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2022年6月9日 

明日の10日は「Dia do Portugal(ポルトガルの日)」と言って休日です。
正式な名称は「o dia de Portugal, de Camões e das Comunidades Portuguesas. 」。「ポルトガルの建国と、カモインス、ポルトガルのコミュニティを記念する日」となります。呼称が長い・・・

わたしがポルトガルに来た昔は一般的に「カモインスの日」と呼ばれていました。ご存知の方もいるでしょうが、カモインスとはポルトガルを代表する16世紀の隻眼の大詩人、「Luís de Camões」のことで、1580年のこの日が彼の命日であることに因みます。

ポルトガルにあるヨーロッパ最西端ロカ岬の石碑に刻まれた「ここに陸尽き、海始まる」の一文の作者でもあります。カモインスについては、拙ブログで何度か取り上げていますが、興味のある方はこちらでどぞ。
ここに陸尽き、海始まる」https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1591.html


今日は国の象徴であるポルトガル国旗を紹介します。

国旗ポルトガル

ポルトガル語で国旗をBandeira(=バンデイラ)と言います。現在の国旗は、ポルトガルが王政から共和国になった後の、1911年6月に制定されました。

濃い緑と赤の比率は緑が五分の二、赤が残り五分の三を占めます。赤はポルトガル民族に流れる血、勇気、頑張り、喜びを表し、緑は海と希望の色、また、戦いに於いてポルトガルに勝利を与えた栄誉ある色として選ばれました。

中央には、ドン・マヌエル一世がポルトガルの大航海時代の象徴として選んだ大きな地球儀を据えてあります。背景の白は平和を、真ん中の五つの青い盾は、ドン・アフォンソ・エンリッケによるオーリッケでの戦いで破った五人のムール人(アラブ人)王を表します。(註:イベリア半島の大半はアラブ人によって占領されていた)この印を「quinas(キーナス)」と呼びます。ポルトガルサッカーチームは「equipa das quinas(キーナスチーム)」と呼ばれますが、これに由来します。
   
盾に中の五つの白い星は、この戦いに勝利するためにドン・アフォンソ・エンリッケを加護するキリストの五つの苦痛(十字架刑に処せられた時に受けた五箇所の傷)を表します。

キーナスの周りの七つの黄色いcastelo=城は、ドン・アフォンソ三世によってアラブ人から取り戻された七つの城です。

ポルトガル国旗には、遠い昔のイスラム教徒から国土を奪回(reconquista=レコンキスタ)し、世界に誇る華やかな大航海時代の栄華を経て王政から共和国成立という壮大な歴史を垣間見ることができます。
   
いずこの国もそうであるように、ポルトガルもこれらの歴史はきれいごとであるはずはなく、共和国になった時点で王家の紋章であるquinas盾など取り払ってしまうこともできたことでしょう。それをしなかったところに、ポルトガル人の国民性をわたしは感じます。

一国の歴史は、遥か昔からの積上げがあり延々と繋がっているのです。民族はそれらの歴史を受け継ぎ、連綿とつながった先端に民族の今があると思います。

どこの国にも負の歴史があります。国旗を変え、国歌を変えたところで、それらの歴史が帳消しになることはあり得ません。国の歴史を厳かに受け止め未来に進んで行くべきだと言うのが、国旗国歌に対するわたしの考えです。

Portugalbandeira.jpg
国際スポーツ競技大会や国としての意思表示には一般宅でも国旗を飾るポルトガル人

海外にいると、自分の国の国旗、国歌、「日本」に対して国内に住んでいた時以上に、「わたしの国」「わたしが生まれ育った国」と言う強い思いをわたしは抱きます。皆様はいかがでしょうか。因みにわたしは両国の国旗を持っています。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
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2021年10月15日 

どこへ行きたい?と問われると「シントラ」と答えるわたしに、「またぁ?」と夫に呆れられるほど好きで、これまでに何度も訪れてきたシントラですが、わたしが行き始めたころと違い、近年は拙ブログで紹介してきたスポットのどこもかしこも観光客がいっぱいです。

