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2024年3月1日 

昨日の続きです。

Hirosaki2007.jpg
★2007年3月中旬。列車内から臨むまだ残雪に覆われた津軽の野面(のづら)。

駅まで迎えに来てくれた友人タコ君とともに、うっすらと残雪に覆われた陽光院を訪ねた。陽光院は弘前の我が故郷にある菩提寺である。

本当のことを言ってしまうと、陽光院という菩提寺の名すらわたしは覚えていなくて、所沢の妹に教えてもらい、地図を持っての墓参であった。その妹夫婦と3年ほど前にも来たのが、実にその時は約40年ぶりのことであり、わたしはまことにご先祖様不幸の人間なのであった。

8人兄弟の一番上だった母とのお盆の墓参りは、一年に一度、大勢の親戚に出会う場でもあった。「あ、四郎っちゃ達、もう来たみたいだね。」と言った母の言葉は、幼いわたしの記憶の中で今でも生きている。

わたしは、当時から数えるとかれこれ30年近いポルトガルで生活だったが、日本で暮らした年月と異国で暮らした年月が同じになろうとしていた。

とある年齢に達すると、たいていの人間は、持つ思い出の良し悪しに関わらず、生まれ故郷が恋しくなるとは、よく耳にする言葉だ。わたしもその例に漏れず、近年は弘前での子ども時代の記憶をたどってみることがあり、思い出の糸を手繰り寄せては、ホームページにしたためていた(「思い出のアルバム」)。

「故郷恋しや」の思いと、さすがのご先祖様不幸のわたしも、この辺でそろそろ顔を出してご挨拶しておくべき時期ではなかろうかと、殊勝にも考えるようになったのである。

寺の近くで花を調達し、陽光院に着いた。
「お線香、もって来た?」とタコ君。
「あ、すっかり忘れてたわ。」
「うん、俺が用意して来たから。」
タコ君に気をつかわせて全くもって情けない話である。

タコ君とは高校時代の友人で、FDSというフォークダンスクラブを彼が立ち上げたとき、わたしもその部に所属したのである。高校を卒業して以来39年ぶりに弘前で再会したのだった。弘前に滞在した二日間、彼はわたしのために車で動いてくれたのだ。

妹から聞いた通り、陽光院は改築中であった。墓地の場所は、本堂の横道から入るとだいたい分かっているのだが、そこは既に立ち入り禁止になっていた。タコ君とわたしは仮本堂で呼び鈴で呼び出しポルトガルから先祖のお墓参りに参りました。どうやって墓地に入れますか、と訊ねた。

隣の寺院から入れるよう話を通してくれ、人っ子一人いない静寂な墓地の中を、わたしたちは雪で転ばないように少し腰を落とし気味に残雪を踏んで入って行った。

「前に来たときに、こんな新しい墓石は周りになかったと思う。もうちょっとこっちの方じゃなかったかしら。」と頼りないわたし。少し後戻りすると、「あ、こ、このあたり・・・・。もしかしてこれかも。」と立ち止まった所は墓石も含め周りが真っ白い残雪に覆われていた。

わたしとタコ君は、素手でその雪を掻き分け始めた。掻き分けながら、ふとわたしはなんだか可笑しさがこみ上げてきて、思わずタコ君に話しかけた。

ね、ご先祖さま、今きっとこう言っているに違いないよ。「ゆうこよ。お前は何十年も墓参りに姿を現さず、終に来たかと思ったら、いったい亭主でなくて誰を伴ってやって来て、墓場の雪かきをしてくれてるのやら・・・ほんにお前は~」

ご先祖さま、お笑いくだされ(笑)

現われた古い墓石に刻まれている文字を読んだ。「吉崎家」と彫られてある。間違いなく我が先祖の墓だ。線香を立てる箇所は、固い雪で覆われ素手でその雪を取り払うことはできなかった。供花のところに線香を立てた。

しばしの祈りの後、わたしは、自分が祖父の名前を知らないことに気づいた。わたしが生まれたときには既に鬼籍に入っており、会ったこともない人である。

タコ君と墓石の後ろに回り、刻まれている名前を見つけた。「あった。え~っと・・・嘉七と書いてある。」「そうだね。明治22年6月没とある。」とタコ君。
わたしはメモを取った。
そうして、墓の前にもう一度たたずみ、この先再び訪れる日が来るであろうことを祈りながら吉崎家の祖父や叔父、叔母たちに別れを告げて帰ってきたのである。

