後のわずかな隙に訪れる、辺り一面が青い光に照らされてみえる現象のことだが、恐らく太古の昔から変わらぬ自然の静かなる現象であろうか。

sunset1.jpg

美はその呼び名を語られずして、人の心に染み込むものだと思われる。武漢ウイルスの不安の中にあっても、今日も一日、とりあえず平和に生きられたことに感謝する。
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2020年11月20日 

かれこれ一昔にはなろうか。
「先生、ぼくのケンドー、見に来ませんか?」と日本語生徒のD君に誘われたことがあった。

昔、大阪の堂島で会社勤めをしていた頃、みんなに「ブーヤン」と呼ばれていた同僚Sの剣道稽古を見に行った時の「ヤー!ットォー!」との掛け声の強烈な印象が残っている。
場所はBessaのサッカー場の隣、ボアヴィスタのパビリオン内だ。その日は特別の稽古日で、リスボンから日本人の師範が指導に来ていた。

kendou.jpg

稽古は面も胴もなし。二列に向かい合って並び、一技終わるごとにずらして対面する相手を変えて行く。稽古場の両側の壁は一面鏡になっている。

これは神道、ひいては武士道につながる「鏡は人間の心の表現であり、心が完全に穏やかで、一点の曇りもないとき、そこに神明の姿をみることができる」を期しているのだろうかと、新渡戸稲造著「武士道」を思い出した。

「ヤー!ットー!」の掛け声とともに、竹刀がバシンとぶつかる激しい稽古を期待していったのだが、それはなかった。みな、真剣に師範の動作を見、話に耳を傾け、動作はいたって静かだ。

静寂な稽古場に時折響く「ヤー!」の声は、時に自信たっぷり、時に自信なさげで、個人の気合の入れ方がそのまま出ていて、面白い。ポルトガル女性が二人と、日本女性が一人(時々稽古相手に指導していましたから恐らく師範の代理)がいた。

さて、ここから本題です。近頃ではさっぱり音沙汰がなくなったが、アメリカ、カリフォルニアに住み、中年になってから剣道を始めた友人がこんなことを言っていた。

「防具をつけてからと言うもの、死ぬ思いだ。こてー!と叫んで、しこたま手首を打ってくれる。痛いのなんのって、ほんとに頭にきて、竹刀を捨ててなぐりかかってやりたいぐらいなのだ。華麗どころか喧嘩ごしだ。」

「練習が長いと息が続かない(なんしろ中年だからね。笑)、足が動かない、汗びっしょりで頭痛が始まる。練習始めの早や打ち百篇でもう帰りたくなる。」

一緒に剣道を始めた長男が「お父さん、なんでそんなに苦しんでまで剣道へ行くの?」との問いに、アメリカ人の奥方いわく、「お父さんはね、仏教でいう苦行をしてるのよ!」(爆)

剣道を始めたきっかけはというと、ある日、多少出てきた腹を吸い込み、横文字新聞紙を丸めて子供たちと太刀さばきを競ったところが、おとっつぁん、気が入りすぎ、力任せ。それをまともに面にくらった息子が大声で泣き出し果し合い中止。

「いい年して、何ですか!」とまるで、小学生を叱る先生のごとき奥方の威圧と、こんなショウ-もない男となぜ結婚したのかとでも言いたげな彼女の呆れ顔だったのだそうな(笑)

わたしは手紙で彼の剣道の話を読むと、昔、我がモイケル娘と二人、ベッドに背もたれて取り合って読んだ「ちばてつや」の漫画、「おれは鉄兵」シリーズを思い出して、友の手紙がおかしくて仕様がなかったものだ。

teppei.jpg
Wikiより

「試合でさ、竹刀構えてしばらくシーンと向き合うだろ?それでよ、突然、デカイ声で、あっ!と言いもって、床に目を向けるのだ。すると、人って面白いぞ、釣られて相手も下をみる。そこを狙っておめーーん!」

おいおい、お前さん、それはだまし討ちじゃんか。することがまるで鉄兵そっくりだ、と言いながら、その光景を想像すると鉄平のハチャメチャな場面が思い出され、おかしいったらない。そ、くだんの彼も、鉄兵のようにチビなのではあった。

「剣道も人生も同じです。小さいとか歳だとか、言い訳はしないことです。数年前の少年部の日本チャンピョンは片腕の少年でした。」(片腕の少年チャンピョンの話は、わたしもどこかで読んだことがある)と自分より10歳以上も若い師範の話を聞き、以後、かれは奥方の毒舌、失笑にもめげずに遣り通すと決めたらしい。

ポルトガル時間で真夜中の3時ごろ、電話が鳴る。夫が枕もとの受話器を取り、英語で受け答える。「Mからだよ」
するとわたしは眠気まなこをこすりながら、起き上がって玄関口に備えてある親子電話に出る。
「おい、今そっち何時?」
「夜中の3時です~」
「うん。それでさ」←なんで、それでさ、なのか(笑)
そんなことが数年続いた。

企業家としてアメリカである程度成功したその後の彼の姿を、時折わたしはネットでグループ写真の中に見ることがある。今では剣道から拳法に移ったようだ。自分を棚に上げて言うのもなんだが、相変わらず小柄で髪も口ひげも白くなってる。しかし、贅肉が見られない。ここだけはわたしと大いに違う点だが、どことなしに飄とした感がしないでもない。

この具合だと真夜中の酔っ払い国際電話ももう入ることはあるまい。幸いだと思う反面、心のどこかで不意打ちの電話を待っている自分がいて、少し寂しい気がするのである。
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2020年11月19日

昨日のユースによると、ポルトの老舗ホテルDom HenriqueホテルやInfante Sagresホテルを始め、市内のホテルの70%がしばらく休業するとのこと。

先日、誕生日の夕食後、夫に頼んで帰路をダウンタウンへ迂回してもらったのですが、通常なら地元の人間や観光客でにぎわっているはずの時間帯なのに、人影も見当たらず。

ポルト
ポルト、ダウンタウンのサンベント駅周辺。

ポルトガルに於ける昨日の感染者数は5891人、死者79人です。
 
We shall overcomeと気合を入れたものの、武漢ウイルスで受けるこの大きなダメージは回復されるのだろうかと、暗澹たる気持ちになります。
今は、誰もどうにもできるものではないので、こんな思いを振り切らなくては、というので、今日はちょっと懐かしい写真を息子がくれたので、その息子の話。

