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2020年6月28日 

今日は過去記事のエッセイを再掲しますので、ごめんあそばせ。
既読の方はスルーをば。

ー綴り方教室ー

子供の頃は、究極の内弁慶であった。

ご近所では、女だてらに男の子達を従えてのガキ大将であったのに、学校に行くとからきしダメなのだ。毎学期ごとの通信簿には、良くもない成績に加えて、「今学期も一度も挙手がありませんでした。」とか、「発言が一回も行われませんでした。」と、ずっと毎年書かれて来た。だから、悪さをして親が先生に呼ばれる、などと言うことは学校ではなかったのである。

小学校5、6年の頃であろう。わたしは生まれて初めて学校の小さな図書室に入り、一冊の本を借りた。それまで、本らしき本は、手にしたことがない。

当時は「なかよし」「少女」「少女クラブ」などの少女向けの月刊雑誌があったが、それらのどれか一冊を手にするのは年に一度のお正月であった。

朝、目が覚めると、わたしと妹の枕元にお正月特別号として、いっぱいの付録でパンパンに膨らんだ一冊の少女雑誌がお正月のお年玉代わりとして置いてあるのだ。それは本当に待ち遠しく、嬉しいものだった。その一冊は、完全に自分の物だったから。

さて、わたしが初めて学校の図書室で手にしたその本には、「シャーロック・ホームズ:まだらの紐」とあった。なぜ、自分がそれを選んだのか今では覚えていない。しかし、それが以後のわたしを読書に駆り立てることとなった始まりの、挿絵はところどころにありはしたが、活字がぎっしり詰まった、いわゆる「本」なのであった。

一発で推理小説の面白さに引き込まれ、わたしは瞬く間に図書室にあるホームズ・シリーズを読破した。

次に向かったのがモーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン:奇巌城」。これには参った!泥棒とは言えども、エレガントで世界中を股に掛け、恋をし、大金持ちからしか盗まないルパンが実にカッコよいのである。(と、当事は思った)

「怪盗紳士ルパン」「ルパンの冒険」「ルパンの告白」「ルパン対ホームズ」と次々と読み漁り、すっかり虜になってしまい、寝ても冷めてもヨン様ならぬ、ルパン様である。そして、シャーロック・ホームズよりも「怪盗ルパン」の方にわたしはより魅力を感じたのだった。 布団の中で、夜寝付くまで想像を膨らまし、夢の中でわたしはルパンになった。

そんなある日、クラスで綴り方、つまり作文の宿題が出た。作文を書き、それを各自がクラスで読んで発表するのである。
迷うことなどあろうか、わたしは自分が夢中になっていた、「怪盗アルセーヌ・ルパン」について書いたのである。

内弁慶だったわたしは、発表の自分の順番が回ってくるのにドキドキしながら、その反面、ルパンについて、皆に話したくてたまらなかったのだ。これは、究極の内弁慶にしては、生まれて初めて持った鮮やかな積極的な気持ち、興奮であった。胸の高鳴りを感ながら、大きな声で作文を読み上げ、最後をわたしはこう結んだ。

「わたしも大人になったら、ルパンのように世界中に手下を持つ大泥棒になりたい。それがわたしの夢です。」

数日後、母は先生に呼ばれた。「泥棒になりたいというのが夢。ましてや女の子がどうしたものか。」と、当の本人ではなく、母が説教をくらって来たのである。母はわたしを叱りはしなかった。

大人になったわたしは世界を股に掛けるとまではいかないが、一般の日本人の人生軌道を逸して、海の向こうはアフリカ大陸というイベリア半島にひっついている国、ポルトガルに定住することになったのだが、これは幼い頃の夢のかけらだと思ったりしている。

ここにはあの頃の究極の内弁慶の少女の姿はもうない。異国で子育てをし、日本とポルトガルを股に掛けてる間に、あのころの内弁慶だった少女は、人前で自分の思うところを言えるほどに、逞しくなったのである。
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2020年6月27日 

マヌエル・オリヴェイラと言えばポルト出身の映画監督で、2015年に106歳で亡くなった世界でも現役最高齢の著名な監督でもありました。アニキ・ボボ、アブラハム渓谷、クレーブの奥方など多くの作品を残しています。

監督はポルトのアグラモンテ墓地に眠っています。

さて、何故マヌエル・オリヴェイラ映画監督なのかと言いますと、我が家の黒猫ことぺト君に関するのであります。

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パソコンの後ろから顔出して、んもう、気になって仕事ができないよ。

かつては6匹いた猫たちが歳を取り一匹また一匹と旅立ち、去年の12月にはクルル猫を見送り、現在はとうとう3匹になってしまったのですが、しばらく前からどうも黒猫ぺト君が食べない。

そして、それまであまり目にしなかった水を飲む姿を何度かみかけたもので、先週日曜日に市内にあるサント・アントニオ病院の獣医科に救急患者として夫が連れて行きました。

gato

精密検査と2、3日食べていなかったので点滴のため、即その日に入院です。どうやら腎臓病のようで、やっと昨日一週間ぶりに帰って来たのですが、ただいま尿の検査結果待ち。

入院する前にも増して、も骨と皮です。
獣医さんが、18、9歳だと知り、「マヌエル・オリヴェイラだわねぇ(高齢という意味で)」と(笑)