東京へ帰り、夕食の準備で台所に立っている妹相手に、
「ねね、マリちゃん、じさまの名前知ってる?」とわたし。
「それがねぇ、わたしも知らないのよ。もう聞く人もいない。」
「知ってるわよ、わたし!今度の墓参りで見つけてきた。嘉七、
明治22年6月没とあった!」
と、いい歳して多少得意げに言うわたしを、妹は一瞬「???」の面持ちで見ている。

そして開口一番、「それはつじつまが合わない!」
「お母ちゃんが大正生まれなのに、じさまが明治22年没は可笑しい
じゃん!」
「さすが、ゆう。(妹はわたしをこう呼ぶ)考えることがおもろ~」(爆笑)

いやはや、面目ない^^;ご先祖さま、再度このわたくしめをお笑いくだされ~~。とほほのほ^^;嘉七さんはひじさまで、ござんしょね^^;

まじめな墓参の話がどうしてもこういうオチになってしまうのか。あぁ・・・これがなければなぁ、もう少し周囲から敬いのマナコを向けられるかも知れないのになぁ(笑)

かつて早春の津軽行はこれにておしまい。

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2024年2月29日

東京近郊に住む我がモイケル娘がそろそろ寝ようかという時間にスカイプで呼び出した。「このホテル、予約を取っておくんなさい!」

ようやく弘前の宿の確保ができて一安心である。本当は桜が満開になるであろう4月20日過ぎに行きたいところなのだが、ホテルはべらぼうに高くなっており空室もない状態で、やむなく4月上旬、宿泊費がドカーンと上がる寸前のを見つけることができたのだ。

わたしが一人で故郷へ行くのは今回が2度目である。いつもは所沢の妹夫婦と一緒に義弟が運転する車に同乗して行くのだ。長い間、どこに生きているとも分からぬわたしが突然同窓会に姿を現したので、同窓生たちはさぞかし驚いたことであろう、あの当時の津軽行を再掲したい。以下、古い話です。

某年某月某日

東京では桜の開花のニュースも聞かれる3月も半ば過ぎだというのに、上野から東北新幹線で弘前駅に着いて見るとみぞれが降っていた。

これでは、幼い頃に住んでいた下町、かつての祖母の家があった周辺を歩いて訪ねるのは愚か、その日の予定の墓参もままならぬ。タクシーを拾ってホテルにチェックインし、懐かしい数人の同窓生たちとの夕食時刻まで、ホテル内で時間をつぶすしかあるまい。夕暮れにはまだ数時間あった。

最後にこの駅に降り立ったのはいったいいつのことであったろう。すでに列車を降りた客の姿もなくなったプラットフォームの階段を登り、そんなことを思いながらゆっくりと出口へ向 かった。と、前方から「ソデ」と呼ぶ声がし、その声の主がいる方向に目を向けると、出口の向こうに思いがけなくタコ君の顔を発見した。

「ソデ」とはわたしの苗字の漢字の一字で、わたしは高校時代の友人たちからはそう呼ばれていた。「タコ君!どうしてまたここに!」 聞くと今日のわたしの弘前行きは知っていたので、所沢の妹宅に電話をしたらわたしは既に家を出た後。恐らくこれくらいの時間に到着するであろうと頃合いを見計らい思い弘前駅まで出迎えに来てみたのだそうだ。タコ君を弘前時代から妹も知っている。

こみあげる懐かしさを胸いっぱいに、なのに言葉は「お久しぶり」とさりげなく。タコ君の車はわたしを乗せ、ひとしきり降る霙の中、弘前の町に入って行った。

商店街の土手町を通り抜け、やがて桔梗野へ入り、小学校があるあたりをタコ君はゆっくり通ってくれた。小学校のすぐ横には、高校時代にかつてわたしたち家族が住んだ埴生の宿があったのだ。家のすぐ側にはに昔の工場の廃屋があって、わたしたちの家は小さな台所と狭い二間がある昔の工員たちの宿舎のひとつであった。今はその影もなく、辺り一帯は新しい住宅地と化していた。

小学校の校庭には思い出がある。どんなに懸命に力を振り絞って走っても足の遅いわたしは体育祭が嫌いだった。高校1年の年に一念発起。妹に手伝ってもらい、体育祭に向けて、すぐ横にあるこの小学校の校庭で毎夜走る練習をしたのだった。一等とまでは行かなかったが、その年わたしは生まれて初めて走ることで2等をもらったのである。あの頃の妹とわたしの思い出がチラリとも感じられなかったみぞれの降りしきる新しい校庭であった。

