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2024年2月29日

東京近郊に住む我がモイケル娘がそろそろ寝ようかという時間にスカイプで呼び出した。「このホテル、予約を取っておくんなさい!」

ようやく弘前の宿の確保ができて一安心である。本当は桜が満開になるであろう4月20日過ぎに行きたいところなのだが、ホテルはべらぼうに高くなっており空室もない状態で、やむなく4月上旬、宿泊費がドカーンと上がる寸前のを見つけることができたのだ。

わたしが一人で故郷へ行くのは今回が2度目である。いつもは所沢の妹夫婦と一緒に義弟が運転する車に同乗して行くのだ。長い間、どこに生きているとも分からぬわたしが突然同窓会に姿を現したので、同窓生たちはさぞかし驚いたことであろう、あの当時の津軽行を再掲したい。以下、古い話です。

某年某月某日

東京では桜の開花のニュースも聞かれる3月も半ば過ぎだというのに、上野から東北新幹線で弘前駅に着いて見るとみぞれが降っていた。

これでは、幼い頃に住んでいた下町、かつての祖母の家があった周辺を歩いて訪ねるのは愚か、その日の予定の墓参もままならぬ。タクシーを拾ってホテルにチェックインし、懐かしい数人の同窓生たちとの夕食時刻まで、ホテル内で時間をつぶすしかあるまい。夕暮れにはまだ数時間あった。

最後にこの駅に降り立ったのはいったいいつのことであったろう。すでに列車を降りた客の姿もなくなったプラットフォームの階段を登り、そんなことを思いながらゆっくりと出口へ向 かった。と、前方から「ソデ」と呼ぶ声がし、その声の主がいる方向に目を向けると、出口の向こうに思いがけなくタコ君の顔を発見した。

「ソデ」とはわたしの苗字の漢字の一字で、わたしは高校時代の友人たちからはそう呼ばれていた。「タコ君!どうしてまたここに!」 聞くと今日のわたしの弘前行きは知っていたので、所沢の妹宅に電話をしたらわたしは既に家を出た後。恐らくこれくらいの時間に到着するであろうと頃合いを見計らい思い弘前駅まで出迎えに来てみたのだそうだ。タコ君を弘前時代から妹も知っている。

こみあげる懐かしさを胸いっぱいに、なのに言葉は「お久しぶり」とさりげなく。タコ君の車はわたしを乗せ、ひとしきり降る霙の中、弘前の町に入って行った。

商店街の土手町を通り抜け、やがて桔梗野へ入り、小学校があるあたりをタコ君はゆっくり通ってくれた。小学校のすぐ横には、高校時代にかつてわたしたち家族が住んだ埴生の宿があったのだ。家のすぐ側にはに昔の工場の廃屋があって、わたしたちの家は小さな台所と狭い二間がある昔の工員たちの宿舎のひとつであった。今はその影もなく、辺り一帯は新しい住宅地と化していた。

小学校の校庭には思い出がある。どんなに懸命に力を振り絞って走っても足の遅いわたしは体育祭が嫌いだった。高校1年の年に一念発起。妹に手伝ってもらい、体育祭に向けて、すぐ横にあるこの小学校の校庭で毎夜走る練習をしたのだった。一等とまでは行かなかったが、その年わたしは生まれて初めて走ることで2等をもらったのである。あの頃の妹とわたしの思い出がチラリとも感じられなかったみぞれの降りしきる新しい校庭であった。

タコ君はやがて我らが母校「弘前南高校」へと車を走らせた。
続きます。

★「埴生の宿」のエピソードはこちら→ 「口笛吹けば

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某年某月某日 

生まれて初めて、「故郷」「日本という国が恋しい」と言う感情を知ったのは、異郷の地ポルトガルに嫁ぎ、里帰りができなかった最初の3年間の時です。

ポルトガルへ来る前のアメリカ留学で自分の持ち金は全部使い果たしていたし、一人で義母やおばたち、それにわたしを含めた4人を養っていた、やっと専門医になったばかりの30を少し超えた夫に、里帰りさせてくれとは言えませんでした。

当時は飛行機代も今とは比べ物にならぬほど高かったのです。ましてやポルトガルは今以上に物価が低く賃金も安い国でした。国際電話料金もバカ高く、電話は母に年に一度、正月にするくらいでした。 あとは時間ばかりはたっぷりあったので、せっせと元気印の航空便を送ったものです。

わたしが話せた言語は英語と日本語のみ、ポルトガル語は全く知らずに来ました。ポルトガルでは今でこそ、他の国同様、英語が第二外国語になり、簡単な英語であれば、なんとか通じるようになりましたが、今から40数年前は、ドイツ語フランス語が第二外国語でした。英語が少々話せるとて、通じる相手が周囲にたくさんいたわけではありません。

ポルトでたった一人の日本人でした。町を歩くと、すかさず「chinesa、chinesa」(=シネーザ・中国人女性のこと)と指差され、それが「死ネー、死ネー」と聞こえたのには堪えたものです。

昨今のように、大学には外国人向けのポルトガル語コースもありませんでしたし、語学学校で個人レッスンでも受けようものなら大変な授業料が請われました。冗談じゃありませんて。自分が持ち込んだたった一冊のブラジルポルトガル語の文法本があっただけです。

