2023年11月30日 (木)
2023年11月30日
週日の日本語授業は大わらわということもないが、金曜日の夕方と土日はグループ授業が入る。
そこで、週末は昼食支度の時間がないゆえ土日は外でのランチである。授業は夕方もあるので、そうそうゆっくりはできないが、生ビール一杯くらいは飲める。
先週の土曜日には、ダウンタウンにある贔屓のレストラン「Buraco(「穴」の意味)へ行こうとなった。このレストランは、わたしがポルトに来て以来の気に入りの店で、行き始めてかれこれ45年になる。既に拙ブログで下記の様に案内している。以下。
2016年5月19日 ポルトの隠れレストラン「O Buraco」
土日の昼食は外で、がわたしたちの習慣です。
理由はひとつには、家事をこなしながら一方で月曜日から土曜日まで、毎日、日本語教室の仕事もしているわたしですから、土日の昼食作りからは開放されたい。それと、ポルト市内のレストランを食べ歩くのも、楽しみの一つだからです。
もうひとつは、我が家では純ポルトガル料理を作ることはまずありません。どうしても日本料理の味つけになります。夫にしてみれば、苦情は言わないものの、ポルトガル料理も欲しいところでしょう。(と、いいように解釈しているw)
そうした中で通っているうちに、味とサービスが気に入った行きつけのレストランも何軒かあります。
その一つが、ダウンタウンにある小さなレストラン「Buraco(ブラコ)」。意味は「穴」なんですが、その名のごとく、実は知る人ぞ知る穴場のレストランなのです。

入り口が小さくて、大きな正面看板も出ていないので、うっかり通り過ぎてしまいそうです。が、ここはわたしがポルトに来て以来、夫と時々足を運んできたレストランですから、長年知っているところでもあります。ウイークデイは近辺のサラリーマンで満席になりますが、週末もこの店を知っている人たちがたくさんやって来ます。

典型的なポルトガルの家庭料理で、値段も手ごろ、量もポルトガルのレストランのどこでも出されるようにバカ多くなく、しかもおいしいと来ています。店内が手狭で、その時間には次から次へと客がやってくるので、ゆっくりできないのが玉に瑕でしょうか。

今年67歳になるマヌエルさんは12才からここで働いているとのこと、わたしたちが行き始めて37年ほどになりますから、顔見知りですが、上述のように、ゆっくりできないので、わたしたちがここに知人を案内することはめったにありません。
2015年に新聞で取り上げられたレストラン「O Buraco」とマヌエルさん。