タコ君はやがて我らが母校「弘前南高校」へと車を走らせた。
続きます。

★「埴生の宿」のエピソードはこちら→ 「口笛吹けば

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某年某月某日 

生まれて初めて、「故郷」「日本という国が恋しい」と言う感情を知ったのは、異郷の地ポルトガルに嫁ぎ、里帰りができなかった最初の3年間の時です。

ポルトガルへ来る前のアメリカ留学で自分の持ち金は全部使い果たしていたし、一人で義母やおばたち、それにわたしを含めた4人を養っていた、やっと専門医になったばかりの30を少し超えた夫に、里帰りさせてくれとは言えませんでした。

当時は飛行機代も今とは比べ物にならぬほど高かったのです。ましてやポルトガルは今以上に物価が低く賃金も安い国でした。国際電話料金もバカ高く、電話は母に年に一度、正月にするくらいでした。 あとは時間ばかりはたっぷりあったので、せっせと元気印の航空便を送ったものです。

わたしが話せた言語は英語と日本語のみ、ポルトガル語は全く知らずに来ました。ポルトガルでは今でこそ、他の国同様、英語が第二外国語になり、簡単な英語であれば、なんとか通じるようになりましたが、今から40数年前は、ドイツ語フランス語が第二外国語でした。英語が少々話せるとて、通じる相手が周囲にたくさんいたわけではありません。

ポルトでたった一人の日本人でした。町を歩くと、すかさず「chinesa、chinesa」(=シネーザ・中国人女性のこと)と指差され、それが「死ネー、死ネー」と聞こえたのには堪えたものです。

昨今のように、大学には外国人向けのポルトガル語コースもありませんでしたし、語学学校で個人レッスンでも受けようものなら大変な授業料が請われました。冗談じゃありませんて。自分が持ち込んだたった一冊のブラジルポルトガル語の文法本があっただけです。

ポルトガル語の勉強も、日本とポルトガルの国柄の余りの違いにすっかり意気消沈してしまい、何年も何年もその本を使って独学することを拒否してしまった愚かな自分ではありました。

旅人である間は、また、一時しのぎの滞在である間は、そして、年に一度の割でせっせと帰国の切符を手に入れられる間は、「やっぱり自分の国が一番いい」と言う安堵感にかき消されて、「ノスタルジア」という感情は、なかなか生まれてこないような気がします。そんな感情を誰もが学ばなければならない、なんてことは全くないのですがね。

当時2歳近くの息子を連れて3年ぶりに日本の地を踏んだときは、誠に感無量でした。機内から眼下に見える自分が生まれた国、飛行機が着陸する間、滂沱の涙が頬を伝い、隠しようがなかったものです。「わたしの国、これがわたしが生まれ育った国」この言葉が頭をぐるぐる回って、湧き上がる感情をどうにも抑え切れなかったです。

10年を一昔とすれば、あれから昔が四つ重なりました。ポルトでは、わたしは一番古い日本人で、昔を知っている「生き字引」なんて言われたりしましたが、当時の昔を語ろうにも、昨今の若い人たちにはきっと興味のない迷惑な話になったりするでしょうから、ほとんどそんな話を持ち出すことはありません。

ポルトガルの男性を夫に持つ若い日本女性も随分増えました。「年に一度は日本へ里帰りさせてくれることを条件に」なんて話も聞いたりします。それを羨ましいとは思わない、と言えば少々嘘になるけれども、今日のわたしを築いた背景には、夫の家族と同居した最初のちょっと辛いと思われた6年間や3年間帰国できなかたったことなどがチラと見え隠れします。わたしのポルトガルでの人生の始まりでした。

詩人星野富広さんがその花の詩集で言います。

「引き返す距離が長いほど、力を蓄える波の激しさ」

話す相手もおらず帰るに帰れない。じっと我慢して数年ぶりに母国の地を踏む喜びがどんなに大きなものかを、わたしは知ったのです。

異国へ渡ったポルトガル人たちの「ノスタルジア」がわたしは今少し分かるような気がします。優しい記憶も苦い思い出も入り混じって、それらを超えて懐かしみ恋うるところに郷愁・望郷の切なさはあるのです。ポルトガル語ではそれを「Saudade」(=サウダーデ)と言います。


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2024年2月26日 

雨が多いポルトの冬だ。それでは可哀想だというので、昨夏我が家に入ってもらったストリートキャッツのフジオ君。半年が過ぎよく食べるのですっかり太った。

5匹の大家族と育ったが今はひとりぼっちの先住猫ゴローも仲間が出来て喜ぶかと思いきや、これがちょっと違った(笑) ついこの間までは、見るからに新参者に「ふん!」と思っているのが傍から分かり、おかしいったらありゃしなかった。