ポルトガル語の勉強も、日本とポルトガルの国柄の余りの違いにすっかり意気消沈してしまい、何年も何年もその本を使って独学することを拒否してしまった愚かな自分ではありました。

旅人である間は、また、一時しのぎの滞在である間は、そして、年に一度の割でせっせと帰国の切符を手に入れられる間は、「やっぱり自分の国が一番いい」と言う安堵感にかき消されて、「ノスタルジア」という感情は、なかなか生まれてこないような気がします。そんな感情を誰もが学ばなければならない、なんてことは全くないのですがね。

当時2歳近くの息子を連れて3年ぶりに日本の地を踏んだときは、誠に感無量でした。機内から眼下に見える自分が生まれた国、飛行機が着陸する間、滂沱の涙が頬を伝い、隠しようがなかったものです。「わたしの国、これがわたしが生まれ育った国」この言葉が頭をぐるぐる回って、湧き上がる感情をどうにも抑え切れなかったです。

10年を一昔とすれば、あれから昔が四つ重なりました。ポルトでは、わたしは一番古い日本人で、昔を知っている「生き字引」なんて言われたりしましたが、当時の昔を語ろうにも、昨今の若い人たちにはきっと興味のない迷惑な話になったりするでしょうから、ほとんどそんな話を持ち出すことはありません。

ポルトガルの男性を夫に持つ若い日本女性も随分増えました。「年に一度は日本へ里帰りさせてくれることを条件に」なんて話も聞いたりします。それを羨ましいとは思わない、と言えば少々嘘になるけれども、今日のわたしを築いた背景には、夫の家族と同居した最初のちょっと辛いと思われた6年間や3年間帰国できなかたったことなどがチラと見え隠れします。わたしのポルトガルでの人生の始まりでした。

詩人星野富広さんがその花の詩集で言います。

「引き返す距離が長いほど、力を蓄える波の激しさ」

話す相手もおらず帰るに帰れない。じっと我慢して数年ぶりに母国の地を踏む喜びがどんなに大きなものかを、わたしは知ったのです。

異国へ渡ったポルトガル人たちの「ノスタルジア」がわたしは今少し分かるような気がします。優しい記憶も苦い思い出も入り混じって、それらを超えて懐かしみ恋うるところに郷愁・望郷の切なさはあるのです。ポルトガル語ではそれを「Saudade」(=サウダーデ)と言います。


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某年某月某日 

二人の子どもが家を出て独立し日本で職を得ているので、家族揃ってと言っても夫婦二人きり。ウィークデイの朝は昔から夫はポルトガル式の朝食を好み、焼きたてのパンにバターとジャムをつけ、Café com leite(カフェ・コン・レイテ=ミルクコーヒー)を自分で淹れる。わたしはと言えば、近頃は、ご飯に味噌汁を中心の日本食もどきなのである。

週日は日本語を教える仕事があるので、晩御飯はあまり手をかけずに作るが、日曜日の昼食は少しだけ気合を入れて作ったりもしする。そんな時は、朝食が遅いので午後2時ころからワインかビールを開けてゆっくり食べるのが慣わしだった。それが、たまに途中からゆったり昼食というわけにいかなくなることがある。

我が家は、ポルトガルではCondominio(コンドミニアム)と呼ばれる集合住宅である。が、安普請だからして各フラットのドアを開けて話そうものなら、エコーで響き、家の中に居ながらにして、聞きたくもないのにあれこれ聞き取ることができたりする。

ある日のこと、昼食をとっていると、階下がなにやら騒々しい。「何だろうね・・・」と夫と話しながら食べていたのだが、そのうち姦しかった声が更に大きくなり、どうやら女性二人の応戦抗戦が始まったようなのだ。おお、やっとるやっとる(笑)

階下、向かい合ったお宅、奥方同士が最初は仲良しかのように見えたのだが、何があったか知らぬがいつの間にか反目する仲になったのである。やりあっている現場を目前にしたことはないが、お二方がそれぞれの窓から顔を出して激戦している様を二階の我が窓から身を乗り出して見たことはある(笑)

こういう場合、典型的なポルトガルおばさんなら一言二言言って間に割って入るであろう。が、こちらは日本人おばさん、あちらのお二方が派手にガナルほどに、我が家はシーンと静まりかえり、思わず聞き耳を立てていたりする。そういう時はなぜだか知らないが、我が動きはおのずと自分の家なのに、抜き足差し足状態になっているから不思議だ。

聞き耳を立てるのは最初の頃だけで、後は聞きたくもないののしり合いであるからして、しばらくするとわたしは窓をピシャとしめて、激戦終了を待つのみ。

向かい合ったフラットのドアを開けてガンガンやっている階下の隣人の姿を想像しながら、これでストレス発散し、また当分はやりあいがないだろうと思うに至る。それにしてもお二人の夫たちが口を出さないで放っておくのもおもしろい。笑 

犬が食わないのはどうやら夫婦喧嘩だけではないようだ。はははは。

お粗末さまでございました。

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2024年2月13日 バレンタインデーと恋人たちのハンカチ
 
