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2020年9月28日 

日本語オンラインクラスが午前中に二つ入る土曜日を除いては、毎朝7時過ぎに起きて、歯を磨き洗顔してすぐに散歩に出ます。起きて、猫のトイレ砂の片付けやらなんやらとしていると、出勤時に重なり車の往来が激しくなって、排気ガスの匂いたるや、いただけません。

夏と違い、7時過ぎになってようやく明るみが周囲に広がるを見て出るのだが、こうして毎朝歩いていると、同じ顔の犬を連れた2、3人とすれ違うようになります。

その中に、小さめのむく犬ワンちゃんがいます。どういう訳かわたしを気に入ったようで、初めての出会いで、向こうからしっぽを振っては寄ってくるのです。

今朝などは、遠くだと言うのに私の姿を認めたらしく、しばらくじっと立ち止まっていたと思ったらリードでつながっている若い女性の飼い主をグングンひっぱってわたしの前に来ては、ゴロンと地べたに寝っ転がりお腹を見せるのでした。飼い主も笑っています。

我がフラットには犬も3匹いて、わたしが台所のベランダから顔を出すと、すぐやってきてはきちんとお座りするんですね。何か欲しくって(笑)

猫も好きですが、わたしは犬も好きです。今は飼っていませんが、これまでに数匹の猫と犬を同時に飼っていた時期がありました。犬や猫はわたしの生活の一部であり、我が子たちもわたしのDNAを引き継いでか、動物好きです。

これは、いまから30年ほども昔の、わたしが住んでいた通りでの話です。

あの頃のポルトは、町のいたるところで野良犬が見かけられました。当時はまだ犬を放し飼いにしてはいけない、という法律ができていなませんでした。ちょっと見だけでは、野良犬なのか飼い犬なのか見分けがつかないことも多かったのでした。犬はたいていは、子供の良き遊び相手でです。

今では、近所の子供達が外で遊んでいる姿もめっきり見かけなくなりましたが、当時の子供達は表通りで、サッカーをしたり祭りの焚き火をしたりして暗くなるまで大声を出して遊んでおり、野良犬たちも一緒にボールを追いかけたり、焚き火の周りをぐるぐる走り回っていたものです。

しかし、ご近所のみなさんが犬好きだと思うのは大きな勘違いです。

決まって、とある、犬嫌いのおばさんが、定期的に保健所へ電話をするのです。そうやって捕獲されて二度と帰らない犬は結構いました。

通りの住人がみな知り合いの時代でした。誰が言い出したのか、いつのまにかわたしの住む通りでは次のような不文律ができあがっていました。

保健所の犬捕獲車を見かけたら、すぐさま表通りに面したそれぞれの家の小さな鉄格子ドアを開けて、路上の野良犬たちをドアの内側に引き入れること。ドアの内側にはたいてい小さな庭があり、そこは私有地になるのです。

野良犬と言えども近隣の大人子供たちから、どの犬もめいめい勝手な名前をつけられて呼ばれ、えさを差し入れてもらっているのです。飼い犬ではないにしろ共有の路上に住む仲間です。

通りに放されていない限り、保健所の職員は犬を捕獲できないのですから、なかなかいいアイディアではありませんか。で、捕獲車が去ってしまった後に、再びドアを開けて通りへ出す、というわけです。

ある日のこと、やって来た捕獲車を目ざとく見つけた人から順繰りにドアを開けて、早々とそこら辺の犬たちを呼んで庭に招き入れました。

と、思いきや、一匹が入り遅れてウロウロしてるではありませんか!しまった!と皆思ったものの、時すでに遅し。

黄色い制服を着た犬獲りが二人、大きな網を張りながらジリジリとその犬を追い込んで行きます。窓から顔を出しながらこの情景をわたしたちは固唾を飲んで見ていました。

「おお、coitadinho!」(コイタディーニュ=可哀相に)ポルトガル語では哀れみを表すのに使われる言葉です

追い詰められてとうとう網にかかってしまった犬はまだ必死にもがいて抵抗しています。しかし、敵は慣れて見事なものです、あらよあらよという間に犬に網を絡めたまま、捕獲車の方へ運んで行き、檻に入れようと二人の犬獲りが網を空中に持ち上げた、その瞬間、奇跡は起こった!!

犬が暴れて網が破れでもしたのでしょうか、スルリと犬が地面に投げ出されるように抜け落ちたのです!

固唾を飲んで見ていた人々の口から思わず、「ワー! 」っと大きな歓声と拍手があがりました。わたしもその一人です。

九死に一生を得たその犬は、一目散にいずこかへと逃げ去ったのでした。

歓声があがった後ろをギロリ睨みながら、苦虫をつぶした顔をして二人の犬獲りは通りを後にしたのでした。

今はと言えば、野良犬への規制もすっかり厳しくなり、日中路上で見かけることはなくなってしまいました。しかし、あの頃のことを思い出すにつけ、環境がきれいになって住みよいのは確かにいいのだけれど、あまりにも整然としてしまうと、犬猫好きなわたしなどは、あの野良たちはどうやってエサを調達しているのだろうかと考えずにおられません。

人間の生活もそこそこに整い、少し抜けているところがあった方が、息苦しくなくて生きやすいんじゃないのかなぁなんて思ったりするわたしです。
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2020年9月25日 

いつごろから、人に向けた「許せない」あるいは「許さない」と言う言葉を頻繁に耳にしたり目にしたりするようになったのだろうか。

「仮借しない、容赦しない、許容できない、勘弁できない、弁明の余地なし」など、その他、たくさんの似たような言い方があるのだが、「許せない、許さない」は、わたしには「罪、罰、義務などから決して放してやらないぞ」というような非情な言葉に聞こえたりするのだ。

つい先ごろまでは「安倍政権を許さない!」とか「自衛隊を許さない」、共産党に至っては「日の丸、君が代を許さない」と反政権のフレーズにもよく見られた。

「許せない、許さない」の言葉が個人に向けられることも多いようだ。わたしの周囲にも使う人がいる。きっついなぁと思いながらその都度思い出す歌のセリフがある。

「あんた、あのこの何なのさ」。

若い人は知らないだろうけれど、1970年代初期にヒットした宇崎竜童ボーカルのダウンタウン・ブギウギ・バンドが歌った「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」に登場するセリフである。(下記にて歌を案内)