入院中、「俺はここでおわるのかなぁ」と、さぞかし心細かったのでしょう、帰ってから一人で籠のなかで寝るのを嫌がり、わたしたちの側から離れません。

去勢手術をしてあるにも拘わらず、よくマーキングをしては、「こらー!またやった!」と、わたしに追いかけられて叱られていたのですが、近頃はそれもなくなっていました。

こ憎ったらしいけど、可愛いんですよね。
gato

こんな表情豊かなところもある(笑)
猫カフェ

病院で一人逝かせるのは可哀そうです。お前、終の棲家はここだよ、と言っております。

本日はこれにて。
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2020年6月23日 

ラメーゴ、Santo Estêvão(サント・エスティヴァン)山にある聖地ノッサ・セニョーラ・ドス・ルメーディオから、町並みを見下ろし、その後、車で町へ降り、レストラン「A presunteca(ア・プレズンテカ」で、軽く昼食をとることにしました。

↓画像はラメーゴの町中から見上げるノッサ・セニョーラ・ドス・ルメーディオの石段。
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レストランはこの向かって左側あたりの「N2」通りにあります。

ラメーゴは生ハムとRaposeira(ラポゼイラ)という、昔で言うところのシャンパンで有名なのです。

「シャンパン」は、フランスのシャンパーニュ地方で定められた製法で作られた物のみに使用される名前です。シャンパンと言う名は使えませんので、ポルトガルでは「espumante(エシュプマンテ)」と呼びますが、日本語のスパークリングワインもしくは発泡酒ワインです。

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上階にはパテオもありますが、人が数人いたので、わたしたちは人のいない階下でいただきました。

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ラメーゴに来て生ハム、Raposeiraなしはもったいないでしょう。

キンと冷えたRaposeiraはとても美味しかった!夫と二人で2杯ずつ乾杯しました。
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レストランの奥はワインの展示がなされています。
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大好きな生ハムですが、願掛け(ポルトガル語でpromessa=プロメッサ)で、ビール、ワイン、それに生ハムはこの日を境にしばらくストップのわたしです。買って来られなかったのは返す返すも残念なり。

なぁに、秋にはお礼参りでもう一度行く予定でありますれば(笑)

↓もうひとつ、ラメーゴの名物に「Bola de Carne de Lamego」と言うパンがあるのです。

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画像はWikipediaからです。写真を撮る前に、美味しくて全部食べてしまいやんしたっけ^^;厚みのパンでないのが好みでした。

ポルトガル語を少し知っている方は、「ユーコさん、またミススペルですねぇ。BolaじゃなくてBoloでしょう」と仰せかもしれませんが、今回は間違いではございません。実はわたしも。え?Boloじゃないの?と調べたのであります。

Bolo(ボーロ)は、いわゆるケーキの甘い方。Bolaはハム等を使った塩気があり上の画像のように、ペッタンコの形をしています。
↓こちらはBola de Bacalhau(大ダラのパン)
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そしてこちらはポルトガルではどこのカフェでも食べられるBolo de Bacalhau.
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タラコロッケとでもいいましょうか。「Bolo」はケーキの外に丸い形の意味があります。 ややこしいですねぇ(笑)



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2020年6月22日

ポルトガルで現在は既婚女性の冠詞に使われる「Dona(ドナ)」は、かつては貴人の女性のタイトルでした。

これに対するのが男性に使われた「Don=ドン」です。「ドン・アフォンソ」「ドン・マヌエル」などに見られるように、ポルトガルの歴代の王には最初に「ドン」のタイトルが付きますが、妃には「ドナ」が使われました。女王のマリア1世も「Dona Maria 1(=ドナ・マリア プリメイロ=マリア1世)と、「ドナ」が使われます。

では、ドナ・アントニアはと言うと、彼女は貴族ではありません。が、王から「伯爵夫人=Condessa」のタイトルを与えられています。これも面白いのですよ。

ドナ・アントニアはタイトルなど自分は要らぬと最初は断っています。数年後、再び王から「進ぜよう」と言われ、「2度もタイトルを王に断るのはどうか。それに、俺には何のタイトルもない」とのたまうドラ息子の意見を仕方なく飲んだと言うのが本当のところです。このタイトルは息子が引ぎ継いで貴族に引き上げられることになりました。

20世紀初期のこと、ドン・マヌエル2世を最後に王政時代も終わり、ポルトガルは共和国になりましたが、以後、「ドナ」の称号はいつの間にか一般の既婚女性を呼ぶ際に使われるようになったのです。ですから、わたしもここでは「ドナ・ユーコ」と周囲から呼ばれています。

しかし、「ドン」は男性に使用されません。男性に対しては一般的には「Senhor=セニョール」、「Doutor=ドクター(医者、弁護士、学士など)」、「Engenheiro=エンジェニェイロ(工学部卒)などが名前の前に使われます。

話を戻して、ドナ・アントニアの子息を「ドラ息子」と書きましたが、散在しつくした父親の血を引いてか、まぁ、本当にそうだったのですね。ドナ・アントニアはロンドン滞在の3年をのぞき、生涯のほとんどをドウロ川上流レグア(Régua)の葡萄農園で過ごしたのですが、ワイン業ゆえ、葡萄収穫後、樽詰めにされたポートワインを「Barco Rabelo」と呼ばれた帆掛け舟で川を下りガイア市側のワインセラーでそれらを寝かせることになります。そうすると、商売上、おのずととポルトにも自宅が必要になります。