それで、かつてのようにゆったり歩いて、面白いシンボル探しもできなくなってしまったのは残念ですが、観光地は人が来てなんぼです、こうなると季節外れを狙って行くほかない。

この秋は、コロナ禍でまだ観光客も少ないはずです。できれば再訪したいと思っているのですが、果たして夫が同意してくれるかどうか(笑)

と言うので、7年ほど前に取り上げた「エドラ伯爵夫人こと、エリゼ・ヘンスラー(あるいはヘンスレー」シリーズを書き直してみました。

エリゼ・ヘンスラーは一般人から王妃になった人で、シントラ山中の「シャレー(スイスアルプス等で見かけられる山荘)」を主な住まいとしました。

Chalet de Condessa d´Edlaの入り口
chalet1.jpg

ペナ城を取り囲む広大な森の中に造られたシャレ―は、1999年に火災被害を受けて、長い間放置されていました。修復され一般公開されたのは2011年のことです。

エドラ伯爵夫人については興味深いストーリーがありますので、シャレーと森の案内とともにそれも取り上げていきたいと思います。

「エドラ伯爵夫人」と言う称号は夫人がドン・フェルナンド2世と結婚する際にもらったものです。ドン・フェルナンド2世は19世紀のブラガンサ王朝、ドナ・マリア2世女王の王配(女王の配偶者のこと)でした。オーストラリア人でハンガリーの名門貴族出身のドン・フェルナンド2世は、1755年のリスボン大地震以来荒れたままになっていたペナ城に惚れこみ、今日の姿に造り上げたので知られています。

34歳の若さで亡くなったドナ・マリア2世の跡を継いだのは、後継者のペドロ王子がまだ13歳であったため摂政となりましたが、15年間寡夫を通した後、運命の女性、エリゼ・ヘンスラーという女性に出会います。エリゼはスイス生まれで、アメリカ、パリで教育を受け、スカラ座でも歌ったことがあるオペラ歌手でした。

Condessa3[1]
エリゼ・ヘンスラーことエドラ伯爵夫人の肖像(wikiより)

1860年2月、エリゼはポルトのサン・ジュアン国立劇場で、そして4月にはリスボンのサン・カルロス国立劇場でヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」に出演して歌いました。見ていたフェルナンド2世はこの25歳の美しい歌手、エリゼにたちまち恋をします。エリゼは歌手というだけではなく彫刻、絵画、建築など芸術にも博識で非常に教養のある女性でした。

フェルナンド2世はエリゼと正式に結婚し妃に迎えたいと言うのですから、さぁ、大変。国王と庶民、しかも歌手という身分違いのこの結婚にはどれほどの障碍があったことでしょう。これはエリゼに結婚前日になってようやく「エドラ伯爵夫人」と言う称号が王の甥によって与えられたことから分かりますし、また、ポルトガル王家の歴史から忘れ去られてしまったということからも分かります。

しかし、ドン・フェルナンド2世、御歳53歳にて1869年6月10日にリスボンでエリゼ・ヘンスラーとの結婚にこぎつけます。進歩的な思想ゆえか恋ゆえか。フェルナンド2世が手がけた異国風の不思議な様式のペナ城を見ると、自由な想像力を持ち合わせた王だったということがうかがえます。

chalet3.jpg
シャレーのある森からはまるでお伽話にでも出てくるようなペナ城が見える。

さて、ペナ宮殿にいたのでは生きた心地もしなかったであろうエリゼは、やがてガーデニングという趣味を同じくするフェルナンド2世の協力を得て北アメリカやニュージーランドなど世界中から植物を集め土地の特質を生かしたペナ公園の造庭の乗り出します。この中には日本からの杉も植えられています。

jardim.jpg
シダあり、岩あり。シントラ山中には神秘性が感じられる。
jardim2.jpg

次回はシャレ―内部を案内します。
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2018年9月21日 

今日はポルトガルの大航海時代にまつわる話をあげます。

エンリケ王子1
ポルトのボルサ宮前に建つエンリケ航海王子の像。生地はポルトです。

ポルトガル大航海時代の礎を築いたエンリケ王子は英国人の血を引き、イギリスでも人気があるポルトガルの歴史人物の一人です。その生涯は一見華やかな印象を受けがちでしが、どんなに華麗な歴史にも陰があります。
                              
テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団初代総長となったエンリケ王子は、騎士団の富を資金源に、新しい船の造船にも力を注いぎました。テンプル、キリスト騎士団員は独身でいることを求められ、王子も生涯独身を通しましたが、ヨーロッパの小国ポルトガルに大航海時代という黄金時代をもたらしたのは、このエンリケ王子です。

北アフリカのセウタ攻略後、セウタ総督を任ぜられ、またアルガルブ地方の統治も任せられたエンリケはラゴスに拠点を置き、国家事業の航海計画に専念しました。

父王ドン・ジュアン一世没後、長兄ドン・ドゥアルト王の時代にはこの事業をめぐって対立する勢力がありました。エンリケ王子は、長兄ドン・ドゥアルト王の命で、セウタ確保のため、次兄ドン・ペドロの反対を押し、末弟フェルナンドとともに北アフリカのタンジール攻略に入るのですが失敗します。
 
末弟フェルナンド王子は休戦協定のためアラブ側の人質となり、彼は6年間の幽閉後アフリカで亡くなります。セウタはこのドン・フェルナンドの犠牲で確保されたと言えるでしょう。

後に、次兄ペドロ王子と前王ドゥアルトの息子アフォンソ5世の王位争いが始まりますが、エンリケはこの権威争いには組せず、アフリカの地で人質として弟フェルナンドを死なせた心の傷もあってか、サグレスに引きこもり天体観察に打ち込み、ヨーロッパ各国、イスラム国からも航海知識者を招き、船員の教育に努めたといわれます。

sagres
断崖のサグレス岬

サグレスにエンリケ王子の航海学校があったと言われるのはこの所以です。実際に学校が存在したかどうかは明確ではありません。

エンリケ王子はサグレス隠遁前、航海時代の中心地、ラゴス(サグレスの近く)に居を構えていましたが、ラゴスはヨーロッパ最古の奴隷市場があったところでもあります。ポルトガル国内では奴隷はほとんど使われませんでしたが、ラゴスはアフリカからの奴隷船の入り口でした。

エンリケ航海王子は1460年にサグレスにて没。
sagres4.png
 
その後、O Africano(=アフリカ王)の異名をもつエンリケ王子の甥、ドン・アフォンソ5世王は北アフリカ入り口を征服し、やがて時代はポルトガル・スペインの大航海時代に入ります。

sagres5.png
横に膨張して今にも海と接触せんとする太陽。

空に余韻を残し海に沈む太陽。右に見えるのはサン・ヴィセンテ岬。数世紀前、エンリケ王子もこの岬から同じ夕日を日々眺め、日が落ちてからは天体観測をしたことでしょう。孤高の人エンリケ航海王子は果たしてどんな思いで落日を眺め星を求め、陸路の果ての断崖岬で生涯を終えたのだろうか。


また見つかった、なにが?
永遠が。 海と溶け合う太陽が。(アルチュール・ランボー「永遠」)
                               
こんな1節が思い出される落日の一瞬です。
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2016年10月5日 

今日はモンセラーを休んで、ポルトガルの歴史の話です。

毎年10月5日は共和革命記念日に当たり、休日のポルトガル。この日は「1910年10月5日革命」とも言われいます。スペインからの独立を果たし、アフォンソ1世初代国王を頂くポルトガル最初のブルゴーニャ王朝から始まり1910年10月4日で幕を閉じた最後のブラガンサ王朝で、ポルトガルは王国から共和国になります。ブラガンサ王朝は、1640年のジュアン4世からマヌエル2世のその日まで約300年続きました。