メニューを少し挙げてみますと、
Carde Verde(スープ) 1.50€
Saldinha Fritas(揚げ小鰯。上の写真にある) 一皿 6.00€
Carapao Fritos(揚げ小鯵) 一皿 6.00€
Tripas(ポルトの臓物煮料理) 6.00€
Bife à Buraco(Buraco式ステーキ) 6.00€
肉魚は他のポテトフライや豆ご飯等の副食共に、どれも6€(720円くらい)。時間があるツーリストのようにゆったりはできませんが、おいしく手ごろな値段で食べられること請け合いです。
インフォメーション
レストラン「O Buraco」
所在地: Rua do Bolhão 95, Porto
この店には、この間、日本に帰国してしまったI氏を誘ったこともある。セニョール・マヌエルとは顔見知りなので夫同伴でなくても、丁寧に対応してくれるので助かるのだ。
「Buraco」は値段が安い割に美味しいし量も適量なので、普通のポルトガルのレストランでは食べきれずにいつも残す羽目になるわたしが全部食べ終えることができる数少ないレストランなのである。
ダウンタウンという立地条件もいいので、Trip Advaiserなどの口コミで今ではツーリストがわんさか押し寄せるため、Buracoで食事するときはかなり早めに行くことになる。
先週、席に案内してもらってから気がついた。「この前も見なかったけど今日もセニョール・マヌエル、いないわね。病気にでもなったかしら」と気になり、頼んだ食事を持って来た人に聞いてみた。するとまぁ!「セニョール・マヌエルは先月定年退職したんでざんす」ですって!
セニョール・マヌエル、新聞記事に乗ったのが2015年で当時67歳とありますから今年75歳。わたしたちと同年代です。うわぁ、一言改まったお礼をしたかった。上の記事によると、12歳からBuracoで仕事を始めたと言いますから、62年間をひとつところで働きとおしたのだ。
客の注文を受け、それを調理場に流すとき、必ず十問を3回繰り返すという彼独特のやり方とハリのある声がもう聞くことがないと思うと、寂しい限りだ。
わたしは11月に76歳になったが、近頃、同世代の著名人や故郷弘前の同窓生の訃報を耳にすることが多くなった。先日も故郷の同級生がメッセージで同窓生が数人集っている写真を送ってきて言うことには、「ソデ、この写真の人たち、誰か分かる?わたし以外はみんな鬼籍に入っちゃたよ」・・・・胸がいっぱいになり、なんだか涙がこみ上げて来そうになった。
世代はこうやって交代していくんだなぁと世の流れをつくづく感じる1件であった。
ではまた。
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週日の日本語授業は大わらわということもないが、金曜日の夕方と土日はグループ授業が入る。
そこで、週末は昼食支度の時間がないゆえ土日は外でのランチである。授業は夕方もあるので、そうそうゆっくりはできないが、生ビール一杯くらいは飲める。
先週の土曜日には、ダウンタウンにある贔屓のレストラン「Buraco(「穴」の意味)へ行こうとなった。このレストランは、わたしがポルトに来て以来の気に入りの店で、行き始めてかれこれ45年になる。既に拙ブログで下記の様に案内している。以下。
2016年5月19日 ポルトの隠れレストラン「O Buraco」
土日の昼食は外で、がわたしたちの習慣です。
理由はひとつには、家事をこなしながら一方で月曜日から土曜日まで、毎日、日本語教室の仕事もしているわたしですから、土日の昼食作りからは開放されたい。それと、ポルト市内のレストランを食べ歩くのも、楽しみの一つだからです。
もうひとつは、我が家では純ポルトガル料理を作ることはまずありません。どうしても日本料理の味つけになります。夫にしてみれば、苦情は言わないものの、ポルトガル料理も欲しいところでしょう。(と、いいように解釈しているw)
そうした中で通っているうちに、味とサービスが気に入った行きつけのレストランも何軒かあります。
その一つが、ダウンタウンにある小さなレストラン「Buraco(ブラコ)」。意味は「穴」なんですが、その名のごとく、実は知る人ぞ知る穴場のレストランなのです。

入り口が小さくて、大きな正面看板も出ていないので、うっかり通り過ぎてしまいそうです。が、ここはわたしがポルトに来て以来、夫と時々足を運んできたレストランですから、長年知っているところでもあります。ウイークデイは近辺のサラリーマンで満席になりますが、週末もこの店を知っている人たちがたくさんやって来ます。

典型的なポルトガルの家庭料理で、値段も手ごろ、量もポルトガルのレストランのどこでも出されるようにバカ多くなく、しかもおいしいと来ています。店内が手狭で、その時間には次から次へと客がやってくるので、ゆっくりできないのが玉に瑕でしょうか。

今年67歳になるマヌエルさんは12才からここで働いているとのこと、わたしたちが行き始めて37年ほどになりますから、顔見知りですが、上述のように、ゆっくりできないので、わたしたちがここに知人を案内することはめったにありません。
2015年に新聞で取り上げられたレストラン「O Buraco」とマヌエルさん。