日本ではバレンタインデーは女性が男性に贈り物をし、そのお返しがホワイトデーらしいが、ポルトガルでは、「Dia dos Namorados(恋人たちの日)」と言って、昨今は夫婦、恋人同士、友達同士が贈り物を交換する日になっています。
この日はレストランでで食事をするカップルも多く、特に晩御飯は、どこのレストランも満席。わたしたちも満席で、何軒かレストランを回る羽目になった経験があります。

さて、「恋人たちの日」と言えば、ポルトガルで必ず思い出されるのが「Lenço dos Namorados(レンソ・ドナモラードス・)」と呼ばれる伝統的な「恋人たちのハンカチ」があります。レンソはハンカチのこと、ナモラードスはボーイフレンドの意味です。

下記は「恋人たちのハンカチ」についての過去記事です。

「恋人たちのハンカチ」

「恋人たちのハンカチ」の起源は17世紀に遡り、ポルトガル北部のミーニュ地方(Minho)が発祥地だと言われます。これを作るのは当時の女性のたしなみで、仕上げたハンカチを意中の男性に贈ります。男性はそれを受け取ると公でそのハンカチを使用し、恋人同士になることを周囲に告げます。「否」の場合は、ハンカチを使用しないというわけです。

ハンカチは真四角のリネン布に綿の刺繍糸で刺繍します。写真でご覧のように、刺繍の模様のモチーフは決められています。
  
ハートは愛情を、鍵は二人の心の結合を、鳩は忠実を表すと言われます。ハートの模様と短い詩は「恋人たちのハンカチ」には必須。

もうひとつ、このハンカチに欠かせないものが、男性に贈る短い詩です。ポルトガル北部Minho地方で手に入れた恋人たちのハンカチを紹介します。

lenco-namorado2-1_2024.jpg
「Amor é a estrela que há-de guiar a minha vida」 
     (アモール、愛は我が人生を導く星

ハンカチに刺繍されてある言葉のスペルは、故意にところどころを間違えてあるのが特徴です。ハンカチの起源は17世紀ですから当時の一般女性はまだ正確に読み書きができなかったことや方言が含まれていることから来ています。

チョコレートを贈るよりもホットな昔のポルトガル女性の熱き心が窺がえます。自分でデザインを考え思いを託して詩を作り、何週間も自らの手で刺繍する乙女心は現代では失われてしまいました。

かつては、テレビを見ながら、またはバスや電車の中で、はたまたクリニックでの待ち時間中にレース編みや毛糸編みに忙しく手を動かすポルトガル女性を見かけたものですが、忙しくなった現代女性は編み物も「恋人たちのハンカチ」を刺繍する時間もなく、美しいハンカチはインテリアとして額に入れられ、往時の求愛の言葉をわたしたちは眺めるだけになりました。

かく言うわたしも、忙しさにかまけて、夫へのバレンタインデーのプレゼントを買い忘れた現代女性の一人ではありました。トホホ。

ではまた。

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2024年2月5日 

今日、東京近辺は珍しく雪が降ったようだ。まずは所沢の妹からLINEで「大雪!雪の重さで庭のミモザが道路側に倒れて庭の内側に引っ張り起こすのに息子と旦那が奮闘中! 雷まで鳴ってる」との知らせ。ちょっと早いけど春雷だわなと、のんびり返事するわたし(笑)

東京都内に住む東京息子からは、「雪~」のメッセとこんな写真が送られて来た。

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うわぁ、道路も車も雪におおわれてるやん!そして、こちらは満面の笑顔で雪に触る喜びを表している孫のソラ坊。

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子供時代を雪国で育ったわたしからすれば大した雪ではないのだが、雪国を知らない我が子たち、孫にとってはロマンを感じる景色なんだろうなぁ。東京での大雪と聞くとわたしは、つい226事件とか、古く江戸時代で言えば忠臣蔵、桜田門の変などが思い浮かぶのですが、およびじゃないかも(笑)

さて、今日は先週に続いて日本語授業が2つキャンセルになった。ヒャッホー、ちょっと休めるなと思ったものの、我が仕事は実働だからキャンセルになるとお金は入らないのであった^^;が、ま、いっか。たまには怠けても(笑)

そこで、昼食前に歩いてきた。いつもなら授業があるためせいぜい30分くらいで帰るのだが、午後もなし。近くの墓地へ寄って亡くなった夫の母に花を手向けてきた。義母が身まかって20年ほどになるだろうか。

その墓地にはアベイルに住む義姉の夫も眠っている。義兄のところにもちょいと挨拶。義姉もアルツハイマー症認知の義兄もそして私たち夫婦も(わたしは半分の予定だが。笑)ここに眠ることになる。姉弟してここにColumbário(コルンバーリオ)こと、ロッカー式納骨堂を買っているのである。いつの日にか、義母を筆頭にその3人の子どもと連れ合いたちが一所に集まる。考えるとなんか不思議な気持ちになる。

墓地からの帰り道ふと思った。3月の帰国では東京息子とモイケル娘を我が父母の墓参に連れて行かなければ、と。

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