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2020年8月28日

武漢コロナで帰国のめどが立たず、息子、娘、それに初孫の青空ちゃんにいつ会えるとも分からないのですが、我がモイケル娘がスカイプを通じて2、3日毎に送ってくる写真と動画で青空ちゃんの日々の成長を目の当たりにしています。

間もなく生後2か月になります。喃語が出てきて「アプ~」だとか「アウプア~」だとか、母親の短い口笛に調子を合わせて喃語の音を伸ばしたりと、日に何度もそれらを見ては楽しんでいます。

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サマーヤーン手編みの上着がもう入らないって(笑)

モイケル娘が少し時間がありそうな時は、わたしの話し相手もしてくれるわけで、忙しいのに悪いのぉと思いつつ、ついついスカイプで長話になったりします。

時に、青空ちゃん育ての相談を持ち掛けらることもありますが、なにしろわたしの子育て体験は40年近くも昔のこと、当時よいとされたことが今も通るかどうか、分からない点もあったりするわけです。

そして、及ぶ話が彼らの小さい時のエピソードです。

わたし: 2か月足らずにして表情が豊かだね。びっくりするくらいユニークなミニお父さんやん!と思わされたり、モイケルママの赤ちゃんの時とそっくりな時もあるし。なかなか賢そうだ。←もうすっかりばあちゃんバカ。

モイケル: そぉ?だとしたら、賢い所はRさん(ダンナさん)似だ。天然だったらわたsに似。

わたし: モイちゃんだって賢いよ。わたしは賢いとこまで行かないから、それは医者を7人も出してるフィゲレード家系だろうね。

モイケル:頭がいいのは兄貴に持ってかれた(笑)

わたし:頭がいいからって幸せになるとは限らない。

モイケル:そりゃそうだ。

わたし:頭が良すぎるとしんどかったりすることもある。

モイケル:そだね。兄貴もしんどそうだ。

と、ここで、東京息子の子どもの頃の話が入る。

息子が小学生低学年の頃、わたしたちは一時期、Oporto British Schoolの父母会委員のメンバーの声がかかり、携わったことがありました。委員会は時に会議終了後、校内で交流会があったりします。

ある日、その交流会で息子の担任だったミセス・ディアスと話した折、「いえね、サントスさん。昔から教師と子供が同じ学校にいる場合、自分の子供を学校で教えるのは親も色々大変なので、極力そうならないように学校側が配慮するんですが、お宅のJ.R君を担当するよりわたしは自分の子供を持った方が楽ですぅ」と、仰せになられ、その場で、ぎょえ~となったことがありました。

そ、そう言えば、当時息子たちの一クラスは同じ敷地内の小さな離れ校舎になっており、迎えに行くと、我が息子、その校舎の開いたドアに寄りかかって、いつも外の草原を眺めていたのでありましたっけ。 どうしたの?と聞くと、「ボク、もう、先生の教えるの、みんな知ってるんだもん」(笑)

同じようなことが、実は土曜日の日本語補習校でありました。ポルト日本語補習校が創立したのは1987年4月で、ちょうど息子も就学年齢になった年でした。

小学1年から4年まで生徒数9人、それに日本語があまりよく分からない子供2人、併せて11人に講師がわたしと、わたしが誘った日本人女性がもう一人、2教室しかない小さな学校の始まりでした。

息子の小学校1年のクラスは日本からやってきた某企業の子供二人と息子とで3人のクラスで、担任は同僚でした。
ある日、その同僚が、「ユーコさん、わたし、J.R君、手に負えません」ですって(笑)

手に負えないとは謝礼をもらう者が言っちゃぁおしまいよ!と腹の中で思ったものの、口にはいたしません。息子に何が面白くなくて、イタズラするのかと聞くと、「ボク、もうみんな知ってるもん」でした。

知ってるから、プリントもサッと終わってしまい、手持無沙汰。なるほど、と、結局、親のわたしが自分のクラスに引き取ることになり(笑)、なんちゅうことでしょ。

するとですね、自分の子にはどうしても厳しくなるんですね。 一度など、可哀想に、廊下に立たせたこともあり、これが人様の子だったらしなかったかも知れないと後悔したものでした。

天衣無縫な息子の性格がよく表れている一枚の写真↓
choimachi2[1]
 
あ、これじゃなかった、こっち↓
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夫の友人の娘さんの誕生日に招待され、カメラマンがいざ記念撮影をとシャッターを押した瞬間の息子と母親の迷場面なのです。
おとなしくカメラマンの前で並んでいた他の子供たちも息子の一瞬の行動に思わず口を開けて驚いたり笑ったり。

猪突猛進だったのが、あちらこちらでしたたかに頭を打ち、歳をとって角も大分取れ少し人間が丸くなったところもあろうかのわたしだが、息子は未だ、時に蟷螂の斧(とうろうのおの)の如くであろうか。

斧をそろそろ振り下げてもいいかと母は思うのだが。

娘との子育て話、今日は息子にことに及びました。
では、また。
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2020年8月24日 ドン・マヌエルの大窓・鈴の謎

下の図はバチカンで見られるラファエルの有名なフラスコ画「アテナイの学堂」である。

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この中でわたしが分かるのはピタゴラス(1)、ヒュパティア(2)、プラトン(3、ダヴィンチを重ねていると言われる)、アリストテレス(4)、ミケランジェロのモデル(5)くらいだ。

登場人物が古代ギリシャ哲学者が多いので、それがカトリックのバチカンにあるのは不思議だと思ったのだが、この絵はキリスト教神学と非キリスト教のギリシャ哲学との融合を意図して描かれたものだと言う。

さて、トマールのドン・マヌエル大窓にある鈴の謎をを調べるにあたり、なんでここでピタゴラスやねん?と思うであろう。
しかし、この鈴とピタゴラスは秘儀参入の原理を象徴し、「天体の音楽」理論で知られる哲学者ピタゴラスは、ヨーロッパ史上最初のエジプト神殿の謎を伝授されたものとして確認されている人物だ。

「鈴」のシンボルは何を意味するかと検索すると、日本語では簡単に出てくる。
古来より鈴には「邪なるものを祓う力」があると考えられてきた、鈴そのものにではなく、「鈴の音」に力があるということでするということだ。

日本では土鈴が初めで、古墳時代中期の5世紀ごろになると金属製の丸い鈴が出現したと言う。鈴は、縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれる。マメや木の実の種子が殻や鞘とはくっついておらず何処にもつながれていないのに外殻とともに成長するというのは、人間にとってこのうえなく神秘的であった。(Wikipediaより)

鈴の音が「邪なるものを払う力をもっており、魂を清浄する」となると、日本で神具として使われている理由が分かる。

ところが、鈴を「bell」で検索すると出てくるのは「鐘」だ。(ポルトガル語ではguizoと言う)この時に、ピタゴラスが鐘を使って実験し「ピタゴラス音律」を導出したことに行き着いた。