「許せない・許さない」はわたしが使いたくない言葉の一つだ。あんたに人を許す許さないの権限があるんか?と、つい突っ込みたくなるのである。相手をとがめてもう受け入れないと言う意味が含まれると思う。使っている本人は、「腹立つなぁ、ひょっとすると受け入れられへんど」くらいの意味であろうか・・・

世の中には腹の立つことをする人がごまんといる。その都度、許せない!となったら、心底疲れるだろう。また、言われた相手は「すんまへん」と出かかった言葉も飲み込んでしまうのではないか。

世の中の大概のことは許されて済むんじゃない?自分も何かで許されてきたと思うんだよね。それが人と人が生きられるということではないのかなとわたしは思ったりしている。

今日は随分前から気になっていた言葉について、書いてみたが、以前にも、気になる言葉を取り上げたことがあったのを思い出した。

拙ブログで取り上げたのは14、5年も前になろうが、「ポル語・ポル人」という言葉だ。
それをあげてみたい。

「ポル語、やめませんか?」

「ポル語」と言う言葉を初めて耳にした時、「なんですか、それ?」と思わず問うた。ポルトガル語を意味するのでした。

「ポル語」と聞いたときに受けた印象は、なぜだか知らないが「なんとなくイヤだな」でした。

日本語の中に省略語(略語)が頻繁に使われ出して久しい。「スーファミ、コンビ二、パソコン、
ゲーセン」等等、今では略語はとどまるところを知りません。

日本語をポルトガルの生徒さんに教える時は、これらの略語を「コンヴィニエンス・ストアです、パーソナルコンピューターです」と正式名を伝えて併せて教えます。

こういう言葉の流れからすると、「ポルトガル語」が「ポル語」となるのが分からないわけではないのですが・・・
「ポル語」と言う言葉を初めて聞いたときに、その人には失礼かとも思いましたが、思い切って言いました。「ポル語と言わずに、きちんとポルトガル語と言いませんか?」

pcを少し操ることができるようになったわたしは、時々ネットサーフィン(あちこちのサイトを見て回ること)をすることがあります。それで気づいたのですが、あらま、当時は「ポル語」がよく目に入ってきたものでした。しかも、いつの間にか新語「ポル人」が加わっていたのです。
気になったもので、googleで試しに検索してみました。「ポル語」34900ヒット、「ポル人」はまだ少なく3000近くヒット。

夫にポル人と聞いてどう思うか、ちょっとこの話を向けてみましたら、

「ポルトガル人のほとんどは日本語を知らないから、言われても書かれても気づかないね。
でも、それだと、ぼくらポル人は(うは!あなたw)君ら日本人をJAPと呼べるし書けるよ。」
ご存知でしょうが、JAPは日本人に対する英語の蔑視語です。

ポルトガル人がポル人なら、スペイン人はスペ人よ。アメリカ人はアメ人、フランス人はフラ人。
イギ人、メキ人、イタ人、パキ人(これはすでに差別用語です)、オー人、アイ人、カナ人。

英語だって略語じゃなぁい? フランス語だって仏語と書くし、ドイツ語は独語、ロシア語は露語。 これらは漢字で表したそれぞれの国名、英吉利(イギリス)、仏蘭西(フランス)、露西亜(ロシア)からの略語になります。

すると、ポルトガルは葡萄牙と書きますから「葡語・ポ語」になります。

数人の日本人の知人にも「ポル語ポル人」と聞いてどう感じるかを質問してみました。ほとんどはこちらに住んでおり、連れ合いがポルトガ人の人です。

第一声が「え?何、それ?」です。
中にひとり、すでにこれを聞いたことがある、と言い、「好きではありません、その言葉」でした。

それで、なぜ好きではないと思うのか、少し話し合ってみました。出たわたしたちの「答えのようなもの」が、「どことなくその言葉に見下しているような匂いを感じる」でした。

中には、ポルトガルをよく知らないからではないか、という意見もありましたが、知らないなら尚更、気配りすべきではないのかな?なんて、わたしは思ってしまいます。

つかっている人たちにはそういう気持ちはないかもしれません。それが今風だ、オバサン古いんだよ、センスの違いだ、考えすぎだ、言論は自由だ、と言われれば、それまでですが、わたしも含め、何人もがこんな風に感じるのは、連れ合いがポルトガル人だからでしょうか。

その国を批判的な目で見ている間は、その国の真の長所は見えて来ない。

わたしも時々、ポルトガルのことを取り上げて面白おかしく記事として書くことはありますので、何を偉そうにと思われる方もあるかもしれませんが、「ポル語ポル人」という言葉が、喉にひっかかった魚の小骨のようにずっと気になり、考えた末、個人の提案として、「ポル語、ポル人、やめませんか?」と思い切って綴ってみました。


おばはん、そんな細かいこと言いなや。許せへんど、なんて言わないでね。

ところで、これを書いたのは2006年のことで、今回を機にその後、「ポル語ポル人」はどうなっているのかとネット検索してみましたよ。なんと、ほぼヒットなし。なるほど、いいことやないの。

で、「許せない・許さない」へのわたしの認識が間違っていましたら、それこそ、ご勘弁、許してね。  

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
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2020年9月23日 

3月に武漢ウイルスで日本語教室を閉鎖してから半年以上になる。グループ授業とどうしても日本語を始めたいという個人にはオンラインでしているが、わたしが「我がGG`s」と呼ぶところの年配者4人は、オンラインレッスンはお呼びではなさそうだ。

そのうちの二人は3年以上の付き合いになり、生徒さんと言うより友達の域に入る。生きた年数で言えば、二人ともわたしの人生の先輩である。アルフレッドさんは85だったか6だったかで、マリアさんは81、2だ。

元気にしているだろうかと、今日思い立って電話をしてみた。
アルフレッドさんはすこぶる元気そうだった。人里離れた山の家に住んでいて、週に一度食糧買い出しにマーケットへ行くくらいだから、心配しないで、と言う。ポルトの海岸近くの家にはほとんど帰らないのだそうだ。