Joaobando1.png
リスボンに住んでいたころのバンド、Full Propulsionのコンサート。ベースを弾いてる長髪の息子。

安定した生活ばかり言っていたら、人生の冒険などはできない。世の中の多くの人は、本当に自分がしたいことはこれだ、などと思いながら日々仕事をして現状に甘んじているわけではないと思う。そこから脱却しようと試みることができるのは限りない可能性を秘めている若いときこそだろう。

かつて、息子が音楽の道をと言い出した時に、夫はさほど反対するでもなかったのだが、わたしは真っ向から反対した。ポルトガルでは音楽で食っていくどころか食いつないでいくのもポルトガルじゃ無理だ。

大阪時代にずぶの素人であったわたしに歌姫のバイトが転がり込んできた時は、渡米の資金を作るために4、5年続けた経験がわたしにはある。バイトと割り切れる間は楽しいものだが、ミュージシャンたちの姿を少し垣間見ることができた。

一生の仕事とするには才能と厳しい競争を勝ち抜いていくだけのエネルギーがいるのだ。優しい心根では太刀打ちできないプロの世界である。

音楽をしたいのなら、とりあえず食っていける手段をまず整えよ。それでも音楽が諦めきれないなら、それからでもできる。本当にしたいことはいくつになっても始められるものだ、といい含めた。

リスボンの大学でITコースを修了し、それを活かした職業ではなく、息子は世界中で通用するという英語講師の資格を手にして、現在は東京にある数校の大学で講師をしているが、日本へ行った当時は、働きながらpcで作曲をよくしていた。本当にしたいことだったら、応援こそすれ今は何も言うつもりはない。

あれから、10年近くが経ち、息子の音楽への熱は?と少し気にはしていたが、なんのなんの、覚めたわけでは決してなかった。
アパートが完全にとスタジオ化している。笑

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防音装置も設置し、ギターとドラムが増えてるではないか(爆) 
息子曰く、武漢コロナ対策の給付金でデジタルドラムセットを買ったのだとか。こういう不景気時には音楽業界や楽器業界はもろに被害を被るからね、だと。笑

息子より二回りほど歳が上になる大阪のFB友人がいる。彼も音楽好きで自宅の一室を凝ったスタジオに仕上げているが、息子と彼の姿が重なって見える。

音楽は心の慰みになるから、よしとしよう。
一時期、さんざん聞かされた息子の音楽(トランスミュージック)だが、最近の新作は?と今度聞いてみようか。
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2020年11月18日 

こんなご時世だし、もうお誕生会はいいよ、と、夕べ誕生祝いに日本レストラン「一番」で食事しようという夫に、可愛げもなく言い放った老妻のわたしだが、結局予約を入れてしまっていたというので、しぶしぶ出かけた。

店内に入ると、店を取り仕切っている日本人のIchibanご夫妻から「あ、お誕生日、おめでとうございますぅ」と声をかけられ、なんか、照れくさかった。

いいよ、と言っていたのが、まぁ、いざ食べるとなると久しぶりの日本料理、メニューは揚げ出し豆腐、ナスの味噌田楽、それに盛り合わせと、もうお腹いっぱいになったのであった。生ビールをたった二杯飲んだだけなのに、帰宅すると眠いったらありはしない。すると、夜も10時近くに、すぐ側に住む夫の兄が、誕生祝いに来たいと電話だ。

近くだと言うのに、3月以降、この義兄にもずっと会っていなかったのである。80歳近い年齢なので、万が一うっかりコロナを感染させてはいけないという用心からなのだ。

週に一度やってくる掃除のおばさん以外、我が家にはまだ誰も入っていないのだが、久しぶりに義兄の顔を見て、玄関で、「久しぶり~」と、思わず・・・・ベイジーニュ(beijinho=頬と頬を合わせるポルトガル式挨拶)を、なんの疑いもなくしてしまったぞ・・・・・

してしまってから、ぎょえ!と思っても後の祭り。ビール二杯ですっかり気が緩んでしまってたんやん(汗)それに、義兄、マスクしとらんかった。わたしも自分の家ゆえ、当然マスクなし。この時節、ベイジーニュなんてとんでもない。3月以降、周囲ではほとんど見かけられなくなったポルトガル独特の昔からの習慣であります。

けど、すぐ洗面所に飛んで行って、顔を洗うっちゅうのは、なんぼなんでもあかんやん?んで、しばらくはリビングで夫も入れて3人で話していたのだが、見ると、夫はしっかりマスクしてる!あちゃぁ~。

だいたいが、掃除のおばさんが家の中で動いている間は、わたしも相手もちゃんとマスクをしているのだが、やっぱり、気が緩んでいたとしか思えない。

自分では気が付かないところで、ポルトガル人のいろんな習慣が身についているんだろうなぁ、と、つくづく思った。日本帰国中も、久しぶりに会う子供たちには、思わず習慣のベイジーニュが出てしまう。そして、親しい友人たちにもそうしそうになって、お~っとっと、と内心抑える自分がいる。

義兄がソファに座って夫と話してる間の隙を見て、すぅ~っと洗面所へ行き、遅まきながらごしごしと石鹸で顔をこすり、またすぅ~っとリビングに戻った、ダメなわたくし^^;

これから一週間ほど先に、もし、ブログ更新が1週間なかったならば、おアホなspacesis、武漢ウイルスに襲われたやなとお思い下され、と大げさな。その時は義兄も一緒やな^^;

移すか移されるか、えぇもういいわぃ、くよくよすまいぞ。We shall overcomeだ!
で、義兄からのプレゼントは、老舗Arcádiaのチョコレート詰め合わせ。

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好きなんだが・・・これ以上、太れってか~。
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2020年11月17日 

ずっと気になっていた。3月の武漢ウイルス禍以来、キャンセルしなければならなかった日本語生徒のひとり、マセラッティの君のことだ。

ポルトガルでは十指に入る企業の後継者であると同時にレーシングドライバーでもあるマセラッティの君ことR氏はカーレースで海外に行くことが多々ある。が、オフィスにいるときは、たいてい午前中の1時間、日本語レッスンをと、わたしに声がかかる。