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帆が張られていないBarco Rabelo.現在は運送に船を使わないが観光用に浮かべられてある。

下がその邸宅の古い写真です。大きな邸です。「Palacete da Dona Antonia(パラセッテ=小宮殿)」。豪華な邸宅はいずれもこう呼呼ばれました。今ではもうなくなってしまいましたが、現在のポルト市庁舎に向かって右側、中央郵便局等がある一帯がそうだったとのこと。

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(写真はwikiより)

ポルトの邸宅には息子夫婦が住んでいました。家業を継ぐ気もなく母親と反りが合わず、しょっちゅう金の無心をしており、子供の養育費を除いては金銭面では援助しないとドナ・アントニアから言われる始末です。
が、この息子、後に政治家の道へ進み、ポルトの企業家社会のトップに立ち、1865年にクリスタル公園のクリスタル宮殿で開催された国際博覧会の音頭をとったりしています。(クリスタル公園については後日追します)ドナ・アントニアが1896年に没していますから、彼女の生存中になんとかマシな男になったということでしょう。

さて、娘のほうですが、11歳でドナ・アントニアと渡英しそのままロンドンに留学しますが、ポルトガルの伯爵と結婚します。ところがこの伯爵、家名はあれど金はなし。夫婦でドナ・アントニアに際限なく無心し、さすがのドナ・アントニアもあきれ果て、これも息子と同じように、孫達の養育費、学費は援助しますが、他の一切の援助を切ってしまいます。

女性にとって仕事も子育ても上手にこなせたらそれに越したことはありませんが、仕事は敏腕を振るい人々から慈悲深いと言われたドナ・アントニアも二人の子供には随分と頭を悩まされたようで、世の中、あれもこれもと全て上手い具合に運ぶのは稀なのだなぁと思わされました。

ドナ・アントニアの莫大な遺産は世代が変わるうちに失われましたが、彼女の曽孫の手になるレグアのQuinta do Valladoは現在も葡萄園兼ワインホテルとして営まれています。

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キンタ(農園)の入り口。(写真はwikiより)

30近い葡萄園を持っていたフェレイラ一家でしたが、あれから1世紀半経った今、Sograpeというワイナリーが現在はFerreiraを所有しています。Sograpeがポルトガル企業なのがまだ救いがあると言えましょう。 

英国人が買い叩こうとする葡萄園を買いとり、後に買い取った葡萄園は同じ持ち主たちに買い値より安く売り渡したり、時にはただ同然で譲ったりもしたドナ・アントニアは単にFerreira社にだけでなく、ドウロ川地域の、ひいてはポルトガル北部のワイン産業に多大な貢献をしました。彼女の功績を讃え、「Dona Anotnia」と命名されたポートワインがありますので、それを紹介して、ドン・アントニアの記事を終えます。

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(写真はwikiより)

最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
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2020年6月21日

ラメーゴの食事処の紹介は後回しにし、ドウロの女王の別称を持ったドナ・アントニア・フェレイラについて書きます。

2011年、ポルトのリベイラ対岸、Cais de Gaiaにあるワインセラー・Ferreiraの入り口ホールには、ドナ・アントニアの生誕200年を記念した彼女の大きな写真パネルが見られました。

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彼女は1811年にドウロ川上流にあるブドウ畑の町レグア(正式名はPeso da Régua)の、裕福なフェレイラ家に一人娘として生まれました。ここで採れた葡萄はポートワインになるのです。

いとこと結婚し、二人の子供、息子と娘をもうけます。しかし、浪費家で家業に興味を持たない夫とは互いに理解しあえなかったようです。夫はパリに遊びその地で亡くなり、ドナ・アントニアは33歳で未亡人になります。

多くの使用人を抱えた家業の葡萄農園長として、またポルトガルの葡萄農園を守ろうとして辣腕を振るいます。ドナ・アントニアは政治家にも堂々たる態度で意見を述べる卓越した人物でした。

彼女が世間から「Ferreirinha=フェレイリーニャ」と親しみを込めて呼ばれたのは、使用人を始め貧しい人たちを常に気に留めて、援助をしていたからです。

農園での事故で働けなくなったり、亡くなったりした使用人や遺族には、当時はどこの農園でも手助けをしませんでしたが、フェレイリーニャはいつも彼らが生活に困らないように手を差し伸べていました。

家業が火の車であっても病院を建てるための資金も惜しみなく出しています。そうして建てられた病院は北部に3つほどあると言われます。この一つが、先日、記事で触れたラメーゴの病院だったのです。
フェレイリーニャは慈悲の人であり、ノーブレス・オブリージュの考えの人でもあったのです。

現在のポートワイン会社がほぼポルトガル人ではなく外国人所有者に占められているのは拙ブログにて書いたことですが、この当時、既にイギリス人による葡萄畑の買占めが始まっていました。