普段から、日本語があるときだけ山を下りてくる人だから、コロナ禍の今、さもありなん。

こちらが問う前に、「今は先生が薦めた吉川英治の宮本武蔵を読んでいます」ですと。

吉川英治の宮本武蔵は、「―どうなるものか、この天地の大きな動きが。」と、始まる簡潔な文章とストーリーがメチャ面白いのとで、わたしの好きな本の時代ものの一冊である。

この最初の「地の巻・鈴」を一緒に読んだ後、アルフレッドさんは本を買い、時間がある時に読んでいるらしい。時代物なので、今では使われない言葉も出てきては、辞書を引いて調べる作業を怠らない。それでも分からない時は質問してくる。感心している。

山の家には一人で住んでいるが、几帳面なドイツ人の血を引いている彼だ、庭や林の手入れも手を抜かないであろう。今日はそのアルフレッドさんと学んだ「平敦盛」を再掲したい。以下。


日本帰国時に必ず寄るのが銀座にある鳩居堂です。(あ~ぁ、帰りたいなぁ・・・)
鳩居堂は京都にも本店がある、和紙工芸品、お香、書画用品、色紙など和文化を取り扱っている店ですが、銀座5丁目という場所柄もあり、いつ行っても観光客で賑わっています。ここでわたしは、毎回、影絵用の和紙やお土産、日本文化展示用のものを調達します。

本日は平家物語「平敦盛」を日本語の生徒と読んだ時に発見した鳩居堂と敦盛エピソードとの意外な関係を書きます。

平家一門が官職についている中、一人官職についておらず、「無官の大夫(むかんのたいふ)と呼ばれた敦盛は満15歳で、一の谷の合戦にて命を落とします。この年齢で落命することころが敦盛編を読むたびに、わたしが目頭を熱くせずにおられないシーンなのです。敦盛の首をかいた熊谷直実の心境が少しは伝わってきます。

多くの日本人は「扇の的」同様、このエピソードを知っていることと思いますが、恐らく記憶にないであろう、我が子たちのために手短に敦盛と直実のからみを書き抜いて見ます。

「戦敗れにければ、熊谷二郎直実、「平家の公達、助け舟に乗らんと、みぎわの方へぞ落ちたまふらん。
(平家が戦に破れてしまったゆえ、平家方が波打ち際の助け舟にのろうとして落ち延びて行かれるところであろう)

平家を海辺に追い詰めた源氏方の勇士、熊谷直実は、海上の船に逃れようとする平家方の中に一人の公達(きんだち)を発見します。

1平敦盛
愛笛の小枝を取りに行き、逃げ遅れて汀に入る敦盛 Wikiより

「正なうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。」
(見苦しくも敵にうしろをお見せになるかな。お戻りなされ)と、扇を上げて武者を招きます。

2平敦盛
公達を呼び止め扇で招く熊谷直実 Wikiより

すると武者は引き返してくるではありませんか。二人が取り組み馬から落ちたところで、直実は武者の首をかかんとかぶとを取ってみると、我が子と同じ年ほどの、「容顔、まことに美麗な」若者であったので、思わず振り上げた刀のやり場に躊躇します。

名乗りを上げる直実に、若武者は名を告げず、「わたしの首は、そなたにとってよい手柄になろう。さぁ、討つがよい」と言います。

その言葉に「あっぱり大将軍。」と言いながらも、この一人を討たずとも今更、源氏が負けるはずもなし。我が子小次郎が軽い傷をおっただけでも、親のわたしは辛いのに、この殿の父は討たれたと知れば、どんなにか嘆き悲しむだろう」と助けようとします。

が、後方にはすでに味方の源氏侍が近づいており、自分が首をとらずとも彼らがとるであろう、最早逃すこともままならぬ。他に手をかけさせるよりこのわたしが。そしてご供養をいたし候(そうろう)」と泣く泣く、敦盛の首をかきます。

さて、よろい直垂(ひたたれ)に首をつつもうとしたところ、若武者の腰に差された錦の袋に入れた笛を発見します。「暁に流れていた音楽はこの人々だったのか。味方の源氏方、何万騎とあるだろうが、こんな戦の陣に笛を持つ人は、よもやあるまい。なんと哀れな、なんと優雅な人々であろうか」

後に聞けば件の若武者は、平経盛(たいらのつねもり)の子息、敦盛といい、笛は小枝(さえだ)呼ばれ、敦盛の祖父が鳥羽院よりいただいたもの。別名「青葉の笛」とも呼ばれるものでした


こうして熊谷直実は敦盛との一件で、仏門に入ることを決心したというのが一般説です。

生徒は古文を読むのにたじたじですが、古文の美しいリズミカルな七五調の文章は古来のDNAが刷り込まれた日本人には大いに惹かれるところがあるとわたしは思います。

さて、授業では、単に取り上げた物語のみでなく、もう少し枠を広げてみます。今回もテキスト解説にはない熊谷直実のその後を追ったところが、冒頭の鳩居堂にぶつかり、え!となった次第なのです。

頼朝から手柄を讃えられ「向かい鳩」の家紋を頂戴した直実ですが、出家してしまいます。直実から数えて20代目の子孫が薬種商として創業したのが、京都本店の鳩居堂で、17世紀のことだそうです。

下図にあるように、銀座本店の店頭に「向かい鳩」が見られます。生徒に教えることで、自分も面白いことにぶつかるのは楽しいものです。

鳩居堂平敦盛_
Wikiより

もうひとつ、今川義元との桶狭間の戦、出陣前夜、織田信長が謡いながら舞ったのが、能の原形と言われる幸若舞「敦盛」です。

「人間(にんげん、じんかんとも読む)50年 化天(下天)のうちを比ぶれば 夢幻の如く也。 ひとたび生(しょう)を享け 滅せぬもののあるべきか」

化天とは仏教語の化楽天(けらくてん)のことで、仏教の世界観による人間に近い天上界、六欲天の第5番目の天だそうです。そこでは一昼夜は人間界の800年にあたり、化天では8000年生きるとされます。

たった50年の人の世、500年、800年の化天にくらべれば、夢幻のようなものだ。ひとたびこの世に生を受けて滅びぬものはない。と、謡ったわけですが、これもまた、幸若舞「敦盛」の中で、熊谷直実が出家後、世をはかなむ一節から取られています。