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鐘を使って音律を探るピタゴラス

しかし、これは鈴ではない。更に調べていくと、ヨーロッパでは鈴が出現したのは中世期(14~16世紀)だそうだ。ふむ、ドン・マヌエル一世国王と時代が重なるではないか。

あれこれと検索の回り道をせざるを得なく、ある日「鈴、鈴」と探してふとたどり着いたのがタロットカードである。

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これはわたしが持つマルセイユ版とユニバーサル版(ウエイト版を現代風の図風にしたもの)の2種類のタロットカード。

ちなみに、わたしはこれで占いはしない。これを入手したのは随分昔で、「シンボルコード」を読んでいた時に、タロットカードは、輪廻、再生、霊的復活、変容といった異端のテーマ(神秘主義・ヘルメス思想=錬金術)に触れており、あきらかにローマカトリック教会の教義に反する精神性を説いているとあったもので、しからば、是非直接目にしてみたいものだと、ポルトのダウンタウンMistic Shopで手に入れたものだ。

14世紀に出現したタロットカードは、カトリックから抑圧された「聖杯信仰をする教会」のための教義問答書のようなもので、聖杯を崇拝する中世の異端と間違いなく関連すると思う。

下はタロットカードの中の一枚、「愚者」。すなわち「0」である。

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「0」は卵で覚醒への秘儀的な道を経て霊的な再生を果たす可能性のシンボルだと言う。犬(Dog)は中世イギリスのシンボリズムでは「神(God)」のアナグラム。愚者にはわたしが検索してきた「鈴」が腰にも胸にも数個ぶら下がっている。

愚者の逆位置、つまり、逆さまになったカードは「終わりからの再生、精神的な目覚め、悟りを開く、知識を求めての旅」を意味し、行く先々での聖職者の詮索(異端審問)をごまかして、神秘主義の教えと伝える役目を負っていたと言われる。

鈴の数は、この人の「輪廻転生の数だ」との文に行きついた。
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ポルトガルのテンプル・キリスト騎士団修道院には、この大窓に限らず、ポルトガル王、ドン・マヌエル一世の大窓に彫られてある鈴、その他、諸々のシンボルも併せてみると、カトリック国にあって、王は神秘主義者であったことを表しているのだとは、わたしの推測だ。

カトリック信者にあらずんば人にあらずと、ヨーロッパ中世の異端審問は12世紀からガリレオ裁判の17世紀に至るまで、国王、著名な芸術家たりとも恐れたほどの強力さ、時にはその権力を残酷にローマカトリック使用したのである。

ウンベルト・エーコ原作で中世の修道院を舞台にした映画、「薔薇の名前」でも、異端審問の恐ろしさが見られる。

宗教にあまり敬虔でない日本人のわたしには、想像し難いヨーロッパの中世社会だが、そういう環境から、タロットカードや大寺院に彫られた不思議なシンボルメッセージが生まれたと思うと、ローマカトリック教がいかに凄惨な歴史を刻んできたかを知ることができる。

というので、今回はドン・マヌエル大窓の「鈴」の謎が数年ぶりでわたしなりに解けたことにしたいと思う。

ただし、これはあくまでもわたしの推測だということを付け加えておきたい。

なお、下記では、ミケランジェロの頑固なバチカンへの精いっぱいの反抗について、書いています。興味がある方はどぞ。

・システィナ礼拝堂の隠されたミケランジェロ暗号(1)
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1893.html

・システィナ礼拝堂の隠されたミケランジェロ暗号(2)
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1895.html

・ミケランジェロのポルタ・ピア門
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-1907.html
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2020年8月22日 

テンプル・キリスト騎士団修道院ドン・マヌエル大窓の鈴の謎解きはただいま書きかけ中ですので、今日は我が思い出のアルバムから。以下。  

「いらっしゃいませ!」
ドアから入ってくる客に威勢良く声をかけ、客がきちんと席についたのを確認して、お冷とお絞りを載せた丸盆を両手に持ち、注文を聞きに行く。
     
「はい、親子丼おひとつですね。かしこまりました。少々お待ちください。」
ちょいと伸び上がりカウンターから顔を覗かせ、調理場に「おやどんいっちょう~!」と大きな声で注文を通す。
「ホイキタ合点、おやどんいっちょう~」とオヤジさんの返事が返ってくる。 

中学3年の一年間をおじおば宅で過ごした大阪から弘前に帰ったわたしは、中3年3学期の高校受験ギリギリの時期に以前通った中学ではなく、弘前の別の中学へ転入し、無事高校入学ができた。

入学して間もなく、昔、下町に祖母の家があった頃、一緒に住んでいた大家族の一人、よく得体の知れないおじが(「口笛吹けば」のエピソードに出てくる)が、学費に困っていたわたしにアルバイトの口を持ってきてくれた。 
     
中学3年生の女の子の家庭教師である。高校1年生が中学3年生にですよ(笑)
しかも、毎夕方、国語、英語、算数、理科の4教科を見る口でありまして^^;
国語英語はなんとかできたものの理数系はわたしはアカンのですってば。
     
しかし、背に腹は変えられぬ。 授業料も小遣いもいるのでありますれば。せっぱづまれば人間、たいがいのことはなんとでもするものです(笑)
こうして高1から始まった家庭教師ではありますが、毎日これをやってますと、自分の勉強ができなくなるのでありました。

次に見つけたのが、上記「いらっしゃいませ!」の春夏冬休み期間中の大衆食堂アルバイトである。その名も「つばさ食堂」
     
当時は高校ではアルバイトを禁じていたが、そんなことに構ってはおられません。弘前の大きなデパート「かくは」(今はなくなってしまった)からちょいと横道にそれた食堂ですから、知った顔、つまり同級生などがやって来ることはまずないとして始まった大衆食堂のアルバイトが高校卒業近くまで続くことになるのである。
    
オヤジさんもおかみさんも津軽弁ではなく、江戸弁なのであった。その頃には、わたしは津軽弁を話さず、一緒に住んだおじの、「ユーコ、弘前へ帰っても言葉遣いは今のままで行け。後で上京した時に、津軽弁では何かと不便なこともある。」とのアドバイスに従い、弘前にいながら、外では標準語でやり過ごすようになっていた。さしづめバイリンガルですな(笑)

津軽の言葉で言えば、こんなことをするわたしは「エフリこき」、つまりかっこつけ屋と言うw
     
オヤジさんはなかなか面白い人であった。どういういきさつがあって弘前くんだりまで流れ着いたかは知らぬが、上背があり、軽くびっこをひいていて、満州にいたことがあるのだそうな。