そこで、王国最後の様子を、拙文で再現してみたいと思います。題して「ペナ宮殿に住んだポルトガル王家最後の王妃」、この日、ドン・マヌエル2世と皇太后、ドナ・アメリアは、シントラにある王家の離宮ペナ城にいました。

d_amelia.jpg
ドナ・アメリア王妃  Wikiより。

フランス、オルレアン家出身のアメリア王妃はポルトガルのカルロス1世に嫁ぎ、2人の王子と姫を設けますが、1908年2月1日、リスボンからヴィラ・ヴィソーザに構える宮殿に帰ろうとするところを、国王一家は共和党およびメーソンのメンバーに襲われ、アメリア王妃の夫である国王ドン・カルロス1世と後継者の長男を殺害されます。

次男で後のドン・マヌエル2世(ポルトガル最後の王)が王位につきますが、19世紀後半から台頭してきた共和党主義による革命が起こります。1910年10月5日の朝、ペナ宮殿でポルトガル共和党国樹立の報せを受けた王家は即宮殿を後にして英国へ亡命。

息子である、ポルトガル34代目のドン・マヌエル2世は1932年に英国で没、母であり、ポルトガル王家最後の王妃、ドナ・アメリアはフランスに移り1951年に87歳にフランスで生涯を終えます。

第二次世界大戦中にポルトガル国から帰国の招待を受けますがこれを拒否、王妃がポルトガルの地を踏んだのは亡命から35年後の1945年です。住む主もなく灰色に色褪せた35年ぶりの宮殿に足を踏み入れたアメリア王妃は、案内人にかつての自分の部屋でしばしの間、独りにしてくれるよう頼んだそうです。

昔の栄華に思いを馳せ時代の移り変わりを身をもって感じたことでしょうか。以後、ポルトガル王家最後のアメリア王妃が母国を訪れることはありませんでした。

王家の離宮ペナ城は、1990年代に修繕されたとき、ピンクと黄色に色塗りされた宮殿を見上げたシントラ市民は大いに驚いたと言われます。何しろ、それまで見てきた城は長い間放置され色彩を失って、ドナ・アメリアが最後に訪れたとき同様、灰色だったのですから無理からぬこと。

pena

王妃の悲運に比して、今、眼にも鮮やかなペナ城は、多くのツーリストを惹き付けて脚光を浴び、蘇ったように山頂にそそり立っています。しかし、その陰にある歴史を知ってみると人の世の栄枯盛衰を感じずにはおられませんね。

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2012年4月25日 

今日は4月25日、休日です。この日にちなんで過去に何度か書いてきたこ
とを三つほどあげて見たいと思います。長いです。

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抵抗の詩人:Zeca Afonso

希望はいいものだ。
多分なによりもいいものだ。
そして、いいものは決して死なない。

スティーブン・キングがその本「監獄のリタ・ヘイワース」(映画名:ショ
ーシャンクの空の下)の中で、残虐な刑務所長をしてやり、脱獄不可能な
ショーシャンクをついに脱出し、後に仮釈放になる相棒レッドに宛てた、二
人の秘密の場所に埋められた手紙に書かれていた、主人公アンディー・デュ
フレーンに言わしめた言葉だ。

わたしは時々、この「希望」を自由に言い換えてみる。そして、真の自由は、
わたしたちが思ったり想像したりするよりずっと質素で牧歌的で土に根ざ
したものではないかと思うことがある。自由を渇望したことがなければ、そ
の真髄に触れることはできない。

そういうことを改めて考えさせられる日が、年に二度ある。
そのひとつは、戦後生まれの私は経験してはいないけれども、その不自由
さが書物や人の話から多少は想像できる8月15日の終戦記念日。
もうひとつはポルトガルの4月25日の革命記念日だ。

別名を「カーネーション革命」とするこの無血革命の記念日は、制定されて
から38年になる。ポルトガルが独裁政権から自由を奪回してからまだた
った38年ということである。

4、5年前に日本からやってきた大学生の甥を旧コインブラ大学に案内した
とき、昔のままの姿を残す、大学周辺の細い路地に並ぶ下宿屋を散策した。
その折に見つけた一軒の下宿屋の外壁に、人の顔の青タイル絵がはめ込まれ
ているのを見つけた。

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「Zeca Afonsoがコインブラの大学生時代にここに下宿していた」
と書かれていた。