平均寿命が80歳にも及んだ現代、それでも「化天」に比べれば、変わらず夢幻の如く。高齢期に及んで平家物語に触れると、滅せぬもののあるべきか、と諸行無常が頭をかすめるのを振りきって、三全世界の片隅、ポルトガルにて、日本語を教えながら日々を生きているわたしであります。

齢80半ばを過ぎた生徒、ドイツ系ポルトガル人でありながら日本人の心を持ったようなアルフレッドさんと、日本語学習を通して古来の日本独特の人生観を学んでいるような気がします。

再び彼と日本語学習ができるのはいつのことだろうか・・・



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2020年9月21日 

我がモイケル娘の話を聞いて噴き出した。

孫の青空ちゃんが、夕方、初めて1時間半以上寝たのだそうだ。だが、そろそろ授乳の時間なので、こんな時間に長時間眠ってもらっては困る。起こさないと・・・起きるかなぁと、優しく声をかけて起こしてみたが、ぴくりともしない。

そこで、なんとハチャトリアンの「剣の舞」をかけたんですと(爆笑)

それでも起きない~ともらしていた。こりゃ大物だ

「剣の舞」は、甥兄弟と我が子たちが子供の頃、それを聞きながら部屋の中を輪になって喜んで走り回っていたお気に入りの音楽ではある。確か、妹宅にはその様子を撮影したビデオがあるはずだ。

当時は2、3年に一度の割で帰国していたのだが、その都度、所沢の妹宅に滞在し和室を一夏占領していた。

多分モイケル娘が2歳、息子は7歳、妹の長男が9歳、次男4歳であったろう。男の子たちの間に紅一点である一番年下のモイケル娘が、「モイちゃんも~」としきりに言っていたころだ。そういいながら、3人の男の子たちの仲間に入って、「剣の舞」に合わせて和室をグルグル回って走り、途中で止まっては「ぷ~ぷ~」とやっていたのだった。

わたしたちが逆帰国でポルトガルに帰るころには、和室の障子やふすまも気が付けば、ぎょぎょ!と思うような、風情の「ふ」もない情けない状態になっていたものだ。誠に妹には顔向けでき難い夏ではあった。

「モイちゃんがまだちっちゃかったころ、剣の舞の音楽に合わせてね」と何度か話をしたことがあるが、その曲をよく覚えているようだった。

あれから30余年後の今、青空ちゃんの役立たずの目覚まし曲として耳にするとは面白い。

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2歳ころのモイケル娘。「もいちゃんも~」。はて?空耳だろうか・・・

剣の舞はこちらで聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=HAnMPMzmOI4
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2020年9月20日 

セラルヴェス
写真はポルト、Serralves公園内にあるCasa de Serralves


しばらくポルトガルの武漢コロナに触れないできましたが、スペイン、フランス、イギリスを中心にヨーロッパでは再び感染者数が増加してきました。

死者数は少ないものの、スペイン、フランスでは一日の感染者が1万人を超えたりしているそうです。8月の休暇による人の移動が原因ではないかと思われます。

ポルトガルも9月に入るやじわじわ増加してきて、昨日などは800人を超えました。来週からは学校も始まることですし、マスクの義務付け、手の消毒が奨励されるものの、クラスターによる感染拡大は避けられないように思います。

コスタ首相は、恐らく感染者数はそのうち日に1000人を上回ることになるだろうが、春にしたようなロックダウンはしないと述べていました。

しかし、9月15日から再びポルトガル全土に緊急事態宣言として、さまざまな規制を発しました。

・公道や施設内での人の集まりの制限は10名まで。
・サービスエリアや給油所でのアルコール飲料の販売禁止
・午後8時以降、スーパー等小売店でのアルコール飲料の販売禁止
・午後8時以降、レストランやバーの野外スペースでのアルコール飲料の
 飲用禁止
・スポーツ試合は無観客試合を継続する
・学校の周辺(300m以内)にあるカフェやレストランでの人の集まりは最大4名まで。
・商業施設内のフードコートでの人の集まりは最大4名まで
また、たばこの吸い殻の路上ポイ捨てには罰金が課せられるようになりました。これは日常茶飯事だったので、いい機会です。

更に、リスボン首都圏とポルト市を対象とした制限措置も取られました。勤務者をグループ分けし、テレワークと通常勤務体制のローテーションとする他、時差通勤や異なる昼食時間を設けることで人と人との接触機会を抑えるとのこと。

果たして、今秋からどうなることでしょう。
わたしの帰国切符もそのままペンディングになっていますが、春に思っていた「秋には」の期待はもうなくなり、「冬には」も考えられない状態で、じっと様子をうかがうしかありません。

「待てば海路の日和あり」とでも思うことにしましょうかね。

では、また。
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2020年9月17日 

生後二カ月の孫、青空ちゃんを育てている我がモイケル娘と、毎朝(ポルトガル時間)のようにスカイプを通じて話しているのですが、右も左も分からなかった新生児の頃に比べ、赤ちゃんに少し落ち着いた目を向けられるようになったな、と思う近頃です。

青空ちゃん、火曜日には初めての予防接種4種類をしたとのこと、微熱が出たりするので大丈夫かと気にしていたのですが、どうやら無事、切り抜けたようです。

しばらく前から目で物の動きを追うようになり、喃語も色々出てきたとのこと、どれどれと見せてくれたビデオには、娘夫婦が作った赤ちゃんのモビールが吊るされてありました。

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急いで作ったのか、形がちょっといびつだ(笑)中に鳴り物がはいっているのだそうだ。父親、母親、どちらの作品だろか(笑)下は、モイケル娘の作品。目に鮮やかな赤を使っていて、ビデオでは、青空ちゃんが意識してか無意識でか、これを右手で、ポンと手に当てていました。

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そして、もう一つ、モビールは頂き物ですが、簡素プレイジムみたいなのは手作りだそうです。

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色々工夫してるんだと、少し関心しています。

わたしの手作りと言えば、子供たちが幼かったのころは、せっせと棒針を使って日本ではしたこともないセーター作りに挑戦したものでした。よって、セーターはほとんど買ったことがありません。