道路造りとスペインからのワイン購入に熱心で自国のワイン産業への援助に無関心な政府や政治家にも意見を述べることが度々ありました。

政府がしないなら自分がすると、ドナ・アントニアは不況や葡萄の病害などでやもなく売りに出される農園が二束三文で外国人の手に落ちることに抗い、多くの葡萄畑を正価で買い取っています。そうして、彼女の没後遺された葡萄畑は30箇所ほどにもなっていたと言われます。

ドナ・アントニアは葡萄の病害防止の勉強のためにイギリスへ渡っていますが、この時は、フェレイラ家の財産を目当てに11歳の娘を息子の嫁にと結婚を申し込んできた貴族から逃れることも理由でした。この渡英時に同行させたフェレイラ家の長年の管財人ジュゼ・シルバ・トーレスが二人目の夫になります。彼はその生涯をフェレイラ家に捧げ、ドナ・アントニアを支えました。

こうしてドナ・アントニアは太陽光を浴びることが葡萄を病気から守るということを知り、日当たりのいい場所を葡萄栽培に選ぶことになりますが、これらの彼女の葡萄園への意欲、熱意が彼女を人々から「Rainha do Douro=ライニャ・ド・ドウロ=ドウロの女王」と呼ばせる所以でしょう。

しかし、二度目の夫を除き、彼女は家族関係にはあまり恵まれなかったようです。
次回に続きます。


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2020年6月17日 

先週の10、11(水、木曜日)は祝日でした。

そのしばらく前に、夫からラメーゴ(Lamego)は一泊で行こうかと声がかかったのですが、気になることがあり、もしかということがあるかも知れないので一泊はイヤだ、日帰りなら行きます、と言うと、日帰りはゆったりできないから、自分がイヤだ、と夫。

それで行かないとなったのですが、心配事でずっと浮かない顔をしていたわたしの気分転換をしたほうがいいとでも思ったのでしょう、その前日、「朝少し早めに出発して日帰りで行こうか。次の日はゆっくりしよう」と言ってきました。

あまり乗り気ではなかったのですが、こうして家の中で悶々としていてはダメだと思い、ラメーゴなら「ノッサ・セニョーラ・ドス・ルメーディオの聖地(Santuário de Nossa Senhora dos Remédios.Nossa Senhora=聖母マリア、Remédio=薬)だから、願をかけてこようとの気持ちもありました。神様、仏さま、苦しい時の神頼みです^^;

自動車道路を走ってポルトから1時間半ほどでした。
14世紀に、この土地に聖ステファンの礼拝堂が建てられていたのが始まりです。聖ステファンはユダヤ系ギリシャ人であり、ユダヤ教を批判したがために石打ちの刑にて落命した最初のキリスト教殉教者だと言われます。

16世紀になって、長い間、放置されていたこの土地にラメーゴ司教が聖母マリアに捧げる教会を建て、やがて聖ステファンの名前は薄れて行きました。

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「Nossa Senhora dos Remédios」の呼び名は、病を抱えた当時の人々がこの聖母マリアに癒しをもとめ始めたことからきたそうです。
階段は全部で686の石段。ブラガの聖地ボン・ジェズスと構造が似ていて、各踊り場には美しいアズレージュ絵があります。 とは言うものの、今回は数日の不眠が祟って降りるはよし、車を駐車しているここまで今度は686段の石段を上るという体力なし^^; 今回は上から眺めを見るのみで、もう一度、秋に来てみたいと思ってます。

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踊り場からはラメーゴの町が見下ろせます。

下はコロナ服と靴、バッグ(目下の外出と言えばこの服装)、それに帽子、サングラス、マスクのわたし。
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コロナの時代です、教会前の広場には、人々が集合して教会を仰ぎ見ないようにと、2メートル間隔の足型が描かれています。
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教会内部に入りましょう。入るとすぐにあるローソクに火をともして願をかけました。
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人には時に祈ることしか残されていないことがあるものだと知りました。

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美しい天井はまるでイギリスのウエッジウッドのようで、ウエッジウッドがいつ頃創立されたのかと調べて見ると17世紀とありました。

現在見られる聖地一帯は1750年から1905年までの年月をかけて完成したようです。さすれば、これはウエッジウッドでしょうね。

正面の祭壇は木製の聖母。
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祭壇の後ろの広間には、この聖地の歴史的な関連者のポーT-レートが壁にかけてあるのだが、あれ? 下にFerreirinhaこと、ドナ・アントニア・フェレイラ(ポートワイン、フェレイラ社の創始者)がいますよ。
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ドナ・アントニアはその財力をもって、北部のあちこちに病院の建築援助をした女性です。調べてみると、ラメーゴの町にも建築したそうです。

ドナ・アントニア・フェレイラについては後日、ワインセラー「Ferreira」も併せて再掲載したいと思います。

ラメーゴ案内、次回はおいしい食事処です。
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2020年6月15日 

本日の記事は、自分のメモにしておきたいと思い、書いております。

元モンシーク修道院がどんなホテルに変貌したのか知りたくて、行ってきました。
ドウロ川沿いに面した四つ星Neya ホテル です。もともと修道院は斜面に建てられており、spれを利用して恐らくどの部屋からもドウロ川の景観が望めると思われます。

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さて、それでは坂道の突き当りCalçada de Monchiqueにある部分はどうなったのか。