共通の言葉、標準語を話すということも幸いしたのであろうか、わたしは大衆食堂のオヤジさん、おかみさんに随分と気に入られたらしい。「あんたのその、ハイ!という返事がいい!」としょっちゅう褒めてもらった。

果たして、子供のころの消え入りそうな究極の内弁慶は一体どこへ行ってしまったのかと思われるほどの変わりようで、何はともあれ、わたしの「はい!」の返事は、自分で言うのもなんだが、大きな声ではっきりと即座で天下一品なのであった。

褒めてもらうと人は張り切る。わたしもその例に洩れず、褒められれば木にも登るブタの口、春、夏、冬休みの期間中は毎回せっせと働き、すっかり家族の一員のような雰囲気であった。

40をとっくに越してから、保険の外交員の仕事に就いた母までが、いつの間にかそこに出入りし、オヤジさんたちが贔屓にするようになっていた。

跡継ぎの娘さんがいたのだが、わたしとは歳が離れていたせいもあったか、彼女もまたいろいろ食堂の仕事のことを教えてくれたものだ。

進路で悩んでいた時に、積極的に相談に乗ってくれたのもこの食堂のご夫婦であった。英語が得意だったわたしを知っていたオヤジさんは、ある日言った。
「ユーちゃん、弘前の大学で学ぶんだったら、学費を出してやる。」
     
これは天からの助け舟であったのに、「田舎はもうごめんだ。都会へ出て、更にできれば外国へ行って見たい!」との、当時にすればデカイ夢を見ていたわたしは、オヤジさんの申し出を袖にし、高校3年の夏、「つばさ食堂」のバイトを振り切って、自分の力で何とかしようと、東京は江東区の新聞専売店住み込みの実習をすることになったのである。
(この時の体験は「1964夏・江東区の夕日」にある) 

結果は、挫折したのだが、あのまま、つばさ食堂のオヤジさんに学費を借り、弘前に留まって大学まで行ったとしたら、わたしの人生は今とは随分違ったものになっていたであろう。

大阪のアサヒ・ビア・ハウスの歌姫時代はなかったであろうし、そうすると、現夫に出会うこともなかった。さすれば、東京息子も我がモイケル娘も生まれていなかったであろう。

人生の都度の選択は、わたしたちの未来をひとつひとつ積上げることに他ならない。そのときは気づかなくても、歩いて来た道のりを振り返ってみると、岐路がいくつかあったに拘わらず、その時その時に選んだそれぞれの道は、今日のわたしを、家族を作り上げたことに繋がる。
     
人生には逆らい切れないものがあるかも知れないが、随所随所でわたし達の選択の意思が働くことを考えると、人生の多くの出来事はわたしたちの意思によって運ばれることは、否めようがない。

「つばさ食堂」は、我が青春の一枚の絵として、今でも鮮明に思い浮かべることができる。

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2020年8月21日 ドン・マヌエル大窓の様々なシンボル

暇をみてはパソコンに向かい、探し物をしている。

自分が撮影してきた画像、特にトマールやシントラなどの資料となるべき写真は、時にじっくり眺めたりする。なにしろ窓が大きくて、その場では細部まで気づかないのである。

何度か訪れてきたトマールの元テンプル騎士団修道院、現在はキリスト騎士団修道院にあるドン・マヌエルが造らせた「大窓」の写真を大きな画像のまま、既に紹介済みの「ベルト」や「ドラゴン」などを眺めながら、面白いものだなぁ。大の大人、国王たる者にこのような不思議な建築様式をさせるその根本はいったい何なのだろか、とそこが知りたくて追っかけをしている。

今回は大きくした画像を眺めながら、ふと長方形の大窓の上にある丸窓に目を移した。
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ゴチック様式建築ではよく見かける丸窓です。窓にある渦巻状模様がひとつ、ひっかかってはいたのだが、これまであまり気にとめずにきました。

しかしですぞ、わたしとしましては心踊る発見をこの丸窓にしたのであります!拡大した画像にみえたのは、これです↓

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こ、これはなに?よくよく見ると人間の顔、そして前に両手。。。スフィンクスではない?

画像を拡大してよく見ると羽を持っているように思われます!「翼を持つスフィンクス」には、アッシリアやペルシャ王朝時代のスフィンクスがあります↓

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ペルシャ王朝のダレイオス・スフィンクス(480BC) 
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トマールのキリスト騎士団修院は12世紀にテンプル騎士団によって建てられ、17世紀にかけて増築を重ねたものです。

特にこの大窓を造らせた16世紀のドン・マヌエル王の時代は大航海がもたらす巨万の富によりポルトガルが栄華を極めた時代。ドン・マヌエルはポルトガル歴史上、最もリッチな王と言われます。

このマヌエル建築様式の大窓に何が故、スフィンクスが置かれているのか。この丸窓の渦巻き模様の外にもまだ面白いシンボルがあるのです。↓

tomar
樹の根を両手で支えている帽子をかぶった男の顔。

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↑わたしがずっと検索していたものの、未だにひっかかってこなかったシンボル「鈴」の意味。鈴のシンボルは大窓の他の箇所でも見かけられます。

ドン・マヌエル王はこの巨大な窓にこれほど多くのシンボルを隠して一体後世の人々に何のメッセージを残したかったのか。或いはこれらのシンボルはそれを解読できる極一部の人たちに残したメッセージなのか。だとすれば、それは誰になのか?

キリスト騎士団の総長の名を冠した王だが、これらのシンボルから見える王のプロフィールは、カトリック教会から見れば「異端」と糾弾されてきた、秘儀参入者そのものとわたしには思われるのです。

ドン・マヌエル王の謎に挑戦するわたしは、あたかも「朝には四足、昼には二本足、夜には三つ足の生き物はなにか」と謎を投げかけては、それを解けない旅人を殺していたと言われるテーバイの美しいスフィンクスの前に立つ凡な旅人のような気がしないでもない。

この謎解きにはとても時間がかかり、多くの資料に目を通すことになるのですが、ポルトガル語やえいgダヴィンチ・コードから発したライフワークです。

次回は、鈴のシンボルの謎について。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございます。

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2020年8月19日 

今日はなぞ解きお休みで、ブログ日記です。

このところ、ポルトはやけに涼しい。
8月に入るや、最高気温が22、3度、最低気温は知る限り14、5度だ。

ポルトの夏は乾燥気候だが、寝るときはタオルケット一枚でも時に暑く感じることがあったりするのが恒例。なのに、今年は涼しくて先週から夜から薄めの毛布もどきをかけている。

7、8、9月はポルトガル独特の目が醒める真っ青な空を頭上にいただくのに、霧雨だったり雨だったりの日もありと、まさかの夏ではある。

この気候がコロナと関係あるかどうか知らないが、そろそろわたしはコロナ禍にキレかけているのである。3月のロックダウンから5月半ばの緩和期間までの恐怖と終末観は忘れるものではない。が、日本のニュースでもポルトガルでも、毎日毎日、コロナウイルス感染者の数字を聞かされてはたまったものではない。