メニューを少し挙げてみますと、
Carde Verde(スープ) 1.50€
Saldinha Fritas(揚げ小鰯。上の写真にある) 一皿 6.00€
Carapao Fritos(揚げ小鯵) 一皿 6.00€
Tripas(ポルトの臓物煮料理) 6.00€
Bife à Buraco(Buraco式ステーキ) 6.00€
肉魚は他のポテトフライや豆ご飯等の副食共に、どれも6€(720円くらい)。時間があるツーリストのようにゆったりはできませんが、おいしく手ごろな値段で食べられること請け合いです。
インフォメーション
レストラン「O Buraco」
所在地: Rua do Bolhão 95, Porto
この店には、この間、日本に帰国してしまったI氏を誘ったこともある。セニョール・マヌエルとは顔見知りなので夫同伴でなくても、丁寧に対応してくれるので助かるのだ。
「Buraco」は値段が安い割に美味しいし量も適量なので、普通のポルトガルのレストランでは食べきれずにいつも残す羽目になるわたしが全部食べ終えることができる数少ないレストランなのである。
ダウンタウンという立地条件もいいので、Trip Advaiserなどの口コミで今ではツーリストがわんさか押し寄せるため、Buracoで食事するときはかなり早めに行くことになる。
先週、席に案内してもらってから気がついた。「この前も見なかったけど今日もセニョール・マヌエル、いないわね。病気にでもなったかしら」と気になり、頼んだ食事を持って来た人に聞いてみた。するとまぁ!「セニョール・マヌエルは先月定年退職したんでざんす」ですって!
セニョール・マヌエル、新聞記事に乗ったのが2015年で当時67歳とありますから今年75歳。わたしたちと同年代です。うわぁ、一言改まったお礼をしたかった。上の記事によると、12歳からBuracoで仕事を始めたと言いますから、62年間をひとつところで働きとおしたのだ。
客の注文を受け、それを調理場に流すとき、必ず十問を3回繰り返すという彼独特のやり方とハリのある声がもう聞くことがないと思うと、寂しい限りだ。
わたしは11月に76歳になったが、近頃、同世代の著名人や故郷弘前の同窓生の訃報を耳にすることが多くなった。先日も故郷の同級生がメッセージで同窓生が数人集っている写真を送ってきて言うことには、「ソデ、この写真の人たち、誰か分かる?わたし以外はみんな鬼籍に入っちゃたよ」・・・・胸がいっぱいになり、なんだか涙がこみ上げて来そうになった。
世代はこうやって交代していくんだなぁと世の流れをつくづく感じる1件であった。
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2023年11月29日 (水)
2023年11月28日
昨日の続きです。
石の彫刻家、新妻実(Niijima Minoru)氏について、調べてみました。
東京芸術大学彫刻科を卒業した氏は、後ニューヨークで個展を開き国際的に多くの賞を受けています。ニューヨーク・コロンビア大学で教え、1958年にはニューヨーク・ストーン研究所所長になっています。
1965年には、大理石を使って制作した「眼の城」という独特の作風を確立し、ニューヨーク、ポルトガルを拠点にして国際的に活躍したとあります。ポルトガルはイタリア、ギリシャに次ぐ大理石の世界大産地の一つですからポルトガルとの関係は、大理石にあったのですね。

Wikipediaより。リスボンにあるピンクの大理石で造られた新妻実氏の「眼の城」のひとつ
新妻氏のポルトガルでの活動は1986年から1998年、亡くなる年までしたことになります。アートコレクターでビジネスマンでもあるべラルド財団のジョー・べラルドは、30以上の作品を所有しており、その一部が前回紹介したバカリョア社に展示されていたというわけです。
下記はリスボンのグルベンキアン美術館にある、同じく同氏の作品「眼の城」

グルベンキアン美術館にあったのが、現在はバカリョア社の庭にある。

Wikiより。エボラで見られる作品。落書きがされているのは残念でならない。(怒)
新妻実氏の作品をネット検索しているうちに、ポルトにもあることが分かりました。写真の整理が遅くなり、出かけていったのは夏も終わろうかの春の旅行から数か月も後です。
Jardim de Paul Vallada、別名Jardin das Pedras(石の公園)という公園で、我が家から車で5分ほどのところです。
作品を大きくしてみました。

公園には他にも石の作品があります。


残念なことに、作品と作者についての説明書きはどこを探してもなし。ネット検索では新妻実氏の作品として大きな石門のような写真が一枚出て来るだけです。いい加減やなと、腹の立つことしきり。なんでんねん、これは。これでは、他の作品も新妻氏のものかどうか若rないではないか。
わたしが思うには、恐らくほかの作品も全部氏の作品であろうということです。というのは、kono
彼の作品にはピラミッドと題するものがあり、この公園に置かれているピラミッドと非常によく似ていると思われ。