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むむ。依然と同じ状態のようです。

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が、鉄柵は少しきれいになっています。そして、

以前は閉じられていたアーチ上のサンタ・マリア像が置かれている窓も修繕され、像そのものがきれいになっています。下が10年ほど前にわたしが撮った画像です。アーチの向こう側も緑が見られ、人の手が入っている気配がします。
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10年前の撮影
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アーチの向こうはこうだったのです。
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ここの修繕はかなり時間を要することでしょう。ホテル側がそれをするかな?と疑問に思い、色々検索してみましたが、なかなかヒットせず。

ようやく、一件のブログの、「モンシーク修道院は二つに分断されて買われたとの情報にたどり着きました。一つがNayaホテル、もうひとつは修道院の教会を含む土地で、飼い主については言及されていませんが、現在修繕中なのだそうです。

そのブログ主とは、わたしがファンで、ポルトガル語のDias先生と読んでいるGerman Silva氏でした!武漢ウイルス拡大前までに、先生と読んでいたGerman Silva氏のポルト歴史本は3冊目でした。氏は古書を読んで紹介してくれるので、さすがだなと嬉しい思いでした。

修繕中のモンシーク教会の完成を目にすることができるや否や?と楽しみでもあり、少しの不安もあるわたしです。何しろ、歴史的建物の修繕には時間とお金がかかり、更にポルトガルのことですからね(笑)

お付き合いいただき、ありがとうございました。
では、また。

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2020年6月10日 

ポルトにある「モンシーク修道院=Convent de Madre Deus de Monchique)」を探しに行ったのは、かれこれ10年ほども前になります。

見捨てられて荒れ放題の修道院の建つ場所が現在ホテルになったというので、いったいどうなったのかと気になり、見てきたのですが、まず、以前あげた記事を再掲します。以下。


実はあまり人に知られていないポルトのモンシーク修道院。検索してもこのあたりにある、とは書いてあるのですが、はっきりした所在地が当時はネットでも見つかりませんでした。

そこで週に一度、わたしがポルトガル語のレッスンを受けているDias先生に、モンシーク修道院がどこにあるかとたずねてみました。

Dias先生はかつてポルトのロザリオ私立学校の高校部の先生で、我が子達のポルトガル語も見てくださった方です。10年ほど前に定年退職し、インターネットなどもしっかり勉強して、悠々自適の生活、話題が豊富な方で、わたしは大好きなのですが、その昔、神学を学んでおられたのです。

神の愛をとるか、愛の神をとるか、とタイスのごとく悩んだ末、愛の神を選んで結婚し(と、勝手にわたしは思っている)、教職に長年就かれたお方です。子供はいません。(註:タイス=オペラ「タイス」の主人公。ただし、タイスは女性。「タイスの瞑想曲」は追記で聴けます)

尋ねてみたところ、
「それはアルガルブ(ポルトガル南部)にあります」
と夫と同じことをおっしゃる。
「先生、ポルトにもあるとどこかで読んだ記憶があるのです」
「ふ~~む。聞いたことがないぞ」

翌週レッスンに行くと、
「オ・ドナ・ユーコ!これは参ったな。ポルトにもあるとは!」
「正確な住所はわからないが、ドウロ川沿いの方だね。」

先生もわたしとの話の後、ネットで検索したのだそうな^^うほほほほ。モンシーク修道院に関しては、先生よりわたしの方が、先であったのよ^^

さて、ドウロ川に面した並びは小高い地所になる。夫が車をゆっくり走らせながら、あれかもこれかもと、修道院らしき古い建物を見つけては、車を止め、急な坂道を2、3度上り下りしてが、どれも見当違い。

さて、長い石段を上った先にたどり着く人魚の館(Palacio das Serreias)右に仰ぎ、あたりを歩くとふと横の坂道の突き当たりの建物のトップに像が乗っている古い建物が目に入った。
「ん?あれはなんだ?」と、どんどん上に上るわたし↓
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ふ~む。廃墟で、表の鉄柵戸には錠がおろしてある。
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鉄柵戸越しに少しカメラを上方にずらしてみると、あっ!
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ここだ!ここに間違いない!アーチの上壁の窓の中にはサンタマリアの像が見えるではないか。
 
モンシーク修道院の正式名は「Convento de Madre Deus de Monchique」.
Madre Deus とは、聖母のことです。それにしてもこの荒れ放題振りはあまりに気の毒ではないか。

正門になるファシャーダ(fachada)もその跡もないのだが、モンシーク修道院のそのファシャーダが、現在どこにあるか、わたしは偶然のことから知っているのであります。

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↑画像が多少ぼやけて見えるのは、ガラス戸越しに撮影したからなのです。これがモンシーク修道院にあったファシャーダですが、現在、ポルトのSoaresdos Reis国立美術館の庭に置かれていました。

2010年11月にポルトで開催されたJapan Weekのコーディネーターの仕事を依頼された時、国立美術館との会合で、Japan Weekの展示会場のひとつとなるギャラリーを見せてもらったのですが、ふと目に入った庭のマヌエル様式の美しいファシャーダ。

「あれ?すみません。あのファシャーダは・・・?」と問うと、「モンシークのファシャーダだ」と教えてもらいました。庭には、もうひとつ、一連のモンシークの遺跡と思われる細工のある壁がデンと置かれていたのですが、まさか仕事をほったらかしてそっちの撮影に走るわけには行かず、かろうじてこれだけ撮ることができました。