これまでのところ、周囲にコロナ感染者が出ていないので、こんなことが言えるのかも知れないが、そろそろ穴の中から這い出したい、わたしはムジナの如しだ。

そんなわけで、半年も閉じこもっていると体のみならず、精神的にもよくない。人混みはなるべく避けて、夫とできるだけオープンスペースのある食事処を巡っている。

そのひとつが先日行って来たNeya Hotelのテラスバー。

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天気が悪かったが、テラスで生ビールと軽い食事。

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ドウロ川の向こうにガイアの町が見渡せる。

真横には、モンシーク修道院の廃墟の一部が見える。
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ところで、デザートに頼んだハニーチーズケーキがこれ!(食べかけですみません)

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鉢が運ばれてきた時は一瞬、ぎょっ!と思った。覗いてみると、つ、土なの?夫に先に毒味してもらうことに(笑)

わたしも恐々口に運んでみると、土に見えたトッピングは砂糖の入っていないチョコレートのようだ。 これは特にハロウィーンなどに作られる、子供に人気があるアメリカのデザートで、ダートケーキ(Dirt cake)と呼ぶらしい。

dirtcake4.jpgdirtcake3.jpg


 
画像はWikipediaから拾ったものだが、なんとまぁ、ゼリーで作った虫のようなものまでご丁寧に乗せてある。

こんなのはうちの子供たちも喜んだだろうなぁ。わたしはダメだけど(笑)
Dirtとは土とか泥の意味。クリント・イーストウッドの映画シリーズで「ダーティー・ハリー」というのがあったが、汚いと言うそれだ。

黒い部分はもちろん土などではなく、オレオクッキーやダークチョコレートを使うようだ。わざわざ鉢に入れるのもアイディアが奇抜。

味はどうかって?全部食べましたよ。チーズケーキはクリーミーで美味しかったしトッピングの土もどきも大丈夫。

ルーツがアメリカとはさもありなん。レシピについてはネットで検索するといくつか出るので興味がある方はどぞ。

なお、横のモンシーク修道院廃墟については、下記にて案内してます。

・「破滅の愛」の舞台・モンシーク修道院」http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-2334.html

本日はこれにて。

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2020年8月17日 聖ジョージの黄金伝説

下の絵はラファエルによる「聖ジョージとドラゴン」です。聖ジョージの象徴は白馬、竜、赤い十字。

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wikiより。

聖ジョージはカッパドキア生まれでローマの軍人ですがキリスト教徒だったと言われます。伝説には、ある村を聖ジョージが通りかかったとき、竜のいけにえとして王女が差し出されるところを、聖ジョージが竜を退治し、村人たちがキリスト教の教えを受け入れたとされています。聖ジョージは後に異教徒に捕らえられ、棄教しないがため斬首され、殉教者になっています。

さて、上の絵の足の部分を拡大してみましょう。画像があまりはっきりしていませんが、左足にはガーターが見えます。
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こちらの絵は19世紀の英国画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの聖ジョージを描いたロマンチックな絵です。抱かれているのは助けられたサブラ姫。
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この絵では聖ジョージの膝にはっきりとガーターが描かれています。
(ここでは天使(?)が小さなベルを鳴らしています。そしてそれぞれの胸にある大きなX文字、更にその天使の顔の横のX文字、それと聖ジョージの右肩にあるマークは何なのか、気になっているですが、今回はそれを置いときます)
    
1348年にイギリスのエドワード3世は聖ジョージを好み、イングランドの守護神とし、ガーターをシンボルに、ガーター騎士団を結成しました。男性の団員は左ひざに、女性の団員は左腕にこのガーターをつけます。

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↑“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)と書かれてある。
また、金の首飾りに下がる記章は白馬に乗り、竜を退治する聖ジョージが象られています。

ここでガーターと竜のシンボルが結びつき、トマールの大窓の右の大木に巻かれているのはガーター騎士団の二つのシンボルに8割がた間違いないと思いました。しかし、これはイギリスの話であって、ポルトガル国王とはどのようなつながりがあるのか。

ガーター勲章の叙勲はキリスト教徒のヨーロッパの君主に限られていたとあります。ポルトガルとイギリスの両国は14世紀にランカスターのフィリパ王女とポルトガルのドン・ジュアン一世の婚姻以来、常に同盟関係にありました。
さすれば、ポルトガル王たちがガーター騎士団に入団していても不思議はないはず。

因みに、ドン・ジュアン一世とランカスターのフィリパ王女との間には3人の王子がおり、その一人が後のエンリケ航海王子です。

さて、そこで、仕上げとしてドン・マヌエルが果たして本当にガーター騎士団メンバーであったのか、この確認には日本語ポルトガル語では出てこず、時間を要しました。

これを追ってずっと検索し、ついに英語サイトでガーター騎士団の過去から現在に至るナイト(騎士)とレディーのリストをゲット!

そして、ビンゴ!ヘンリー8世(1509-1547)の時代のリストに「Manuel I, King of Portugal」の名前を見つけました。こういう時は本当に嬉しい!

これで、大木に記されたシンボルの謎解きはできたことになります。

テンプル・キリスト騎士団修道院は現在では世界遺産に指定されています。「ただ古いだけでなんだかあまり面白いと思わなかった」という人もいるのではないかと思いますが、何世紀もの建物をそのままにしてあればこそ、古さのなかに秘められた遥かな人間の歴史、人間の思想が潜んでいるのを知ることができます。

それらを追い求めて調べていくうちに多くの伝説や歴史的な物語に接することができます。西洋の歴史はキリスト教を知る必要がありますが、信者でないわたしの目からみる宗教の歴史は面白く、また、キリスト教が絶対宗教だった中世にあって、それとは別の異端思想を密かに守り通そうとした人々の存在がうかがわれるのには、多いに興味を惹かれます。

自由な思想を表現できる現代にこそ、歴史を学ぶことで、自由とは何かを少し理解できるような気がします。

最後にもうひとつ、面白い発見を。

エリザベス女王をマスターにいただく「ガーター騎士団勲章」ですが、日英同盟の関係で例外的にアジアの国の元首として初めて、明治天皇に叙勲され、大正天皇、昭和天皇も同じく叙勲されているそうです。しかし、第二次世界大戦では敵国となったため、名簿から削除。

1971年に復帰、1998年のイギリス訪問で明仁上皇(当時は明仁天皇)も、メンバーに記録されており、遡れば大正天皇、昭和天皇と、ヨーロッパ人以外でこのガーター騎士団メンバーになっているのは日本の天皇のみとなっています。
(wikiからの参照)