以前にも書いたことがあるが、R氏は企業トップの方とは思えないほど、物静かで気取りがない。
時に、ジョークも混ぜながらの彼との日本語レッスンは楽しい。

「マセラッティの君」とは、日本語レッスンを始めた当時、カーレースではマセラッティに乗っていたので、勝手にわたしがそう呼んでいる。ご本人はそう呼ばれていることを知らない。笑

それが、6月ころにオンラインレッスンはできそうか、と連絡が入り、「できます。明日からでも始めましょうか?」と返信したところ、ずっと返事がないままで今日まできたのである。

大勢の従業員を抱えていて、日本語どころではあるまい、ふっとわたしのことを思い出してくれたのであろう。気になるとは言え、こちらは一介の日本語の先生だ、武漢ウイルス被害は大変であろうと推測しているが、「大丈夫ですか?」などと、おこがましくて聞くことができず、今日まで連絡を自制してきたのである。

いっそのこと、結構仲の良い秘書のV嬢にでもメールを書いてみようか、とも思ったのだが、それも頭から振り払った。
どうしているかな?第2波で更なるロックダウンでは、工場もさぞかし大変であろう、とここ数日、再び気になっていたのであった。

すると、今朝、ケータイにR氏からメッセージが!

Dear Yuko, Happy Birthday. I think today is your birthday and wish you a great day.

おおぉぉ、R氏、我が誕生日を覚えていてくれたてか~~!と感激しているわたしである。
というので、本日は73回目の我が誕生日、東京息子、モイケル娘からもメッセージが届き、孫の青空ちゃんからは、こんな写真が届いた。

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この子を腕に抱けるのはいつになるだろうか。が、そんな思いをえいや!と振り切って、ITインフラが整った自宅でテレワークに励んでいるマセラッティの君と、もしうまく行けば1月に会えようか、もしくはオンラインレッスンで。Keep Safe!とお互いにメッセを送りあったのだった。

ついでに彼には、上の青空ちゃんの写真も送付した。
「She is beautiful ! Just like her grandmother.」と返事が来た。マセラッティの君、お世辞もうまいなぁ。


・「日本語生徒と羽田空港で遭遇する」
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2020年11月16日

ロックダウン中なのと鬱陶しい天気なのとで、習慣にして来た朝の散歩を怠けていたのだが、今日は秋晴れカラり。秋の空模様などいつ変わるか知れたものじゃない、すわ!とカーディガンを腰に巻き、いつものコースを歩いてきました。

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数日歩かなかっただけなのに、通り道にはこんなにわくら葉が地面に広げられ、もう一風もあれば、多くの葉を落としてしまうであろう状態になっていました。
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落ち葉の季節には、出かけた先で地面の枯葉の美しいのを見つけては、拾い上げて持って帰る習慣があります。

拾い上げた落ち葉をどうするかと言うと、わたしの、一年に一度書くか書かないかの、今では日記とは名ばかりになってしまった、記録の始まりが1978年11月17日の古いノートの間に挟んで押し葉にするのです。

1押し葉
中には小さな押し花もありますが、写真の銀杏の葉は日本時代のものです。、ポルトガルに銀杏の木はほとんどありませんから。

下の紅葉は2005年にコペンハーゲンを訪れたときの散策中に拾ったものです。
落ち葉2
北欧の秋は本当にきれいでした。

コペンハーゲンのを除くと、これらの押し葉、押し花をどこで拾ったのかどんな思い出があったのか、40年近くも日記に挟まれいると言うことと、日本から持ってきたと言うこと以外は、記憶にありません。記録の主であるわたしが、時折、手に取ってみる押し葉は、色褪せながらもその乾いてしまった葉脈の中に、40年以上の時の流れをじっと堪えてきたのでしょう。

下のはごく最近拾った落ち葉で、ティッシュペーパーの間に挟み押し葉にしました。まだ、色が鮮やかです。

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何年ぶりかに日記を本棚から取り出して開いてみると、ひらりとページの間から落ちた一枚のアジサイの花びら、指で拾い上げたら、粉々に崩れてしまいました。
落ち葉3

あら、と言いようのない残念な気持ち。ふとその時、西条八十の「蝶」という詩を思い浮かべたのでした。

やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や友人に
私は何を持つて行こう。

たぶん私は懐から
蒼白め、破れた
蝶の死骸をとり出すだろう。
そうして渡しながら言うだらう。

一生を
子供のやうに、さみしく
これを追つてゐました、と。

これはわたしの最初のホームページ、2005年の「片言隻句」の中に書き取ってあった詩です。

父母や友人たちが待つ場所を「地獄」とうたったところが、とても斬新に感じられ、心に残った詩のひとつです。「蝶の死骸」は、ひょっとして「破れた」よりも「粉々」になって、彼の手のひらにのっていたのではないかと、詩を読んだ時、わたしは少しこだわったのでした。そのこだわりが今日の押し花とこの詩をつなげたのです。

ひとひらの押し花のなんて儚い。もしかしたら、40年の時を含んできた押し花は、ページから滑り落ちて粉々になるこの日を待っていたのだろうか?
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2020年11月15日 

ロックダウンで、今週と来週の土日は国内121市の商店全て、13時から翌朝まで閉店です。来週月曜日にすぐ買い出しに行けるとは限らないので、金曜日は昼から、ねこたちの食べ物を買いに久しぶりにショッピングセンター「Norte Shopping」のハイパーマーケットへと車を飛ばしました。

あまり人がいなかったので、ついでにちょっと階上の店舗を覗いてみました。ショッピング内を歩きながら、あれ?この辺にあった店はどこよ?つまり、気に入ってよく入っていたブティックは既に数軒、閉店していました。

こういうのを目の当たりにすると、国内の経済ダメージをひしひしと感じます。第一波武漢ウイルスでも、あちこちの市内の店舗、レストランが閉店しましたが、第二波は感染者数も死者数も多く、今からクリスマスにかけてが書き入れ時の商店は、生き残りが厳しくになりそうです。
例年ならショッピングセンター内はクリスマスデコレーションで華やかなのに、今日はそれさえ見ませんでした。
ポルト市は毎年、市庁舎前に大きなクリスマスツリーを設置するのですが、今年は中止と発表。また、恒例の年越し、新年にかけてリベイラを中心に、ドン・ルイス一世橋で開催される花火大会も中止です。これは人出を避けるためでしょう。