理由は、売られてあったセーター類は身丈が短く腕丈が長い。そして、腕の付け根あたりが狭かったことにあるのですがね。
そのセーター類はどこへ行ってしまったか、子供たちの少し大きくなった頃の衣類はあるのに、セーターや手作りのスカート類がどうも見あたりません。 思い当たるとすれば、前の庭付きの小さな家に住んでいた頃、夏中は車庫のドアを開けっ放しにしていたもので、泥棒さんが持って行った可能性があります。

生ハムの脚一本、ゴーカート、夏物のシーツ、ウイスキーワインまで、ある日気が付いたら、なくなっていたのですから、わたしものんきなものです。以来、車庫のドアは閉めるようになりましたがね。

さて、わたしの子供たち用の手作り自慢のものは、もう一つあります。この何冊もの大学ノートです。

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さんすう、英語、日本語学習ノートなのですが、中はこんな感じです。
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英語が中心になっているとは言え、足し算引き算、あいうえおを使った日本語単語は絵で覚えてもらいました。これらの我が子たちへの海外に於ける日本語英語教育は、35年以上も昔のことですから、社会の状況も変わり、そんなに興味の湧かない話ではあると思います。

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幼児、小学校低学年向けの、英語教育教材も、ひらがなカタカナ漢字、さらには計算習得の教材は、現在では数多くあって、どれを選べばいいのか選択にとまどうほどでしょう。

わたしの場合は、インターネットはまだなかったので手元にあるもので間に合わせ、後は自分がアレンジして作成するのみでした。
日本の家族に頼んで送ってもらったオリジナルの一冊に、子供がそのまま書き入れると、一回使って終わりです。コピー代もべらぼうに高かったこの時代、とてもそんなことはできません。

入手したオリジナルのノートに絵を写し、マスを書き、クレヨンで色付けします。このようにして、絵を見て物の名前を覚え、ひらがなで書き込めるように、毎日2ページほどを、手描きで写しました。

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息子が4歳、モイケル娘は3歳になると、ポルトの私立のイギリス・キンダーガーデンに午前中のみ通わせました。

子供たちを送り出した後は午前中時間ができました。特に息子が6歳になるまでは、義母さん、ふたりの年取ったおばさん、それに我ら3人家族が同居していた上に、週に2度、お手伝いさんが来て掃除をします。

義母さんを始め同居のおばさんたちも、一緒に掃除に動き回りますから、小さな家はいつもピッカピカ!わたしの役目は、と言うと、どうやらあまり手を出さないほうがいいらしい(笑)

というわけで、さよう、時間だけはたっぷりあったのでした。
息子がいないその午前中たっぷりの時間を使って、わたしは教材作りに励みました。
それがまた、いい時間つぶしになり楽しいのです。1ページ1ページ、鉛筆の手描きですぞ(笑)

子供はオリジナルに直接書き込みたがりますが、それをすると一回しか書けず終わりです。子供は何度も繰り返すことで学習するものです。

日本から取寄せるのもなかなかできないもので、コピー代もべらぼうに高かったこの時代、オリジナルの絵を写し、マスを書き、クレヨンで色付けします。このようにして、絵を見て物の名前を覚え、ひらがなで書き込めるように、毎日2ページほどを、手描きで写しました。

読みは3歳で、真っ赤な文字の英単語から入って、息子も娘も4歳頃には日本語の生活に密着する言葉の、「見ながら書きながら覚える」をしてもらいました。これをたゆみなく続け、5歳では、足し算を始めました。

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覚えてもらうのにかける時間は「ゆ~~~っくりと」そして、決してイライラなどして怒らないこと。

何度も何度も同じことを繰り返し手描きし、子供と一緒に必ず机に向かって座り、時間は長くてせいぜい15分!褒めますと喜びますから、「もっとしたい!」と言います。でも、ここがコツ!「今日の分はこれで終わりよ。また明日^^」

夫が仕事から帰宅しますと、今日はこんな文字を覚えた、と単純なわたしたちの話は盛り上がる。こうして少しずつ少しずつ夫の日本語の域を子供は超えて行ったのでありました。

世の中はグローバル化してとても便利になり、その気になればポルトガルにいながらにして、日本のテレビ放送も見ることができるようになりました。欲しいものもたいていは日本から取寄せがきく現在はこんなことに自分の時間をつぶすなど、ちょっと考えられないかもしれませんね。

子育てから開放されてもっと自分の時間が持ちたい、自分の好きなことがしたい、という母親の話はよく耳にします。わたしも、これやってみたいあれやってみたい、こんな勉強したい、と語れる夢や希望はたくさんありました。

が、あの頃のわたしは我が子たちの手描き教材作りに、日々の喜びを感じていたのでした。長い時間をかけてゆっくりと焦らずに。これはとても子供に学習してもらうのに、とても大切なことだと思います。

また、例え毎日10分、15分でも座ってもらう習慣をつけることは、就学年齢になって、宿題云々で、さぁ、机に迎えと言う必要もないのです。子供からすれば、これまでしてきたことの延長ですからね。しかも、新鮮な題材があるわけですから。

ふと気が付けば、ポルトガルの日本語学習者、初級中級クラスのために、毎日パソコンの前に座り、「目がいたい、肩が凝る」と言いながら、日本語教材を作成している今の自分、なんだか未だに似たようなことをしている自分がいるのですわ。

この漢字、言葉はこの間、教えたはず、これを使って例文を、とか、こんな例文で説明したら生徒たち、喜ぶだろうな、とか、そんなことを考えながら教材作りを楽しんでいる今日の自分がいます。
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2020年9月14日 

8月末から三日ほどの小旅行をしてきた。自粛自粛で家に閉じこもってばかりもいけない。今回の旅行の計画は全部夫に任せたので、文句言いっこなしである。相変わらず逆方向に走ったりしていたが、急ぐ旅でもあるまいし、好きなようにしたらええねん、です。

行先はリスボンにさほど遠くないMafra(マフラ)。何年か前に一度通りかかり、18世紀にジュアン5世王が建築させた宮殿を見学したいと思ったのだが、ちょうど儀式が執り行われており、中に入ることができなかった。

夫は、どうしても宮殿を見たかったようで、今回はMafraに投宿したのだが、その案内は後に回すとして、小さな町なので日曜日は昼食をとるレストランもほとんど閉店で、マフラから車で20分くらいにあるEriceira(エリセイラ)へ足を延ばした。