「何がなくても誇りだけは」と陰口を叩かれるイギリス人ではありますが、古い伝統を頑固に守り通そうとするのには、尊敬の念を抱かずにはおられません。

トマール大窓、片方右側の大木にあるベルトの謎はこれで一件落着です

次はこのわたしがこの意味ではないかと、つい先だって閃いた謎解きを書いてみます。

ではまた。
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2020年8月15日 ドン・マヌエル大窓の謎・木の幹のベルト


マヌエル建築様式の特徴は石細工に見られる下記に示す例のような様々なシンボルです。

1 船や航海に関係するもの。錨、鎖、地球儀。特に地球儀はドン・マヌエルの紋章で、「コスモス=宇宙」を意味し、現在もポルトガル国旗に使われている。

2 海に関係するもの。貝、真珠、珊瑚、海草が連なったもの。

3 テンプル騎士団/キリスト騎士団のシンボルの十字

4 繁殖のシンボルのざくろ、再生のシンボル、アーティチョーク、不死のシンボル、松かさ。
 
5 結ばれた太縄、鈴のついた首輪。
                       
6 乾いた大きな木。これは後期ゴッチック建築にも見られますが、フランシスコ会や自然主義者の象徴だと思われるが、他説もある。

などなど。

マヌエル建築様式の代表的建物としては、べレンの塔、ジェロニモス修道院、シントラの王宮、バターリャ修道院などがあり、いずれもよく目を凝らしてみると、数箇所に隠れるかのように不思議なシンボルがあるのが分かります。

今回はこの大窓の目につくミステリアスなシンボル、木に巻かれたベルト紹介。

右側の木から。

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乾いて根をむき出しにした大木の巻かれたバックルつきのベルトです。最初の訪問時にはこれを見逃したのでした。

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更に根元の下に目をやると↓

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これはドラゴンの顔だと言われています。
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ベルトの意味は?ドラゴンはなぜここに?これの謎ときに挑戦してみました。

時間に任せてあちこちネット内をサーフィンしているうちに、ある日出会ったのがイギリスの「The Order of the Garter」こと「ガーター騎士団」です。

★「ガーター騎士団」ガーターとは、最近では女性もめったに着けなくなった「靴下止め」のこと。そんなガーターの騎士団とは一体どんなものなのか?

14世紀の半ば、イギリスのエドワード三世が設立した騎士団で、フランスとの百年戦争のために団結力を結束させることを目的に、「アーサー王と円卓の騎士」を真似て24名の騎士を編成したのが始まりだと言われます。

騎士団は君主から「ガーター勲章」を受ける形をとります。勲章一式はブルーの生地に金糸で「Honi soit qui mal y pense(よこしまな思いなる者災いあれ)」とフランス古語で刺繍されているガーター、黄金の首飾りとそれにつける記章、星の記章(下の画像で女王がきているマントの左胸にある)大綬章で構成されています。
 
ガーター↓は男性団員は左ひざに、女性団員は左腕につけるのが習慣とされます。 garter3_2020.jpg
wikiより 
       
これは現在もイギリス王族に引き継がれており、1948年以来、毎年6月にウインザー城でセレモニーが行われるとのこと。勿論、現在のマスターはエリザベス女王です。

garter4_2020.jpg
wikiより

下の写真からウイリアム王子もガーター騎士のメンバーになったことが分かりますね。黄金の鎖をさげています。

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wikiより

さて、この辺まではこれまでの調べで分かっており、ベルトと思っていたトマールのテンプル・キリスト騎士団修道院、マヌエル式大窓にあるものはベルトではなくてガーターではないか?と思い始めてきました。

しかし、これだけではつながりが明白でなく憶測の域をでません。そこで、「ガーター騎士団」の由来を辿ってみることにしました。

ガーター騎士団は、イギリスのエドワード3世が設立したのですが、その歴史は12世紀、獅子王と呼ばれたリチャード一世の十字軍遠征に遡ります。

十字軍遠征は11世紀から13世紀の間に9~9回の遠征があり、12世紀後半の第3回目の遠征にリチャード一世は参加しました。

この時、リチャード一世は加護として自身が崇敬する聖ジョージ(聖ゲオルギオス)の象徴である白地に赤い十字をあしらった旗を掲げ、同じく聖ジョージが足に着けたと言われるガーターを着けて闘いに臨みました。(上の写真、ウイリアム王子のマント、左胸にあるマークがガーターの真ん中に象られた聖ジョージの旗です)

この時の旗が後のイギリス国旗、ユニオンジャックの元になるわけですが、このことから後に聖ジョージはイギリスの守護聖人にもなります。

当時の騎士がガーターをつけたのには、そこに武器を差し込むためと考えられます。

ここに来て、トマールにある大窓の木に巻かれているのはベルトではなくて「ガーター」ではないか?と思い始めたたのですが、ガーター騎士団は英国のこととて、これだけでは決め手になりません。

そこで、まず「聖ジョージ」とは誰なのかを調べてみることにしました。

続きます。
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2020年8月14日 テンプル騎士団からキリスト騎士団になったいきさつ

気になったものの、PC検索にも自分の知識にも限界を感じ、何年も放っておいた謎なのだが、急に閃いて、鈴、ピタゴラス、神秘主義者、タロットカードの愚者を再度調べて、トマールにあるテンプル・キリスト騎士団修道院のマヌエル大窓の「鈴」の謎が、なんとなくつながった!

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と書いても、なんのこっちゃ、と思われる方が多いだろうから、「鈴」をいったん置いといて、今回は序章として、わたしが取り組んで来たトマールのキリスト騎士団修道院の謎をしばらく取り上げて行きたいと思います。

少しテンプル騎士団について、書いてみましょう。

聖堂騎士団(テンプル騎士団)にまつわる話はその結成から終焉に至るまでミステリーに満ちています。

聖堂騎士団は西欧中世期に於ける宗教三大騎士団の一つであり、正式名を「キリストの清貧騎士団・ソロモン神殿の騎士団」(The Knights of the Temple ・the Poor Soldiers of the Temple) と称される宗教的軍事的団体です。(註:Templeとは古代エルサレムにソロモン王が建設し、後に破壊された神殿のこと)

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ソロモン神殿画像の一例。神殿正面の二本の柱は右がヤキン、左はボアズと呼ばれ、フリーメーソンのシンボルにも使われています。

12世紀の初めにフランス人ベルナール・クレヴォー(後の聖ベルナール。シトー会クレヴォー修道院の創立者。)により任命を受けたユーグ・ド・パイヤンをグランド・マスターとする9人(11人と言う説もある)からなるこの騎士団が後に聖堂騎士団として知られるようになります。

表向きは聖地エルサレムへの巡礼路警護としていましたが、彼らの行動はその目的から逸脱しており、専ら彼らがしたことは、ソロモン神殿の跡地に宿営して、9年近くもの時間を神殿の丘の地下発掘に費やたことだと言われます。