昨日14日のポルトガルの武漢ウイルス感染者は6600人を超えました。第一波時の最高数字が4月で700人近くです。この数字が10月に入るや、うなぎ上り。このままで行くと、コスタ首相が言っていたように24時間で1万人行くのも十分予想できます。
それなのに、ポルトガル政府は、中国、日本等海外からのツーリスト入国制限をしてないのです。

緊急事態宣言を出して、週末はどこもかしこも13時には閉店を強いていると言うのに、ツーリストもあったもんじゃないだろが、と、がらんとして人もいないリスボンの中心街で二人の中国人ツーリストにインタビューしているのを見ては、顔をしかめてるわたしです。
フランスなどでは、武漢ウイルス憎しで、アジア系の人たちが襲われる事件も多発していると言うのに、なんとのんびりな、分かっちゃいない人たちだろうか。

そんなことを感じながら、明日は我が身に降りかかるウイルスかもしらないと不安に襲われ、ついつい愚痴ってしまいました。
以下、過去記事を引っ張り出して、少し気を楽にしたいと思います。

モイケル娘がまだ独身時代だったころの話であります。以下、題して「まいこ様と我が家紋」

「まいこ様、お届けものです!」と宅急便配達人に「さま」付けでドア越しに呼ばれたモイケル娘だそうな。苗字に「さま」付けは分かるがファーストネームに「さま」を付けて呼ばれたらはわたしだってちょっと戸惑う(笑)

あ、言っちゃったよ、モイケル娘の日本名を・・・ま、いっか。本人も自分のブログエントリーで白状してるから(笑)

娘いわく、一瞬、ファーストネームに「さま」付けは新手のサービスの類かと思った。が、すぐに苗字の漢字が読めなかったのではないかと気づいたそうだ。「エリカさま」じゃあるまいしと、その話を聞いてぷっと吹いたわたしだが、さもありなん。我が姓の漢字はさほど複雑ではないのだが、その一つは漢字検定試験の準一級の出題範囲になる。

考えてみれば子供の頃から今に至るまで、同姓に出会ったことがない。昔、東京や大阪の電話帳で遊びがてら我が姓をひいてみたことがあるが、やはり見つけることがなかった。さほどに珍しい苗字なのかと思っても当時は由来も何も調べようがなく、今にしてみれば母の生存中にもう少し家系について聞いておくべきだったと後悔している。

家系を知ったからといって現在の生活がなんら変わるわけではないのだが、ひょっとして「やんごとなき際(きわ=身分←モイケル娘用です)」に辿りついたりなどしたら生活態度には多少の変化があるかも知れない、てなことが到底あるとは思えないが、そんな面白いことを空想しながら家紋を探ったことがある。

さて、ここからはわたしのメモとして記録したく、取り上げてみたいと思います。

きっかけは母の遺品の紋付であった。苗字が変わった妹は持つわけにも行かず、結婚した現在でもそのまま苗字を継いでいるわたしがいただくことになった。3年前に知人のギャラリーにて個人で日本文化展示会を開いたときに衣装ケースに仕舞いっ放しは形見も気の毒に、しかももったいないことだと思い切って展示したのがこれだ。

紋付1

以前、妹から本家の紋はこんなのだと名前を知らされていたのだが、いかんせん、そんなことに全く無関心で来たわたしだった。が、この時初めて着物に付けられた父方の美しい家紋を目にして俄かに興味をもったのだ。

家紋1_1

検索してみるとこれは「丸に揚羽蝶」というのだそうで、平家一門に愛用された紋として知られるとある。わたしは弘前出身としているが、父は岩手県雫石町出身で、わたしも一時本籍はそこにあった。雫石に平家一門の家紋とはと疑問に思い、ひょっとすると平家の落人伝説でもないかと更にさぐっていくと、出て来ました。「岩手県岩手郡雫石町平家落人伝説」 。

また、N○K大河ドラマ「平清盛」で崇徳上皇と後白河天皇の権力争いの保元の乱は放映されたが、源平ともに親子兄弟、叔父甥の一族が敵味方に分かれての血族の争い。負けた崇徳上皇についた清盛の叔父忠正の三男、通正の奥方は密かに逃れ生まれたのが平衝盛で、後に雫石に居を構え名を戸沢氏と称したと、これもやはり平家に関連する面白い説である。

家紋は後に結構自由に定めることができたとも言われる。我が父の実家は雫石町の更に在所の百姓だったような記憶があるので丸に揚羽蝶の家紋だからとて先祖が平家に関係する家系だとは夢思わないが、農家の人間としては随分と優雅な家紋を選んだものだと、なんだか可笑しみが湧いてくる。

家紋と珍しい我が苗字を辿ってみたら、平安時代初期の歴史にまで遡って歴史の勉強をすることになり中々に楽しかった。

と、ここまで書いて思い出したことに、父の実家には大きな裏山があり、その山は父とおじの所有であった。うだつのあがらない地方競馬の騎手だった父は若いうちに自分の持分だった山の一部を二束三文で売り払ってしまったと聞く。

田舎の百姓の家屋としては父の実家は大きく、わたしが成長してからも敷地で小判が見つかったという話も記憶しているから、もしかしたら田舎では少し名が通っていたのかも知れない。一時期父と住んだ6歳の頃以来60年以上雫石には足を踏み入れていない。

ネット検索の情報なのでどの程度の信用度があるかは疑問だが、我が苗字は全国で26~31人とのこと、これが家族単位なのか個人別なのかはっきりしないのは残念だが、個人単位だとしても日本全国たったの124人ほどが同姓だということになる。

ポルトガルではローマ字にするとうっかりロシア人もどきに間違えられたりすることもある我が苗字だ。娘は他家へ嫁いだので、できれば息子に継いでもらえたら嬉しいものだと、わたしもいつの間にかそんなことを思うような年代に入った。
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2020年11月13日 