いずれにせよ、公園に何の案内もないのはいかがなものか?
さて、もう一つ新妻実氏についての間違った情報があります。前回のバカリョア社の庭の案内では、市はポルトガルのシントラで亡くなったと書かれてありましたが、略歴を確認すると、亡くなったのはニューヨークの病院でした(いいかげんだなぁ)。享年67歳。
元はと言えば、氏がシントラで生涯を終えたと言うので興味を持ったアーティストだったのですが、案内のひょんな間違いから氏の色々な作品に出会い、ちょっとした足跡を追跡することになりました。
ポルトのクリスタル公園にも彼の作品がひとつ置かれてあると言いますので、そのうち行ってみようかと思っています。
新妻実氏については、これにて。
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昨日の続きです。
石の彫刻家、新妻実(Niijima Minoru)氏について、調べてみました。
東京芸術大学彫刻科を卒業した氏は、後ニューヨークで個展を開き国際的に多くの賞を受けています。ニューヨーク・コロンビア大学で教え、1958年にはニューヨーク・ストーン研究所所長になっています。
1965年には、大理石を使って制作した「眼の城」という独特の作風を確立し、ニューヨーク、ポルトガルを拠点にして国際的に活躍したとあります。ポルトガルはイタリア、ギリシャに次ぐ大理石の世界大産地の一つですからポルトガルとの関係は、大理石にあったのですね。

Wikipediaより。リスボンにあるピンクの大理石で造られた新妻実氏の「眼の城」のひとつ
新妻氏のポルトガルでの活動は1986年から1998年、亡くなる年までしたことになります。アートコレクターでビジネスマンでもあるべラルド財団のジョー・べラルドは、30以上の作品を所有しており、その一部が前回紹介したバカリョア社に展示されていたというわけです。
下記はリスボンのグルベンキアン美術館にある、同じく同氏の作品「眼の城」

グルベンキアン美術館にあったのが、現在はバカリョア社の庭にある。

Wikiより。エボラで見られる作品。落書きがされているのは残念でならない。(怒)
新妻実氏の作品をネット検索しているうちに、ポルトにもあることが分かりました。写真の整理が遅くなり、出かけていったのは夏も終わろうかの春の旅行から数か月も後です。

Jardim de Paul Vallada、別名Jardin das Pedras(石の公園)という公園で、我が家から車で5分ほどのところです。
作品を大きくしてみました。

公園には他にも石の作品があります。


残念なことに、作品と作者についての説明書きはどこを探してもなし。ネット検索では新妻実氏の作品として大きな石門のような写真が一枚出て来るだけです。いい加減やなと、腹の立つことしきり。なんでんねん、これは。これでは、他の作品も新妻氏のものかどうか若rないではないか。
わたしが思うには、恐らくほかの作品も全部氏の作品であろうということです。というのは、kono
彼の作品にはピラミッドと題するものがあり、この公園に置かれているピラミッドと非常によく似ていると思われ。

いずれにせよ、公園に何の案内もないのはいかがなものか?
さて、もう一つ新妻実氏についての間違った情報があります。前回のバカリョア社の庭の案内では、市はポルトガルのシントラで亡くなったと書かれてありましたが、略歴を確認すると、亡くなったのはニューヨークの病院でした(いいかげんだなぁ)。享年67歳。
元はと言えば、氏がシントラで生涯を終えたと言うので興味を持ったアーティストだったのですが、案内のひょんな間違いから氏の色々な作品に出会い、ちょっとした足跡を追跡することになりました。
ポルトのクリスタル公園にも彼の作品がひとつ置かれてあると言いますので、そのうち行ってみようかと思っています。
新妻実氏については、これにて。
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2023年11月28日 (火)
2023年11月27日
キンタ・ダ・バカリョアとは少し離れたところにあるバカリョアワイン社は、ポルトガル最大のワイン生産社のひとつだと言われます。1922年に創立され、ポルトガル国内の七つのぶどう産地で採れるぶどうで生産される赤、白、ロゼ、マスカットのバカリョアワイン。その50%は主にブラジル、カナダ、フランス、スイス、アメリカに輸出されます。