テンプルとは、エルサレムのソロモン王神殿(テンプル)の名前からとられています。
 
生涯独身であることを強いられた聖堂騎士団は、やがてフランスのプロヴァンスを始め、シャンパーニュ、イングランド、トスカーナ(イタリア)、更にアラゴン、ガリシア(スペイン)、スコットランド、ノルマンディ、ポルトガルが騎士団勢力の主だった中心地となり、騎士団に寄進された彼らの不動産はバルト海から地中海、大西洋岸から聖地にまで及ぶ広大なものでした。伝説的な騎士団の勇敢さは、規則の「死ぬまで戦う」によるものです。

しかし、聖堂騎士団が大きな城を所有できたのは、アラブ人との戦い(アラブ人からの国土奪回戦争=レコンキスタ運動)に不可欠であったスペイン、ポルトガルに限られていました。

トマールの「テンプル・キリスト騎士団修道院」がそのひとつで、ポルトガルに於ける騎士団の総本部でした。

ポルトガルの歴史で「テンプル騎士団」の名前が言及されるのは、ポルトガルがまだ独立国として建国されておらず、「ポルトカレンス」と呼ばれていたスペイン・レオン王国の領地だった1120年代のことです。

当時ポルトカレンスは、領主亡き後で、後にポルトガル建国初代王となる「ドン・アフォンソ・エンリケス」(D.AfonsoHenriques)王子の母、ドナ・テレザが統治していました。

1120年代のとある日、ドナ・テレザは、徐々に騎士修道会として頭角を現してきたフランスのテンプル騎士団初代グランドマスター(総長)「ユーグ・ド・パイアン」から、「ポルトカレンスでのテンプル騎士団居留地の提供依頼」の書状を受け取ります。

イベリア半島は、レコンキスタ運動と称して(レコンキスタ=再び征服する)イスラム教徒からの国土奪回戦争がこの時まで既に400年近くも展開されており、ドナ・テレザはこの要請に応じて、中部、現在のコインブラ近くのSoureに駐屯地を与えたことから、ポルトガル・テンプル騎士団の歴史が始まることになります。
 
テンプル騎士団の総長、グランドマスターは終身制、各国にはマスター(管区長)が置かれ、ポルトガル初代のマスターは、トマールの銅像に見られるように「Guardim Pais(グァルディン・パイス)」です。

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トマールのテンプル・キリスト騎士団修道院は12世紀の初期テンプル騎士団時代から16世紀まで4世紀を経て増築され、ロマネスク建築、ゴチック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築の不思議な併合は訪れる人を飽きさせないでしょう。

テンプル騎士団がもつ莫大な財宝を横取りしようとフランスのフィリップ4世と教皇クレメンス5世が策略を仕掛け、テンプル騎士団を異端の罪に押し入れ、ジャック・ド・モレ―を最後のグランドマスターとし、騎士団は追放、禁止されます。

さて、ポルトガルのテンプル騎士団はというと、当時の王ディニス一世は、トマールのテンプル騎士団がイベリア半島のレコンキスタ運動で果たした大きな尽力を挙げ、バチカンに国内のテンプル騎士団が持つ資産と財産の継承許可をもらい、新たに旧テンプル騎士団からキリスト騎士団を結成します。

これが、「Ordem de Cristo(キリスト騎士団)」であり、その拠点が「Convento de Cristo(キリスト騎士団修道院)」と、現在呼ばれているのです。キリスト騎士団歴代のグランドマスターに8代目のエンリケ航海王子がいます。

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テンプル・キリスト騎士修道院の16角の聖堂。内部は8角になっている。

歴史を紐解くと、ポルトガルはテンプル騎士団によって建国され、テンプル騎士団の財産があってこそ、大航海時代を築けたのではないかと思われます。

本日はポルトガルに於けるテンプル騎士団とキリスト騎士団についてでした。次回からは、
真っすぐ、ドン・マヌエル一世の大窓の謎を取り上げて行きます。

本日はこれにて。
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2020年8月11日 

先ごろ一児の母となり、生後二カ月目に入った娘、青空ちゃんの世話に日々追われながら、ひぃひぃ言っている我がモイケル娘だが、出産ギリギリまでポルトガル語から日本語、日本語から英語などの翻訳の仕事を納入している。

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今日の青空ちゃん。ごんぼ掘り(ゴボウを掘る=津軽弁で駄々をこねること)

大学のコースは英語だったのが日本語が面白いと興味を持ち出し、大学院は全く畑の違う近世文学(江戸時代の文学)を取り、しかも卒論は狂歌で、一応院を卒業しているモイケル娘だ。わたしの理解の枠から多少はみ出している。それを聞いたときは、「きょ、狂歌ってなにね?」と問うたものだ。

古文の崩し文字を読み取るにあたり、当時の彼女の奮闘後、「講師に笑われた」と言って帰宅して来たの思い出すと、わたしは今でも笑いがこみあげてくる。講師も彼女の無鉄砲さに目の玉をひんむいたであろうが、卒論を書くときは、近くの図書館には資料がほぼ皆無と言って、国会図書館にもネットで出入りしてよく勉強していたと思う。

こういう娘であるからして、子育てをしながら、あるいは子育てが少し落ち着いたところで、そこから彼女がどんな人生を展開していくのか、楽しみなのである。

近世文学と言えば、わたしなどは大阪にいたころは、浄瑠璃作家の近松門左衛門の戯曲集を読んだりした。江戸時代故、いわゆる古文とは違い、意外や読みやすかったのである。
浄瑠璃も2度ほど観に行って、その舞台に引きずりこまれたかのように、見入ったものだ。

娘が近世文学を、と言い出した時に、近松門左衛門の話も出したと思うのだが、「曽根崎心中、心中天の網島、冥途の飛脚」と、こちらは心中物が有名で、娘の興味を引かなかったらしい。

シンキくさいのよりもガハハハと笑えるのが性らしい。それで、当時、引っ張り出してみたのが大阪弁のしゃれ言葉。プッと笑いを誘い、ユーモアとしなやかさを感じるものをちょいと紹介した気がする。

「あの商談は夜明けの幽霊でんなあ」 →「夜明けの幽霊」は立ち消える。
「あいつはトコロテンの拍子木や」→ おとなしい人のこと
「お前はとんど、八月の槍やの」→ 八月の槍は「盆槍」→ボンヤリ
「饅頭の臼で、あいつはあきまへん」→ 饅頭屋の臼は餡をつく→アンツク(阿呆)
「あいつは紀州のスイカや」→ 皮が厚い あつかましい
「あん人、うどん屋の釜やで。あてにせんとき」→ 湯ばかり 言うばかり 
                               つまり口先だけ
ぼんやりだのアンツクだのと直接言われると角が立つが、「饅頭屋の臼やぞ」「八月の槍やぞ」だと、言われた当人も、あははと笑ってしまい、「すんまへん、桶屋の前だれで、忘れてました」と頭に手をやり、恐縮してすませられる。 