エリセイラはナザレ以前のサーフィンなどのマリンスポーツで昔から知られた海岸の町だ。海岸沿いの町と断崖上の町とに分かれている点は、ナザレと同じだ。

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大して時間がなかったので、海岸側は見ずに、上の町で食事をとることにした。武漢コロナで閑散としたマフラに比べ、エリセイラは日曜日もあってか多くの人でにぎわっていた。

自国の旅行者はもちろん、ヨーロッパを始め、日本、韓国、果ては中国まで、現在観光客を受け入れているポルトガルだ、アジア人の姿も見られた。もっともポルトガルに住んでいるとはいえ、わたしもそのアジア人のツーリストの一人となるのだが。

エリセイラは自動車道路でリスボンから20分ほどだというので、近年はこの町からリスボンへ通勤する人も多いと言う。人混みは武漢コロナの感染率が多いので、そそくさと町を出ようとは思うものの、やはり座~っと観まわりたい。食後足早に歩いてみた。

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レストランが立ち並ぶメイン通り。ポルトガル南部独特の白壁に青の建物が多くみられる。

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教会も白と青。

レストランが並ぶ通りを少し外れて、ちょっと面白そうな店に出会った。

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パブ、ジュークボックス(Jukebox)とある。今では死語になったであろう、懐かしい言葉ではないか。残念ながら夕方からしか開かない。

同じ建物の横へ回ると、ぬぬ?Hemingway´s Ericeira Bar Cafe?
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見ると、ヘミングウェイの写真が店頭に見られる。

はて?ヘミングウェイが国際義勇軍として人民戦線側を支持、スペイン内戦に参戦していたのは知っていた。その時の体験をもとに書いたのが、「誰がために鐘は鳴る」「武器よ、さらば」である。

20代の時分、スペイン内戦に興味を持ち、わたしは特に詩人ガルシア・ロルカを追っていたのだが、その時に出会ったヘミングウェイの「誰がために鐘はなる」の冒頭に書かれたジョン・ダンの詩は暗唱している。

なんぴとも一島嶼(いっとうしょ 孤島の意味)にてはあらず、
なんぴともみずからにして全きはなし、
人はみな 大陸 (くが) の 一塊 (ひとくれ) 、
本土のひとひら
そのひとひらの 土塊( つちくれ) を、波のきたりて洗いゆけば
洗われしだけ欧州の土の失せるは、さながらに岬の失せるなり、
汝が友どちや 汝 なれ みずからの 荘園 (その) の失せるなり、
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て、
みずからを 殺 (そ) ぐにひとし、
そはわれもまた人類の一部なれば、
ゆえに問うなかれ、
誰がために鐘は鳴るやと、
そは汝がために鳴るなれば


そのヘミングウェイが、スペイン隣国のポルトガルまで来ていたのだろうかと、早速帰宅後、調べた。その事実はなかったようだ。

Hemingway´s Ericeira Barは、どうやら、かつてドイツのHemingway’s Heidelbergによく通い、いつの日か、エリセイラにそんな店を持ちたいと思っていた店主の好みで開店したらしい。

店主によると、もし当時ヘミングウェイがポルトガルやこの地を訪れていたとしたら、間違いなく気に入っていたであろうとのこと。
ちなみにヘミングウェイはHemingway’s Heidelbergに実際立ち寄っているようだ。

ポルトガルを愛した作家には日本の檀一雄もいるし、ヘミングウェイは釣りも趣味だったようだから、店主の言には何となくうなづける。

Hemingway´s Ericeira Barではジンを中心に、ヘミングウェイが愛したカクテル「モヒート」と「ダイキリ」が飲めるそうだ。どちらもラムをベースとし、キューバが発祥地。ヘミングウェイはキューバに長年滞在し、この二つのカクテルをひたすら愛し、「老人と海」はキューバで書かれたと言われる。

エリセイラでの思わぬバーの名前でスペイン内戦、ガルシア・ロルカ、ヘミングウェイ、懐かしいカクテルの名前を思い起こすに至った。カクテルなど口にしなくなって、かれこれ半世紀ほどになろうか。このバー、入ってみたかった!

してみれば、ヘミングウェイの簡潔文体は、後の時代に続くハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーにも影響を与えていると言うのは嬉しい。

わたしはチャンドラーのハードボイルド小説の主人公、私立探偵私立探偵フリップ・マーローの大ファンなのである。
マーローについては、次回、少し書いてみたい。

マーローについては過去記事にありますので、興味ある方はどぞ。
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1991.html#comment
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2020年9月10日 

アクションドラマやミステリードラマで顔面にゲンコツをくらって仰向けにぶっ倒れるシーンはお馴染みだが、何気なく見ていたそのシーンが、まさか自分に起こるとは昨日まで想像だにしなかった。

毎朝、2、30分ほど歩くようにしてから一か月以上になるが、昨日も朝6時前、歩くには小1時間ほど早いが、いったん目が覚めると眠れない性質だ。起きて、息子や娘の部屋のブライドを開けることにした。

まだ夏時間ではあるが、9月に入ると日の出が少し遅くなり、5時には明るかった外も6時近いと言うのに今は薄暗い。

息子の部屋の窓のブラインドを開けて、ドアに向かったところ、いきなり、ガツーン!と来て、そのまま床に仰向けに倒れていた。え?え?すぐに立ち上がれたが、何が起こったか即、分かった。
半開きにしていたドアの縦枠っていうのか、そこにしこたま顔面を打ったのであった。ぶつかった反動で後ろに仰向けに倒れたのである。

ドウロ川クルーズ

すぐさま、洗面所へ行って鏡を見ると、ぎょえ、鼻下、少し左に縦に傷が入り出血していて、唇と左額がみるみる膨らんで来ている。

即時冷やさないと顔面はパンパンに腫れる。冷凍庫に入れてある冷凍剤の大きいのを取り出し手ぬぐいに来るんで左顔面全体に当てること小1時間。

やがて夫が起きてきて、「おはよう~、ど、どしたん!!」
かれこれしかじか、ドアにぶつけましたです。 ほんま、アホかと思う。

もう、散歩に行く気もすっかり削がれ、更に1時間ほど顔面を冷やすことになったのであった。そうしているうちに、スカイプにモイケル娘が上がってきて、孫の青空ちゃんのその日の写真を見せてくれた。