見学コースは、小宮殿の後、ワインケーブを見学してワインの試飲となるのですが、これまにあちこちでワインケーブを見てきたので、わたしは荘園と小宮殿をみることのみ家族に提案しました。それでも、赤、白、ロゼとそれぞれのワインの試飲はできました。ここで、ワイン好きの義弟の誕生日の贈り物として、50ユーロの赤ワインを一本購入、彼の誕生日に合わせて郵送しましたが、気に入ってくれたでしょうか。
さて、実はワインよりもわたしの興味をひいたものがこのワイン社の庭にあったのです。試飲している最中に、目に入ったのが下の写真です。

一瞬、日本のお墓に似てるんでは?の印象を持ったもので、帰りがけに見て見ました。案内板があり、読むと日本人の彫刻家が作った石庭なのだそうです。

Niizuma Minoru、世界的に知られた石の彫刻家(1930-1998)、東京に生まれシントラで没したとあります。 う~む、シントラで亡くなられたのか・・・と、一時期休暇になるとシントラに何度も出かけては撮影していたもので、そこで亡くなったことにも興味を持ち、Niizuma Minoru氏について調べたのでした。
次回はNiijima Minoru氏の作品をブログにあげてみたいと思います。
ではまた。
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キンタ・ダ・バカリョアとは少し離れたところにあるバカリョアワイン社は、ポルトガル最大のワイン生産社のひとつだと言われます。1922年に創立され、ポルトガル国内の七つのぶどう産地で採れるぶどうで生産される赤、白、ロゼ、マスカットのバカリョアワイン。その50%は主にブラジル、カナダ、フランス、スイス、アメリカに輸出されます。

見学コースは、小宮殿の後、ワインケーブを見学してワインの試飲となるのですが、これまにあちこちでワインケーブを見てきたので、わたしは荘園と小宮殿をみることのみ家族に提案しました。それでも、赤、白、ロゼとそれぞれのワインの試飲はできました。ここで、ワイン好きの義弟の誕生日の贈り物として、50ユーロの赤ワインを一本購入、彼の誕生日に合わせて郵送しましたが、気に入ってくれたでしょうか。
さて、実はワインよりもわたしの興味をひいたものがこのワイン社の庭にあったのです。試飲している最中に、目に入ったのが下の写真です。

一瞬、日本のお墓に似てるんでは?の印象を持ったもので、帰りがけに見て見ました。案内板があり、読むと日本人の彫刻家が作った石庭なのだそうです。

Niizuma Minoru、世界的に知られた石の彫刻家(1930-1998)、東京に生まれシントラで没したとあります。 う~む、シントラで亡くなられたのか・・・と、一時期休暇になるとシントラに何度も出かけては撮影していたもので、そこで亡くなったことにも興味を持ち、Niizuma Minoru氏について調べたのでした。
次回はNiijima Minoru氏の作品をブログにあげてみたいと思います。
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2023年11月25日 (土)
2023年11月24日
今春、休暇を利用して行って来たワイナリーと荘園、小宮殿の紹介です。

荘園入口
セトゥーバルのアゼイタォン(Azeitã)にある「キンタ・ダ・バカリョア」。一瞬、バカリャオ(Bacalhau=ポルトガル独特の大きな干しダラ)の間違いじゃないかと思ったおですが、バカリャオに関係がありました。

↑小宮殿の前には、なんと!ポルトガルの代表的な現代アーティスト、Joana Vasconcelosの作品がで~んと!わたしはこれを彼女のポルトでの展示会で目にしている。それにしても、古い小宮殿と現代アート、ミスマッチだと思うがなぁ・・・

この館が別名「湖の家」とも呼ばれる所以。
この荘園、館は15世紀にはポルトガル王族が所有していたが、16世紀に入るとニックネームが「バカリヤウ」という伯爵の所有となりその名は今に受け継がれているとのことです。

館裏のラビリントス

小宮殿の葡萄畑
20世紀初期、ここを訪れたアメリカ人女性Orlena Scovilla は荒れ果てた小宮殿が気に入り買い取ってできるだけ原形を保つように修繕を手掛けて家族の別荘としますが、第2次世界大戦中はこの館を居にしていました。