希望は向学心の源泉である(by spacesis)
と、ちょっと気取って言ってみました。笑

今日は、整理していたら我が東京息子の大学卒業証書が出てきました。

1卒業証書
↑証書が入っている金属製の筒。リスボン大学のロゴマークがついている。

手元に届くのに2年がかり。さすが、何事もゆったりのポルトガルであると思ったのだが、証書のことを当時すっかり忘れていたわたしもかなりポルトガル化したものだと、変な感心をしたものです。笑

ポルトガルの大卒証明書は、発行に当時で100ユーロほど払わなければならず、即座にはもらえない。半年くらいかかり、生徒が受け取りに行くのが通常なようで、息子はどうやら受け取りに行くのを忘れていたらしく、2年も受け取り主を待って放ったらかされていた卒業証書だった。なんちゅうことを。

問い合わせをし、請求して郵送で受け取ったのだが、本人は既に日本に住んでいたので、代りにわたしたちが開けて見たのだった↓
卒業証書2

証書は全てラテン語で書かれており、当人の名前は当然のこと、その次に「誰々の息子」と、両親の名前も記されている!
うわ!これは嬉しい。この証明書は6年間も息子の経済的サポートをしてきた親の証明書でもあるがなと喜んでいるわたしである。

3卒業証書水色のリボンは理学部を表し、銀の印章は終了したコースのロゴでしょうか?

わたしは日本の大学卒業証明書を見たことがないので違いが分からないが、似たようなものだろうか?(とここまで書いて、モイケル娘の卒業証書をまだ見せてもらっていないことに気がついた、なんとものんびりな親ではあった^^;)

さて、世は「資格」の時代で、大学、専門学校などのように数年かけなければならないのから、短期間学んで意外と簡単に手に入れられるものまでたくさんある。

山ほどの種類で、どれにも共通する事がひとつある。それは、資格コースのための学資です。サポートしてもらえる経済力のある親を持っているなら、子は幸運です。

資格云々に限らず、お稽古事、趣味もそれ相応に資金はいるものだ。わたしは若い頃、親元を離れて大阪でアパート暮らしをしていたのだが、親元から通うのと違い、若い女一人が働いて生活するのは経済的に厳しいものだった。

当時田舎に住んでいた両親は自分たちの生活でキチキチなのを知っていたので、「今月は足らんから、ちょと金送れ~」とは、口が裂けても言えるわけはなかった。

若い美空なのに、化粧品も衣服もあまり買えなかったのだが、えさ代がかかる猫だけは野良を拾い上げてしっかり飼っていた。そして、東京で一人暮らしをしていた我がモイケル娘が遠い昔の自分と似たようなことをしていたのだと気が付き一人苦笑したものだった。

当時は東京息子の兄貴と同居していたとは言え、二人とも金銭面はきちんと分けて、薄給の彼女は3匹の猫のえさ代やらもあるので、なかなか苦労したようだった。

曰く、
「化粧品代に金かかるから、今はスッピンで出勤だぁ~」笑

ある時、わたしがポルトガルに帰りしな、一緒に成田空港まで見送ってくれたのだが、出掛けに靴に足を入れたら、足の甲に被さる所が裂けてしまった。
「あらら、モイケルよ。これは会社に履いていけんぞな。ひとつ買わんと」と言って来たのだが、その後メッセで話した折に、靴はもう買ったかと聞いたら、「後一ヶ月したらボーナスが入るから、その時に買う~」・・・

あれもしてみたい、これもしてみたいと夢見たものの、わたし自身、大学どころか稽古事のひとつも、経済的な理由でできなかった。英語学校も一時通ってみはしたがお金が続かず、結局途中で止めて、後はひたすらコツコツ独学の日々だった。

食費だけを入れ、残りの給料は自分の好きなようにできるという自宅通いの同僚を見ては、羨んだことががなかったと言えば嘘になるが、あの頃わたしには「一人自由」があったと思っている。自由が孤独と表裏一体であることもそのとき知った。

話が横道にそれたが、そのようなモイケル娘の状況から、本人が自費で稽古事などの余裕がないのは分かっていた。そこでおっかさん、助っ人したいと言ったものだが、彼女は独りで「お絵かきの練習」「ピアノの練習」。

独学ってところも、なんだかおっかさんのわたしと似てたなぁ。そう言えば、息子の音楽作曲も独学だった。

資格取得は大事な部分だが、本当に大切なのは、経験、素質、実力、そして、その道に対する大きな向学心ではないかな?と日本語講師以外の資格証書類をほとんど持たないわたしは思ったりする。もちろん、物事によりけりだが。

息子の卒業証書から話がこうなっちゃいました。
本日はこれにて。

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2020年11月12日 

中国のシノバック・バイオテックの武漢ウイルスワクチンについて、ブラジルの保健当局で治験を中断したとの発表があったのに対して、米ファイザーは11月9日、ドイツのビオンテックと共同開発している新型コロナウイルスワクチンの大規模治験で「90%を超える有効性が確認された」とする中間解析結果を発表しました。

実はこのファイザーワクチン、セ氏マイナス70度という超低温保管設備が必要なのだそうです。これは、保管問題だけでなく、輸送も大きなネックだそうで、まだまだワクチンは期待できないのが現状でしょう。

わたしなどは、シノバックワクチンを信頼していないと言ってはばからないブラジルのボルソナーロ大統領同様、こんな短期間でできるワクチンではあるまいと思っています。なにしろ、まだ姿がようとしてつかめないと言われている武漢ウイルスです、ワクチンができた、さぁ、接種せよ、と言われても、それもまた恐くてしばらくは試しませんね。

毎年、今頃案内が来る日本人新年会も中止との知らせが入りましたが、この感染騒動は来年度も続くのでしょうか、我が帰国は、オリンピックは、学校はと考えると計画が立たず気が重くなる故、そちらに気を向けないように努めています。

さて、キンタ・ダ・アヴェレーダの最終回で、本日は酒蔵とワインについて。

森の中を一通り歩いた後、案内されたのが、Aguarudente(アグアルデンテ=火酒)である「Adega Velha」の酒蔵です。

アグアルデンテとは、アルコール度数が非常に高い蒸留酒のこと。例えばウオッカ、テキーラ、ラム酒、などが呼び方こそ違いますが、同種類になります。言うなれば焼酎でしょうか。

下がアヴェレーダ社のアグアルデンテ、琥珀色の「Adega Velha」です。(Adega=酒蔵、Velha=古い)