「桶屋の前だれ」は、桶を持ち上げる時、前だれ(前掛け)に縁部分の輪が当たり、前掛けが擦れてくることからいつも桶の輪が擦れる→わがすれる、忘れるだそうな。

いかがでございましょ?
え?ちょっと古すぎて、spacesisさん、あんたもお盆の商店街でんなぁ」?
                       (↑spacesis作→お盆の商店街→暇) 
ほっといてんか~。

というわけで本日はこれにてご無礼つかまつる。
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2020年8月9日 

ポルトを案内するについては、歴史ある古いスポットの案内が好きなのですが、全部と行かないまでも、かなりの場所を拙ブログで紹介していますので、本日は、先週土曜日、日本語オンラインレッスン終了後、軽くランチしようと、夫に引きずられて行った隣町ガイアのWOWこと「Word of Wine」を案内します。

WOWは、Yeatman Hotelが建つ丘の下に建てられ、7月末にオープンしました。
下図、黄色はホテル、赤がWOWです。

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Yeatman Hotelの右横は、通りを挟んでTyler'sのワインセラーです。WOWには6つのワイン関係の博物館と、9つのレストラン、イベントスペース、ワイン学校もあります。

建物のひとつに入ると切符売り場があり、ここで博物館の入場券を買います。
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ポルトのワインセラーはたくさん見て来たので、私たちはスキップ。切符売り場の横は、スィート専門のカフェ「Suspiro」です。

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「Suspiro」は、「ため息」という意味です。
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こちらもランチ前だったので店内を少し見歩いただけです。

↓WOW内の広場はとても広い。将来的にはここで音楽イヴェントもできそうです。レストラン内もすっかりソーシャルスペースが取られています。
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レストランはこの広場をぐるりと囲んでいます。

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そして、この広場から眺められる絶景!

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ポルトは対岸のガイアから見るのが素晴らしい。上からも下の川沿いからも。

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ドン・ルイス一世橋と右に見えるは Pilar de Serra (元修道院)
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レストラン内からもポルトの絶景が眺められます。
久しぶりにワインを飲みました。おつまみはやはりこれ、生ハムとメロンです。
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料理の写真を撮り忘れました^^;量が少なめで、わたしにはちょうどよかった。

なお、近くのYeatmanホテルはこちらで案内してます↓
http://spacesis.blog52.fc2.com/blog-entry-2208.html
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2020年8月5日 

エライことになるところだった。

コロナ禍で去る3月から5カ月に及ぶ自粛生活をしてきた。食糧買い付け以外は極力外出を控えて来たのだが、人間、こんな生活をしていたらイカン、感染はしないが体力もエネルギーも衰弱するということをわたしは今実感しているのである。

朝起きるとネットで日本のニュース、政治関係のブロガやツィッターを一通り回って読むのが日課だ。じっくり読む方なのでパソコンの前に座る時間が結構長くなる。

日本語授業も対面授業だったころは、教材のコピーに時間がかかったものだが、オンライン授業の今、それらをスキャンし、各生徒にメールで送るという作業が加わったので、これもパソコンを使うことになる。

時に雑誌の原稿の依頼が来るので、その際も資料を得るための検索はやはりパソコンだし、原稿を打ち込むのも然り。

日本に住む子供たちとのチャットもスカイプでするので、やはりパソコンの前に座る。今、書いている拙ブログも、こうしてパソコンを利用している。

補習校や日本語授業でもわたしは座ることがなかったのだが、今では週に3回の日本語オンライン授業で、土曜日などはぶっ通しの3時間、座ったままだ。パソコンの前に座る時間が増え、外出しないので歩く量が俄然減る。

で、先週初めから腰回りに痛みを感じ、座るのも立っているのも辛くて、夫に頼んで陣痛剤を服用していた。

ショックだったのは、一度アームチェアに腰かけて立ち上がろうとしたところが、両足が動かない!おいおい、ユーコさん、どないしたんや?と大いに焦った。こんなのは一度も経験したことがないぞと大きな不安に襲われた。
これ以上、こんな生活を続けていたら、これまでのように帰国中チャカチャカ歩いて、あちこち
行動していたことも夢のようになってしまうではないか。いや、弱った足腰では、日本の空港に着いたとたんにヘナヘナになってしまうかも知れない。
脚は吊るわ、腰は痛いわで、真夜中に目が覚めて考え始めたら眠れなかったのである。

よし、明日は、あれこれ準備云々をやめて、起きたら歯磨き洗顔をして着替え、猫の世話も帰ってからしようと、そして、すぐ、家を出て周囲を歩こう!パソコンは、土曜日の3時間授業を除いては1時間ごとに席を立つようにしよう。土曜日の授業も、できるだけ立ってしよう、そう思った。それが先週土曜日の真夜中、つまり日曜日のことだ。

いつもは起きてすぐシャワーを浴びるのだが、それは後回し。日曜日は8月だとは思えない気温で風もあり、散歩にはちょうど良く、往復約40分の道のりに暑くもないのに、汗をかいていた。

そして、晩食後、早めに後片付けをするや、「歩いてくるね~」と、夫に声をかけると、「待て、一緒に行く」と言う・・・・「ひ、独りがいいんだが」とは、よう言えませんでした。

二人で歩くと、話すものだから段々歩く速度も落ちて、息切れしてくるのだ。しまいには歩きながらああでもないこうでもないと口喧嘩になったりする。が、ついて来るなとは言えず^^;

こうして始まった朝晩1時間半ほどの散歩だが、今、酷い筋肉痛に襲われている。イテテテテ。夫がクスリと笑っているのが分かる。悔しいが、せいぜい「ふん!」と独り言をいうしかない。

わたしは今、歩く姿がアヒルの如し。しかも年取ったアヒルである。情けない。

いつになるか分からないが、元気な帰国をめざしてその日が来るまで歩く、頑張る!
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2020年8月3日 

子供の頃から今に及んで、失敗談には事欠かない。
しでかしてしまった後に、自分でもおかしくて笑いのネタにするものもあれば、中には、恥ずかしくてとても披露できないものも若干ある。

しかし、こう言ってはなんだが、何十年も前の失敗談ともなると、失敗談の域を超え、これはもう殆ど自慢話に近くなってしまったと言う、わたしが小学校4年生くらいの話である。

娯楽があまたある現代からは、すっかり姿を消してしまっただろう、弘前でのわたしの子供時代は専ら自然を相手の遊びが中心であった。家の裏には畑があり、その少し先には小川が流れていた。その向こうは限りなく田んぼである。
いつだったか、帰国の際に妹宅で見つけた懐かしい昔の写真を見て、その小川がこんなにも小さなものだったと知り驚いたものだ。