さて、ここからやっと表題の「ポルトガル文学・破滅の愛」であります。原題は「Amor do Perdição」.。19世紀の文学者カミーロ・ブランコ(Camilo Castelo Branco)の作品のひとつで何度か映画化されている、ゆうなればポルトガル版の「ロミオとジュリエット」です。

このモンシーク修道院を探そうと思い立ち、検索している途中で、この物語の舞台だったことを知ったわけで、私自身は本そのものをまだ読んでいませんが(まだポルトガル語で文学を読める時間がない)、ネットで探してかなり古い映画は見ました。

ざっと次のような内容。

家族から乱暴者と疎まれるシモンは父親のライバルの娘、テレザと恋に落ちます。ある日、シモンはテレザを連れ去ろうとする彼女の許婚の従兄弟を誤って死に至らしめてしまいます。二人は引き裂かれ、テレザはこのモンシーク修道院に幽閉、シモンはポルト港から船で去ることを余儀なくされます。シモンの乗る船をモンシーク修道院の窓から見送り、傷心のあまり息を引き取るテレザ。その幻影を見てシモンもやがて重い病にかかり船中で亡くなります。

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↑モンシーク修道院の建つ場所からはドウロ川がよく眺められ、この本の舞台に選ばれたのはなるほどとうなずけます。

荒れ放題のモンシーク修道院は、財政的にも苦しかった市当局です、長年放置されてきてついにポザーダとして復活したニコラウ・ナゾニの「フレイシュ宮殿」とは違い、もう修復不可能だと思われ、恐らくファシャーダなど一部の遺跡は、国立美術館に移されたのでしょう。

わたしがこの修道院を見つけた当時は資料が見つからず、上記に書いたことがせいいっぱいだったのですが、少し見つけましたので、加えておきます。

モンシーク修道院は1533年に、祈願のために富裕のPedro da Cunha Coutinhoとその妻によってミラガイア地区に建てら、ポルトでも重要な修道院のひとつでした。17世紀には70人の尼僧と富裕層の子女、それに伴った召使が住んでいました。

が、19世紀初期のリベラリスト、ドン・ペドロ4世と絶対王政主義者ドン・ミゲルとの間に起こったポルトガル内戦でドン・ペドロが勝利して後、国内から宗教団体は追放され、モンシーク修道院も閉鎖、放置されてきました。

もし、カミーロ・ブランコが「破滅の愛」を書かなかったら、恐らく多くの人はモンシーク修道院の存在を知らなかったかもしれませんね。

現在、売られた修道院の一部はホテル建築に当てられ工事中とのこと。 これもポルトがにわかに観光客の人気スポットになったからだと言えましょう。

次回に続きます。

下記のアドレスは「タイスの瞑想曲」。近頃好きな2CELLOSの一人、チェロ奏者Hauserの演奏です
https://www.youtube.com/watch?v=Hvno17nl7vg&feature=emb_logo
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2020年6月8日 

今日は写真です。

武漢ウイルス発生後、3カ月ぶりにポルトの街へ出てみました。その写真を載せてみます。

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左にコングレガードス教会、右にさんベント駅がある。坂道を上るとイルデフォンソ教会を目の前にする。

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車の中から見るドウロ川とリベイラ。いつもは人でごった返しだが、わずかの人しかいない。もっともこれがわたしの知っている昔のポルトなのだが。

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ドウロ川を渡る遊覧船の一艘もなし。

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ミラガイア地区。この辺りは建物の一部が近年宿泊施設になっている。窓が閉まっているのは宿泊客が皆無の宿。

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いつもは車、ツーリストが載る自転車などの往来が激しい道がこの通り。左にある白い建物は新しいホテル。そこも人影が見えない。

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先週は知り始めたエレトリコこと路電は乗客がほとんどなし。

昨年まではオーヴァーツーリズム気味だったポルトの今の様子。経済打撃は多大だ。が、ここ数年ツーリストで埋まった街に出るのが嫌で、ダウンタウンを避けてきたわたしはどこかで昔のポルトを見出して、今のうちに楽しんで置こうと思ったりしている。

本日はこれにて。
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2020年6月5日 

マスク、サングラス、手袋をして、夏用にと決めたコロナ靴(笑)を履き、食糧買い出しに、ハイパーマーケットまで車を飛ばし、帰宅したのは昼少し過ぎ。

さぁ、これから買い物を全部アルコールで拭きまっせ、と、足元で「昼飯くれ」とせがむ3匹ネコをちょいと無視し、そのひと仕事を終えて、まずは猫の昼飯。

ねこたちが静かになってくれたところで、どれどれ、昼のニュースをとpcのスイッチを入れ、新聞サイトへ行くと、いきなり目に入ったのがトップに踊る「横田滋さん死去・87歳」の赤い文字でした。