Wikipediaより、廃墟を修繕を手掛けるOrlena Scovilla。彼女自身はアズレージュ(青タイル絵)を担当したと言われます。
大戦中は、5歳から15歳のフランスやユダヤの子どもたちをその家族たち、亡命者などを引き受けこの館にかくまっていました。
Orlena Scovillaは1967年にこの館で没しましたが、その後も60年間この町とScovilla一族との交流は続けられ、今日、荘園と館はポルトガルでも屈指のマデイラ出身の富裕者ジョー・べラルド率いるべラルド財団に属しています。
次回は、この館からマイクロバスで3分くらいのところにあるワイナリーのBalalhoa 社の案内です。
ではまた。
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今春、休暇を利用して行って来たワイナリーと荘園、小宮殿の紹介です。

荘園入口
セトゥーバルのアゼイタォン(Azeitã)にある「キンタ・ダ・バカリョア」。一瞬、バカリャオ(Bacalhau=ポルトガル独特の大きな干しダラ)の間違いじゃないかと思ったおですが、バカリャオに関係がありました。

↑小宮殿の前には、なんと!ポルトガルの代表的な現代アーティスト、Joana Vasconcelosの作品がで~んと!わたしはこれを彼女のポルトでの展示会で目にしている。それにしても、古い小宮殿と現代アート、ミスマッチだと思うがなぁ・・・

この館が別名「湖の家」とも呼ばれる所以。
この荘園、館は15世紀にはポルトガル王族が所有していたが、16世紀に入るとニックネームが「バカリヤウ」という伯爵の所有となりその名は今に受け継がれているとのことです。

館裏のラビリントス

小宮殿の葡萄畑
20世紀初期、ここを訪れたアメリカ人女性Orlena Scovilla は荒れ果てた小宮殿が気に入り買い取ってできるだけ原形を保つように修繕を手掛けて家族の別荘としますが、第2次世界大戦中はこの館を居にしていました。