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1975年に造られたものは300ユーロ(4万円前後)の高級品です。下は酒蔵の入り口。

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酒造内では樽の中でアグアルデントが寝かせられています。
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Aveledaの葡萄園のひとつを横に見て、レストハウスでワインの試飲です。
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ロゼと白ワインを注いでくれる案内人のアナさん。試飲したのはヴィーニュ・ヴェルデ白とロゼのCasal Garciaという銘柄。
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Aveledaで作られたチーズをつまみに。
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ガイドのアナさんとワインを試飲しながら色々話しているうちに、話題がAveleda社創立者のGuedeという姓に及び、前に当ブログで紹介したドナ・アントニアの造り上げたワインセラーFerreiraの現在の持ち主がSogrape社(マテウス・ロゼの会社)Guede一族だったので、質問してみると、実は親戚同士で数年前まで共同経営者だったとのこと。これもまた奇遇でした。

Ferreiraワインセラーはこちらで。

Aveleda社のワイン「Vinho Verde」の「Casal Garcia(Casal=夫婦)」の銘柄は長い歴史を持ち、世界各国に売り出され、現在では日本にも輸出されているそうです。

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Casal Garciaの珍しいVinho Verdeのロゼ(左)。この画像はWikiから

キンタ・ダ・アヴェレーダはこれにて一件落着です。本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。
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2020年11月11日 

昨深夜から11月23日までの2週間、ポルトガル政府は再び非常事態宣言を発出しました。特に感染リスクが高いと思われる121市には、移動制限が課されています。ポルトもその中に含まれます。

週日は23時から翌朝5時まで、週末は13時から翌朝5時まで、必要最低限のことでない限り外出は禁止です。これはやむを得ません。24時間内の感染者数が4000、5000、6000となっているこの頃で、東京と同じくらいの人口の国でこの数字は怖いです。それでも春のロックダウンに比べ、かなり緩んでいると思います。人々も、仕方ないよと、この数字に麻痺して驚かなくなってきているような気がします。

みんなマスクはしているので、やはり人の移動、集まりが感染者を増やすのでしょう。2020年という年は、武漢ウイルス、アメリカ大統領選のすったもんだと、忘れられない年になりますね。もっとも、孫娘が生まれたという素晴らしいこともあるのですが、果たして会えるのはいつの日か、今のところは計画も立ちません。が、気弱になってはおられません。

さて、昨日の続き、昨日 「アヴェレーダ」の森について,ポルトガルの歴史を少し。

はてな?と疑問を持ち始めると調べずにはおられない我が性分、今回もアヴェレーダの森を中心に話題はあちらこちらと飛びますが、関連することゆえ、ご辛抱の上、お付き合いくださいませ。

この「アヴェレーダ(Aveleda)」の名前ですが、わたしが調べたところによると、古代ローマ帝国時代にゲルマン地方で多部族から崇められていたケルト民族の巫女、Veleda(ヴェレーダ)に因むそうです。

塩野七生氏の「ローマ人の物語」を読んでいる方は知っているでしょうが、紀元前一世紀、ガイウス・ユリウス・キウィリスを首領としローマ帝国に叛乱をおこしたBatavian(=ライン川デルタ周辺に住んでいた古代ゲルマン民族)一族は、周辺のケルト民族とも結束しました。この時、預言者として、初期の勝利を予言し彼に影響を与えたのがヴェレーダです。ポルトガルにはこの巫女(達)が作ったという伝説のAveledaと言う小さな村まであるのが面白いところです。

16世紀に遡る歴史をもつキンタ・デ・アヴェレーダは庭園を別に、120ヘクタールの葡萄園を備えています。わたしが訪ねたのは庭園にあるといわれるマヌエル建築様式を見たいがためでした。マヌエル建築様式の窓は「Janelas Quinhentistas(ジャネラス(窓)・キニェンティスタス(1500年代=16世紀)とも呼ばれますが、こんもりとした森の中にポツンと置かれています。散歩の休憩所として使われたのではないかと推測しています。

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この小さな石造りの「窓」はエンリケ航海王子が生まれたCasa do Infanteと呼ばれる建物の一部だったと言われています。Infanteとはエンリケ航海王子のことで、Casa do Infanteは14世紀から17世紀にかけて建築されました。その間何度か改築されていますから、建物の一部がここに移動されたという話も理解できるというものです。
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案内の女性が我が夫を含む他の3人を連れて通り過ぎるのを横目に、これが目的だったわたしは「マヌエル様式の窓」の中に入ったりして内外部から写真を撮り。ふと窓の前方にある石のテーブルと椅子に目が行きました。ここは歴史的に曰くのある場所だと言うこと調査で判明。

ガイドさんは説明してくれなかったのですが、ここには「1901年10月にルイズ・フィリペ王子の教育責任者であり、海軍中佐であったMouzinho Albuquerque(モウズィーニュ・アルブケルケ)が王子とこの場所で昼食をとった」との表記札がありました。彼はアフリカ戦争における英雄と崇められました。1898年までモザンビーク総督で、19、20世紀のポルトガルで非常に尊敬された人物とされています。ここでの昼食の翌年1902年に中佐は自殺、或いは殺害と歴史の本にあります。

この時代はポルトガル王朝終焉でもあります。

Mouzinho Albuquerqueが教育を授けたルイズ・フィリペ王子は父王ドン・カルロス1世の王位後継者でしたが、1908年2月1日に父王、その他の王族達と生地アレンテージュ地方のVila Viçosa宮殿からリスボンへの帰途、馬車で市内のコメルシオ広場を通りかかった際に、反王制派の二人の共和党員に襲われます。ドン・カルロス国王は即死、フィリペ王子は重症を負い、20分後に死亡。

故に「即位していた時間が世界で最も短い王」とされます。ただし、正式な即位式に就かなかったのでこのあたりは断言できないところがあり、系図にはフィリペ王子の国王名は掲載なく、弟のドン・マヌエル2世が王位を継ぎ、ポルトガル王国最後の王となります。これについてはペナ城ですでに書いていますのでブログ後述にて案内。