思わず、え!と声が出てしまいました。

進展がないのか、はたまた武漢ウイルス禍を始め多事で政府は手一杯だったのか、近頃はすっかり話題に上らなかった拉致問題でした。

「横田めぐみさんは、1977年11月15日、新潟市で中学校からの帰宅中、海岸から数百メートル離れた地点で行方不明になった。97年に北朝鮮による拉致の疑いが浮上。2002年9月の日朝首脳会談で、北朝鮮は日本人拉致を認め、めぐみさんについては「死亡した」と主張した。04年11月には、めぐみさんの「遺骨」とされるものを提供したが、日本政府が実施したDNA型鑑定で別人のものと判明した」(時事ドットコムより)

日本にいたころのわたしは、大阪で一人暮らし。アメリカ行きの夢をかじりながらオフィス勤めをしていたのでした。生活はいつもカツカツ、かじり始めた夢の実現を果たすために、退社後は、偶然舞い込んできたビアハウスでの歌姫バイトを夜9時までしていました。(興味のある方はあの頃、ビアハウスへどぞ)

本は手放さなかったもののテレビには興味なしで持ちませんでした。新聞も取っていませんでしたから、政治の動きには疎いノンポリ。

そんなわたしが少し政治に目を向け始めたきっかけは、ポルトガルで知っためぐみさん拉致事件でした。多分、1997~2002年の間ではなかったかと思うのですが(記憶が定かでない)、当時、アメリカの新聞の一面全部を使ってこの拉致事件をアピールするための募金がありました。その時、わずかですが献金しました。

当時は既に二人の子を持っていましたので、この子たちが、ある日突然行方不明になったら、と想像すると胸がつまり、じっとしていられなかったのです。

モイケル娘が大学受験を目指して日本へ行った時も、北朝鮮による拉致が気がかりで、夜道は一人で歩くな、うかつに人に住所を教えるな、ポルトガルから来て一人暮らし、両親はポルトガルにいる、などど、他人にはうかつに言うな、としつこく、彼女にはうるさがられたと思います。

すっかり大人になった息子にまで、職を得て日本へ行く時は、海岸はなるべく歩くなよ、などと言ったものです。今日まで育てた子供たちを盗まれてたまるか!との思いでした。

めぐみさんの話を聞くたびに、どんなにかつらかったことだろう、親御さんに思いを馳せると、今でもそうですが、胸が詰まってしまうのです。

その後、続々と拉致された人たちの名前が出てき、拉致被害者の家族会が発足し、横田滋さんは初代会長の役を買って出、奥さんの早紀江さんとともに、運動すること42年。ちょうど、わたしのポルトガル在住の年数と重なります。

直接支援はできないものの、ポルトガルからいつもニュースを追っていました。我が子を探して40年、気が遠くなるような年月です。

人権人権と世界は騒ぎますが、自分の国に直接関係のないことには、人権侵害であろうと、国が侵されようと、国際社会は案外見て見ぬふりです。チベット、ウイグル問題を見れば分かります。国際社会からは大きな動きが見られません。

今回の武漢ウイルスの例を挙げてみれば、感染であえいでいたイタリアに関しても、意外と冷たいEUだなと思わされたものです。拉致問題も国際世界から見ればその種類なのでしょうか。

今後の拉致問題の行方がとても気になります。
軍事力を持たない日本の不幸は、隣に理不尽なことを平気でする三国があるということです。

拉致事件は理不尽です。横田滋さん、あまりにお気の毒で言葉もありません。
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2015年6月3日  

一時期流行った絵本に「ウォーリーを探せ」と言うのがあった。

ウォーリーは絵本シリーズのやせた主人公で、赤と白の縞模様の服に防止、ジーパン姿、メガネをかけて手には杖をもっている。
そのウォーリーをたくさんの人混みの絵の中からさがしだすのである。

Wally.png
Wikipediaより

先日、件名に「ウォーリーを探せ」と夫がこんな画像を送ってきた。自分はどれか分かるか?というのだ。

papa_1.jpg

夫の病院の仕事も通常に戻りつつあるものの、武漢ウイルス禍でこれまでテレビで何度も目にしてきた防護服だが、夫の防護服姿にはさすがにびびった。

マスクをしてスーパーで買い物するのも結構うっとおしいものだ。医療マスクにフェイスシールド、手袋、防護服の完全防護で数時間と働くとなると大変な労力だろう。そう思うと、自分の愚痴などは、と思いながらもついついでてしまう。

さて、今日からポルトガルは武漢ウイルスによる規制緩和第3期に入る。 が、入るか入らないかの先週末、リスボン周囲では220数人の感染者が確認され、一部の制限解除は見送られる話もでている。ショッピングセンターもオープン。ただし、リスボン首都圏では6月4日まで引き続き閉鎖である。

また、ルールはあるが海岸にも足を踏み入れることができる。海岸はオープンエアなので、マスク付着の義務付けはないようだ。

食糧買い出しで車の中から垣間見る町は、商店街の店が開きたくさんの人が出始め、一日一日と普段の光景を取り戻している。ただ一つ、違う点は、みなマスクをしていることだ。

日本ではどうということもないマスクの光景が、欧米でも極当たり前になったという、なんだか不思議な感じがする。



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2015年6月2日

今日からポルトガルは武漢ウイルスによる規制緩和第3期に入る。
が、入るか入らないかの先週末、リスボン周囲では220数人の感染者が確認され、一部の制限解除は見送られる話もでている。
ショッピングセンターもオープン。ただし、リスボン首都圏では6月4日まで取りあえず引き続き閉鎖である。