Wikipediaより、廃墟を修繕を手掛けるOrlena Scovilla。彼女自身はアズレージュ(青タイル絵)を担当したと言われます。
大戦中は、5歳から15歳のフランスやユダヤの子どもたちをその家族たち、亡命者などを引き受けこの館にかくまっていました。
Orlena Scovillaは1967年にこの館で没しましたが、その後も60年間この町とScovilla一族との交流は続けられ、今日、荘園と館はポルトガルでも屈指のマデイラ出身の富裕者ジョー・べラルド率いるべラルド財団に属しています。
次回は、この館からマイクロバスで3分くらいのところにあるワイナリーのBalalhoa 社の案内です。
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2023年11月22日 (水)
某年某月某日
ご近所の誰もが知る名物男の農夫、ジョアキンおじさんが亡くなって3年程になる。朝早くから大声で話す御仁だったのでそのせいもあろうか、この辺りがすっかり静かになって寂しいくらいです。
ジョアキンおじさんが元気で野良仕事をしていた頃は、彼の畑は動物愛護協会のボランティアたちから野良猫のコロニーと呼ばれ、わたしもボランティア活動の一環として毎晩の餌時には二皿三皿運ぶこともありました。
その野良猫たちが、気がつくといつの間にかかなり数が減っており、あれ?と思っていたのだった。それもそのはず、土地成金の小金持ちジョアキンおじさんの畑の真ん中を市道が通ったのでした。
市道と畑を仕切るのに、こんなに高くしなくたって・・と思われるほど高い石塀を建て、聞くところによると、塀の向こう、つまり畑側は地面が道路よりずっと低地になっているのだそうな。
それはジョアキンおじさんの案で、ドロボーが塀を乗り越えて入っても、内側から簡単には這い登れないようにしたのだとか。ジョアキンおじさん、これじゃ、猫もそう簡単に出入りできないでしょ・・・
家畜小屋には今時このあたりでは珍しくブタと鶏を飼っているのです。で、どうやら寒い時は猫たちもそこを宿にするようです。
お金持ちのジョアキンおじさんは、我がフラットの斜め向かいにカフェを持ち、そこをダイニングルーム代わりにしているのですが、ちゃんとした大きな家を近所に2、3軒持っております。そのひとつがわたしたちの住む同じ通りの角っこにあります。
さてある日の事、夜も11時を過ぎ、いつものように2、3匹になってしまった野良猫たちにご飯を運んでいきました。その日はどういうわけか、呼んでも猫たちが現れません。畑からの帰りがけ、ジョアキンおじさんの家の庭をちょいと覗いてみました。
ん?いつの間にか広かった庭が狭くなり、車庫に引っ付いてアルミサッシとガラスを使った高い小屋のようなものができております。曇りガラスが使われており、「へぇ~、なんでまたこんなのを?」と不思議に思い、目を凝らしてみると、ふむ・・中でなにかがたくさん動いているような気がしたのです。
噂では結構お金を出したがらないお方らしい。そんなジョアキンおじさんが、いくらなんでも野良猫たちのためにこんな小屋を自分の家の庭に造ったわけではあるまい。しかし、小屋の中で何かが動いているのは間違いない・・・
そこで、翌日当時週に二回我が家に掃除をしに来てくれるベルミーラおばさんをひっ捕まえて聞いてみました。
「ドナ・ベルミーラ、ジョアキンおじさんの庭に新しくできたあの小屋の中、何か生き物が入っているようなのだけど、まさか猫たちじゃないわよね?」
ベルミーラおばさんは、実によくご近所のことを知っており、「ペドローソス新聞(ペドローソス=わたしたちが住む区域)」との異名をとっております(笑)
ベルミーラおばさん、その言葉を聞くや、待ってましたとばかりに手にしていた掃除機のホースを放り投げ、「オ・ドナ・ユーコ!」と言うことにゃ、
つい先だって、あの高いレンガ塀を乗り越えて、ジョアキンおじさんの畑からブタと鶏20羽を盗んだヤツがいたのだそうな。
わたし 「あら、ブタは騒ぐでしょ?」
ベルミーラおばさん 「それが ドナ・ユーコ。そのドロボー、ブタをその場で
見事に始末して、持っていったのですよ。」
ベルミーラおばさん 「それでね、セニョール・ジョアキン、すっかり怒って、
自分の家の庭にあの小屋を造って畑からブタと鶏を
移したんでやんス」
わたし 「う、移したって・・・だって、あんなとこで飼ってたら畑と違い、匂いが
ご近所迷惑ではないの?第一ブタはどうしたのよ?
メルミーラおばさん 「ブタはね、車庫なんざんス!」
えーー!車庫にブタってあぁた、聞いたことありませんぜ・・・車庫に入れる車を持たないからってジョアキンおじさん、なんぼなんでもそりゃないぜ。それに、町の家の庭でそういう家畜、飼えないと思うがなぁ、と言うと、
ベルミーラおばさん、
「だから外から見えないように曇りガラスでゴマカシテルですよ。ドナ・ユーコ!」
なるほど、ブタは車庫で鶏はそれに隣接して作らせた曇りガラスの小屋の中ってことか(笑)