フィリペ王子は享年20歳。芸術の造詣も深く若くして文武両道に秀でており、この前年にはポルトガル王族で初めてアフリカ植民地を訪問しています。

或いは既に命を絶つことを覚悟していたかもしれないモウズィーニュ・アルブケルケ中佐と王子が、アヴェレーダの森の石テーブルに着き、昼食を取りながら、或いは森を散策しながら、一体どんな話をしたのか、興味深いことではあります。

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森の中にあるファシャーダ(紋章つきの表門) 森にある礼拝堂の窓。
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森の中の小さな小屋。

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小さな池に浮かぶ面白い小屋。屋根に乗るわら人形が何を意味するのか、まだ不明。

「華麗なるペナ城、最後の住人」はこちら

本日はこれにて。アヴェレーダ、次回はワインケーブです。

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2020年11月10日

若い時分、4年間昼夜働き、留学資金をひねりだしてツーソンのアリゾナ大学に留学したのは、一生懸命努力すれば報われる国、アメリカだと思っていたからだ。

建前であろうが、それでも、アメリカは自由と正義の国だと思っていたので、今回の、後ろで巨大な竜が赤い舌をちろちろ出しながら、札束と脅しを使っての不正が横行した大統領選挙の不様なアメリカは、見たくなかった。

あのアメリカはどこへ行ってしまったのだ? 涙が出て来そうで、ブログを書く気力もなかったここ数日でありました。

本日は数年前に夫と行って来たQuinta de Aveledaの過去記事を再掲、秋へ誘いたい。

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「Quinta(キンタ)」を日本語に訳すのは難しい。この言葉はポルトガル、スペイン、南米で使われる言葉です。英語なら「Country Villa」「Firm」、日本語ではもともとの意味は「すぐそばにぶどう畑を併せ持つ農園」でしょうか。時にそれは森であったり、葡萄園であったり、庭園、別邸であったりします。

今回のQuinta de Aveledaは側に葡萄園があり、1870年代からGuede一族が受け継いできたQuinta です。ここで採れるぶどうで主に白のテーブルワイン、Vinho Verdeの銘柄「Aveleda(アヴェレーダ)」を生産します。

Quinta de Aveledaにわたしが到達したのは、ワイン関連ではなくて、「マヌエル建築様式」からだったのです。トマールにはテンプル、キリスト騎士団修道院で見られる巨大なマヌエル建築の大窓があり、リスボンその他の町でも、その建築様式の窓を旅行で見かけているのですが、北部ではあまり目にすることがないというのに気がつき、調べていたのでした。

これまでわたしが知っているマヌエル建築様式を持つ一軒は、ポルトの海岸通Fozにある、Casa de Relogio(時計の家)と呼ばれる無人の邸にマヌエル建築の窓があります。>http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1067.html

Quinta de Aveledaha、ポルトから車で40分ほどのPenafiel(ペナフィエール)の町にあります。石門をくぐると右側には売店があり、多くの近隣のの人たちがキンタの見学ではなく、ワインを買い求めに来ていました。
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ワインだけではなく、自家製のチーズ、コンポートも売られています。

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白ワイン、Aveleda。

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前庭の屋敷は秋のたたずまいをみせて。
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キンタ内見学は当時で一人5.50ユーロ、ガイド付き。森の中を散歩し、最後にワインの試飲とチーズが出されます。ここから森の中に入ります↓

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3時からのコースは私達夫婦も入れてたった4人の見学者でしたが、「次のコースは50人以上ある。あなた方はとてもラッキーよ」ガイドさん、嬉しいような大変なような様子で話してくれました。

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古い草木に囲まれて森に入っていきます。 

樹齢300年のユーカリの樹。
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石段もこけが生えている。             

森の中で出会った小さな可愛い小屋。
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これも森の中の家屋。  
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この家の前にある小さな池でちっちゃな青がえるをみ~つけ!
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こんな可愛らしい、やぎの棲家もありました。
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子やぎにカメラを向けていると親ヤギが心配してか、塔から下りてきました。ちょっと迫力あります^^;

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1時間ほど歩く森の中では、他にも可愛らしい小屋に出会いましたが、次に続きます。

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2020年11月3日 

日曜日はラメーゴ(Lamego)までお礼参りに出かける予定でしたが、居住区域から出ること相成らぬとのお上のお達しゆえ、中止でした。雨天でもあったし、良しとすべし。

お礼参りというのは、当時こんな事情があったのです。
モイケル娘出産予定日3週間前になって、臍帯の動脈血管が一本足りないと、それまで通っていたクリニックで言われ、急遽、中央病院へ移され、精密検査のため一週間入院した時には、本当に不安で眠れない夜が続きました。

自身は東京息子もモイケル娘も安産でしたので、それがどういうことか分からず、情報を得るためずっとネット検索し続けたものです。

モイケル娘も不安であったと思いますが、健気にも、「大丈夫。母体が不安だと赤ちゃんにも影響すると思うから、わたしは大丈夫だと信じる」といい、まるで、おっかさんと娘がひっくり返ってしまったような状態ではありました。

一週間悩んだ末、万が一のときには、自分は娘夫婦を手助けするために、完全帰国しよう、そして、これまで自分がしてきた日本帰国を今度は逆に年に1、2度ポルトガルに帰国しよう、と決心したら、よし、なんでも来い、と気持ちが楽になりました。(日記より)

その頃に、ラメーゴの「ノッサ・セニョーラ・ドス・ルメーディオの聖地」まで出かけ、願掛けをしてきました。わたしは、時に、この広い世界には人智を超えた力、意思のようなものがあるのではないかと思う人間です。

こうした状況の元で無事生まれた初孫の青空ちゃん、少し小さかったけれどグングン成長して、昨日誕生4カ月目を迎えました。もう6カ月用の洋服がぴちぴちだとのこと、嬉しいです。

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お願いするときだけして、お礼をせずにいるのはいけないのです。今回は武漢コロナ感染拡大のため、マリアさまにはもう少しお待ちいただくことにしました。

「わーい、今日も抱っこなしで寝てくれた」と、今日の我がモイケル娘。笑
しばらく前までは、抱っこなしでは寝てくれないとぼやいていたのが、このところ、布団で寝てくれるようになったようで、日々の成長がうかがえるというものです。