また、ルールはあるが海岸にも足を踏み入れることができる。海岸はオープンエアなので、マスク付着の義務付けはないようだ。

食糧買い出しで車の中から垣間見る町は、商店街の店が開きたくさんの人が出始め、一日一日と普段の光景を取り戻している。ただ一つ、違う点は、みなマスクをしていることだ。

日本ではどうということもないマスク光景が、欧米でも極当たり前になったという、なんだか不思議な感じがする。実はわたしもそろそろ自粛生活の限界かな?と思い始めている。何しろ優に三カ月はほとんど閉じこもっていたのだから、ストレスも溜まるというものだ。

ここ数年治まっていた喘息が再発し、昨夜は一睡もできなかった。夫が用意してくれた吸入薬を再び使用する羽目になった。喘息はストレスも引き金になる。

おまけに、買っていた6月の切符のフライトもキャンセルされたとの報らせが入った今、コロナウイルス感染の危険を犯してでも帰国、という道も閉ざされた。

これが楽しみで昨年からお金を貯めてきたのだ。と言っても3月から以降、コロナ禍でほとんど無収入ではあるが(笑)

モイケル娘に言わせると、東京オリンピックを始め、世界中のイヴェントはみなキャンセルされているが、わたしのビッグイヴェントはキャンセルという訳には行かないというところの、そのイヴェントに立ち会えないのが残念で涙が出そうだ。にっくきかな、武漢ウイルス。

本日はつい愚痴ってしまいました。
ではみなさま、短くこれにて。
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2020年6月1日 

数年前にリスボンで入った面白いビアレストラン、セルヴェジャリーア・トリンダーデをあげます。
Cervejariaはビアレストラン、Trindadeはキリスト教でいうところの三位一体、父なる神と子なるイエス・キリストと精霊の意味です。

Cervejaria Trindadeの入り口をくぐるといきなり右手にこのアズレージュ絵が目に入ります。

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折れた柱を支える女性は、古典タロットカードの一枚に見られる絵で、「力(Power)」を表します。タロットカードは、輪廻、再生、霊的復活、変容といった異端のテーマに触れており、ローマ・カトリック教会の教義に反する精神性を説くと言われます。(註:異端とは、ローマ・カトリック教会の教義に反する思想を言う)

カトリック教の中世時代は異端者だと分かると大変なことですから、異端思想の秘儀参入者はこうしてタロットカードを携帯用の教材として使用しました。

上の絵タイルに続くのは太陽を背景として、ピラミッド三角に「All-Seeing Eye」と呼ばれるすべてを見通す目、フリーメーソンのシンボルもあります。
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下の上部に見られる月の顔も同様にメーソンのシンボルです。
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メインホールを見てみましょう。

テーブルの並べ方は、トマールのテンプル騎士団修道院の食堂を思わせます。船底型の天井もテンプル騎士団修道院と同じです。
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左側に並ぶアズレージュ絵。
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錬金術の四大元素、土(Terra)、水( Água)、風(Vento)、火( Fogo)が描かれ、間にはこれもメーソンのシンボルのライオンが見えます。
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右側の壁には同じく錬金術にて自然の要素を表すOutuno(秋)、 Estio(夏)、Primavera(春)の季節の絵が見られる。元は四季の絵だったのが2度の火災で冬の場面は失われたそうです。
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部屋の正面左の壁には「産業の女神」が左手に携えるのは「すべてを見通す目」と翼の付いた杖です。
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そして、同じく正面壁右には、翼のある帽子と靴を身に着け、手には2匹の蛇が巻きつく伝令杖カドゥケウスを持つのは、まぎれもなく錬金術の守護神ヘルメスです。
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これだけのシンボルを描いた青タイル絵を備えているセルヴェジャリーア・トゥリンダーデは紛れもなくフリーメーソンのものだったと言えます。そこで、創立者であるマヌエル・ガルシアを調べてみましたら、やはり「フリーメーソンメンバーであった」との一文に行き着きました。

170年の歴史を有するビアレストラン「セルヴェジャリーア・トゥリンダーデ」のゲストブックに見られる名前も、マリオ・ソアーレス元大統領、マルセロ・デ・ソウザ現ポルトガル大統領、ジョルジュ・サンパイウ元大統領と、そうそうたるものです。

ビール工場からビアレストランとして営業を始めたのは1930年代。1986年にはリスボン市の文化遺産指定を受けて、現在に至っています。セルヴェジャリーア・トゥリンダーデで飲めるビールはサグレスとハイネケンのみ。現在はハイネケンの傘下にあるゆえんです。
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昼食にわたしたちが乾杯したハイネケンビールと、おつまみ類。
セルベジャリーア・トリンダーデ

奥の部屋に見られる大きなタイル絵は13世紀にこの地にトゥリンダーデ修道院を創立した3人の修道士を描いています。
セルベジャリーア・トリンダーデ

ワインもビールも、果ては美味しいデザート類までも、美味いものはその多くが元はと言えば修道院から始まっていますね。

セルヴェジャリーア・トゥリンダーデの所在地:Rua Nova da Trindade, 20 Lisboa.
年中無休。思ったより安く、開店時間も午前10時からとポルトガルにしては随分早い。お勧めです。
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