いやはや、ブタをその場で始末して盗んでいくドロボーもドロボーだけど、ジョアキンおじさんのドロボー対策もなんだかなぁ^^;こんな面白話もジョアキンおじさんがいなくなってから、聞くことがなくなりました。
おもしろきこともなき世をおもしろく。高杉晋作殿よ、ジョアキンおじさん、これを知っている人でもあったのでしょうかね。
ではまた。
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ジョアキンおじさんが元気で野良仕事をしていた頃は、彼の畑は動物愛護協会のボランティアたちから野良猫のコロニーと呼ばれ、わたしもボランティア活動の一環として毎晩の餌時には二皿三皿運ぶこともありました。
その野良猫たちが、気がつくといつの間にかかなり数が減っており、あれ?と思っていたのだった。それもそのはず、土地成金の小金持ちジョアキンおじさんの畑の真ん中を市道が通ったのでした。
市道と畑を仕切るのに、こんなに高くしなくたって・・と思われるほど高い石塀を建て、聞くところによると、塀の向こう、つまり畑側は地面が道路よりずっと低地になっているのだそうな。
それはジョアキンおじさんの案で、ドロボーが塀を乗り越えて入っても、内側から簡単には這い登れないようにしたのだとか。ジョアキンおじさん、これじゃ、猫もそう簡単に出入りできないでしょ・・・
家畜小屋には今時このあたりでは珍しくブタと鶏を飼っているのです。で、どうやら寒い時は猫たちもそこを宿にするようです。
お金持ちのジョアキンおじさんは、我がフラットの斜め向かいにカフェを持ち、そこをダイニングルーム代わりにしているのですが、ちゃんとした大きな家を近所に2、3軒持っております。そのひとつがわたしたちの住む同じ通りの角っこにあります。
さてある日の事、夜も11時を過ぎ、いつものように2、3匹になってしまった野良猫たちにご飯を運んでいきました。その日はどういうわけか、呼んでも猫たちが現れません。畑からの帰りがけ、ジョアキンおじさんの家の庭をちょいと覗いてみました。
ん?いつの間にか広かった庭が狭くなり、車庫に引っ付いてアルミサッシとガラスを使った高い小屋のようなものができております。曇りガラスが使われており、「へぇ~、なんでまたこんなのを?」と不思議に思い、目を凝らしてみると、ふむ・・中でなにかがたくさん動いているような気がしたのです。
噂では結構お金を出したがらないお方らしい。そんなジョアキンおじさんが、いくらなんでも野良猫たちのためにこんな小屋を自分の家の庭に造ったわけではあるまい。しかし、小屋の中で何かが動いているのは間違いない・・・
そこで、翌日当時週に二回我が家に掃除をしに来てくれるベルミーラおばさんをひっ捕まえて聞いてみました。
「ドナ・ベルミーラ、ジョアキンおじさんの庭に新しくできたあの小屋の中、何か生き物が入っているようなのだけど、まさか猫たちじゃないわよね?」
ベルミーラおばさんは、実によくご近所のことを知っており、「ペドローソス新聞(ペドローソス=わたしたちが住む区域)」との異名をとっております(笑)
ベルミーラおばさん、その言葉を聞くや、待ってましたとばかりに手にしていた掃除機のホースを放り投げ、「オ・ドナ・ユーコ!」と言うことにゃ、
つい先だって、あの高いレンガ塀を乗り越えて、ジョアキンおじさんの畑からブタと鶏20羽を盗んだヤツがいたのだそうな。
わたし 「あら、ブタは騒ぐでしょ?」
ベルミーラおばさん 「それが ドナ・ユーコ。そのドロボー、ブタをその場で
見事に始末して、持っていったのですよ。」
ベルミーラおばさん 「それでね、セニョール・ジョアキン、すっかり怒って、
自分の家の庭にあの小屋を造って畑からブタと鶏を
移したんでやんス」
わたし 「う、移したって・・・だって、あんなとこで飼ってたら畑と違い、匂いが
ご近所迷惑ではないの?第一ブタはどうしたのよ?
メルミーラおばさん 「ブタはね、車庫なんざんス!」
えーー!車庫にブタってあぁた、聞いたことありませんぜ・・・車庫に入れる車を持たないからってジョアキンおじさん、なんぼなんでもそりゃないぜ。それに、町の家の庭でそういう家畜、飼えないと思うがなぁ、と言うと、
ベルミーラおばさん、
「だから外から見えないように曇りガラスでゴマカシテルですよ。ドナ・ユーコ!」
なるほど、ブタは車庫で鶏はそれに隣接して作らせた曇りガラスの小屋の中ってことか(笑)
いやはや、ブタをその場で始末して盗んでいくドロボーもドロボーだけど、ジョアキンおじさんのドロボー対策もなんだかなぁ^^;こんな面白話もジョアキンおじさんがいなくなってから、聞くことがなくなりました。
おもしろきこともなき世をおもしろく。高杉晋作殿よ、ジョアキンおじさん、これを知っている人でもあったのでしょうかね。
ではまた。
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