彼の名はカーネーション革命に欠かせない。

Zeca Afonso(ゼカ・アフォンソ)若しくは単にZecaとして知られる。
幼い頃から健康に恵まれず、裁判官として当時のポルトガル領アフリカ・モ
サンビークに赴任した親兄弟と離れて、本土の親戚の家で育った。

学生時代にコインブラ・ファドを歌い、地方の人々の暮らしや伝統にまつわ
る音楽を自作した。やがて、アルコバッサの高校でフランス語と歴史の教師
を勤めながら(この職もやがて追われる)、社会問題を取り上げた作品を多
く自作して歌い、この頃からサラザール独裁政権に対する反ファシスト地下
運動のシンボルとなって行く。

彼の歌は放送禁止となり、コンサートの多くは政治警察によってキャンセル
され投獄される。その名前も検閲にひっかかるようになり「Esoj Osnofa」
というアナグラムを使ったりレコーディングもフランスやロンドンでしたり
する。この間、コミュニストへ入党に招待されているが、断っている。

1974年3月29日、満席のリスボンのコリゼウ劇場で催された、Zecaを
始めその他多くのミュージシャン共演コンサート最終幕で彼の歌「Grândla ,
Vila Morena」(you tube)が全員で高らかに歌われた。

このとき会場には密かに4月革命の準備をしていたMFA(国軍運動)のメン
バーが聴衆に混じっており、革命の「カウンターサイン」としてこの「Grândla」
の歌を選んだと言われる。
註:Grândla =グランドラは、アレンテージュ地方にある小さな町の名前。
Zeca Afonsoはローカル色豊かで素朴なこの歌でグランドラの人々の同胞
愛を歌っている。

1974年4月24日午後10時55分、革命開始の合図として最初にPaulo
de Carvalhoの歌、「E depois do adeus」(そして、さようならの後で)がラジ
オで流され、革命は静かに始まった。
約1時間後の翌4月25日真夜中00:20、ラジオルネッサンスで流された
「Grândla 」は、「全て順調。行動に移れ」の二度目の合図で、これを聴いて
左翼の若手将校たちが先頭になり無血革命の出撃が始まったのである。

4月25日朝、クーデターを知った民衆は続々と町へ繰り出し、リスボンの
アベニーダ・ドゥ・リベルダーデ(自由通り)は民衆と革命軍で埋め尽くされ、
兵士たちの銃にはこの自由の勝利を祝って、民衆が投げたカーネーション
の花が挿し込まれていた。以来、ポルトガルではカーネーションは自由の
シンボルとなった。

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1983年、Zecahahはかつて追われた教師の職を再認定され復帰する。
またこの年には政府から功労賞が与えられたが辞退している。
1987年2月23日Setubalにて病没。3万人が葬列をなし、棺は遺言通
りなんのシンボルも持たない真っ赤な旗に覆われた。

ポルトガルの春

1974年4月25日明け方、リスボンにて革新派の少壮軍人たちによる
無血クーデターが起こり、42年間続いたサラザールの独裁政治に終
止符が打たれました。
1960年代から長年にわたる、アフリカのギネ、アンゴラ、モサンビー
クの独立をめぐる植民地戦争に、この当時ポルトガル政府は国家予算
の40%を投じており、国家の疲弊感は免れないものでした。民衆から
も、そして軍内部からも、終わりの見えない戦争に対する反抗の気運が
高まり、ついにこの日の無血革命にいたったのです。
その日、リスボンの中央を貫く大通り、アベニーダ・ドゥ・リベルダーデ
(自由通り)は迎合する民衆と革命軍で埋め尽くされ、革命軍の勝利を
祝って民衆が手向けたカーネーションが兵士たちの銃に挿し込まれて
いました。以来、カーネーションは自由のシンボルになり、この日はカ
ーネーション革命とも呼ばれます。
1974年と言えば、わたしがポルトガルに来るたった5年前のことです。
それまではこの独裁者のもと、国のあちこちに政治警察が置かれ、人々は
言論の自由を奪われていたと聞きます。ここに来た1979年のこと。
近所のまだ年端もいかない子供が、棒っきれを手に振り上げて、野良犬に
「ファシスタ!ファシスタ!」(独裁者)と叫んでいる光景に出会い、ギョッと
した覚えがあります。