あばちゃ
写真は我が祖母、右から我が母、二人のおば。9人兄弟のうちの三人姉妹。左端には、当時祖母の家に同居してい叔父一家の従弟が写っている。

稲刈り後の田んぼは、刈られた稲の茎がニョキニョキ突き出ていて、裸足で遊ぼうものなら、痛くて半べそをかいたものだが、それでも、だだっ広い田んぼは遊びには格好の場所であった。

夏は6畳の部屋いっぱいに吊るす「蚊帳(かや)」が、本当に嬉しかったものだ。何が嬉しかったかと言うと、それをハンモッグ代わりにして遊ぶのであり、見つけられては祖母に叱れたものである。

蚊帳の中に、裏の川原で捕ってきた蛍を放すのも、子供心になかなか風流なものだと感じ入った。今にしてみれば、短い夏の夜の蛍の儚い命、気の毒な気がしないでもないのだが、わたしが子供の頃は、蛍も赤とんぼも、今からは考えられないほど、いくらでも見かけたのである。捕まえることを気にもしなかった。

ほうずきの中身を上手に取り出し、口に放り込んで鳴らすのも夏の遊びの一つだ。おかあさんごっこ、着せ替え人形などはわたしの性に合った試しがなく、2つ年下の妹を引き連れては、毎日のように、男の子たちといっしょくたになって遊び、わたしがガキ大将だった頃だ。

普段の日の放課後も長い休みの日も、寒い冬を除いては隣近所の子供達と何かしら自然の中から遊ぶものを見つけ出しては、日が暮れるまで遊び呆けた子供時代だった。

この頃、わたしは「ターザン」を知ったのだ。夢見る少女はターザンのように木から木へと飛び移り、「あ~ぁあーー!」と大声出すことに憧れた。

「そうだ!裏の畑と田んぼの境目に、大きな古い梅の木があるではないか!」今の小学生と違い、当時の小学校4年生の頭など単純なものである。

素晴らしいアイデアに酔ったわたしは、翌日、近所の手下どもを引き連れて、早速ターザンもどきを決行したのである。

木登りはお手のものであったから、大きな梅の木にはスルスル上り、家から持ち出してきた縄を二度巻きにして太目の枝に引っ掛けた。ここまでは上出来だ(笑)縄が体重の重みで切れるかも知れないのをちゃんと計算したのである。下では子分どもが心配そうに木を仰いでいる。

やおら、その縄にぶら下がり、夢見る少女は叫んだ、
「あぁ~あーー!」
二回三回と枝を揺すぶった。

と、突然なぜだか分からないが、自分の体が土に投げ出されたのを感じた。2度巻きにしたはずの縄が、梅の木の枝からダレンと長く垂れているのが見えた。

右腕に激痛!立ち上がったもののその痛みに耐え切れず「痛いよ、痛いよぉ」と腕を押さえて辺りを走り回るがき大将の女親分。

子分たちはと言えばポカンと口開けて、わたしが遊んででもいると思ったようだ。しかし、親分の顔は、見る間に青ざめて行く。事の異様さに気づいた子分の一人が人を呼びに走ったのである。

そのまますぐ近所にある下町の骨接ぎや(整骨や。昔はこう言ったのだ)まで、祖母が私を担いで走った。診断は右上腕骨折。

その夜は、祖母と同じ布団で寝、祖母にしがみついて腕の痛みで一晩中泣いた。治るまでの一ヶ月以上、学校へは行けず、腕を三角巾で吊るので洋服も着れず。

一瞬ひらめいたターザンの夢はあっけなく終わり、以来、親分はすっかり面目を失ってしまった。

着物を着て右腕を吊るす、元気の薄れたあの頃の女ガキ大将の、セピア色になった写真が一枚ある。

今日は過去の記事を少し書き換えてみました。
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2020年8月2日 

武漢ウイルスに振り回されて季節感が失われたような気がする。
気がつけば8月。

3月に始まったのが季節が変わっても未だに感染力が衰えない執拗なウイルスに世界はまだ打つ手が見いだせないでいる。

当初は夏になれば状況が変わるだろうと安穏と構えてきたが、その期待は外れ、今ではこの不安は来年も続くであろうと覚悟せざるをえないようだ。

こんな時に、ここ数日、ネットで話題になっているのが、C国から送られてくる中身が種子の注文した覚えがない郵便物だ。

7月の終わりころから、アメリカを始め、カナダ、英国から、そして日本の一般市民からも既に報告があるそうだ。

China Postと書かれてあるが、差出人の名前はない。中身はと言うと封筒には「宝石」などと書かれてあったりする。しかし、怖宛先に受取人の名前から住所、携帯番号まで書かれてあることだ。アンタの個人情報は掴んでまっせと言わんばかりで、これは怖いではないか。送られて来た種子の一部は、中央アジア原産のジャイアントホグウィードの核種子のようだとの情報もある。

ジャイアントホグウィードは、光毒性と侵略的外来植物であることから、駆除対象となっている猛毒な草で、高いものは4mまで成長し、2万粒の種を周囲にばら撒き繁殖させる。

毒性は触れただけで火傷のような症状が出た後、一生火傷のような跡が残る 狩る時には全身防護服が必要で、下手に切ったら液が飛び散り目を失明させるとのこと。(Wikipedia)

この「ジャイアントホグウィード」だが、ミステリーものが好きなわたしが見たイギリスのTVシリーズ「Rosemary & Thyme(探偵好きな二人の女性の名前)」の最初のエピソードに出てくる。
庭に植えられたこの茎から取られた樹液が殺人手段に使われるのだった。

わたしが今回、不思議な種よりも不思議だと思ったのは、自分が注文した覚えたない郵便物が、しかも中国からの郵便物が届いた時点で、おかしいと思わなかった人がいたということだ。

いったいどのくらいの人がおかしいとも思わず返送しないで開封したのか。コロナ禍で感染者数も増えているというのに、種自体に、あるいは封筒の中にウイルスが内包されているかも知れないなどの想像力を持っていないということに、大きな不安を覚える。

この方法で、安上がりで的確にバイオテロが拡散できるではないか、と思うと恐ろしい。

自分が注文した覚えのない小包や封筒が届いたら、普通開封するか?種子だったら、植えて見たりするか?あまりにも危機感、常識感がないのとちがう?

夫にこの話を持ち出したら、君ね、パラノイア気味だよ、と最初は半分笑っていたが、自分で「C国から郵送された不気味な種子」を検索して、げ!となっていた。
見てみぃ~!

我が東京息子とモイケル娘にもこの情報を流すと、息子からはすかさず、「ママ、またC国の話?」と揶揄気味に来たもんだ。おまいら、C国を侮ってはいかんぞ。

皆様も重々お気をつけなさいまし。

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