どうか、今日はビデオ会話になりませんように、なんまんだ~と願いつつ、なんとかやり過ごした。いかな何でも話せる娘とは言え、すぐには言えませんて^^;

夕方になると、どうも首のあたりが痛い。軽いむち打ち症だろうか。夫にもらっていた鎮痛剤を服用する。

ふと、我が東京息子が5、6歳の頃の真夜中の事件を思い出した。
モイケル娘が生まれる少し前のことだが、6年間同居した夫の母の家を出て、同じ通りの、それこそスープが覚めない距離に引っ越ししたのだが、息子は夜中に目を覚まし、必ず、わたしたちの寝室に来てベッドにもぐりこむ習慣があった。

なに、向かいの部屋ゆえ、明かりをつけなくても感覚で分かるのだ。その日の夜も、例に漏れずやってきたらしいが、寝ていると突然ギャ~と鳴き声を耳にし、なにごとぞ!と起き、明かりをつけると、ぎょ!息子が額から血を流して大声で泣いているではないか。

息子が私たちの寝室に入ってくるのを知っているもので、ドアはいつも開けっぱなしにしていたのであるが、その世に限って、どうやら半開きになっていたらしく、息子、ドアの取っ手にしたたかに額を打ち、切れたのであった。

夫がその場で応急処置をしたが、旗本退屈男、早乙女主水之介の如き、天下御免の立派な三日月傷が額の真ん中に遺ったのであった。その傷跡は未だにうっすら残っていると思われる。

三日月傷ならず鼻下の縦傷だから、しゃれにもならない。

なにも似たようなことを母子ですることはないではないか。そう思いながらも、顔面ま中心から左に少し逸れてうったので、前歯や花の骨を折ったりしなかったのがせめてもの慰めだと思っている。

左目のあたりはただいま青タン。買い物等の外出が大変だねって? いや、それは武漢コロナの今、いつもこんな武装をしているので、意外と大丈夫。はっはっは。
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よくおしゃべりする大阪出身の友人には当分言わんとこ。こう返ってくるのが目に見えてる。
「どんくさいやっちゃ」
ええねん。性格やねん・・・・
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2020年9月7日 

年に二度、大学の講義がない春休みと夏休みに帰国してくる息子が、武漢ウイルスゆえ、今年はそれが叶わず。

ここ10年、毎年一度はわたしが日本へ帰るので少なくとも息子には年に三度会い、我がモイケル娘にも1度は会えました。それが今年は子供たちに会えない。

7月に生まれた孫、青空ちゃんをも勿論腕に抱いてみたいのですが、我が子たちや妹夫婦に会えないと言うことに、自分が思っていたより堪えています。何と言うか、生活していて力が湧いてこないんですね。

ひとつには、武漢コロナ禍以前は、毎日のようにあった日本語授業が、4人のGGs(ジィジィズ=年配者)はオンライン授業に拒絶反応(笑)を示し無理。それができる二組と、後は土曜日の2クラスのグループレッスンだけになったことも関係しているかもしれません。

某企業のお偉いさんからもオンラインで日本語ができないかと連絡は来たものの、今のところまだ始めていない。恐らく、自分の社の経営に没頭していると思われます。

オンラインレッスンそのものは勉強のツールとしては悪くないのですが、ちょっとわき道にそれて冗談話でワハハと一同が笑える対面授業と違い、目いっぱいの時間をひたすら授業に費やす堅苦しさがぬぐえません。今、これをなんとかできないものかと思案中です。

つまり、オンラインレッスンは人とのコミュニケーションが今一だ、と言うのが、わたしの感想です。

目下、子育てで忙しいモイケル娘が、しょっちゅうスカイプで孫の青空ちゃんを見せてくれたりして、暇のあるこの母親の相手をしてくれるのですが、悪いなぁと思いながら喜んでます。

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元気いっぱいの笑顔を見せる青空ちゃん。男の子?いえいえ、女の子ですよ。

5カ月もの自粛生活で体力がガクッと落ちたのに自分で驚き、慌てて毎朝30分から40分歩き始めて一か月が過ぎました。体調はすこぶる良いというわけではありませんが、大分、体力を取り戻してきたのに、冒頭で言ったように、よし!との気力が湧かんのです。

これを吹き飛ばすには、今のwith coronaとの生活を忙しくすることだと思い、一週間の休息日は月火にして、週末の土日に働くことにしました。元々土曜日の午前中は3時間の授業があります。生徒が来やすいようにと、日曜日の夕方に土曜日の中級クラスを移して、その空いた時間に新コースを入れます。もっとも人が集まれば、の話です^^;

これまでのオンライン授業は、すでに読み書きが十分できるクラスだったので、意外とスムースに運んできたのだが、初心者クラスの開講は「書き」が難しいと思います。その難しさに色々アイデアを使って挑戦してみよう。

これで、多分夜も眠れぬほどにあれこれ案を編み出すになるだろうから、気力が湧かないんだわん、などと言っておられなくなるんじゃないかな?

武漢コロナはこんなところでもわたしたちの生活を脅していますが、簡単には屈しないぞ、と自分に言い聞かせる。エイエイオー!
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2020年9月5日
 
孫の青空ちゃんのために、冬に備えて手作りセーターをと編み始めていたのだが、なにしろ30年ほども前の毛糸玉だ、編んでいる途中でときどきプチプチ切れる。

そこで、夫の仕事の空いた時間、午前中を使わせてもらい、ダウンタウンにある毛糸の老舗「Ovelha Negra(黒い羊)」まで買いに行って来た。武漢コロナの今は、ダウンタウンに行くのに、できるだけメトロに乗りたくないのだ。

毛糸店の辺りには日本語教室を始めた10年ほど前に、息子の親友である画家君が住居兼アトリエを構えており、1年ほど教室として借りて、毎土曜日にはメトロでアトリエに通ったのだった。