フジ君ゴロ_1_2
ヒーターの前ですっかり安心しきって仰向けのフジオ君。ゴローはお気に召さないらしい。

それが、ここ数日、あれ?2匹で少し追いかけたり追いかけられたりと様子が変わってきた。こうしていっしょに並んでいたりする。とは言うものの、お前たち、顔がひきつってないかい?(笑)

Feb26_1.jpg

これでわたしも安心して日本へ行くことができる。人間で言えば、90歳近い超高齢猫のゴローを夫と残して行くのが心配だったのである。

先日、台所でお互いの朝食を作りながら(我が家は朝食はそれぞれ自分で作る)、「2カ月もの留守、ゴロー君が心配だな。大丈夫かな?」と言うと、夫、「じゃ、ボクは?心配ないの?」と言われて、げ!であった^^;

さて、本日、月曜日はわたしの休日なので、2週間後の帰国を前にして息子の部屋のベッドに旅行かばんを広げて準備し始めたのだが、これをみたゴローが「こっち来い」とやたらわたしを呼ぶのである。

journey1.jpeg

「なぁに?」と問うと、鳴き声でわたしたちの部屋に誘い、昼寝しようと言う。仕方ない、少し横になってやると、わたしの髪を噛んではひっぱり、のどをゴロゴロ鳴らしている。ネコと言えど、「奥さん、またいなくなるぅ」と旅支度が分かるのだろう。

しまったなぁ。少しの間、この部屋を閉めて置かねばなるまい。「うさぎは寂しいと死んでしまう」と言われる。老猫だってありうるのではないかと思うと、フジオ君に家に入ってもらってよかったと思うのである。

ではまた。

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2024年2月22日

今回の帰国はひょっとしたら最後にならないとも限らない。二カ月間の滞在先はほぼ東京だが、弘前、大阪、福岡をどのように縦断しようか、体力は持つだろうか。どのような旅程を組もうかと考えていたここ数日だった。

福岡には、5年ほど前まで横浜に住んでいたおじが自ら探して入った高齢者施設があり、そのおじが入院しているとの話がしばらく前に耳に入った。妹夫婦と是非とも訪ねなければならないと思っていたのである。

わたしは思春期真っ盛りの15歳の1年間、当時は東京から大阪に転勤していたおじおば夫婦と住んだことがある。彼ら夫婦に子供がまだいなかったので叶ったことなのだが、わたしと血のつながりがあったのはおじではなく、我が母の妹であるおばのほうだ。

石油会社のエンジニアだったおじは江戸っ子だった。わたしの小学生時代におばと弘前を訪ねてきたおじを通してわたしは都会の匂いを大いに感じたものだ。それはわたしの都会への最初の憧れであった。いつ頃からかわたしはいつの日にか都会へ出ようと夢見るようになっていた。

中学2年の冬休みに家族に無断で夜汽車に乗り大阪へ一人向かい、以後の1年間を共に過ごさせてもらったのである。これについては、下記に綴ってある。

・夜汽車に乗って:我が青春の「急行日本海」(1)
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1184.html

夜汽車に乗って:我が青春の「急行日本海」(2)
https://spacesis.blog.fc2.com/blog-entry-1185.html


大人になってわたしは再び大阪に出て10年程を過ごしたが、その時はおじ夫婦には一人息子が生まれ東京、福岡と転勤を繰り返していた。わたしは時々、東京のおじたちを訪ねたものだ。アパートの家財道具を一切売り払って、アメリカ留学をする前も、今の夫と結婚してポルトガルに渡る前も、わたしは一か月ほどを東京のおじ宅で過ごしている。おじにはちょっとした秘密も打ち明けて相談にのってもらったりもした。

おばが亡くなった後も帰国時には妹と二人して、時には我が東京息子やモイケル娘も連れて会いに行ったものだ。横浜の自宅に住んでいた頃は、ポルトからしょっちゅうおじと電話で話すよう心がけたが、施設に移ってからはガラケーしか持たない人だったので、それが難しくなってしまった。

3月には会いに行くぞ!と決めていた。今朝、所沢の妹からおじの訃報を知らされた。わたしたちは間に合わなかったのだった。

母は9人兄弟だったが、大東亜戦争で戦死した母の兄はわたしたちが知らないおじだ。残ったおじたち、そしておばたちの連れ合いも含めたわたしたちの7人のおじはみな逝ってしまった。

You must believe in spring

おじを偲び、今日一日中聞いていた曲だ。
絶望的な冬を迎えても春は必ずやってくる。



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