わたしが来たのは、革命がホンの数年前に起こったということで、やはり、まだ
独裁政治時代の影をこの国はひきづっていたように思えました。
サラザールの時代、一部のブルジョアにとってはさんさんと輝くポルトガルの日
の光のもと、民衆にとっては暗い時代だったのです。
38数年たった今、ポルトガルの前途があまり明るいとはいえないにしろ、
少なくともここに自由はある。


ポルトガル、カーネーション革命に思う

今年もVinte-cinco de Abril(ヴィンテスィンコ・ド・アブリル=4月25日)が
やって来ました。ポルトガル人にとって4月25日は特別の日です。
ブルジョアジーにも民衆にも。

お金には不自由したわたしですが、自由そのものには高校を出てから
不自由しませんでした。若かった日々の時間は、下宿時代、アパート時
代と、食うものも食わずのことが多かったのですが、とびきり自由だった
ように思います。

わたしの時代の自由と言うのは、今の若者たちのそれとは少し違うかも
知れません。

酒も酌み交さず明け方まで(皆、金がなかった。笑)、しらふで狭いひとつ
部屋で仲間たちと青臭い人生論を戦わし、恋をし、失い、夜更けの町を
さまよったり、川べりで野宿したり。ビルの屋上で真夜中のギターの音に
耳を傾け月や星を仰いだり。操車場に眠る夜更けの電車の並ぶのを眺
めたり。 あの時代の夜は、今よりも遥かに神秘的で魅力的で、どこか
人間をそのとばりで包みこむ優しさがあったように思います。

今のように24時間オープンの店などなく、スナックバーの片隅で閉店ま
でねばり、ちびりちびりウイスキーを飲みながら、やはり仲間と語り明か
したものです。
語っても語っても語り足りない人生というものに大きな不安と希望を抱い
ていました。

見たり(テレビ)聴いたり(音楽)、画面で遊んだり(ゲーム、パソコン)の
類のものはなく、なんだか皆、ひたすら読書と議論に明け暮れていまし
た。そうそう、この頃の深夜番組には「ヤンリク」(ヤング・リクエスト=音
楽リクエスト番組)があり、わたしが入っていた男女200人近くもの下宿
屋の仲間内では、白戸三平のマンガ「カムイ伝」がま回し読みされてい
ました。

上記以外にあの頃のキーワードと言えば、「明日のジョー」「寺山修司」
「歌声喫茶」「ドクトル・ジバゴ」「三島由紀夫」エトセトラエトセトラ。
加藤登紀子さんが歌っている「紅の豚」主題歌、「時には昔のように」
(you tube)そのものでした。

金銭的には誰の世話にもならず、多くのものも持たず、だからこそ思いき
り自由だったと言える気がします。人はものを持てば持つほどそれにとら
われ、不自由になるものだというのは本当かも知れないと近頃うなずい
たりします。

今日こんな風にあの頃を思い出し、こうしてブログに載せることができる
自由。生活を向上させたいとがんばり努力できる自由。
書物を選び読みすることができる自由。
枠にとらわれず自己表現ができる自由。
国の政策を言葉や態度で批判できる自由。

左翼右翼関係なく、自由のない社会はわたしはごめんです。安定した
自由のない生活よりも、貧しくとも自由のある生活を望みます。

この当たり前に思われる自由を、わたしは今、空気のごとくこの身全身
で吸っているのですがポルトガルが38年ほど前は言論の自由がない
国だったとは思えないほど、今ではそれは歴史の一部になりました。
秘密警察がいたサラザールの独裁政治時代はわたしは知りませんが、
恐らくおぞましい社会であったろうとは、想像してみることはできます。

自由であることがどんなに素晴らしいかを今再び思い出すために、わた
したちは歴史を振り返る必要があるのです。

4gatu25nichi
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