また、我が子たちの学校時代には、この近くにあったBritish Bookstoreでよく英語の本を買いに来たものだ。

そういう思い出があるほかに、この本屋の前の建物のアズレージュこと絵タイルに惹かれ、ここを通るたびにカメラを向けていた。
わたしがポルトに来て以来、その建物のドアはずっと閉められたままだったので、もったいないなぁと思っていた。今回久しぶりにその通りに入ってみると、あら?例の建物のドアが開いているのだ。館内の一部がブランチのできるカフェになっているようだ。

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ちょうど昼食の頃だったので、中をのぞいてみたいブランチをとろうと好奇心で入った。 テーブルとテーブルの十分なスペースが取られてあり、これなら安心して座れる。

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天井に目を向けてみる。

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ライトの設備があるので、武漢コロナ以前は恐らくディスコテカとして、夜のたまり場にもなっていたと思われる。夫と二人で軽いブランチとコーヒーを済ました。

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上の写真は入り口から取ったものだが、カフェは手前左にある。建物の上階はCoWorking スペースになっている。

建物の外装は全てアズレージュで覆われている。

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見事な美しさを見せるこのアズレージュ(azulejo=絵タイル)をあしらった建物は、19世紀半ばに創立されたポルトガルでも最も知られたアズレージュ工場、Devesasセラミック社の倉庫だった。

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ポルトガルのazulejo(絵タイル)産業は、20世紀初期には新しい機械技術を駆使するイギリスやフランスのセラミック製品に追いやられ苦戦するが、やがて改善され、タイルの多くはブラジルやアフリカに輸出された。

ポルトの街の中心の小さな通りに面したこの建物は、その美しさ、豪華さで偶然その道を通りかかるツーリストの目を奪わずにはおかないだろう。

見るにつけ、どれもため息がでるような美しい絵タイルだ。

ポルト レストランYUKO

所在地:Rua José Falcão Porto

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2020年9月3日 

ポルトガルに来て以来の長い付き合いの友人がいる。他市に住んでいるのでたまにしか会わないが、同世代だし話も合い、電話で長話に及ぶことも度々ある。

その彼女が先だって、我が孫の名前を聞いて来た。プレゼントに名前を入れたいのだそうだ。先週末から二泊三日で旅行して帰宅したら、その郵便が届いていた。

コピー用紙A4 より少し小さい銀製の写真立てである。下に名前が彫り入れてある。ぬぬ、やっぱり一文字が違って「サラ」と彫ってる~!

一文字変えるとポルトガル名にもなるので、わたしのこれまでの経験からして間違われないかなと少し気にはなったのだが、口にださなかった。

そこで、わたしのこれまでの経験なのだが、役所、学校などで息子の日本名Riuを何度「Rui」訂正にされたことか。人を文盲とでも思ったか。その都度、違うんです、これは日本名でRIUでいいんです、と説明したものだ。

一度などこんなことがあった。

10年ぶりに自分の身分証明書の再発行申請に行った時のことだ。

市民の公の手続きは日本では市役所でなされると思うのだが、身分証明書を始め、運転免許証、パスポート、保険証、その他諸々の書類手続きは、こちらではLoja do Cidadão(Lojaは店と言う意味に使われるが、この場合は公共建物の意味。Cidadãoは市民)なる場所ですることになる。

これが、窓口はたくさんあるに拘わらず時間がかかるったらありゃしない。優に1時間以上はかかる。

10年間有効の身分証明書だったが、この間、このカードの様式がpcに入れると全ての情報が出てくるというチップがはめ込まれ、保険番号、納税者番号も記入されるようになってた。

さて、古い身分証明書を提出して、係員がパソコンで情報をチェックしていると、「苗字はないのか?」と聞くのです。「ありますよ。ここに書いてある○○○○○がそれです。」

すると、「○○○・○○○○○(姓名)が名になってるよ」と言う。

えーー!違いますってば。最初のがファーストネーム、そして次にあるのが苗字です。日本人は名も苗字も一つずつなんです、と。以前はフルネームが一箇所に書かれていたのを、新しいカードでファーストネームと苗字を別々の行に書かれるように変更されたのだそうだ。

だから、○○○と○○○○○を二箇所に分ければいいだけの話ではない?

ところが、係員の言う事にゃ、「新しいカード様式に変更された時点で原本にはファーストネームが○○○・○○○○○で、苗字の箇所が空欄になってる」。

そんなアホな!苗字がないなんて、日本じゃ皇族だけだど!何かい、わたしゃ皇族かい!

ポルトガル人は名前苗字が一つずつというのは、まずありません。夫のように名前が一つという人も珍しいのですが、それでも苗字は長たらしく「フィゲレードのコスタ・サントスの誰々」と言うように、苗字は誰でも二つは持っています。 それは両親の苗字の一部を夫々からもらう故です。

そこで今回のわたしの件に関して思うに、新様式に変更されたときに、原本に打ち込む人、あれ?と疑問を持ったものの、めんどくさいもので、当方への確認連絡を怠り、そのまま、わたしの名前苗字をいっしょくたに、名前として打ち込み苗字を空欄にしたに違いない(怒) ったくもう!

で、係員曰く、今日、このまま身分証明書を発行してもいいけど、苗字欄は空白になる・・・

冗談じゃないぜ!日本ででさえ珍しい我が苗字(テヘ^^)、家紋だって立派な「丸に揚羽蝶」だぃ!と、家紋など武士制度が無くなった時点で、自由勝手に使えたであろうことを承知の上(笑)でござんす。嫁に行ってしまった娘は継げないが、息子はこのまま継いで行くはずの○○○○○である。

半分呆れと怒りで、力んで「ほな、原本変更手続きはできますのんか?」と質問。ここではできない故、どこそこへ行って出直してくれ」だってさ!

原本変更となると、黄ばんでしまったあの古い婚姻証明書やらなんやらと、またぞろ引っ張り出すのか、はたまた、婚姻手続きをした神戸ポルトガル領事館やら外国人登録所やらから書類を取り寄せることになるのかと考えたら、ぞ~~っ!
その足で、原本変更手続きができる所へ廻った。

少し待たされたが、意外と簡単に変更ができ、やっと晴れて、苗字が持てたという次第であった。
くだんの写真立ては目下、知り合いの宝石店で彫り直しをお願いしている。なんちゅうこっちゃい。
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