聞けば、子守唄に「見上げてごらん、夜の星を」を歌ってるのだとか、「剣の舞」とか「運命」とかでなくてよかった。笑
だって、先日、送ってきたビデオ、青空ちゃんを座らせて、「じゃじゃじゃじゃ~~ん、じゃじゃじゃじゃ~ん、じゃじゃじゃじゃじゃ・・・・」と目の前で口演奏して、青空ちゃんを笑わせてたんだもね。

母から娘へ、娘から孫へといい音楽が伝えられて行くのは嬉しいことだ。

今日は「見上げてごらん夜星を」にまつわるもう一つの話を過去ブログからあげておきたい。

「見上げてごらん夜の星を」

胸にじんと来て、何故か思わず目頭が熱くなり、歌っている途中から涙声になってしまう歌がわたしにはいくつかある。

日本の愛唱歌「ふるさと」、岸洋子さんが歌った「希望」、井沢八郎さんの「ああ、上野駅」、そして坂本九ちゃんの「見上げてごらん夜の星を」がそれだ。何度繰り返し聴いても、長い時を経た今でさえこれらの歌はふいに現われてはわたしをとらえてしばらく離さない。

見上げごらん
画像はWikiから

1963年昭和30年代も終わりにヒットしたからわたしが14、5の頃で、「急行日本海・夜汽車」に乗って(最後に案内)」と綴った、おじおばを頼って弘前から大阪へ家出をした頃と前後する。

九ちゃんのこの歌は、わたしの思春期と重なるのと、その後、御巣鷹山で九ちゃんが 飛行機事故死に遭ったのとで、切ないことこの上ない。

もう30年ほど前になろうか、週に一度の日本語補習校が発足して多分5年目くらいの時であったろう。1年生から6年生まで、15、6人の子供達を引き連れて、補習校として初めて修学旅行へ行ったときのことだ。

Aveiroにあるユースホステルに宿泊し、夕食後、わたしが持ち込んだ学校のキーボードで皆で合唱したり、ゲームをしたりのレクレーションタイムが終わり、そろそろ就寝時間だというので、後片付けをしていると、受け持ちの6年生の子供達がやって来て、「先生、何か歌って。」と言う。 

ピアノを習ったこともないわたしだが、弾きたいという夢はずっとあり我がモイケル娘が4歳の時には、3年に一度の帰国を一度諦めて、彼女に習ってもらおうと、思い切って電子ピアノを購入したのである。今でこそ手軽な値段で入手できると思うが、当時は円に換算して27万円はした。大奮発だった。

ピアノに触れたい夢は、わたしを楽譜読みがスラとできるようにした。運良いことに高校入学の一時期だけ、わたしを気に入ってくれた音楽教師が手ほどきしてくれた。生まれて初めて触れるピアノだ、わたしは紙にピアノの鍵盤を書き、暇をみては家でバスの中でとそれで指を動かす練習に励み、人影のない早朝に登校して音楽室でピアノの練習をさせてもらったものだ。

それはほんの一時期のことだった。家にピアノがないことには早朝の20分ほどではなんともしがたいのであった。長いときを経て手に入れたピアノで以後わたしはなんともハチャメチャな自己流弾き語りを一人悦に入って楽しんでいた。夕食の準備も忘れて弾き語りもどきをしていた母の姿を、母が歌っていた歌を子供たちは記憶しているらしい。

補習校の子供達は、当時のオンボロ我が家に、影絵の練習などと言っては時々出入りしていて、影絵のBGMにと適当に弾いていたわたしを見て、ピアノを弾くのだと、とんでもない勘違いをしていたのだろう。

歌の方は、年末の日本人忘年会で毎年一等賞をもらっていたから、これは周知の事実、歌って弾ける先生と子供たちに思われていたらしい。

「あら」と、急に言われても忘年会で自分が歌っている歌を弾くわけにはいかない。そこで、「皆さんは知らないでしょうけど、わたしの好きな歌を、じゃ、ひとつ歌いましょう。」と、歌いだす前に、それが、古い日本の同名のミュージカルの主題曲であること、貧しさのため高校に行けず、日中働きながら夜間学校へ行く定時制高校の青春を描いた物語であること、世の中には、勉強したくても経済上の理由で行けない人がいることだのの前口上をしたのだった。

左手はいつも一番簡単なアルペジオ式wである。そして歌ったのがこの「見上げてごらん夜の星を」。
歌い終わったら・・・みな、何故だか泣き顔になっているではないか。
一緒にその場にいた同僚のI氏が言う。
「あれれぇ、みんなどうしちゃったの~?」
      
「見上げてごらん夜の星を」は、わたしもいつも鼻にじ~んと来る。この歌は、老若男女関わらず、人々の心を打つような気がしてならない。1960年初期のヒット曲とあるから、日本が高度成長期に入ったとは言うものの、まだ貧しい人々がたくさんいた時代だ。

「きたない、きつい、きけん」の3Kの仕事も厭わず、日本人が仕事に懸命に取り組んで、未来に夢を描いていた時代ではなかったか。

今では定時制高校、また夜間大学もその数が少なくなったと聞く。働きながら夜の学校へ行かなくても済むような豊かな社会に日本はなったのだろう。だが、厳しい環境の中でかすかに光る希望を胸に秘め、学ぼうとする真摯な若者達がいた社会は、過去になったとしても決して捨てたものではなかったはずだ。

♪見上げてごらん 夜の星を 小さな星の 小さな光りが
  ささやかな幸せを うたってる

  見上げてごらん 夜の星を ぼくらのように 名もない星が
  ささやかな幸せを 祈ってる

  手をつなごう ぼくと 追いかけよう 夢を
  二人なら 苦しくなんかないさ


詩もメロディも、貧しさの中にいてなお煌き(きらめき)を放つたくさんの夜空の星に願う明日への希望がたった10行足らずの詩に余すことなくこめられていると思われる。

そして、これを歌ったにきび面の九ちゃん、お世辞にもハンサムだと言えないが彼の、本当に素敵な笑顔がオーバーラップする。九ちゃんはこの歌にある夜空の星になったのだろう。

「見上げてごらん夜の星を」は日本のエバー・グリーンの歌だとわたしは思っている。

下記、とても古い画像ですが、九ちゃんが一生懸命この歌を歌っているのが伝わってきます。多くの歌手がこれを歌っていますが、九ちゃんには敵わない。



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